この樹の懐で

「う゛ー((((((;゚Д゚))))))ガクガクぶるーぶるー」
悠人はベッドで震えていた。別に恐怖におののいているわけではない。寒気だ。きっかけは今日の朝のことだった。

 悠人は時々第二詰所で生活することにしている。
スピリット隊が、エスペリア、アセリア、オルファリルの三名のみだった間は悠人が第一詰所で起居していても問題はなかったが、人数が増え、第二詰所も併用されるようになると、どうしても温度差というか距離感というかが生じるようになった。
仮にも隊長という立場にある以上、隊員との意思疎通を欠くことがあってはならないし、作戦の立案・実行指揮を行うに当たって各員の性格や向き不向きを把握しておく必要がある。
そんな理由から、第一詰所と第二詰所の両方に済むことにしたのだ。まぁ、そもそもはオルファに自慢されたネリーが泣きついてきたのが発端だったが。
理由はともかくネリーは大喜び。オルファを宥めるのが大変だった。理を説きながらもエスペリアまで恨めしげな視線を向けてきたっけ。
 熱のせいか思考がぶれる。とにかく今朝のことだ。
今日からしばらく第二詰所で暮らすべくやってきた悠人は、中庭に水を撒くハリオンの姿を見つけて近づいた。第二詰所の生活関係の雑務を取り仕切っているハリオンに、今日から悠人の分の食事等が増えることを伝えておこうと思ったのだ。
一応、第二詰所が問題なく運営されている以上大丈夫だとは思ったが、のんびり屋のハリオンが相手だから念のためだ。まぁ、ハリオンがかなりののんびり屋であることがわかったのも第二詰所での生活の成果のひとつではあった。
「ハリオン、今日から…」
悠人が声をかけると、
「はい~?」
ハリオンが振り向いて、悠人はずぶ濡れになった。声をかけられて振り向いたはいいが、水を撒く手は止まらなかったらしい。これでエスペリアの劣らず詰所を切り盛りできているのだから不思議なものだが、まぁこれがハリオンだと思うことにしている。
「…あー、今日から俺、こっちなんで、よろしく」
「はい~、わかりました~。よろしくですぅ~♪。……あら~、すいません~」
水をかけてしまったことの認識が後になるのも、まぁ、ハリオンだ。

「えっと~…お風呂に入ってらして下さい~、風邪をひいてしまいますと大変ですから~」
「あ、あぁ、わかった」
「これが終わったらお背中流しに伺いますから~」
「いや、それは要らないから」
そして悠人は風呂へと向かった。「どうして朝っぱらから風呂が沸いてる?」などと尋ねたりはしない。相手はハリオンである。要らないと言っておいたものの、ハリオンが背中を流しに来る気がしたので、悠人は風呂を早々に切り上げた。
脱衣所を出て廊下で鉢合わせたハリオン曰く、
「あらあら~、ようやく水撒きが終わったからお背中流してあげたかったのに~」
ということで、予感は当たったわけである。その割りにしっかり脱衣所に着替えが用意してあったりする辺り、侮れない。

 そんなことがあって、昼過ぎ頃、悠人は寒気を感じ始めた。それから悪化の一途を辿って今に至る。
おそらく風呂でしっかり暖まらなかったために湯冷めしてしまったのだろう。脱衣所を出てハリオンの姿を見たときには、俺の読み勝ちだ、と思ったものだったが、それで風邪をひいてしまった今となっては、勝ったのか負けたのかわからない。
といって、あのまま風呂に浸かっていれば、ハリオンは冗談ではなく入ってきただろう。じゃあどうすればよかったのか、ついそう考えてしまって頭痛が酷くなる。熱のあるときにややこしい考えごとは禁物だ。ましてやハリオンが絡んでいることは。

