月の光は其処に在る

 未明に起きたファーレーンは、隣で眠るニムントールを起こさないようにそっと身を起こしてその枕元に腰を下ろした。ニムントールの眠りが深いことを確認すると、窓から射し込む月の光を浴びて青みを帯びて見えるその髪をそっと撫でる。
ニムントールがファーレーンの部屋に泊まるのは久しぶりのことだ。昨日の朝まで悠人が第二詰所にいて、その間ニムントールは悠人にべったりだったからだ。ニムントールが悠人と過ごすように、ファーレーンもニムントールとの距離感を極力調節していた。
信用できる相手がファーレーンただ一人という状態はニムントールにとって決して良いことではないと考えてのことだ。戦いに身を置く以上、ファーレーンの命は明日も続くとは限らない。
それはニムントールも悠人も同じことだが、ファーレーンはニムントールより後に死ぬつもりはない。己の命に代えてもニムントールは守る。その場合つまりファーレーンがマナに還ったとき、ニムントールには頼れる者が、支えてくれる存在が、必要だ。
悠人もまた戦う身ではあるが、エトランジェである悠人はスピリットであるファーレーンよりも生き残る可能性が高い。もちろん、悠人だけではなく、より多くの者を信じられるようになってくれるに越すはない。

ニムントールはすっかり悠人になついたようだ。表向きは以前と同じように振舞ってはいるが、ファーレーンにはわかる。そして、どうやらニムントールの中で悠人はファーレーンよりも大きな位置を占めたようにも思える。
ファーレーンはそのことに不安と寂しさを感じる。不安とは悠人がエトランジェであることだ。他の世界から来た悠人はいずれ元の世界へ帰って行くことになるのだろう。ニムントールは大きな存在を失うことになる。
その悲しみを想像してファーレーンは胸を痛める。だが、ファーレーンが生きていれば、あるいは他に信じられる者が増えていれば、孤独になるわけではない。ニムントールが孤独になってしまうことに比べればまだいい。ファーレーンはそう己を納得させる。
それよりも問題は寂しさの方だ。否、寂しさを感じてしまう己だ。
ニムントールが悠人になつくのが予想より遥かに早くそして大きかったとはいえ、こうも自分が動揺してしまうとは…。ニムントールが信じられる者を増やしていくのを無意識の内に阻害したりしないように気をつけなければ…。
そう自戒の念を抱くとともに、己もまたニムントールの存在に大きく依存していることを改めて認識する。そして、記憶の始まりからニムントールとの出会いにかけて思いを馳せる。

 ファーレーンは気がつくと森にいた。それまでどこでどうしていたのかという記憶はない。自分がスピリットという存在であること、やがて人間のために神剣を振るい戦うこと、そういった知識だけはあった。
しかし、さしあたりどうするべきかという行動指針がないので途方にくれる。しばらくその場でぽつねんと突っ立っていたが、やがて疲れてきたので座り込む。いつしか日が暮れ始め、どうやらこのままここにいても何も起こらないと悟り、当座の寝床を探すことにした。
いつか人間に見つけられるなり人間を探すなりして戦士となるのだろうが、人間がやって来る気配もなければ探す当てもない。それまでの期間が長いのか短いのかもわからないが、長くても大丈夫なように雨風をしのげる居所を確保しておいた方が良いだろう。
しばらくして、どうにか陽が落ちる前に具合の良い洞窟を見つけることができた。落ち葉と枯れ草を集めて寝床を作り終える頃には陽が沈んでいた。
軽い空腹を感じ、火と水と食料の算段をしなければならないことに思い当たったが、辺りは既に暗闇が支配している。今から探して回るのは難しいだろうし得策ではないだろう、そう判断して、明日の課題とすることにした。
そのまま倒れるように横になる。そう大した運動をした気はしないが、なんだか強い疲労を感じたのだ。もはや空腹も気にならず、そのまま眠りへ落ちていった。それが、ファーレーンの記憶にある最初の一日だった。
 それから幾多の日を過ごした。水場を探し、木の実を拾い、草を口に含み、火をおこし、小動物を捕り……。火を使うこと以外はほとんど野生動物のような生活に適応していった。
どれぐらいの月日だったのかファーレーンにも正確なところはわからない。三年か五年、そんなところだろうか。

