黒くて甘い罠

「お疲れ様でした、トキミさま」
「…………信じられない。『時詠』の力をこんな事に使うなんて」
「まぁそう言うなよトキミ殿。お前さんだってこのイベントは大事なんだろう?」
「それはそうですけど…………って『門』を開いたのに、何故みなさん私を覚えてるんですか?」
「ふむふむ。これが伝説のハイペリアの…………」
「どうですかヨーティアさま。こちらで複製は可能でしょうか」
「イオ、誰にものを言っている。この大天才さまに不可能はないよ、ハッハッハッ」
「聞いてないしっっ!!」

聖ヨト歴333年エハの月赤ひとつの日。
別にこの日に意味があるわけではない。ただ、なんとなくイメージに合っていただけ。
そう、ハイペリアの一大イベント、『せんとばれんたいんでぃ』に。

「…………光陰、一体誰に説明しているんだ」
「気にするな悠人。それより、だ。問題は、この風習が皆に知れ渡ってしまっているという事だ」
「お前が吹き込んだんだろーがっ!しかもいかにも広めそうな、ネリーやオルファからっっ!!」
「まぁまぁ。問題は『どうして』じゃなくて、『どうするか』だろう?冷静になれよ」
胸倉を掴んだ俺に、はっはっ相変わらず馬鹿だなぁ、とか首を振りつつ、
爽やかな笑顔で肩にぽんっと手を置く破戒坊主を、俺は本気で殺したくなった。
「そこでだ、悠人、ここはどちらがより多く貰えるか、勝負といこうじゃないか」
「お前って本当に人の話、聞いてないのな…………」
脱力しながら、この世界にチョコなんてあるはずないだろう、と心の中で突っ込んだ。

朝。食堂にて。
「ふぁぁ~……お早う~……」
「ユートさまっ!はい、ちょこだよ~っ♪」
「……んぁ?」
意気揚々とネリーが差し出したものに、俺は欠伸をしたまま、開いた口が塞がらなかった。
この色艶、香り。なんだかいやにリアルなハート型。一気に目が覚めた。
「お、おいネリー、これ、どうしたんだ?」
「へへ~。だってネリー、ユートさまが好きだから~」
両手を頭の後ろで組みながら、自分のセリフに照れてぴょんぴょん跳ねるネリー。
後ろに控えていたシアーが、とことこと俯きながら歩いてくる。
「ユ、ユートさま、あの、シアーもなの…………」
そしておずおずと差し出してくる、ネリーと同じもの。最早疑いようもなかった。
「あ、ああ、二人とも、ありがとな……」
返事も虚ろに、自分の席に着く。いただきます、とナイフで切り分け、口に運ぶ。
うん、まったりとした、甘みが抑えられ、それでいてしつこくない味。
ハリオン、相変わらずいい腕前だな…………ってぇ!チョコ!チョコだって、これ!
慌てて周りを見渡す。こちらに向けられていた視線が一斉に下を向いた気もするが。
机の上を観察すると、どうやら俺の分だけ真っ黒らしい。何かの嫌がらせだろうか、これは。
何事も無かったかのように、食事を済ませていく面々。そんな中、ハリオンと目が合った。
「……………………」
にこ~と意味ありげな笑顔を見せられて、俺はしぶしぶ「朝食」に取り掛かった。

午前中。自室にて。
俺は、目撃した。天井から伸びる一本の紐が、するすると降りてくるのを。
「…………ナナルゥ、そんなトコで何してるんだ?」
机の上に下ろされたブツを見れば、そんな事は一目瞭然なのだが、聞かずにはいられない。
俺と目が合ったナナルゥは、さほど慌てるそぶりも見せず、ふっと意味不明な鼻息を漏らした。
「目的遂行完了しました。撤退します」
「……ちょっと待て。一応聞くけど、チョコか、これ?」
「…………ぽっ」
すー、と音も立てずに天井裏に消えるナナルゥ。俺は無言で天井の補修にかかった。

