鮮やかな命(ひ)

 未だ終わりを告げることのない戦いの日々。どこか暗く沈んだ市中。足りぬ物資。降り
続ける雨にぬかるんだ道。
 ラキオスは、サーギオス帝国との最終決戦を前にどこか閉塞した空気に包まれていた。

 エスペリアの表情はすぐれなかった。先の戦闘からの残務処理、帝国との戦争へ向けて
の戦略の練り直し、補給の手配など休まる暇はなかった。
 辛い戦いになる。そんなことは分かり切っていた。スピリットであるエスペリアにとっ
て戦いは日常なのだから。
 だから、だから諸々の事情などよりも、大事なことがあった。
 マロリガン共和国エトランジェとの、悲壮な、そして必然の戦い。親友同士だったはず
なのに、本気で剣を向けあった心の傷は癒える事もない。
 一時の平穏すら許されることもなく、サーギオス帝国スピリットによる襲撃。力の暴発。
さらわれた佳織。
 エスペリアは、手を伸ばすことができなかった。近くにいても、何も、できなかった。

「……ソウ、ユート」
 つぶやきは、霧散するのみだった。


 部屋の扉がノックされたことに暫く気が付かなかった。ハッとして立ち上がり、扉の前
へ向った。
「…………俺だ」
 瞬時にエスペリアに緊張が走った。
 期待。喜び。恐れ。複雑な思いを胸に抱きながら、エスペリアは扉を開けた。

「ユート、さま。どう、いたしました」
 震える唇で、言葉を紡ぎ出す。知らず、胸元で右手を握りしめていた。悠人は何も言わ
ずエスペリアを見つめるだけだ。その双眸に輝きはなかった。翳りのある頬と、ただ何か
に憑かれたような……何も映さぬ昏い瞳をエスペリアに向けているだけだ。
「エスペリア。マナが足りない」
 前置きもなく云う。
「佳織を助けるためには、帝国に勝つためには、足りない」
 エスペリアは、ただ、願う。
「二人……いる。あいつらは、もう戦えない。だから」
 続くであろう言葉。願いは、叶わない。
「だから、処刑する」
 心に亀裂が走る。
 足が震える。
 だが破れたりはしない。
 だが崩れ去ったりはしない。
 総てはエスペリアの、存在理由だから。
「ユートさま」
 それだけを、云った。唇を噛んで。
 微笑んで、悠人を見つめる。
 その浮かべた笑みは、ベッドで身動きのできぬ悠人を甲斐甲斐しく世話していた頃の、
優しく包み込むようなものと何ら変わってはいなかった。
 そして、一歩、二歩と悠人から離れ自室の中央へと後ずさった。

 その手には、いつの間にか握られた『献身』があった。

 悠人は、流石にただならぬ気配を感じ取った。止めようとした。
 だけど、悠人の手は、間に合わなかった。何もつかめなかった。

「エスペリアッ!なんで、何でこんなっ」
 真っ赤な鮮血がとめどなく溢れ、金色の霧にかわり消えていく。
「ユー、トさま」
 抱き留めたエスペリアの体から、流れ出る血が、悠人の手からこぼれていく。抑えよう
としても抑えきれない。
「くっっ、すぐにハリオンをっ」
 だが、悠人の手は握られていた。優しく。強く。
「もう、  無理です」
 弱々しく首を振るエスペリア。悠人にもそれはわかった。長く戦ってきた経験が同じ判
断を下していた。だからと云って受け入れられるものではなかった。
「だめだっ、エスペリアッ。だめだっ、こんな、こんなっ」
「大丈夫。大丈夫です、ユートさま…………これで、これでマナが足ります」
 蒼白な顔で、悠人の瞳を見つめたまま云った。
「なにを馬鹿なことをっ!エスペリア!!死ぬな、死なないでくれっ!!」
 エスペリアの白い冷たい手が、悠人の頬をなでる。優しく愛おしそうに。
 こわばった口元が、無理矢理笑みを作る。
「ふふ わがまま、で すねユートさま  よご さなくてすみまし た、だからこれで
い いんです」
「ユートさま の手……つな ぐため、剣を握ったまま ではだ め で す」
「なにを、なにを……」
「ユー トさま、カオ リさま を、この世界 を みんなを よろしくお願 いします」
 涙が、こぼれ落ちる。エスペリアの手を、頬を濡らしていく。
 消えていく。
 エスペリアと言う存在が希薄になっていく。
「『サヨナ ラ』で す ソ、ウ ユー ト」
 ハイペリアの言葉。
 そして、口だけが弱々しく動いた。
 たった七音の、最期の言葉。

「おい、救いようのない、ボンクラ」

 悠人の部屋。
 放心状態の悠人の元へ現れたのはヨーティアだ。遠慮無く悠人の前に立つと、拳大の石
を悠人の前にかざした。
「これがなんだかわかるか?これはエスペリアだ。エスペリアのマナ結晶だ」
 押しつけられた緑に輝く石を悠人は両手で包み込んだ。
「巨大なマナを秘めている。こんなもん使えるわけ無いがな。いいか、エトランジェユー
 ト。自分が何をすべきか考えろ。泣き言云う前に馬鹿は馬鹿なりに努力しろ。腑抜けじゃ
なけりゃな。そうすりゃ……」
 ヨーティアはそのまま去った。悠人一人を残して。

「エスペリア……」
 感じる。マナを、エスペリアのマナを。
「うぐっ、ぐぅ、エス、ペリア。馬鹿野郎、大馬鹿野郎」
 悠人は、泣き続けた。ただその石を抱いたまま。
 駆けめぐるエスペリアとの想い出。
 いつの日かエスペリアに乞われて教えたハイペリアの言葉。
 そう、あれは。エスペリアの最期の言葉は、きっと。

「……俺も、同じだよ、エスペリア。ごめんな、もっと早く云うべきだったよ。」
「愛してる。エスペリア」 

 悠人は、立ち上がる。
 石を机の上に安置すると、剣を佩きラキオスの戦闘着を羽織った。もう涙は止まってい
た。
「俺には……、やるべき事がある。立ち止まってはいられないんだ。エスペリア、見てて
 くれ。きっと、エスペリアの望んだ世界にしてみせる。犠牲は……必要ないんだ。俺は
 ……俺は、馬鹿で勝手な奴だけど、もうけして、何かをあきらめたりしない。それで、
 いいよな? エスペリア」
 
 緑色の石が一瞬煌めいたように見えた。