 運命の日の朝は霧のような小雨が降っていた。目覚めて雨が降っているのに気づいたファーレーンは辺りの様子を観察した。どうやら夜明け前にはもっと強く降っていたようだ。
風の感じからすると昼ぐらいにはまた降りが強くなるかもしれない。そう判断してファーレーンは今のうちに食料の補充に出かけることにした。
 しばらく徘徊して木の実などを集めるも、さすがに動物は見当たらない。ふと何かが動く気配を感じるとともに、その気配に反応するかのように腰の神剣が一瞬だけ気配を放つ。
それまでただの重いナイフ兼包丁でしかなかった『月光』がたしかに神剣なのだと実感する。獲物に近寄るようにそっと気配のした方へ近づいていく。
 そこには、雨に濡れて倒れているスピリットの姿があった。とりあえず、食料ではないのはたしかだ。別に危害を加えてくる様子でもない。
関係ない、放っておこう。そう思いつつも何故か立ち去ることもできずに見つめ続けるファーレーン。
と、ファーレーンの気配に気づいたのか、倒れているスピリットが気だるげに首を上げて視線を向ける。目が合った。その瞳は物憂げだ。
やがて向こうが目を閉じて首を下ろした。顔はこちらへ向けたままだが興味があるわけではなさそうだ。そこには顔を向こうに戻すのも面倒だという雰囲気があった。
「わたしはファーレーン。あなたは?」
それはファーレーンが記憶にある限りで初めて発した言葉だった。知識として言葉は知っていた。そもそも言葉で思考している。もっとも、いつ、どこで、覚えたのかはわからない。そういうものだと思っている。
しかしながら、これまで会話するようなあるいは言葉を解しそうな相手に出会ったことがなかったのだ。初めて言葉を口にしたが、自分の耳で聞く分には理解できる。あとは相手がこの言語を理解できるかどうかだ。
「………ニムントール」
返答があった。相変わらず目を閉じたままで投げやりな様子ではあったが。どうやら相手も同じ言語に属するらしい。ファーレーンは続けて尋ねてみる。

「こんなところで何をしているの?」
「………べつになにも」
「いつからそうしているの?」
「………昨日ぐらいから」
「体を壊すでしょ?」
「………めんどう」
会話と言えるのかも怪しいほどニムントールの言葉は少なくて把握するのに手間取ったが、要するに何をするのも面倒だということらしい。返事をすることさえ面倒なほどに。
「面倒でなければいいのね?」
「………んー?」
何を言ってるんだ、何をやってるんだ、そう思いながら、ファーレーンはニムントールを抱え上げて背負った。そして自分の住処へ運んで行く。ニムントールはされるがままだ。
ニムントールをおんぶして歩きながらファーレーンの頭の中では、どうしてわたしは…という問いが解もなく繰り返されていた。

 洞窟に帰り着くと、何はともあれまずはニムントールを火に当たらせた。自分も火に当たりながら、ニムントールに食べ物を与えてやる。
むしゃむしゃと食べるニムントールの様子からすると一体どれほどの間何も食べていなかったのだろうか。あの面倒くさがりようからすると、あの場所で気がついてからずっと、という可能性もありそうだ。
ファーレーンがそんなことを考えていると、いつの間にかニムントールは横になって眠っていた。幸せそうな顔で、安らかな寝息を立てて。
その寝顔を見ながらファーレーンは、何故ニムントールを連れて来たのか、何故厄介者を抱え込むようなまねをしたのか、何故自分は食料まで分け与えてやるのか、考え続けるのだった。もちろん答は出ない。
やがて、ニムントールの体が乾き充分に温まった頃を見計らって火を消し、ニムントールに枯れ草をかけてやると、ファーレーンも横になる。そして、考え事を続ける内にいつしか眠りに落ちて行った。

 ファーレーンが目覚めた時には次の日の朝だった。豪雨が降っていて空は暗く時間が掴みにくいが、さすがにまだ昼にはなっていないと思いたい。
ずいぶん長く眠ってしまったようだ。どうしたというのだろう。独りではないから調子が狂ったのか。それにしても眠れないならともかく眠り過ぎるというのはどういうことだろう。そう考えてニムントールの存在を思い出して見やる。
ファーレーンより先に起きていたらしいニムントールは目が合うと、
「ファー、おなかすいた」
と空腹を訴えた。ニムントールに食べ物を渡して、空に視線を向ける。今日一杯は降り続けるだろう。明日には止むだろうか…明後日になるか…微妙なところだ。
多少は食料を蓄えてあるものの、当然、一人分しか想定していなかった。早く雨がやんでくれることを祈りながら、ファーレーンも食事を摂った。幾分控えめに。