昼。食堂にて。
「あ、ユートさま、昼食の用意が出来てますよ」
「…………エスペリア、ユートのだけ、黒い」
「ホントだ~、真っ黒だね。…………エヘヘ☆」
「珍しいこともあるものです。エスペリア殿とオルファ殿が揃って失敗なさるとは」
「こ、これはその、違うんです。……あの、ユートさま、受け取って頂けますか……?」
やり取りを半ばうわの空で聞いていた俺は、間近で囁くエスペリアの言いなりだった。
こくこくっと機械のように頷いて、席に着く。
もきゅもきゅと頬張る俺を、アセリアが不思議そうに見ていた。

どうやら、情報の伝わり方に、偏りがあるらしい。
アセリアやウルカは、どうやら何も知らないようだった。
それとも、光陰にあげたとか…………まさか、な。はは。
貰っても貰わなくても落ち着かない。そんな贅沢な悩みで、俺の笑いは乾いていた。

それはそれとして、何だか変だ。いや、絶対にオカシイ。
なんでファンタズマゴリアにチョコレートが存在するんだ。
今更ながら、俺はこの疑問に辿り着いていた。いや、遅すぎるといえばそうなんだけど。
幸いにもこんな事が出来る人物を、俺は二人も知っている。
一人は、俺の恥ずかしい過去を隅々まで知り尽くしているので、出来れば話を拗らしたくない。
という訳で、俺はもう一人の自称天才科学者の部屋を、ノックした。

「おう、いるぞ~」
ぞんざいな声を確認して、扉を開くと、そこは異世界だった。
……ファンタズマゴリア自体、異世界だっけ。まぁいいや。
「あいかわらず凄い部屋だな。ちょっとは掃除をしたらどうなんだ」
「なにを言うか、こうでもしないと研究がはかどらないんだ、わたしの場合は」
「…………そうか、それはそれとして、聞きたいことがある」
「なんだ、なんでも聞いてくれ……と言いたい所だが、試したい事があるんだ、後にしてくれ」
にべも無くそっぽを向いて何か作業をしているヨーティア。
ちょっと待ってみたが、それ以上こちらを向く様子はなさそうだった。
「…………わかった、後でもう一度来てみるよ。じゃまして悪かったな」
不得要領のまま、俺は部屋を後にした。

「よろしかったのですか、ヨーティアさま」
「なにがだ?実験は、着々と進んでいる。何も問題はあるまい」
「…………それはそうと、そろそろ掃除をしても宜しいでしょうか?」
「ああ、いいぞ。隠す必要ももうないだろう」
ごそごそごそ。そこから出てきたものは、縛られたまま、猿轡の中からくぐもった声を漏らす。
「むーむー……むーーー!!」
「うるさいなぁ、しょうがないじゃないか、材料不足で数が足りなかったんだから」
言いながら、孫の手みたいなもので背中を掻く。丁度そこに転がっていた、扇子型の。


午後、高台にて。
俺は呼び出されてここに来ていた。
やがてぱたぱたと駆けて来る、髪を二本の三つ編みに纏めて下ろしている女の子。
「お待たせ~、ユートくんっ」
ぴょん、と俺の手前きっちり一メートルで止まった彼女に俺は冷静に告げた。
「レスティーナ…………もうみんなにばれてるんだから、別にレムリアにならなくても」
「何をいってるのかな~?誰、れすてぃ~なって。もしかして他の女の娘の事考えていたのかな~」
ぎりぎりぎり。両のこめかみに物凄い圧力が掛かる。冗談ではない。死んでしまう。
「わかった、わかったからごめん!…………は~、「他」も何も、同一人物じゃ…………」
「ん~~~?」
「わかったって!……で、何の用、だ…………?」
「ハイこれっ!チョコだよっ!こういうの、“ギリチョコ”っていうんだよね?」
「……………………」
色々と突っ込みたいところはあるのだが。義理チョコは、普通重箱には入れてこない。
ずっしりと重たいそれを受け取りながら、恐る恐る中身を覗こうとすると、
レスティーナがあっと小さく叫び声を上げた。
「ごっめ~ん!わたし、急いで帰らないと…………じゃ、またね、ユートくん♪」
ぴゅーと消え去る彼女の後姿が見えなくなる。
「……………………」
俺は暫く躊躇した後、その後を追うことにした。