 悠人がうんうん唸っていると、ハリオンが部屋に入ってきた。
「失礼しますぅ~。大丈夫ですか~? お夕飯を持って来ましたよぉ~♪」
いつの間にかもうそんな時間だった。
「あ、あぁ、大丈夫だよ」
あまり大丈夫でもないのだが、極力元気ぶってみせる。一応、風邪をひいた原因にハリオンが無関係でもないので、心配させたくないからだ。まぁ、ハリオンが心配するかどうかは定かではない。というか、そもそもそんなこと考えるかも定かではないが。
「んもぅ~、嘘は、めっめっ、ですよぅ~?」
どうやら無理してるのはバレたようだ。…声をかけられるまで入ってきたのに気づかなくて、それまで唸ってたんだから当たり前か。頭回ってないなぁ。
「でも~、それならご飯食べられそうですね~。やっぱりちゃんと食べないと~、元気出ませんからね~」
と言いながら持ってきたお盆をサイドテーブルに置くと、ハリオンはベッドに腰を下ろした。
「はい、がんばっておっきして下さいね~」
何かにつけてはお姉さんぶるハリオンだがさすがに「おっき」は…、などと思っている間に悠人の体はあっさりと引き起こされていた。急激だったせいで眩暈がして、そのままハリオンの方へ倒れこんでしまう。
ぽふん。
やわらかな着地。と同時に何だか爽やかな香りが立ち昇った気がした。それは香水のような強いものではなく、香りと言うにはあまりにも微かで、むしろ雰囲気と言う方が近いかもしれない、そんな感じ。
えーと…フィトンチッド、だっけ? 森林浴の有効成分って。そんな関係あるようなないようなことを思っていると、ふよん、と抱きしめられた。そう、「ぎゅっと」でも「きゅっと」でもなく、「ふよん、と」。
その感触はやわらかであたたかく、ぬるめの風呂あるいは冬の朝の毛布にも似た、えも言われぬ魅力を持っていて。事ここに至って、悠人はようやく気がついた。「ぽふん」「ふよん」の正体に。ハリオンの胸だ。
「あ、あ…えーと…ごめん」
そう言って体を離そうとするも、悠人の背に回されたハリオンの腕が離さない。自然、声はくぐもった。

「いいですから~、しばらくこのままで~」
ハリオンの掌が悠人の背中をゆっくりと這い回る。むずかる赤子を宥めるように。
「で、でも…」
「んもぅ~、お姉さんの言うことは~、素直に聞くものですよぉ~?」
悠人は未だにハリオンのお姉さんモードにどう抗ったらいいのかわからない。反抗は諦めることにした。意識するな…意識するな…忘れろ…忘れろ…ついさっきまでの気づく前の状態に戻るんだ…。そう自分に言い聞かせる。
ふよん、ふよん。ハリオンの動きに合わせて感触が押し寄せる。
だぁーーーーーーっ! 意識すまいとすればするほど余計に意識してしまう上にこの攻撃。無理っ!! 何かしょうもなくて終わりのないことでも考えて意識を逸らそう。えーと……そうだ、「ハリオンの『お姉さんモード』対抗法」、これだ。
未だ答えの見えない問題にして、万一答えが出たらそれはそれで有効だ。ナイス、俺。そもそも、どうしてお姉さんモードになられると俺は無条件降伏しちまうんだ? 苦手なのか? 苦手…かもしれないなぁ…嫌いというわけではないと思うんだが…。
あー、そもそも姉がいないから「お姉さん」にどう接していいのかわからないってことか? う~ん、考えてみれば、近しい年上の女性ってもの自体、義母さんを亡くして以来縁がないんだよなぁ…あ、バアちゃんも入るのか? まぁどちらにしても昔には違いないな。
敢えて言うならエスペリアぐらいか。でもなぁ、エスペリアはたまにお姉さんっぽい言動をすることもあるけど、基本的には『献身』というか尽くすってイメージだよな。
んで、ハリオンみたいに「お姉さん」を全面に出されると弱いわけだ。年齢的に本当に「お姉さん」かどうかは置いておいて。ということは、だ。佳織のような気安さで、バアちゃんのように甘やかされればいいわけか? 
こっちが守るんじゃなくて、守られる側っていうのがポイントだな。「仲間」だ「家族」だと口にする以上、一方的に俺だけが守る側ってのは不公平なのかもしれない。あとは慣れあるのみ。
ふよん。
……佳織にこれはないな。つーか、姉持ちはみんなこれに慣れてるのか? えーいっ、がんばれ、俺! 意識しないでいられれば癒される気分なのはたしかなんだし。…エスペリアとはまた違った意味で。

「あら~? だいぶ落ち着いたみたいですね~」
ずっと悠人の背中を撫で回していたハリオンが、悠人の内なる変化を察したかのようなタイミングで声をかけた。
「少しは気分が良くなりましたか~?」
悠人は頭痛も寒気もずいぶん引いていることに言われて初めて気がついた。まだ体のだるさが残っているものの、ずいぶんと楽になっている。
「…なぁ、ハリオン、魔法でも使ったのか?」
神剣を持ってきていない以上それはないと思いつつも尋ねてみた。
「い~え~、別に何もしてませんよぉ~?」
「何だかだいぶ楽になったみたいなんだけど…」
「え~と~、そうですねぇ~、それじゃあ、『お姉さんの魔法』ということにしておきましょうかぁ~♪」
ハリオンが本気とも冗談ともつかない調子でそう言うのを、悠人は否定できなかった。悠人自身が魔法とでも思うしかない心境だったからだ。
ヨーティアなら「必ず説明はつくはずなんだよ、ちゃんと考えさえすればな。これだから凡人は…」とでも言うだろうか。まぁ、凡人の悠人としては、「いいじゃないか、夢があって」と思っておくことにしよう。
「それじゃあ、お食事にしましょうね~」
そう言ってハリオンがサイドテーブルから取り上げたお椀からは湯気が立ち昇っている。してみると、けっこう長い時間が経ったと思っていたが、そんなこともなかったようだ。
「ちゃ~んと、消化にいいものを用意しましたからね~」
どうもハイペリアでいうところのお粥に相当するものに見える。それはいいのだが…。
「はい、あ~ん♪」
ハリオンはスプーンとも蓮華ともつかないものですくって悠人の口元に差し出した。
「い、いや、それはさすがに…」
「あらあら~、お姉さんとしたことがうっかりしてました~」
それはいつものことだろ、と思わず心の中でツッコミを入れる悠人。

