溜息

「ふぅ……」
 ラキオスのスピリット隊第一詰め所、その食堂でカップを両手にエスペリアが小さく
溜息を吐いた。
「なぁに、エスペリアお姉ちゃん溜息なんかついてぇ?」
 聞こえないくらいの小さなものだったはずだが、耳聡くそれを聞きつけたオルファリルが
訊ねる。エスペリアが顔を上げると、何事かと興味津々に顔を覗き込むオルファと、無表情な
まま視線だけをこちらに向けるアセリアがいた。
「え、な、なんでもありません」
「何でもなくて溜息なんか吐かないよ、ねぇ、アセリアお姉ちゃん?」
 コクリとアセリアが頷く。
「それにぃ、『溜息吐くと幸せが逃げる』って言い伝えがハイペリアにあるんだって。カオリが言ってたよ」
「本当か、オルファ?」
 今度は興味津々とばかりに身体を乗り出してアセリアが聞き、思わずオルファはのけぞった。
「ほ、ホントホント。カオリに聞いてみれば?」
「うん……そうか、溜息を吐くと幸せが逃げるのか……そうか…うん」
 ぶつぶつと独り言を言って違う世界に行ってしまったアセリアを少し眺めてから、オルファは
気を取り直してエスペリアに詰め寄る。
「でぇ、なんで溜息吐いたの?」
「で、ですからなんでもありませんってば」
「うそぉ…ひょっとして、パパのこと?」
 当たらずとも遠からずのオルファの突っ込みに、エスペリアは思わず目をそらす。
「やっぱりそうなんだ。なになに? 悩み事ならオルファが聞いたげるけど?」
 というより是非話せと言うようにエスペリアの手を掴むオルファ。
「ち、違います。ちょっと、昔のことをね、思い出しただけで…」
「昔のこと?」
 オルファが首を捻る。
 思わず口走ってからしまった、と苦い表情をしてオルファを見る。視線がまともにぶつかった。
 続けて欲しそうなオルファの視線を受けて、エスペリアは思う。
 自分もこんな目をして聞いていたんだろうか、と。
 だから、思い直して話す気になった。
「いいわ、別に隠すようなことでもないし。…昔ね、ある人とお話ししたことを思い出していたの…」

………
……

「…で、これ以後、この四振りの永遠神剣は、エトランジェの履く物となった」
 訓練と家事の合間を縫って行われるラスクの講義。それを聴くのは幼いエスペリアだけ。
 今日は歴史の話だった。懸命に話をノートに書き留めるエスペリア。それを勧めたのは
ラスクだった。
『エス、聞いたことをノートに書いてご覧。その方が覚えが早いって言うから』
 まだ字が下手で、後から読み返すのにも苦労する代物だったが、それでもエスペリアは
勧めに従って書いた。
 辛いことばかりの毎日。その中にあるささやかな幸せな時間を、そのノートを見るたびに
思い出すことが出来たから。
「じゃあ、今日はこれくらいかな?」
 ラスクが自分のノートを閉じる。それは後日、エスペリアに残されることになる。
「エス、判らないところはあるかい?」
「え、えと、えと」
 エスペリアは懸命にノートを読み返す。今日は特に難しいところはなかった。
「な、ないです。あ、でも」
「でも?」
「質問があります。ラスク様」
「なんだい?」
 優しく促すラスクに、エスペリアは聞いた。
「ラスク様は、その、エトランジェ? その方に会ったことはありますか?」
「うーん、残念ながらそれはないなぁ」
 ラスクは肩をすくめた。
「いつも存在するってわけでもないし。ここ何十年は現れてないみたいだよ」
「そうですか…」
 残念そうにエスペリアは俯く。
 どちらかというと、エトランジェはどうでも良く、話が途切れたらこの時間が終わって
しまうのが悲しかった。