「ごめん、至急女王陛下に話があるんだっ!」
城の衛兵は、今や英雄扱いの俺が血相変えて飛び込んできたことに驚いたようだ。
それでも即座に対応して、直ぐに王座の間まで案内してくれる。俺はずかずかとそこに入っていった。
王座には、その女王陛下様が落ち着いた表情で、居並ぶ重鎮の間から、俺を見ている。
しかし、俺は見逃さなかった。その肩が激しく揺れていたり、下ろした髪がやや乱れていることを。
「どうしたのエトランジェ・ユートく……こほん。どうかしましたか、そんなに慌てて」
必要最低限の質問で、呼吸の乱れを隠しているところなんかは流石だと思う。肝心の文章がめちゃくちゃだが。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。このことなんだけど」
先程貰った重箱をうやうやしく差し出す。重鎮のじい様達が何故かおお~と声を上げた。
ぱかっと蓋を開けて見せる。一分の隙もなく埋め尽くされた黒い塊。
「これは、俺の世界にしかない食べ物の筈なんだ。レスティーナ、一体これを誰に貰った?」
おお~と再び低い歓声が上がる。たまにハンカチを目尻にそっと当てたりして。なんなんだこいつら。
それはそうと、レスティーナはぷい、と関心無さそうに横を向いた。
「わたくしは、そのようなもの、知ら……知りません」
「……そうか、それじゃこれは、捨ててもいいんだな?」
ぞんざいな俺の言い方に、彼女の肩がぴくっと動いた。面白いほど判り易い奴。もう少しだ。
「知らないんじゃしょうがないよな~。悪かった、じゃあな」
「あ、待っ…………お、お待ちなさいっ!」
「ん~~~?」
首だけ動かして、意地の悪い笑いを口元に浮かべ、振り返る。
俯いたレスティーナの肩が、最早隠しようも無いくらいぷるぷると震えだしていた。
「…………わる」
「え?」
「いじわるいじわるいじわるっ!!!いじわるだよ、ユートくん!!!」
がばっと顔を上げたレスティーナの瞳は、うるうると漫画のように大きくなっていた。
そこからぽろぽろと大粒の涙を流しつつ、じたばたと暴れ出す。
「お、おい、ちょ、悪かった、悪かったから」
泣く子となんとかには敵わない。俺は慌てて頭を下げた。と、がしっと肩を両側から掴まれる。
見ると、だーと滝の様に涙を流した衛兵が、何も言わずにふるふると首を振っていた。

午後。裏庭にて。
結局、脳乱したレスティーナからは、何の証言も得られなかった。
何時の間にか探偵みたいな事をしているな、と思いながら裏庭を通りかかる。
“日溜まりの樹”の側まで来た時、人の話し声が聞こえてきた。
「あ、あの、コーインさま、これ…………」
思わず隠れてしまう。伝説の樹の下で告白ですか、クォーリン。やるなぁ。
「う、受け取ってくださいっ!!」
「お、おう、サンキュ、クォーリン。義理でも嬉しいぜ」
「え、あ、あの…………」
「よっしゃ、これで1get!これで後はオルファタンハァハァ……ネリシアタンハァハァ……ヘリオンタンハァハァ……ニムタンハァハァ…………」
「……………………」
眩暈がしてきた。本当に、アホだ、こいつ。それともわざとやってんのか。
そっと離れると、物凄い轟音と共に、“日溜まりの樹”は真っ二つになった。


午後。詰め所の角にて。
「おっと!」
「きゃあっ!ユ、ユート!馬鹿、気をつけなさいよっ!」
「悪かった…………っておい!何か落としたぞっ!ってあれ?」
声も虚しく、すでにニムントールの姿は消えていた。やれやれと思いながら、拾い上げるとそこにはヨト語で。
『ユートに殺る』
「……………………」
俺、何かしたか……。冷や汗を垂らしながら、文面を良く見ると、おかしな所に気が付いた。
ユート「に」殺る。ユートに、やる。ユートに、あげる。……おお。