 結局、雨が止んだのはその翌々日のことだった。朝、目覚めてみると抜けるような青空が広がっていた。朝食を摂り終えると、ファーレーンは食料補充に行くべく立ち上がる。と、ニムントールがあわてて立ち上がって、
「どこ行くの、ファー?」
と尋ねる。その声は心細げに揺れていた。ここでファーレーンは「ファー」というのが自分のことだと今更ながら気がついた。そもそも話す相手はお互いしかいなかったために気にもとめていなかったし、最初に聞いた時にはあくび混じりだった気がする。
「食べ物を探して来るだけです。日暮れまでには戻りますよ。昼食はあるものを適当に食べて下さい」
そう答えて、ファーレーンは洞窟を出た。
 頭の中でいくつかの場所を思い浮かべ、最後に行った時の状況を思い出す。まだ充分な残量があったはずだ。新しい場所の開拓は余裕があったらでいいだろう。
そう判断し、今日のコースを検討する。豪雨の後だから状況確認の意味も込めて主要な場所は見ておきたい。巡回対象を決め、遠くから近くへとルートを決め、最初の場所へ向かって歩き始めた。
  スタスタスタ…
  トテトテトテトテトテ…
  スタスタ…
  トテトテトテトテトテ…
ファーレーンとは別の足音がする。ちらりと振り返ってみると、ニムントールだった。付いて来るつもりだろうか。ファーレーンは放っておくことにした。そのうち諦めるだろう。
  スタスタスタ…
  トテトテトテトテトテ…
距離が開いていく。
  スタスタスタ…
  トテト…
やがてニムントールの足音が届かなくなる。
  スタスタスタ…
振り返ってみると、ニムントールの姿は見えない。しばらくその場に立ち止まる。自分は何をやってるんだろうと思いながら。やがて、途中で曲がってきた角の茂みからニムントールの姿が現われた。どうやら諦めなかったようだ。
ニムントールは辺りを見回したかと思うと、ファーレーンの姿を見つけて駆け出した。それを見てファーレーンは、ゆっくり来い、と身振りで伝えてやるとその場に腰を下ろす。
そして、動物や魚を諦めて木の実と果実を中心にコースを練り直しながらニムントールを待つのだった。

 あくる日、ファーレーンは少し早めに起きた。ニムントールが寝ているうちに出かけてしまえば追って来ることはないだろうと踏んで、肉か魚を獲って来ようと思ったのだ。
ところが、起きてみるとニムントールがいない。洞窟を出て辺りを見回してみるが、やはりニムントールの姿は見当たらなかった。
空腹が満たされ生きる気力が出たので出て行ったのだろうか。食料を手に入れられる場所も昨日把握している。
一応それらしい理由を考えて納得しようとしたファーレーンだったが、胸にぽっかりと穴があいたような違和感は消えなかった。
その違和感を押し切るように、ファーレーンは出かけることにする。早起きした理由はなくなったが、食料調達が必要なことには変わりないのだ。
それでも、歩いて行くファーレーンの脳裏には、昨日出かける時の心細げなニムントールの顔が、一度見失ったファーレーンの姿を見つけた時のニムントールの安堵の表情が、浮かんでは消え浮かんでは消え……。
 結局、成果は散々だった。ニムントールのことが頭から離れず、集中力に欠いたのだ。昼頃まで粘ったが、今日は駄目だと諦めて住処へ戻ることにした。
いったい自分はどうなってしまったというのだ、という苛立ちを抱えて歩くファーレーン。と、
「ファーっ!!」
声がしてそちらを見るとニムントールだ。抱えていた木の実を落として駆け出したかと思ったら、腰にしがみつかれる。
「…っ、いなくなったかと…っ、おいてかれたかと…っ、ニム、ニム、昨日足手まといだったから、っ、集めてこようと…っ、戻って来たら、ファー、いなくてっ…うわ~ん、よかったぁ、よかったよぉ~っ」
訴える声は掠れ、つっかえ、くぐもって、揺れていた。涙をぼろぼろと零しながら顔を押し付けて。ファーレーンの存在を確認するように…。
ファーレーンは違和感と苛立ちが消えて胸が温かくなるのを感じていた。そして、気づいていなかった、あるいは無意識に認めるのを避けていた、思いを受け入れた。
そう、己もまた、孤独だったのだ、ニムントールの存在に救われたのだ、そして、朝、ニムントールの姿が見当たらず、見捨てられたと感じたのだ。
「…お肉を獲りに行っていただけですよ」
両腕でニムントールを抱きしめてそう言うファーレーンの声もまた、揺れて、湿っていた―――

 追憶に耽っていたファーレーンは目を開けた。そこにあるニムントールの幸せそうな寝顔に、ファーレーンの心も温まる。そして、窓の向こうで淡く輝く月に視線を向けて思いを巡らせる。
 月は闇夜に怯える者たちの心を照らしてくれる。だけど、月もまた、見上げる者の存在に救われていることだろう。
皆が寝静まった夜に輝く月は孤独だ。だからこそ、見上げる者の存在は月にとっては救いとなる。そう、ファーレーンがニムントールの存在に救われたように。
月を見上げていた者がやがて視線を戻して歩き出しても、月は光を射しかけ続ける。行く手を照らすように。
ファーレーンもまた、ニムントールを見守って行くつもりだ。たとえニムントールにとって唯一一番の救いではなくなったとしても。引き留めるのではなく、行く手を照らすように。
それでも時々は振り返ってくれることを祈りながら。性根は優しいニムントールのことだから、きっと振り返ってくれるだろうけれど。だからこそ、引き留めてはいけないのだ。月のように見守るのだ。
「わたしは『月光』のファーレーン。夜明けの光が空を染めても、月の光は其処に在る―――」