BEAUTIFUL SUNDAY

「失礼します。ユートさま、よろしいでしょうか?」
軽快なノックの音とともにヒミカの声がする。
「―――入れ。」
ギシ、と椅子を軋ませ、悠人が立ち上がった。

「実は...また、お願いがあるのですが。」
入室したヒミカが切り出した。
その真紅の瞳は、まっすぐに長身のエトランジェに向けられている。
バスローブ一丁のいでたち。胸元から覗いている厚い胸板。
...だが、トレードマークのハリガネ頭は、どういう訳か短く刈り込まれている。
ヨーティアの部屋掃除の折にちょろまかしてきた煙草「トヤーア」の紫煙をくゆらせながら、
悠人はじろりと短髪の少女に視線を投げた。

ヒミカに頼られるのは悪い気はしない。...しないのだが、
はっきり言ってこれまでの、彼女の「お願い事」は一筋縄では行かないものが多く、
悠人としても出来れば回避したいところであった。
...しかし、今日の悠人は一味違っていた。

「用件を―――聞こうか。」

「はい。単刀直入に申し上げます。...ハリオンを、助けてやって欲しいのです。」
「―――ハリオンを?」

悠人の脳裏に美しいボディーラインのグリーンスピリットの姿がよぎる。
いつもマイペースを崩さず笑顔を周囲に振りまいている少女。
ヒミカのよき相棒でもあるそのスピリットは、しかし、助けを求めるような事は何もないように思われた。
「ご存知の通り、彼女は私の長年の友です。
苦しみや悲しみを他人に見せた事は、私が記憶する限り、ありません。
―――しかし、ハリオンもまた、神剣に呑み込まれたスピリットなのです。」
「ほう。」悠人は思わず感嘆した。悠人の知っている限り、
神剣に呑まれたスピリットは、押しなべて感情を失くし、
人間の命令に忠実に従う、―――つまり、自我を失ったロボットのような存在であった。
少なくとも、ハリオンというスピリットは、そのイメージからかけ離れていたのだ。
しかし、思い当たるフシが無いわけでもない。

ハリオンのハイロゥは、信じられない事に、
悠人がラキオスに召喚されるよりも以前から、黒く染まっていたのである。
悠人は黙って赤い少女の言葉の続きを待った。

「これは私の勝手な推測かも知れませんが...ハリオンも
心のどこかで悲鳴を上げているように思うのです。ユートさまの
エトランジェとしての力を持ってすれば...あるいは救い出せるのではないか、と。」
ヒミカが凛々しい相貌に苦渋を滲ませた。
この心優しきレッドスピリットには、人一倍他者の悲哀が伝わるのかも知れない、悠人はそう思った

「しかし...余り気乗りがしないな。」
神剣に呑み込まれた者を引き上げるのには困難と危険が伴う。
いや、下手を打てば自らが引きずり込まれる可能性もある。
「お願いします、ユートさま!もし、聞き届けて頂けるのならば、
このヒミカ、どのような形ででもユートさまのご恩に報いる覚悟です!」
決死の表情でヒミカが敬礼する。

「どのような形ででも...か。―――まあ、いいだろう、引き受けよう。」
厳しい表情を崩さぬまま悠人は答えた。
「あ、有難うございます!」
ヒミカはそう言って、いつもは神剣「赤光」を握っている右手を差し出した。
「...............」
しかし、悠人は差し出されたその色白の手を、無言で見つめるのみであった。

「あ―――これは失礼いたしました!確か利き腕を相手にあずける形になる握手という習慣を、
ユートさまは好まれないのでしたね。」そう言いながらヒミカは慌てて手を引っ込めた。

「用が済んだのなら出て行っていいぞ、ヒミカ。
報酬は......ラキオス銀行の口座に振り込んでおいてくれ。」
悠人のその言葉とともにヒミカは退座した。


「これがハイペリア流のエンゲキか...。ユートさまの部屋に入る時は
こういうふうにしろって言われたんだけど...私にはどこが面白いのかよく分からないわ。」
部屋を出たヒミカは、首を振りながらつぶやいた。

「でも...報酬って、幾らくらい払えばいいのかしら。
いくら何でも私達の小遣い程度じゃないわよねえ...。
ハッ?まさか、足りなかったら体を要求されるなんて事...?」
思わず手のひらに少し余るくらいの胸の膨らみを押さえるヒミカであった。