――――エスペリア、初等教育がなってないぞ……

午後。自室にて。
「あらおかえり悠。頂いてるわよ~♪」
部屋に入ると、ベッドの上に寝っころがりながら、今日子が迎えた。
見ると、足元には朝から貰ったブツの食べかすが散らばっている。
「をい」
「悠ってばモテるのね~。ラキオスに来てからこっち、忙しかった筈なのに、ヤる事やってんじゃん」
「それとコレに何の関係が…………ってうわっ速っ!」
目聡く持っていたニムから貰ったばかりの物まで奪い取られる。
最接近した時の、獲物を狙う獣ように輝く瞳が怖かった。マジだ。こいつ、何か怒ってる。
とりあえず警戒しつつ近づくと、あ~んと大きな口にかぶりついた所だった。
「いっただっきま~す…………うんうん、悠もちゃんとこういうのを受け取るようになったのね~」
「…………そんなに渡された覚えは無いんだが」
「な~に言ってんのよ。アンタにあげたいって娘はたっくさんいたのに、アンタいっつも仏頂面だから」
けけけ、と意地悪そうな含み笑いを続ける今日子。
「だ~れも近づけなかったのよね。で、結局佳織ちゃんとアタシがアンタを慰めていた、と」
「慰めって……義理だろ?……俺は別に、そんなのどうでも良かったんだけど、な」
溜息交じりに呟く。と、急に真面目な顔をした今日子が、ずい、と詰め寄ってきた。
「何言ってるのよ。こういうのは、アンタの気持ちじゃなくて、受け取れるかどうかが問題なの。……はい」
「へ?」
「それじゃ~ね~。ごちそうさまっ♪」
ぱたん、と扉が閉められる。俺は今の話の展開から、唐突に渡されたものについての流れがさっぱり解らなかった。

「…………『求め』の位置、捕捉しました」
「おう、ごくろうさん、イオ。それで、どうだ?」
「現在、訓練場に向けて、移動中。まだ動きはありません」
「そうか、で、『因果』の方は?」
「先程まで気配が微弱でしたが、復活したようです。『空虚』との接触を確認」
「ふむ、これで2-1。中々拮抗してるな」
「ヨーティア様、ユート様は既に…………」
「証拠が無くなっている。誰も胃袋の中までは調べようがないだろう?」
「…………そんなんで、いいのでしょうか?」
「後残っているのは、『赤光』『月光』『失望』『熱病』の4人か……まだ難しいな」
「しかし、『赤光』や『熱病』はあまりこのようなイベントに参加するとは考えられないのでは?」
「甘いなイオ。猫を被って近づき、一気に喰らう。肉食動物の基本だ。奴らにぴったりじゃないか」
くっくっと邪悪な笑みを浮かべる主人を、イオは溜息混じりに見つめる。
「そういえば、コード:skullの動きが不明ですが」
「神剣を持っていないからな…………まあそれは、ひとまず棚に上げて置こう」
「了解しました…………で、いつまで遊ぶんですか、このネタで」
「どうせ今日一日だ。それ位大目に見てくれ」

