名も無き墓に

 俺は帰ってきた。誰も、俺のことを覚えていない地、ファンタズマゴリアへ。
 大切な、恋人であり、娘であり、戦友である女性(ひと)と共に。

 ロウエターナルの城への侵入による騒乱もひとまずの収まりを見せて、いよいよ明日、
俺たちはソーンリーム台地へと出立する。はやる気持ちを『聖賢』に諭され、
自分でも抑えようと自室の椅子に腰掛け目を閉じていると。
「……ん?」
 廊下から、とっとっと、と駆け抜ける軽い足音。
立ち上がり、扉を開けた先にかすかに見えた炎の色になびく髪。
 もうエスペリアが廊下を走るな、なんて注意する事も無いんだな。
それとも、エターナルの実力と行儀とは別とばかりに雷でも落とすのだろうか。
出来ることなら、エスペリアにはそうして欲しい。俺には、いやオルファにだって、
それがついこの間までの日常だったんだから。
 そんな風に思って、ふと顔を向けたエスペリアの部屋からは誰の気配も無い。
 それもそうだ。決戦を控えた今のスピリット隊なのだけれども、
今日までのエターナルミニオンからの防衛の日々に皆が疲弊している。
今は光陰が中心となって、体調や身体に支障が残っている隊員の回復に努めているところだった。
 考えながら、足はそっと廊下を歩き始める。後をつける事になってしまうことに後ろめたさを感じる。
それでも俺は足を止めずに第一詰所の外へと進む。なぜなら、ほんの少し後姿が見えただけでも
感じ取れた、オルファの張り詰めた様子を無視することなんか出来なかったんだから。

 オルファの気配を辿って行き着いた先は中庭だった。
エスペリアご自慢のハーブが植えられた花壇の側に、俺に背を向ける形で静かに彼女が佇んでいる。
 今日までの激戦を示すかのように、花壇のハーブには元気が無い。何故か、
オルファの姿がそれらと重なって見えた。
 意を決して、わざと足音を高く鳴らす。オルファは、肩を震わせて誰かが
近づいてきたことに気付いたとこちらに示した。けれども、彼女は振り向かない。
 声を掛けられないまま静かにオルファの側へと近づく。もう誰が居るのか分かったのだろう。
俯いたままの視線に促されて、オルファの小さな身体の陰になっている場所が見えるように身体を動かした。
 そこには。
 墓があった。
 いや、これが墓だと分かる奴は少ないだろう。
 何の標も無い、ただの積み上げられた石。
 しかし、少なくとも標はあったはずだ。
 彼女に命の大切さを教えてくれた、あいつの名を書いた墓標が。
「これは……」
 別に驚くことでは無いと、時深なら言うだろう。もっとも、罰の悪そうな顔は見せるだろうけれど。
たとえ、俺たち……もっと言えば、エターナルとなった者が元いた世界には『居なかった』ことになったとしても、
それまでに起こしたことの結果までが消えるわけじゃない。
例えば、俺が助けたことになる今日子や光陰は、俺が居なくてもここに居る。
クェドギンも、その生きた意味を違えられたまま最期を迎えたことになっている。
 だから、ここに眠るあいつも、名前と名付け親を失って、名も無い墓の主となったんだ。


「ハクゥテ……」
 ぽつりと、オルファがその失われた名を呟く。エスペリアに叱られることも、
ネリーやシアーと遊ぶことも無くなった上に、彼女があいつの親だった証も失われたっていうのか。
 そっと、目の前で立ち続けている身体の小さな肩に手をかける。静かに握り返してきた手は、微かに震えていた。
「ハクゥテも、オルファのこと忘れちゃったのかな、パパ?」
 その答えは、俺よりもオルファのほうが良く知っている。
エターナルになった俺と、元からエターナルだったオルファ。
その力がどのように記憶に働くのかは、きっと、彼女の方が詳しいのだろう。
けれども、俺が出した答えは恐らく、オルファのものとは違う。
「分からない」
「……え?」
「それは、誰にも分からないよ、オルファ。だって、ハクゥテはもう、居ないんだからさ。
他のみんなが俺たちを忘れてるのはすぐに分かっちまうだろ。でも、ハクゥテが俺たちを覚えてるかどうかは
ハクゥテに聞かなきゃ分からないじゃないか。だから、今は誰にも分かりっこない」
 握られている手に、きゅっと力を感じる。
「でもそれじゃあ、ハクゥテに聞きに行けないね。オルファたちはあいつらに負けちゃダメなんだから」
「うん、そうだな。それならホントにハクゥテが覚えてるかどうかは分からないままだ」
 俺の手を握っている手から強張りが取れたときには、もう震えは収まっていた。
「だったら、オルファは絶対にハクゥテのこと忘れないよ。エスペリアお姉ちゃんだって、
ネリーだってシアーだって忘れないんだから、ずっと覚えてるんだからね、パパ!」
 ぱっと顔をあげて、俺の顔を見上げるオルファ。それに向かって、俺は大きく頷いた。


「さて、それにしてもちょっと離れてる間に寂しくなっちまったなぁ、この花壇」
「うーん、ちょっとお水が足りてないみたいだよ。
土はそんなに悪くなってないから、すぐにみんな元気になると思うんだけど」
 ちょこちょこと花壇にかがみ込んで、オルファが少しばかりつやの無くなってしまったハーブに触れる。
その後、いつもの場所の用具置き場に駆け出して、ジョウロや桶を運び出す。
 今、手が空いているのは俺たちだけなんだけど……良いのか、こんな事してて。
「パパ、何してるの、早く手伝ってよぉ!こんな花壇のままじゃ、ハクゥテも可哀相なんだからぁ!」
 そう言われては、手伝わないわけにもいかないな。
「分かった、それじゃまずは水を汲んで来ればいいんだな」
 ……
 ……………
 …………………
 そして、俺たちは出発する。ソーンリーム台地へ、さらに、その先の無限の世界へ。
 出掛けにそっと、名も無き墓に新鮮なハーブを添えて。