レスティーナが女王の座に着いてから、スピリット達にも毎月の給料が支払われるようになってはいたが、
生活の必需品は現物支給だったし、それは決して贅沢が出来るほどのものではなかったのだ。

『おいおい、バカにするなよ、ヒミカ。こんなハシタ金であれだけの危険な仕事が出来ると思っているのか?』
『ああ...申し訳ございません、ユートさま。一生懸命工面したのですが...。』
『ふふん、お前だってもう子供じゃないんだから、どうしたら良いかくらいはよく分かってるだろう?』
『か...覚悟は出来ております...。好きに...好きになさって下さい...。』

次々と頭の中にテロップが浮かぶヒミカの前に、運悪くセリアが通りかかった。
「ちょっと、ヒミカ、どうしたの?ぼーっとしちゃって。なんだか目も潤んでるし。」
「ククク...悪い子だ。最初から期待してたんじゃないのか?」
「え...ちょっ、なにいきなり...きゃあっ!」
完全に役に入り込んでいるヒミカに押し倒され、セリアは悲鳴を上げる。
「体は正直だな。だが、もっと抵抗してくれないと、面白味に欠けるというものだ。」
「や...やめて...ちょ、ちょっと、やぁ...っ!ダメよ、こんな所じゃ...!」
――かなりノリのいいセリア嬢であった。

ヒミカの出て行った部屋の中で、悠人は有りもしないブラインドを指で押し下げ、窓から外を眺めた。
「ハリオンの秘密か...なかなか厄介な仕事になりそうだな...。」

悠人はふと思い出したようにようやく髪の毛が生えそろってきた自分の頭を撫でた。
「ったく、ナナルゥのやつめ...何が特製のシャンプーだよ。全部抜けちゃったじゃないか...。
これじゃ外も歩けやしない。」悠人は眉をひそめて独りごちた。

「ん?でも、これで成功したら、ヒミカの好感度もグ~ンとアップして、あんな事やこんな事...。」
このところヘリオンの悪い癖が蔓延しつつある第二詰所であった。

「...また、何か良からぬ事を考えているようですね。」
妄想に沈没する悠人の頭上で、音もなく天井の羽目板が一枚外される。
「ハッ!?ナナルゥ、いっいつの間に!?」
ワインレッドの長髪をなびかせて、細身の少女が、まるで赤い彗星のように天井裏から舞い降りた。
悠人の目の前1メートルの距離には、すでに真っ赤な魔方陣が完成している。

「.........天誅です。」
「こっ、この距離でアレを!?よせっ!!俺が悪kぐぎゃあ――ッ!!!」
...悠人の言葉が最後まで紡がれる事はなかった。

―――その日の昼下がり。

「よっ、ハリオン、買い物帰りか?」
悠人は愛想笑いを浮かべつつ、黒い買い物カゴに食材をいっぱい詰め込んだ、
二詰のお母さん的お姉さんこと「大樹」のハリオンに声をかけた。

「あら~、ユートさまぁ。今日はイキのいいお魚が手に入ったんですよ~。
これから料理しますから、お楽しみに~。」
いまにも夕餉の香りが漂って来そうな、そののどかな雰囲気は、見るもの全てを家庭的な空気に包み込む。
神剣を持っていないハリオンを見て、一体誰が彼女を戦士だなどと想像できるであろうか。
「そうか、それは楽しみ...いやいや、今日はちょっと別の用事があるんだ。」
悠人はハリオンペースに乗せられかけて、慌てて我に返る。
「あら~、大事なお話ですかぁ?では私の部屋に、お越しください~。」
満面の笑みを浮かべてハリオンが詰所に入って行く。

その後ろ姿を見ながら悠人はある事に気が付いた。

「ハリオンの買い物カゴ...あれってハイロゥじゃないか?」
目をゴシゴシ擦りながら悠人はそのカゴに見入った。そう言えばいつもと大きさが違う。
いや、いつも買い物の量に合わせて大きさが変わっているのだ。
一見竹で編みこまれているように見えるその材質も、
よく見ると細かい粒子が幾重にも折り重なって波打っている。
一体全体、シールドハイロゥをそんな用途に使うスピリットが存在して良いものだろうか?
悠人は軽いめまいを感じながら、ハリオンを追うように詰所に入った。

