於是洗左御目時
所成神名天照大御神
次洗右御目時
所成神名月讀命
(古事記)
―――(伊耶那岐(イザナキ)の命が黄泉を見た穢れを祓い清める禊にて)
左の目を御洗いになった時に御誕生になられたのが日神天照(アマテラス)大神、
右の目を御洗いになった時に御誕生になられたのが月神月読(ツクヨミ)の命です。
ラキオス王が死んだ日の、もうひとつの物語。
その日、ニムントールは王宮で警護任務に就いていた。
その日、ファーレーンは訓練所で修練をしていた。
夕暮れのラキオス城下に、突如敵の襲来を知らせる鐘が鳴り響く。
ファーレーンが、急ぎ神剣反応を確認する。
反応に何か妨害の力がかかっているが、感覚を研ぎ澄ませたファーレーンにとって強すぎる障壁にはなり得ない。
未知の神剣反応が複数。霞がかったかの様な障害があるとはいえ、つい先程まで全く反応を感じとれなかった。かなりの手練と認識する。
反射的にニムントールの神剣『曙光』の反応を探す。
ラキオス城内。近くに敵の反応3。味方の反応0。
舌打ちする間もあらばこそ、白い翼が瞬いた。
高速に流れる茜色の景色の中で、味方の神剣反応を調べる。
『求め』、『存在』はエーテル変換施設近辺。
『献身』、『理念』は城内。謁見の間付近。『曙光』の場所とは距離があり、既に交戦中。
ニムントール以外の第二詰め所のメンバーは、詰め所付近で敵に足止めをくっている。
目標は最早一点のみ。
『曙光』の反応が弱まる。だが、消えてはいない。気を失ったらしい。
黒い疾風は速度を微塵も緩めず、窓をプロテクターの額部分で打ち砕き、城の一室に飛び込む。
そのまま神剣を振り上げていた帝国の青スピリットに突進。三連突きは寸分違わず両肺、喉を貫いた。
血は殆ど出ない。悲鳴も出ない。声すら出ない。息すら出来無い。
電光石火の暗殺術。
ファーレーンの二面性。
限り無く優しい姉の顔と、冷酷無比な暗殺者の顔。
ファーレーンの暗殺者の姿、その片鱗を、ニムントールはたった一度だけかいま見た事がある。
昔、ニムントールが今より幼い頃、ファーレーンが狩りをした時の姿。
眠っていたニムントールが目を覚ました時、木々の間にファーレーンが見えた。
ファーレーンがふぅっと軽く息を吐いた瞬間、気配が消えた。目が離せなかった。目立っていたからでは無い。その逆。
網膜にその姿は映っている。しかし、その背後の景色との境目が無い。
注視してすらそうである。一度でも目を離せば、視線を戻したところで姿を捉えるのは至難だろう。
たとえ目の前にいても、景色と姿の区別がつくまい、存在に気付くまい。
それが証拠にファーレーンが近づいても、狙われたエヒグゥは何の警戒も示さず、そのまま首を刈られた。
存在を全く感じさせない。野生の獣にすら。
そこに至っては、鋭い剣技も強靭な肉体も必要無い。
相手の胸に刀を軽く突き刺せば、それだけでいい。相手の首に当てた刀を軽く引けば、それだけでいい。
そんなファーレーンの姿を、ニムントールもその日を最後に見ていない。
そして今回も、見る事は無かった。
空気の漏れ出る首を掴み、急速に死に向かう体を投げつける。
その陰になり、ファーレーンの姿が視界から消えたのはほんの一瞬。
先程まで仲間であったモノを跳ね除けた帝国の緑スピリットは、暗殺者の存在を二度と感じる事が無かった。
あったのはただ不可解のみ。戦場に立つ張り詰めた集中力をもってなお、目の前にいた相手を完全に見失うという信じがたい事実のみ。
ファーレーンは、天井に跳び、天井を蹴り、目標の視界の外である真上から、一直線に『月光』を突き立てた。
脳天を真っ直ぐ刺し貫かれた帝国のスピリットは、自分でも気付かぬままに思考が閉ざされ、そのまま何を考える事も感じる事も出来無くなった。
残るは恐れに震える灰色のスフィアを持った帝国の赤スピリット。
幼さを残した顔は、まだ神剣に飲み込まれてきっていない理性は、心の半分を飲み込んだ神剣の本能は、今や恐怖一色に彩られていた。
見えているのに見えない相手に。はっきり見えてしまっている己の死に。
幼い赤スピリットの不運は二つ。
ラキオススピリット隊のカード13枚。
悠人、アセリア、エスペリア、オルファリル、セリア、ヒミカ、ハリオン、ファーレーン、ナナルゥ、ネリー、シアー、ニムントール、ヘリオン。
このカードの中からジョーカーを引いてしまった事。
ジョーカーを抑えるカードを既に伏せてしまっていた事。
殺気も無く、剣気も無く、逡巡も無く、躊躇も無く。
ファーレーンは若き赤スピリットの命の灯を吹き消した。
からん、と乾いた音を立てて、持ち主を喪った神剣が転がった。
「は……ははははは!! 脅かしよって、帝国のスピリット風情が!!」
静寂を濁した声は、ラキオスの大臣と呼ばれる人物のもの。
帝国のスピリットは、部屋の隅で震えていたこの男を殺そうとしていたのだろうか。
「全く、この役立たずの緑のやつがやられた時には、どうなるかと思ったぞ」
燕雀安んぞの喩えが適切かどうか。
