いつもの朝。
 曙光とまではいかないけれどこの世界に来てからというもの、俺は三文の得ってやつを実行
中だ。元の世界との緊張感の差なのか、体が根本から変わってしまったせいなのか。良く分か
らないところだが、三文ずつ増えてれば今頃金持ちだな、などと思いながら(だけど三文って
どんな価値なんだ?)俺は、朝食のために食堂へと降りていった。

 食堂には既に先客がいた。
「よっ、アセリア。おはよう」
 頬杖を突き、開け放たれた窓からぼーっと、外を眺めているアセリア。レースのカーテンが
初夏の朝風に揺れている。
「ん」
 相変わらずの返事。いつものことだが何を考えているのかわからないヤツだ。一応、目線だ
けは俺へとよこした。

 ん、なんだ?
 アセリアはそのまま俺の顔をじっと見ている。猫のような虹彩のブルーの瞳が上目使いに俺
を見つめる。そして椅子から立ち上がると、俺の前へするりと立った。
 無防備に俺の目の前に晒される白いのど筋に、いけないと思いつつも目線が吸い寄せられそ
うになる。 
「ア、アセリア? どうかしたのか?」
 無理矢理視線を引きはがして尋ねた。ちょっと吃った。
 まだ朝食前、いつぞやのようなことはないはずだ。そう思いながらも知らず手が頬をなでた。
 そんな処へ厨房の方から、いつもの緑のメイド服でエスペリアが現れた。
「ユートさま、おはようございます。……何をしているのですか?」
 丁寧にお辞儀をした後疑問の声を上げ、柔らかな笑顔のままで少しきつい目線をこちらへよ
こす。
 こわ……けど当然かもしれない。今の俺とアセリアの体勢は、まるで見つめ合い今にも……。
「ユート、虫に刺されたのか?クビが赤くなっている」

 えっ、虫?
 アセリアは俺の首筋を指さし、ここももう一つ、と呟くと、俺の頬をツンとつついた。
 虫に刺されたって、そんなことは…………っっ!! ま、まさかっ!?
 ハッとしてエスペリアを見た。エスペリアも同時に俺を見た。
 エスペリアの頬がカー、と瞬時に染めあがる。俺もおそらく似たような状況だろう。
「違うのか?虫さされなら良い薬がある。もってくるか?」
 アセリアは、何の疑いもなくいつもの調子で聞いてきた。だけど、俺もエスペリアもそれど
ころじゃないっ!。

「あアアあアぁAアセリア、ああの、そ、そう。むし、虫に刺されたの。ユ、ユートさま、そ
うですね」
「あ、あ、ああそうだ。そうだぞ、虫に刺されたんだ。夕べは暑かったからな、窓開けっ放し
だったんだ」
 俺もエスペリアも、しどろもどろになりながら弁明する。もう、心臓がバクバクいっている
けれど、アセリアに状況が理解できるはずもなく、
「ん、わかった」
 一言のみで、食堂を出て行っってしまった。おそらく薬を取りに行ったのだろうか。

 はぁ~~。あせった。
 エスペリアと同時にため息をつく。はっきり言って……目を合わせにくい。
 微妙にそっぽを向きながら、赤い顔をしたエスペリアが口を開く。
「あ、あのユートさま。朝食の準備中なので……」
「ああ、そうだな……」
 そそくさとエスペリアは厨房へ消えようとする。俺もとりあえずいつもの椅子に落ち着こう
かと思ったのだが、俺達を掻き回す運命の糸は、朝っぱらから全開で絡まっていく。

「あれ~、パパとエスぺリアお姉ちゃん。テミみたいに真っ赤っかだよ~?何かあったの?」
 一難去ってまた一難。青をやり過ごしたと思ったら赤でストップだ。
 小走りに駆け込んできたオルファが、俺達をしげしげと眺め、小首をかしげている。
「い、いやなんでもないぞ。なっ」
 わざとらしくも、エスペリアに同意を求めた。二詰めの奴らならいざ知らず、オルファなら
たぶん誤魔化せるはずっ。
「は、はい。何でも無いのよオルファ。ちょっとユートさまが虫に刺されただけで」
「えーパパ、だめだよ~。また窓あけたまま寝たんでしょ? あの虫はマナが大好きなんだから」


 ふざけた話だが、オルファの言う虫「マナスー」なるものがこの世界には存在する。やはり
草むらなんかを絶好の生息場所とする、いわゆる「蚊」だ。
 この世界の人間が持つ、微量なマナを吸うことで繁殖の糧とするらしいのだが、当然マナそ
のものであるスピリット及びエトランジェは、ご馳走としか云いようがないわけで、行軍中も
かなり悩まされていたりする。

「ああ、わかったよ、オルファ。ほ、ほらエスペリアの手伝いでもしてくれないか腹減ったか
らさ」
 なんとか話を打ち切ろうと、オルファの肩をつかんでエスペリアの方へ軽く押しやった。
 なんだか不審気ではあったが、オルファはうんと頷くと、はらへった~と歌いながらエスペ
リアと供に厨房へ向かっていってくれた。
 ほ。
 助かった。朝から冷や汗かきまくりだ。

「ユート」
 おわっ!
 振り向くと、やはりいつものようにいきなり現れたアセリアが、なにやら茶色い小瓶を手に
して立っていた。
「薬、塗る」
 べとっ。
 いきなり頬に感じる冷たさ。振り向いた俺に二の句を継げる間も与えず、アセリアは薬瓶に
指を入れると、その軟膏を俺の顔に塗りたくった。さすがラキオスの青い牙、獲物に歯向かう隙
を与えず牙を立て――――。
「ア、アセリア、こら」
 俺の声など頓着せず、さらに首筋へとアセリアは指を伸ばす。
「あ~アセリアお姉ちゃん、お薬塗ってるんだ。オルファもやる~」
 せっかく厨房に入りかけたオルファまで戻ってきてしまった。アセリアのひんやりした細い
指と、オルファの子供々々した指に、顔から首筋は云うに及ばず、胸元まで多少はだけさせて
蹂躙されてしまう羽目になった。ほとんど壁塗りの如く、薬瓶は空っぽだ。
「ん、完璧」
「このお薬効くよ~でもパパいっぱい食われたね。それになんだか変な痕~」
 何故か誇らしげなアセリアと楽しそうなオルファの声に、今日は一日、庭の草むしりをしよ
う……と思うのだった。
 俺、一応隊長なんだけどな……。


 ちなみにエスペリアは、一人厨房に逃げ込みこちらを窺うばかりだった。
 こりゃ今晩、きついお仕置きが必要かもしれないな――――。