「いらっしゃいませ~。今日私が内緒で焼いておいたケーキですぅ。
ユートさまもおひとつどうぞ~。」
甘い香りの満ちた部屋で、スマイルとともにカップケーキが、ハーブティーを添えて差し出された。
「あ、さんきゅ、ハリオン。...うーん、相変わらずいい感じに焼き上がって、
この口の中でふわりと溶ける感触が何とも...いやだから違うんだって。」
ついつい喫茶店のような雰囲気に巻き込まれてしまいそうになるのを、かろうじてこらえる悠人であった。

「実は話っていうのは...。」

「ふふふ~、予想はついてます~。我慢出来なくなったんですね~。
男の子ですからぁ、仕方ありません~。」
そう言いながらハリオンが、妙に艶っぽいマナを発しつつ、悠人ににじり寄ってくる。
「い、いや、そういう事じゃなくって!本当に話があるんだってば!」
思わず後ずさりながら悠人がハリオンを制止した。

慌てる悠人を無視するかのように、すい、とハリオンは背を向け、ベッドに向かう。
「なるほど~、まずはピロートークですか~。さ、こっちにどうぞ~。」
やおらベッドに腰掛けたハリオンは、変わらぬ笑顔のままでポンポン、と膝を叩く。
「...は?」
「怖くありませんから~、お姉さんに任せて下さい~。さ、ど・う・ぞ。」ポンポン。

「うーむ...し、仕方ない...。」
笑顔の圧力に屈し、悠人はおとなしくハリオンに従って、膝枕して貰うことにした。
ほとんど丸刈りに近い悠人の後頭部に、ハリオンの張りのある太腿の感触がダイレクトに伝わってくる。
この暖かさに包まれたまま眠ってしまえば、さぞ気持ちがいい事であろう。
「...って、そんな事考えてる場合か!」悠人は自分にツッコミを入れた。

「あ、あのさ、ハリオン、うわっ、か、顔は近付けなくてもいいから!」
目の前10cmに迫るハリオンの顔との間に両手をねじこみ、何とかまともに話の出来る距離まで押し上げる。
「あらあら~、恥ずかしがってるばかりじゃ、めっ、ですよ~。」ハリオンが頬をふくらませた。

「―――頼むから少しは話を聞いてくれ。あのさ、前から一度訊こうと思ってたんだけど、
ハリオンの『大樹』ってのはどんな事を言ってるんだ?」
「あ、あら、ら~?」ハリオンの表情が笑顔のまま凍り付いた。
それは、これまで見せた事のないリアクションであった。

―――契約者よ、余り不用意にこの妖精に近付かぬ方が、身の為だぞ。

突然、『求め』が警告音を発した。どうやらこの貪欲な魔剣もハリオンは苦手としているようだ。
だが、悠人はハリオンのうろたえぶりに、初めて覚悟を決めた。

―――アレをやってみるか。

悠人の頭に浮かんだ方法は、初陣の時にリュケイレムの森の中で、
アセリアが悠人に対して用いたものであった。
それは、神剣同士を重ね合わせ、お互いの神剣の声に耳を傾ける、という方法である。
当時は未だ覚醒していなかった悠人の『求め』を叩き起こすために、
神剣との親和性が最も高かったアセリアが、神剣の内部世界に入りこんで行ったのだ。
だが、今の悠人ならばその逆も可能であろう。

―――しかしそれは、精神の弱い者にとっては、諸刃の剣とも言える危険な手段でもあった。

「ハリオン、そういやこの部屋の中に見当たらないけど、ハリオンの『大樹』、どこにやったんだ?」
悠人は固まっているハリオンの膝の上から身を起こし、その顔を覗き込んだ。
「あ~、えーと、どこかに...そうそう、押入れの中だったでしょうか~?」
ハリオンは悠人から目をそらしながら立ち上がった。
「...押入れなんてあったのかよ。」悠人は余り深く考えるのは止める事にした。

「あらあら~?見当たりませんね~。」

部屋のあちこちを探していたハリオンが困ったような声を出す。
嘘や冗談抜きで、本当に見付からないようだ。
必死に思考を中断しようとしていた悠人の頭の中で、プチン、と何かが弾け飛ぶ音がした。

(スピリットって...確か神剣と一心同体だったよなあ。)
そのスピリットが神剣を紛失するという事が有り得るのだろうか?
神剣を持たない状態でハイロゥを展開できるものなのか?
いや、それよりも、そもそも今は一応戦時中である。突然出撃命令でも出されたら、
ハリオンはどうするつもりだったのだろうか?
「考えちゃ駄目だ考えちゃ駄目だ考えちゃ駄目だ......。」

