作家としての生き方を決めた日

 ヒミカの日記より

 ファーレーンを思い出す時、一つの場面が脳裏に浮かぶ。
 戦争中、私と彼女とニムントールは敵の陥穽に嵌って孤立し、追われ、敵地の森に逃げ込んだ。
 敵は何とか撒いたものの、戦闘に継ぐ戦闘、逃走に継ぐ逃走に心身共に疲弊し、夜の帳も下り、私は途方に暮れていた。
「早く戻らなきゃ」
 焚き火の灯りも灯せない敵地の闇の真っ只中で、彼女はニムントールに膝枕をしていた。ニムントールは安心しきって眠っていた。
 私は彼女の落ち着き払った佇まいに、ニムントールの幼い無防備な寝顔にすら、あまりの緊張感の無さに苛立ちに近い感情を覚えていた。いや、はっきりと苛ついていた。
 心に全く余裕が無かった。それに気付けもしない程。
「焦っても仕方ないわ。幸い今夜は晴れ。星の位置で大体の進むべき方向は判ったし、気力体力が消耗してたら出来る筈の事も覚束無いわよ」
「何でそんなに冷静なの!? ここは敵地の中なのよ!? 私達の今置かれてる状況が解ってるの!?」
 本来それは、支援に位置した私の責任。不慣れだったという言い訳も、己の無能の証明でしか無い。
 まるっきりぶつける相手も的外れな、愚かな私の暴言に、彼女は自分の人差し指をそっと口の前に立てた。
 ニムントールが起きてしまうから、静かにして、と。
 敵地の中だと自ら言いつつ声を激する己に気付き、それでも不安を留め置くには私の心は弱すぎた。
「ファーレーン、あなたは帰りたくないの?」
 先程よりは声を潜めながらも静寂を濁した私に、彼女はニムントールの頭を慈み撫でながら、優しく優しく言葉を詠んだ。
「私の帰るべき場所は、ここだもの」
 あまりにも優し過ぎる目に、言葉に、動作に、当時の私は慄然とした。はっきりとした寒気すら覚えた。底の見えない優しさが、正直とても怖いと思った。
 人は、理解の範疇を超える物事に、時に畏怖や恐怖を覚える。あの時の私が、正にそれ。

「大丈夫、私はニムやあなたが帰るべき場所に帰れるよう、死力を尽くすわ。安心して。今はまず心も体も休める事よ」
 冷静に状況を見据えて、彼女は言った。
 不安や焦燥を微塵も感じさせない落ち着きは、その場においてある種正しくあったがそれゆえ逆に不可解でもあった。
 危険の香りが常に背後に漂う中で、なぜそんなにも冷静なままいられるのか、と。
 それは彼女持つもう一つの顔の特性であったと思われるが、この事に関しては後述する。
 兎にも角にも当時の私は、焦り、緊張、不安で一杯なところに、彼女の今まで知らなかった理解を超えた面を見せられ、感情がますます不安定になっていた。
「あなたの帰るべき場所は、ニムントールのところだけなの?」
 口をついたその言葉は、彼女が理解の及ばない遠い世界に行ってしまった様に感じた私の、彼女を自分の理解の範疇に引き戻し留め置こうとする不安な意識の表れだった。
 それほど私は怖かったのだ。目の前にいながらにして届かない程遠くに感じる彼女の幻視めいた取り成りが。
「……そうね。最近もう一つ、出来たかも知れない。帰るべき場所が……帰りたいと思う場所が……」
 その後に彼女の語った言葉のみならず、以降その晩私達の交わした言葉をすら、私は何故か覚えていない。
 だが彼女にとって、ニムントールと同列の存在がいた事がそれで解る。思い返せば今でも驚く。
 彼女とニムントールの関係は、そこらに転がっているものでは無い、魂の絆とでも呼ぶべきもの。
 彼女にとって、それ程の関係を有する相手が、ニムントール以外にいたのだ。
 後の会話を覚えていれば良かったのだが、今更悔いても仕方無い。
 あの時の彼女の言葉が誰を指していたものなのか、今もって私には解らない。
 ただ少なくとも、私ではない。先の彼女の言葉からも明らかに。
 そして、当時それほどまでに彼女が見ていたスピリットを、ニムントール以外に私は知らない。
 自分達の関係を私達は手探りで模索している状態だった。彼女とニムントールの関係はその中に在って別格だった。