「でも…」
 ラスクが悪戯っぽく続けた。
「もしエスの前にエトランジェが現れたら、凄く大変だと思うよ」
「え、どうしてですか?」
「だって、エトランジェはこの世界の人間じゃないんだ。何より、言葉が通じないだろ」
「え、あ…」
「もし、エスがエトランジェの世話をすることになったら、まずそこから始めなきゃな」
「言葉を…教える?」
「そう、まず名前を知って、こっちの名前も覚えて貰って、それから身振り手振り、
あれはアレ、これはコレって呼び方を教えて、って具合にさ」
 聞いただけで気が滅入る作業だった。
「エスは自分の名前を言うとき、なんて言う?」
「え、エスペリア、ラ、ヨテト…ですか?」
「それがエトランジェの世界の言葉だと『今日はご飯抜きです』だったらどうする?」
「ええぇ~!?」
 くくくとラスクは笑いをこらえながら続ける。
「『お腹空いた』って言葉が聖ヨト語だと『エスペリア、大好きだよ』かもしれないぞ?」
「!?」
 エスペリアは顔を真っ赤にして俯いた。
「ははは、ゴメンゴメン。でも、あちらさんにだって言葉があるんだろうから、それで
エスが困り果てることがあるかもな」
「そんなの困ります!」
「しょうがないさ、それをなんとかしなきゃな」
「ラスク様、絶対楽しんでるでしょう?」
 もうエトランジェが明日にも現れるような気がして、エスペリアは狼狽えた。

「でも、言葉だけじゃないぜ、教えることは」
「ま、まだあるんですか?」
「そりゃそうさ。例えば裸でうろつき回るヤツだと、服を着せることを教えないといけないだろ?」
 想像してしまい、また真っ赤になるエスペリア。
「何せこの世界のことは何も知らない、赤ん坊みたいなもんだからな。エスが何もかも
面倒見てやらないといけない」
 エトランジェは災厄以外の何者でもない、エスペリアにはそう感じられた。
「あと……」
 急にラスクが言い淀んだので、不思議に思って顔を上げると、辛そうな様子が見えた。
「戦うこともな」
「あ…」
「この世界に来るエトランジェの役目は戦うことに違いないから」
「そう…ですね」
「優しいヤツなら、凄く嫌がるだろう。それを戦わせなきゃいけない」
 それは今までで一番嫌なことだった。
「さっき教えたエトランジェのための永遠神剣。それも同時に現れる可能性が高い」
 求め、誓い、空虚、因果。
 スピリットよりもはるかに強い力をエトランジェに与える彼らが出現すると言うのだ。
「だからな」
 ラスクは言った。
「現れていない今は幸せなのかも知れない。お互いにな」
 それは、いつか必ず現れる、本当の意味での災厄の予言でもあった。

……
………

 ラスクの名前だけを伏せて、エスペリアはオルファ(と、聞いてないようで聞いていたアセリア)に
話して聞かせ、一つ息をついた。
「う~ん、難しくてオルファよく分かんない」
「そう、でもオルファは、ユート様が現れなかったとしたらどう?」
「えぇ、嫌ぁ。パパのいない生活なんて考えられないよ」
 アセリアもこくり、と頷いた。
「そう…」
 それはエスペリアも同じだった。
(ラスク様…)
 エスペリアは想う。
(一つだけはずれていました)
 現れない方が幸せ、それは違っていたと言うこと。
 戦うための存在、スピリットに「生きろ」と言ってくれたユート。
 自分のためではなくカオリのため、そしていつしか、ラキオス、いや、このファンタズマゴリアの
ために戦ってくれている優しいユート。
 そして、戦いから逃げないながらも戦うことに苦悩し続けるユート。
 そんなユートが、ここにいてくれて良かったこと、それだけは、あの日のラスクに異議を唱えたい
エスペリアだった。
(…それと)
『ユートさまぁ!』
『さまぁ~!』
 廊下をばたばたと走る音が聞こえる。
「あ、ネリー達だ!」
 オルファも廊下に飛び出していった。
(一つだけ教えてくれなかったことがあります)
 ぴしっと音がしてエスペリアのカップにひびが入ったのを横目に見たアセリアも、とばっちりを恐れて
こそこそとその場を後にした。
(…こんなにモテるなんて知らなかったですよ、ラスク様)
 先程の溜息の一部には、嫉妬も含まれていたようだった。