悠人は平静を取り戻すため、ひとしきり頭を抱えた。

「ハリオン、落ち着いて考えてみよう。最後に『大樹』を見たのはいつだ?」悠人は半泣きで尋ねた。
「え~と~、そうですね~、確か、お昼の訓練の時にはあった筈です~。」
人差し指を顎に当てて視線を宙に泳がせるハリオン。

「昼の訓練...。」
悠人も目を閉じてその時の光景を思い出し始めた。確か、来たる対マロリガン戦に備えて、
ヒミカやセリアが模擬戦をやっているその傍に、ハリオンの姿があった…ような気がする。

「昼寝...してたんだっけ、大きな木の根元で。」
大きく溜息をつきながら悠人は言った。その時、確かにハリオンの永遠神剣『大樹』は、その木に立て掛けてあったのだ。

「あ~、思い出しました~、訓練場の横の木に...」ハリオンの言葉を最後まで待たず、
襲いかかる頭痛を振り払うように、ぶんぶんと首を振り回し、悠人は部屋の窓を開け放った。
「ヘリオン!!ヘ~リオ~~~ンっ!!!」
金斗雲を呼ぶ孫悟空のように、悠人は青空に向かって力の限り叫んだ。

「はははいっ!お、お呼びでしょうかっ!?」
すぐさまバタン、と部屋のドアを開け、わたわたと慌しく小柄なブラックスピリットの少女が入室する。

「...何だ、詰所の中にいたのか、ヘリオン。立ち聞きしてた通りだ。ひとっ飛び、頼んだぞ。」
「たた、立ち聞きなんて、してませんよぅ!」
抗議は無視して、悠人は鬼のような形相でつかつかとヘリオンに歩み寄った。
「...へ?」
悠人は無言のまま、ヘリオンの背後に回りこみ、スピリット服の背中をむんずと引っ掴んで、その小さな体を持ち上げた。
「わっ、分かりましたっ!訓練場の大樹に立て掛けてある大きな木を持って来ればいいんですね!!」
じたばたと手足をばたつかせ、空中で犬掻きをしながらヘリオンが喚く。
「―――悪いけど、今はとても漫才やるほど心にゆとりがないんだ。
ミトラロ数える間に戻って来い!マナをオーラフォトンに変えて...いっけえぇぇぇ―――っ!!」

最大限まで引き出されたエトランジェパワーが、イクシードばりの推進力となって、ヘリオンの体を窓から射出した。

「せめてストラロス...わわわっ!」
危うく詰め所の前の大木「陽だまりの木」に激突しかけ、
間一髪でウィングハイロゥを展開させたヘリオンが訓練場へと飛び立っていった。
(注・ミトラロ=50、ストラロス=100)
「はあっ、はあっ...」悠人は窓枠に手をかけて、呼吸を整えた。
「あの~、大丈夫ですか~、ユートさま~?」
背後から間延びした声が掛けられる。悠人は深呼吸をさらに2、3回繰り返し、平静を取り戻した。

「...ああ、大丈夫だ、ハリオン。で、どこまで話したっけ...そうそう、神剣が何を言ってきてるか、だったよな。」
悠人はあらためてハリオンに尋ねた。
「それが~、実は、私にもよく分からないんですよ~。」
ハリオンが小首をかしげる。再び悠人の頭の中でプチン、と音がした。
「分からないって、何だよそれ!何かあるだろ、ほら!!マナよこせとか、妖精を犯せとかさあっ!!」
我を忘れて喚き散らす悠人であった。

「まあまあ、落ち着いて下さい~。そうですね~、聴こえてるような気はするんですが、
何を言ってるのかが、よく分かりません~。」
にこやかな表情を崩さずにハリオンが答えた。

「うぐ...ぐ...と...取り乱して悪かったよ、ハリオン。」
悠人はうなだれた。一般に神剣の位が下がるほど、その自我は弱まると聞いている。
ハリオンの『大樹』は第六位。スピリットの永遠神剣としては上位に位置するものの、
悠人の『求め』と比べると、さほど干渉する力が強くはないのかも知れなかった。

―――それとも...。
悠人は考えた。『求め』にしても四六時中干渉し続けている訳ではない。
それと同様『大樹』も、ここ一番でハリオンの意識を乗っ取ったりするのだろうか。

―――って、それは無いよな。
悠人はまじまじとハリオンの顔を眺めた。
数々の戦いをともにして、ハリオンとは少なからぬ時間を共有してきている。
その間、ハリオンが明らかに自我を失って『大樹』と同化している、と感じたことは無かった。