 後に、朧ながら家族という関係が見えてきて、更に状況が変わるに至り、私達スピリットも道具としてではなく確たる個として相互関係を築くに至ったのだが、それはその後の話である。
 当時の私達をも、彼女は命を賭して守っただろうが、それは私達がニムントールの味方だからだ。
 ニムントールを支えるのみならず、ニムントールを囲む世界をも全力で守る。そこにも彼女の愛情の深さを知る事が出来るが、逆に言えば、当時の私達はニムントールという存在を通してのみ、彼女に認識されていたという事でもある。
 ニムントールにとってのマイナスファクターになると彼女に解されれば、私達が消されていた可能性もあっただろう。(これもまた後に語る事と密接に関係する)
 当時のラキオススピリットの中にあって、前述のように彼女を家族以上と見なし見なされた人物がニムントール以外にいなかった事を傍証とし、あの時の言葉に彼女が示した人物は私の知らない人物と思われる。勿論、私が看過していただけという可能性もあるが。
 これが真実であれば驚きもあるが、理解出来無い話でも無い。
 良くも悪くも裏表のあった彼女の裏の部分を私は知らないのだ。
 戦闘記録を見ていて気付いた。
 彼女が別任務を帯びて数日間場を空けた後、決まって停滞しかけていた戦況が大きく動いていた。
 それも、敵方重要人物が暗殺される、又は失踪するという理由でだ。
 一度二度なら偶然かも知れないが、数度の繰り返しがあれば関連を見出す方が自然であろう。
 彼女は相手方の重要人物を暗殺していたのだ。
 あくまで推測の粋は出ないが、それで彼女の謎だった部分の説明がつく。
 何より今の私は彼女と刃を交え、彼女の本気を僅かながら見せられ、この仮説をほぼ確信している。
 当時はそんな事に気付くのはおろか、思いつきすらしなかった。
 私が鈍いという要因もあろうが、私達が目の前の戦いに必死だった事、彼女が私達に暗殺者としての姿を(当然ではあるが)全く見せなかった事を言い訳としてあげておく。

 彼女は暗殺に適した才を持ちながら、敵と真っ向ぶつかり合う戦場に於いても重要な役割を果たしていたし、その為の修練を欠かさなかった。
 真面目一辺倒であった彼女は、自らを厳しく律していた。それでも戦闘力が伸び悩んだのはある意味当然の帰結といえる。
 相手を認め、己の全てをぶつけるという戦い方は、いや、戦うという行為そのものが彼女の素質と正反対に位置するのなのだから。
 暗殺とは相手をただ消すだけの行為。相手への理解や共感、敬意は不要以上に害でしか無い。
 それを恐らく彼女自身でも理解していながら、それでも常に努力を続け、戦闘能力が伸びない事に悩み苦み喘いでいたのは、彼女を語る上で非常に重要な部分であろう。
 結局彼女は最終的に、年若いヘリオンにすら(ヘリオンが天才的な戦闘センスを持ち合わせていたとはいえ)、正面からぶつかり合ったら及ばない様になっていた。
 ヘリオンを始め、彼女を除いた私達は、訓練に於いて勝利より敗北から、成功より失敗から多くの経験を得て強くなった。
 だが彼女は、勝利するしかない状況の中で自らを研ぎ澄ませてきたのだろう。
 敗北や失敗は即ち死という、過酷な状況の中で。
 そこに於いて正面から戦うというのは最悪の選択肢。己を確認されるなど、ましてや堂々と出て行くなど愚の骨頂。そのような状況になる前に相手を消して然るべき。
 そんな奇麗事の通用しない世界の住人である彼女が、何故に戦うという、自らの否定とも言える行為を続けていたか。
 それはニムントールへの手本、規範となる為。
 他者への敬意を持たねばならない。正々堂々たる生き方をしなければならない。
 ニムントールにそう伝える為に、彼女は姉としてその姿を見せねばならなかった。
 優しく強い姉と、冷酷非常な暗殺者との両面を持つ彼女の苦悩は、いかばかりであっただろうか。
 妹の幸せな未来の為に暗殺者として生きながら、それは理想の姉である事と決定的に相反する。
 彼女の真面目な精神が、真面目に過ぎるがゆえに鋭い刃となって、彼女自身の純粋すぎる心を切り刻んでいただろう。
 それでも彼女は、戦う事をやめなかった。敵からも、自分からも逃げなかった。
 或いは精神を引き裂く苦痛すらも、自らへの罰としていたのか。
 いずれにせよ、彼女は全てを受け止め続けたのだ。

 今だから解る。
 ニムントールがなぜあれほどまでに彼女を信頼していたか。
 彼女がなぜあれほどまでにニムントールを愛していたか。
 ニムントールは彼女の裏を知りながらなお、それゆえに姉を敬愛していた。
 そしてニムントールは、自らの責務を自覚していた。
 彼女の誇れる妹になる。それが責務の一にして全。ニムントールは責務を果たしきった。
 彼女が、そんな妹の笑顔にどれだけのものを受け取ったかは、最早想像も付かない。
 私は彼女程苛烈な道を歩んでは来なかったのだ。想像するにも限界がある。

 戦いの後、彼女は罪の象徴と自らを定めた。
 今なお影となり私達を支え、闇の部分を独りで背負った彼女へ、私は感謝を禁じ得ない。
 私達は彼女に会い、自らの犯した罪、同属殺しの血に濡れた両の手を思い出すだろう。
 しかし彼女は暗闇にありながら、私達のこれから取るべき道筋をはっきり示す。
 闇を照らす月光のように。