ナナルゥの憂鬱

―――コンコン。

「失礼いたします、ユートさま。」

真夜中に悠人の部屋を訪れる者...思い浮かぶ人物はただ一人しかいない。

「――エスペリア、一体何の用だ?」
悠人は押し殺した声で、ノックの主に問いかける。
「...そのまま、楽になさって下さい、ユートさま。」
静かに入室したエスペリアは、ベッドの横で「準備」を始める。

「...呼んだ覚えはないぞ。」
「いいのです。私はこういう事が好きなのですから...」
苦々しげな口調と、諭すような口調の言葉が交差する。飽きるほど繰り返された、二人の間のやりとりであった。
レスティーナの命を受けて、悠人が神剣に呑み込まれない様に、そしてオルファやアセリアたちを守るために、
「献身」の名の下に度々行われてきた秘め事。―――すでにそれは、半ば公然の秘密と化していた。

「だからと言って、エスペリアだけが犠牲になる事はないんだ。」
繰り返される言葉だけのあらがい。
「私の体はすでに汚れています...今さら何をためらうことがありましょう。」
その言葉とともに、悠人に向けられる慈母のような微笑み。

「―――汚れている、か。」
悠人はふと、その言葉を反芻する。おぼろげに脳裏に浮かぶのは、
かつて少しだけ聞かされた事のある、エスペリアと妖精趣味の男との忌まわしい過去の出来事。

「俺だって、他人の事を偉そうに言えた義理じゃない。」
ふう、と小さな溜息をつきながら言葉が漏れた。
「―――え?」
エスペリアの眉がぴくりと動く。
「...どういう事ですか?」
淫靡な儀式の支度をしていたエスペリアの手が止まる。
「まだ...エスペリアには話していなかったけど...抵抗出来なかったんだ...赤い妖精に...。」
ひょっとしたら、今までの悪い流れを断ち切る事が出来るかもしれない、そう思った悠人は、
迷いながらもぽつりぽつりと話し始めた。

―――そう、異世界に我が身が召喚された、あの日の事を。

「―――そうですか、そんな事が...。」
驚きを隠せぬ口調でエスペリアが言う。

「...そう言えばナナルゥに似てたな、あの娘。」
自分を犯し、そしてアセリアに斬られた少女を思い起こしつつ、悠人は呟くように言った。
「―――では、失礼いたします。」
まるで悠人を無視するかのごとく、エスペリアがそう言うのと同時にジッパーが下ろされた。
「ま、待ってくれ!だから、エスペリアがそんな事しなくても―――!」
「私は、私の使命を果たすだけです。」

見上げたエスペリアのその顔にはいつもの優しげな微笑。
悠人には、しかし、その笑顔の裏に危険なマナが潜んでいる事をうかがい知るだけのゆとりは、なかった。
エスペリアが悠人の股間に顔をうずめた――次の瞬間。

――がぶりっ!

「が...あぐごぉっっ!!」
何とも形容しがたい悲鳴を遺し、悠人は悶絶した。

―――翌日。

「あ、あのう...ユートさま...」
訓練場の脇を、がに股で歩く悠人の傍に、音もなく近付いた炎の妖精が声を掛けてきた。

「あ...、ナナルゥ。珍しいな、自分から話し掛けてくるなんて。何か相談事か?」
「はあ、実は...何だか、今朝からずっとエスペリアに睨まれているような気がするもので...。」
滅多に感情を表すことのない寡黙な少女が、眉間に皺を寄せて悩ましげに言う。
「特に恨みを買った覚えは無いのですが...。ユートさまなら何か心当たりはないかと思いまして...」

「ナナルゥ!何をしているのですか!今は訓練中ですよ!!」
顔を寄せ合う二人の背後から、突き刺すような怒声が飛ぶ。ひっ、と小さな悲鳴を上げてナナルゥが体を硬直させた。
「いいですか、我々はユートさまにお仕えするスピリットなのです!
必要以上に馴れ馴れしく話し掛けるなど、もってのほかですッ!!」

「は、はいっ!」
叱咤された赤い妖精が慌てて訓練場に戻ってゆく。

―――許せ、ナナルゥ。編成の時は、エスペリアとは別部隊にしてやるから。

悠人は駆け戻ってゆく紅い長髪の少女の背中に、心の中で謝るのが精一杯だった。