「あっ、ありましたっ!」
息を切らせつつ、『大樹』を小脇に抱えたヘリオンが舞い戻ってきた。
見れば、こころなしか、その穂先からのいつもの輝きが精彩を欠いている。
持ち主に放ったらかしにされて、『大樹』もさぞかし心細かった事だろう。
「お、ご苦労さん。」
とにもかくにも、マロリガンやサーギオスの偵察部隊あたりに持ち逃げされなかった事の幸運を喜びつつ、
悠人はヘリオンに礼を言った。
「お手数をおかけしました~。」ハリオンが神剣を受け取り、その柄に愛おしそうに頬ずりする。

「さて、ハリオン、今日の用事ってのは他でもない。
俺の『求め』とハリオンの神剣を同調させて、『大樹』の意向を探って見ようと思う。」
お茶を一口啜ってから、悠人はおもむろに宣告した。

「「え~っ!?」」
ハリオンとヘリオンが同時に驚きの声をあげる。書き手としては余り好ましくないツーショットである。
「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど...ほら、ハリオンのハイロゥって...前から黒いだろ?
だから、ひょっとしたら俺にも何か出来るかなって。」
悠人は少し躊躇いながら言った。さすがにハリオン自身も、ハイロゥの事は気にしているだろう。

「はあ、そう言われてみれば~、黒いですね~。」
ハリオンがシールドハイロゥを展開させ、それをあらためて見つめた。
―――気が付いてなかったのか!?いや、そんなバカな事!!
「あまり気にしてませんでした~、ハイロゥの色なんて~。」
あまりと言えばあんまりなその言葉。
ヘリオンと悠人の両名に、同時に頭痛・吐き気及びめまいが襲いかかった。

「...と、とりあえず外に出よう。ここじゃ手狭だ。あ、ヘリオン、もう帰っていいぞ。しっしっ。」
作者思いの悠人であった。
「いっ、いえっ!私も興味が有りますので!!」...作者に怨みでもあるのか、やけに反抗的なヘリオン。
だが、だいたい帰ると言ってもここは第二詰所であった。
「――ちっ、仕方ないな。」悠人は『求め』を片手に二人を引き連れて、詰所の庭へと出た。

「―――よし、じゃ、始めるとするか。ハリオン、『大樹』を構えてくれ。」
庭に大きく枝を広げる『陽だまりの樹』の前で悠人はハリオンに言った。

いつの間にか二詰の面々が建物から出て来て取り囲んでいた。
セリアが頬を上気させてヒミカと腕を組んでいるのが気になるが、ここはひとつ、雑念を払わなければなるまい。
「...は、はい。」ハリオンの声にも緊張の色が滲む。
見ると、その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
悠人だけでなく、取り囲むスピリット達も、この異様な雰囲気にゴクリと唾を飲み込んだ。

―――チャキッ。

ハリオンが中段に『大樹』を構えた。こうして見るとさすがにラキオス軍の誇る精鋭の一人である。
その姿は確かに歴戦の戦士のものであった。

「―――行くぞ。」
悠人は抜刀し、ゆっくりと『求め』の刀身を、差し出された『大樹』の穂先に重ね合わせた。
―――契約者よ、用心してかかれ。この妖精の神剣からは、我も今まで感じたことのない類の力を感じるぞ。
「へっ、大きなお世話だ、バカ剣。所詮は第六位の神剣だ。
俺だってそう簡単に精神をどうこうされるほどヤワじゃないぜ。」
強がって見せるものの、悠人もまた、『求め』の言うように『大樹』から放たれる形容しがたい力は充分に感じていた。
もし、このまま『大樹』に呑まれたら...そんな不安が胸中に湧き上がる。

「ユートさま、やっぱり~...」表情を読まれたようだ。ハリオンが槍を引こうとした。
「いや...そのまま構えてろ、ハリオン。」
悠人はきっぱりと言った。

ピィィィ――ン...

冷たい金属音とともに悠人の意識は、ゆっくり神剣の中に吸い込まれていった。
鋭い振動音が徐々に自らの鼓動と重なり合い、それはやがて、どこか懐かしさを感じさせる声へと入れ替わっていった。

―――......長い......待って......
悠人は『求め』とは異なるその女性の声に、耳を澄ませた。

―――『大樹』...『大樹』だな?何だ、何て言ってるんだ?