「ふ~、ふ~。…はい、あ~ん♪」
やはり、ハリオンは悠人の反応を「自分で食べられる」とはとってくれなかった。あまつさえ、吹いて冷ますというより本当に言葉を発するかのような「ふ~、ふ~」のおかげで恥ずかしさ倍増だ。
「あれ~? もしかして~、熱いの苦手ですかぁ~? ふぅ~ふ~」
悠人が食べようとしないのを猫舌だと勘違いしたのか、さらに冷まそうとするハリオン。なんだか、「ふ~、ふ~」が「夫婦」に聞こえてどうかしそうになった悠人は降参することにした。
「わ、わかった、食べるよ」
「はい、あ~ん♪」
…やっぱり、いざとなると……えーいっ、ままよ。
「…あ、あーん」
口にスプーン(?)が入ってくる。ぱくっ。スプーンが滑り出て行く。もぐもぐ、ごくん。
「おいしいですかぁ~?」
「あ、あぁ」
「ん~、ちゃんと言ってくれないと~、お姉さん悲しいですぅ~」
「あ、うん、おいしいよ」
「はい~、それじゃあ、次行きましょうね~。ふ~、ふ~。…はい、あ~ん♪」

 繰り返すこと数度。食事を摂り終えた悠人はベッドに寝かしつけられた。と、何を思ったか、ハリオンがベッドに入り込んで来るではないか。
「お、おい、ハリオン、何を!?」
「はい~、夜伽を~」
「ぶほっ……よ、夜伽ぃーっ!?」

「あ~、こーゆーときはぁ~、添い寝って言うんでしたっけ~?」
たしかに、夜伽という言葉には看護とか警護という意味がある。が、女が男の相手を…その、そういう意味もあるわけで。看護という意味だとしても、あまり使って欲しくない、悠人としては。どうしても、その…驚いてしまうから。
悠人がかろうじて衝撃から立ち直る間に、ハリオンはすっかりベッドに潜り込んでしまっていた。どうやってハリオンを追い出そうかと考えて、けれど結局そのままにしておくことにした。
 普段から何かにつけお姉さんぶるハリオンは、実は「姉弟」というものにあこがれていたのかもしれない。それならそれで、少しぐらいそれを満たしてやるのもいいじゃないか。ちょっと勘違いしている面があるとしても、だ。…まぁ、行き過ぎない限りは。
ハリオンが本当はどう思っているのかは知らないが、悠人はそう思って接することにした。それが違っていたなら、そうわかったときにそれに合わせてまた考えればいいさ。
 さっきよりもう少し踏み込んだ結論。指針があれば人は慌てずに済む。…はずだったが、さすがに気恥ずかしくて、悠人は身をよじってハリオンに背を向けた。
さわさわ。なでなで。
悠人の硬い髪をハリオンの手がゆっくりと梳いては撫で梳いては撫で…くりかえし、くりかえし…。それを感じながら悠人は目を閉じた。心の闇から湿っぽく揺れる何かが溢れてくるのを感じながら。それでも幸せな気持ちに包まれながら。

 目が覚めると夜だった。いや、微かに光が差している。それも灯りではなく陽光のように感じる。してみると朝なのだろう。しかし、悠人の視界は暗かった。
ふよん。
ん? 悠人は首を回してみる。
ふよん。
片目に陽光が射し込んだ。眩しい。思わずぎゅっと目を閉じて、それからゆっくりと開いていく。やはり朝だ。本格的に起きる前に、安らかな眠りを惜しむように枕に顔を擦りつける。
ぐりぐりぐり。
ふよふよふよん。
なんだかいつもと違う感触に体を離そうとして、動かなかった。

