黒スピの手帖

 皆が待ちに待った月に一度の全休日。それは、哨戒任務に当たる者を除いたほとんどのスピ
リット達が、思い思いに休暇を過ごせる日。
 エトランジェである悠人も、その例外では無く、休暇を楽しんで――ただの体たらく――い
た。朝とも昼とも着かない食事をとると、ぼさぼさの髪を撫でつけながら第二詰め所の玄関口
を出た。既に太陽は西に傾き始めていて、アクビをひとつ放つと自室に戻って昼寝でもしよう
かと思い歩き出した。
 
 近道をしようと中庭へ向かって行く。数日前の、オルファとネリーのとっくみあいで崩れた壁
が、ちょうど良い抜け道を作り出していたためだ。
 中庭には、白く塗られたテーブルと、椅子が2脚置かれていた。テーブルの上にはなにやら
黒い物体。白と黒のコントラストが太陽の光に照らし出される。

 悠人は、その黒い――黒革の手帖を手に取ると表紙を眺めた。ひっくり返してまた眺めた。結
構使い込んである。なにやら書いてあるものの、見覚えの有る字だと言うこと以外は何も分か
らない。小さな丸っこい字を指で少しなぞると、ペラっと手帖を開いてみた。
 
――――こさとのつき……あお、みっつ……のひ。しーれ……のつきあか

 たどたどしくも、日付くらいは理解できる。普段から、エスペリアの提出する指令書やら決
裁書やらに目を通していたからだろうか。サインを機械的に書くだけのことではあるけれど。
一種の門前の小僧だろうか。もっとも理解と言うより「覚えた」というのが適当ではあったの
だが。
 日付が書かれ、その後に何行かの文章が書かれている。そしてそれが手帖の中程まで続いて
いた。さすがに悠人にもこれがなんなのか位は理解できた。
 おそらく、というより確実に日記であろう。一瞬、悠人は他人の秘密を覗いてしまったと思っ
たが、もとより読めるはずもなく、ふーむ、と唸ると針金頭をバリバリと掻きむしった。
 誰のものかは分からず、さりとてこのままにしておくのもなんだか問題があるように思える。
誰かが見てしまったら問題になるだろう。
 ヒミカにでも渡しておけば、うまく本人に返しておいてくれるだろう。そう思った悠人は、
手帖を持って振り返った。

――――いきなり、目の前に飛び込んできたのはそれは。

 白く小さなウィングハイロウ。急激な停止についてこれず、慣性に従い流れる二条の黒髪。
ぜぇぜぇ息を吐くその少女は真っ赤な顔で、悠人の前で四肢を振り回し何かを喚き、次いで
口を手で押さえてから、一回、二回と深呼吸をする。これは、悠人がこの少女――ヘリオンに
教えた沈静の方法だ。悠人に教えられたことは律儀に守る。実際大したことを言ったわけでは
無く、この世界でも至極普通の方法のはずだが、ヘリオンには悠人に言われた、と言うことが
大事なのだ

 息を整え、小さな胸をなでる。そうしてから、やはり真っ赤な顔で悠人の手にある手帖が自
分の物であると言った。悠人は素直に手帖を渡す。吃りながら中を見たか聞かれたので正直に
答えた。するとヘリオンは、小さな――作戦行動中も携帯に支障がない程度の――黒革の手帖
を胸に抱きしめると、悠人の視線から逃げるかの如く、顔を埋めるように俯かせた。
 悠人からは額しか見えないけれど、ヘリオンの顔も、袖から申し訳程度に出ている小さな指
も、ちょうど昼食にでた、丸茹でのテミかと見まごうほどに紅に染まっていた。

 なにやら呟いたヘリオンは、踵を返すと、礼もそこそこに走り出した。悠人の言葉も振り切っ
て、一目散に。
 第二詰め所の玄関をくぐり抜け食堂を走る。普段のヘリオンなら絶対にしない行動。どちら
かというと、ネリーやオルファに注意する方だ。
 走った。胸の動機は誰が為なのか?
 走った。恥ずかしさと、それを上回る何かに突き動かされて。

 昇り階段への角を曲がる。どんっと誰かにぶつかった。あわわと慌てて、落とした手帖を拾
い、ごめんなさ~いと再度駆ける。

 自室に飛び込んだヘリオンは、ベッドに倒れ込み大きめの枕をぎゅうっと抱きしめ、悠人の
名を呼び続ける。くぐもった声で何度も何度も。悠人が文盲だと言うことには気が回らない。
 何十分かそんなことをしていたけれど、今の出来事を、先ほどまで中庭で書いていた分に
追加しようと手帖を開く。これは普段なら絶対にしないベッドの中での日記記入。行儀は悪い
けど今のヘリオンは普通ではなかった。

 手帖が開く。
 何度も開いたために開き癖が着いているのだろうか。自然とページが割れた。
 そこには、ずらりと第一第二詰め所全員の名が記されていた。几帳面な字で。
 名前の横には、目盛りが振ってあって、それぞれバラバラの位置まで塗りつぶされていた。

ユート    :□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
エスペリア  :■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
ニムントール:■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□□□□
ハリオン   :■■■■■■■■□□□□□□□□□□□□□□□□
へリオン   :■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□                              
                                             以上抜粋

 一瞬目が点になったヘリオンは、慌ててその他のページを開く。やはりそこにも几帳面な字
がびっしりと書き込まれていて…………ガクガクガクガク、ヘリオンは震え出す。
 臓腑が、んきゅーと締め付けられたように苦しくなる。怖気とともに、手帖を震える手でひっ
くり返す。
 そこに記された名前は。

 コンコン。
 扉がノックされた。心臓を鷲掴みされたかのように、ギョッとしてヘリオンは飛び上げって
驚く。縺れた脚で扉に近づき、開かれた隙間には、覆面の――――

 飛び起きたヘリオンは、グッショリと寝汗をかいていた。どうやら日記を書きながら眠って
しまったらしい。なんだか怖い夢を見たような気がする。
 お風呂にでも行こうかと思い、ふと横を見た。
 ファーレーンがいた。
 
 ヘリオンのうなされ声を聞き、心配して横に着いていてくれたらしい。ファーレーンは優しい
目で笑う。なんだか申しわけない気持ちになってしまう。
 ふと、自分が何かを抱いていることに気付いた。
 それは手帖だった。
 黒革の手帖だった。
 自分の手帖とそっくりな、黒革の手帖だった。

 凍り付いた腕から転げ落ちたソレが、パラリと自然に開く。

へリオン   :■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■