さらに神剣に心を同調させ、昂ぶる気持ちを抑えつつ、悠人は呼びかけた。次第にはっきりする、その声。

―――私は......『大樹』...
―――ん?

聞き覚えがある、というか、ついさっきまで聞いていたような気がする、その声。

―――ここに、お客さんが来るなんて~、久し振りです~。あ、そう言えば~、とっておきのお茶っ葉がぁ、あった筈なんですけど~。
―――へえ、神剣の内部世界にもお茶が...

「うっ、うわあぁぁぁ――っ!!」
危うく精神を『大樹』に引きずり込まれそうになり、悠人は悲鳴を上げて、弾かれたように後方へと跳び下がった。

「だっ、大丈夫ですか!?ユートさま!?」
危うく倒れこみそうになった悠人をヘリオンが受け止める。
息を荒げているエトランジェの周囲にヒミカやナナルゥ、そして『大樹』を携えたハリオン達が心配そうに駆け寄ってきた。

「ユートさまっ!い、一体何が聴こえたんですか!?」ヒミカが悠人の顔を覗き込んだ。
「はあっ、はあっ...わ...分かったぞ、ヒミカ...。ハリオンは、神剣と同化している訳じゃない...!」
喘ぎながら悠人が答えた。
「え...!?」

一斉に全員の視線がハリオンに集中した。しかし、当の本人は困ったような表情を浮かべるのみであった。
「神剣が...『大樹』が、ハリオンに同化しちまったんだっ!」
信じられない事であったが、ハリオンが神剣に呑み込まれたのではなく、『大樹』がハリオンに呑み込まれてしまったのである。

「...はあ~、そうだったんですか~。」ハリオンのどこか残念そうな答えが返ってきた。
実のところ、ハリオン自身も『大樹』が何を言っているのか気になっていたのだろう。
実際、スピリットにとって神剣の声が聴こえるか否かは死活問題である。『求め』の干渉に辟易している
悠人には理解し難いことであるが。いや、それ以前に神剣があべこべに持ち主に呑み込まれる、
という事のほうが理解し難いのではあるが。

...だが、ハリオンなら有り得る、そんな空気が居合わせたスピリット達の間に漂うのであった。

―――次の日。

「おーい、ハリオン、居るか?入るぞ。」ハリオンの部屋をノックし、悠人が入室した。
「あら~、いらっしゃい、ユートさま~。今お茶を入れます~。」
いつもの笑顔、いつもの甘い香り。戦場の緊張を忘れさせるつかの間の憩いの時を、
こうやってハリオンは、誰にでも与えてくれる。

「お、そうだ。」悠人は『求め』を、ハリオンの『大樹』に重ねるように立て掛けた。

―――契約者よ、何のマネだ。
無愛想に『求め』が抗議の声を上げる。
「お前もたまには癒されて来い。『大樹』も寂しがってたみたいだしさ。」
―――我は別に癒やして貰おうなどとは...こっ、こらっ!!

照れる『求め』を無視して悠人は着席し、ハリオンのもてなしにあずかる事にした。
一瞬輝きを増した『大樹』が、悠人の目には頬を染める少女の姿のように映る。
『大樹』の影響を受ければ、『求め』も少しはおとなしくなるかも知れない、そんな事を考えて悠人は苦笑した。

「さ、どうぞ~。」一服した悠人に向かってハリオンが膝をポンポンと叩く。
「うーん...ま、いいか。」少し考えたが、悠人は素直にハリオンの言葉に従い、席を立った。
「よっ...と。」ベッドにごろりと寝そべり、ハリオンの膝に頭を乗せる。

―――ひょっとして、もう呑み込まれちゃったかな、ハリオンに。

春の暖かい陽だまりのような体温に包まれながら、悠人は、それでもいいや、と思ってしまう。

「...ユートさま~。」
悠人の体に毛布を掛けていたハリオンが、ふと動きを止め、何事かを思い出したかのように呼びかけた。

「んー?」
近付いてくるハリオンの息遣いに悠人は薄目を開けた。
視界に大写しになるハリオンのいつもの笑顔。――人によっては彼女の余りの警戒心のなさに、
かえって不安になるのかも知れない。何の思惑もなく、何の見返りも求める事なく、
誰に対してもこんなふうに笑えるものなのだろうか...と。

「―――さんきゅ、ですぅ。」

ただ、ハリオンのいつもの笑顔は、しかし、悠人には、いつもと違って見えた。
...それは、まどろみ始めた悠人の、錯覚だったのであろうか。