何だ? と、首だけ後ろに動かすと、目の前にはハリオンがいた。正確にはハリオンの胸があった。どアップで。
しばし呆然。まだ半分寝ぼけていたのが急速に覚醒を始めた意識と感覚を総動員して、なんとか事態の把握に努める。結論。何故かは知らないが、ハリオンに抱きしめられている。悠人の頭を胸に押しつけるようにして。
つまり、さっきのは枕ではなく、当然…。うわーーっ、と叫びそうになって、危うく堪える。この状況でハリオンが起きてしまったら……ん? どうということもないような気もするな…。
が、ハリオンはともかく、悠人の方がどんな顔していいかわからない。ここはどうにかハリオンを起こすことなくこの抱擁から脱出しなくては。
というわけで、もぞもぞ。何故か強く抱きしめられているので、起こさないようにそっとというのはこれがけっこう難しい。
もぞもぞ、もぞもぞ。
「あん♪」
「え?」
目が合った。固まる悠人。
「……もしかして、起きてた?」
「はい~」
と即答するハリオン。もちろんですぅ~と言わんばかりに。
「えーと…いつから?」
「ユートさまがぁ~、目を覚ます少し前からですぅ~♪」
…… _| ̄|○ と、くずおれたいところだったが、抱きしめられたままではそれも叶わない。
「と、とりあえず、離してくれないか?」
「離さないとぉ~、だめですかぁ~?」
「だーめ」
もったいない、もう少しと、ぐずるハリオンをどうにか説き伏せて解放してもらう。そして、ハリオンにベッドから出てもらうと、悠人は思う存分、うなだれた。

 もう体のだるさもなく、悠人自身の認識では全快だったので、朝食は普通に食べられた。「あーん」は回避されたのだ。
しかしながら、ハリオンが頑として譲らず、悠人はベッドで静養を続けさせられていた。さすがに退屈というか、部屋に篭りきりで気が滅入ってきたので、昼食後、部屋に連行するべく悠人の腕を取ったハリオンを止めて言った。
「なぁ、どう考えてももう大丈夫だし、外の空気も吸いたいし、剣の素振りをしたいんだけど」
「んもぅ~、そんなの、めっ、めっ、ですぅ~。治りかけがぁ~、大事なんですよぅ~?」
やはりハリオンに否定されてしまった。まぁ、病み上がりなのはたしかなので、悠人も反論に困るところだ。しばしの交渉の後、どうにか許可されたのは、中庭で日向ぼっこすることだった。
本当は体を動かしたいところではあるが、まぁ外の空気を吸えるだけでもましだろう。というか、ハリオンから譲歩を引き出せただけでも良しとすべきかもしれない。
「それでは~、ちょっと待っていて下さいね~」
そう言い置いてハリオンはどこかへと歩いて行く。程なくして戻って来たハリオンは毛布を抱えていた。
「また風邪をひいたら~、大変ですからね~」
毛布に包まって日向ぼっこというのは意味があるのだろうか? ……まぁ、ニムントール辺りなら似合いそうな気もするが。あまりにあんまりで、悠人は思わず叫んだ。
「ハリオンの過保護っ!」
「お姉さんですからねぇ~♪」
全くこたえてないどころか嬉しそうなハリオンに、悠人はやっぱり敵わない自分を自覚したのでだった。

 悠人はハリオンに連れられて中庭にある木の下にやって来た。どうやら、ここで日向ぼっこということらしい。木の下ではあるが、向きが良いのか陽の光は届いている。
空を見上げていた悠人が振り返ると、ハリオンは木に寄りかかって座り、お腹から足にかけて毛布を広げていた。毛布の膨らみから、足を広げているのがわかる。
「さぁ~♪」
えーと…
「さぁ~♪」
それは…そこに寝ろと?
「さぁ~♪」
はい、俺の負けです。言葉にこそしないものの、ため息をついて、悠人はそこに寝そべった。高すぎないように、低すぎないように、頭がハリオンのお腹に来るように。
その結果、視界には……たゆん、たゆん。悠人は慌てて目を閉じた。と、ハリオンが悠人の脇に手を入れて引き上げる。そして広げていた毛布を折り返した。
「お、おい?」
「こうしないと~、お顔に毛布がかかってしまいますからね~」
ま、いいか。
悠人は眠気が体を浸していくのを感じていた。
昨夜たっぷり眠ったはずなのに。急速に。
頭の後ろにやわらかな感触を感じながら。
どこからかエスペリアの声が聞こえた気がした。聞こえ始めたハリオンの寝息に消されてか、すぐに聞こえなくなったが。
ごめん。今は負けさせて。
この心地良い、お姉さんといっしょの眠りに―――

 その翌日、今度はハリオンが風邪をひいていた。
伝染[うつ]ったのか、昼寝で寝冷えしてしまったのか。
何にせよ、今度は悠人が看病することにした。
どちらにしても悠人が原因に無関係ではないだろうから。
「あらあら~、すいませんねぇ~。わたしがこんな体でなければぁ~」
「それは言わない約束だろ」
もちろん、そんな約束などしていない(笑)