いずれにせよ、本能すら麻痺するぬるま湯に浸かり続けたこの男は、今のファーレーンを目の前にしてなお、これからどのような結果が導かれるか理解出来てはいなかった。
「この緑の奴には、何か罰を与えねばならんな。おい、黒いの!! お前ももっと早く来い!! 大臣であるワシが殺されるところだったんだぞ!! おい!! 聞いてるのか!!」
マナに返ろうとする赤スピリットの神剣をファーレーンは拾い上げ、振り向きもせず背後に投げた。
神剣を眉間に生やし、大臣の声が永遠に止む。
やがて大臣の頭を壁に縫い付けていた神剣も霧と消え、魂の抜け殻が血を流しながら崩れ落ち、部屋に静寂が戻る。
ジョーカーは、場を終わらせた。
ニムントールの目の前には矩形の鏡。
「これは夢だ」と、ニムントールは思う。
特有の不自由さ、目の前の鏡以外を認識出来無い中で、鏡に映る自分の姿に引っかかりを覚える。
何が違う、とはっきりしたものは判らないが、あえて言うなら纏った雰囲気が違う。
老成した、落ち着いた雰囲気を纏った姿が、語りだした。
自分の声で紡がれる、自分のもので無い言葉に、言霊と呼ばれる様に言葉は魂を持つのだと、ニムントールははっきり気付かされた。
鏡の声に込められた魂は自分のものとは異質と解る。
その一方で、不思議にもどこかに魂の共通項を感じる。
同じで違う。違うけど同じ。不思議な声がゆったりと鼓膜を震わす。
―――神剣の位は本来圧倒的な実力差を意味します。
ですが、下位神剣を所有する者が、より上位の神剣を所有する者の実力を時に凌駕する場合があります。
神剣の能力を引き出すには神剣と心を交わらせねばならない。
上位の神剣ほど強き自我を持ちますから、心を交わらす際に心を飲まれる危険は格段に増してゆきます。
事、高位になればなる程その傾向は顕著になります。
下位の神剣ならば剣を支配し全の力を引き出す事も比較的容易ではありましょうが、上位神剣に至ってはそれもままならぬ事でありましょう。
仮に神剣に心を飲ませたところで、発揮出来るは力のほんの一欠片に過ぎません。
下位神剣の本能は、赤子や獣と同じ。力を尽くすとはまるで異なります。
ヒミカ殿やハリオン殿は良き力の持ち主。神剣の力を適度に引き出しながら、それを効率的に用いる術を心得ておられます。
アセリア殿やナナルゥ殿、オルファリル殿も、神剣に飲まれる前に己を確立されました。喜ばしい事です。
ですが、汝の敬愛するファーレーン殿は、ラキオスにあって異質なる存在です。
神剣には全く飲まれてはおりません。そうであるにも関わらず、ファーレーン殿の行動は神剣の本能と大きく重なります。
アセリア殿やウルカ殿の様に好敵手との力比べを好むのでも無く。
エスペリア殿やセリア殿の様に戦いを好まざるのでも無く。
オルファリル殿やネリー殿の様に戦いの意味を理解しきれていないのでも無く。
ただ、殺す。
ファーレーン殿は殺す者。命をぶつけ合うのでは無く、刈り取る者。その道は血塗られた修羅の道と言うも生温い、虚無の道。
そこには寂寥も悲哀も無い、歪んだ愉悦も自己嫌悪すらも無い。淡々と命の灯を刈り取るのみ。ただただ空虚。
殺すは目的で無く、手段で無く。生きる事それ即ち他を殺す事。
それでもなお、汝はファーレーン殿に心寄せるのですか?
穏やかながら真剣な問いに、ニムントールは迷い無く踏み出し、笑った。
「お姉ちゃんが生きる事が他を殺す事? 馬鹿みたい。じゃあ、私は何なのさ。お姉ちゃんの生きる事が、私の生きる事なのに。それっておかしくない?」
鏡の中の姿が目を見開く。それが驚きの表情だと気付くのにニムントールはしばしかかった。
何よりも、この相手が驚くなどと想像もつかなかった。
驚きはやがて穏やかな笑いに変わる。
―――なるほど然り。
ファーレーン殿には今や神に捧げる命も、悪魔に売り渡す魂もありはしません。
全ては、汝の為にこそ、あります。
なれば汝がそれに応えるは、信頼されし汝自身を貫く事。それ即ち汝が生きる事に他なりません。
ほうっと感心したかのような微笑交じりの優しい息を吐き、老成した幼い笑顔を上げてニムントールを見据えた。
途端、姿見が光を発しだす。力強く包み込むような光に世界が白む。
眩い光の洪水の中、最後に分け身の発した言葉が、幽かに耳に届いた。
―――ぬばたまの闇夜を照らす月光の輝き。
暗く長い夜を導くファーレーン殿に、朝の訪れ、暁を伝えるは汝の役目です。
汝と共に歩む、吾が名は……
目を覚ます。
暖かな姉の背におわれている。
「……お姉ちゃん?」
「あ、ニム。起きた?」
「ん」
「助けに行くの、遅くなっちゃって、ごめんね」
「ううん。ありがと、お姉ちゃん」
すりすりと姉の背中に頬を擦り付ける。
戦いを終えてなお、一滴の返り血も浴びていない姉の匂いは、柔らかな花の香り。
触れるほど接近しなければ気付かないこの香りは、ニムントールを安心させてくれる。
「ありがとう、ね。お姉、ちゃん……」
再び寝息を立て始めたニムントールを優しく背負い直し、ファーレーンは歩いていく。
姉妹の影が黄昏に長く伸びていた。