夕方。訓練場にて。
「あっ、ユートさま!」
「おいヘリオン、余所見すると危ないぞ」
「へ?」
がすっ。俺の警告も虚しく、咄嗟に刃を返したファーレーンの『月光』がヘリオンの頭に直撃する。
「きゃんっ!」
「ご、ごめんなさいヘリオン!だって急に動きを止めるから……」
「う~、い、いいんです、ファーレーンさん。わたしがドジなだけですから……」
瘤の出来た頭を擦りながら、涙目になってふらふらとやってくるヘリオン。
なんだか酔っ払いのようなその動きを、後ろでファーレーンがはらはらしながら見守っている。
「…………?なんだ?俺に用?」
ようやく辿り着いたのはいいのだが、もじもじと手を擦り合わせるだけで、こちらを見ようともしない。
しょうがないのでこちらから話しかけてみると、何かを決心したのか、きっと上目遣いで熱く見つめる。
「お…………」
ヘリオンの急変に思わず仰け反る。すると同じ距離だけ、ヘリオンは瞬速で詰め寄ってきた。
流石ブラックスピリット。俺は変な所で感心した。
「あのっ!…………こ、これ…………」
「あ、ああ、ありが……」
そして、おずおずと差し出されるそれ。俺はそれを受け取ろうとして……周囲の空気が重く固まるのを感じた。
ぎぎぎ、と急に錆び付いた首を捻り、辺りを見回す。まず、ファーレーンと目が合った。
俺の視線に気付いた彼女のロシアンブルーの瞳が一瞬ぱちくり、と瞬きをして、にこっと微笑む。
そしてその肩越しに、セリアとヒミカの姿も見えた。二人とも、微笑んでいる。蒼と赫の瞳を、爛々と輝かせて。
「……ふぇ?どうしたんですか、ユートさま」
一人状況の深刻さを知らないヘリオンの無垢な質問は、答えるには重すぎた。
張り付いたような笑顔を満面に湛えながら、それぞれの神剣をこねくり回すラキオス屈指の剣士達。
最早恫喝というに相応しい、深遠と煉獄と絶対零度(アブソリュートゼロ)の支配する世界。
平均的なただの高○生である俺には、目の前の死に抗う術など持ち合わせているはずも無かった。
殺られる。脂汗がつーと背中を伝った時。俺は、本能に従った。つまり、逃げた。そりゃもう、全力で。

夕方。自室にて。
「ふぅ……なんだか疲れた」
言い様のない疲労感を感じながら、『求め』を立てかける。と、なんとなく変だった。
一見、何も問題はない。でもなんだろう、この違和感は。しげしげと眺めてみると……やられた。
握りと刀身の間に、『鍔』がある。こげ茶色の。妙に精巧な模様入りで。
「いつの間に…………」
良く見るとヨト語で、『アセリア ウルカ』と銘まで彫ってあった。


夜。食堂にて。
怯えながら席につくと、やはりというか黒かった。
今度は誰が、と見回すと、がしゃんと派手に動揺したのは、黒蒼赫の、ラキオス屈指の剣士達。
「……………………」
ふと見ると、ヘリオンの席が空席だった。


夜。自室にて。
結局、ファンタズマゴリアに異世界の文明を持ち込んだのが、誰なのかは判らずじまいだった。
「絶対あの二人だと思うんだが…………」
『呼んだか、ユート?』
「うぉっ!」
いきなり、『求め』を通じて声が聞こえる。ヨーティアか?
『ご挨拶だな、そんなに驚かなくてもいいじゃないか』
「誰だって驚くっ!なんなんだいきなりっ!」
『あ~、お前さんには報告しておかなくては、と思ったんでね。早いトコ、そこを離れた方がいいぞ』
「は?なに言って…………おおおっ!!!」
聞き返す前に、どおん、と激しい振動で、入り口が吹っ飛ぶ。
轟音と共に現れたその影は、ゆらり、とこちらを向いた。
『うっかり忘れていたら逃げられてしまってね。気をつけた方がいいぞ、我を失っているかもしれん』
淡々と説明を続けるヨーティアの声を聞くまでもなく、もう俺は絶対的に追い詰められていた。

「よ、よう時深、こんな夜更けにどうしたんだ?」
何だか判らないが、無駄だと知りつつ話しかけてみる。対話から自我を取り戻すって話を聞いた事があるし。
このままでは危険が危ない。それにしても今日はやたらと綱渡りが多い日だな。
「…………こんなの」
「え?こんなの?」
かかった。このままスムーズな会話で人間らしさを取り戻してもらおう…………ってうお?!
「こんなの、認めませ~んっっ!!!」
「ま、待て待て落ち着け時深、なんで泣いて、いて、俺が何したっt@&#*ぇいや%」


遠くから、フルートの音色が響く。気を失っていた俺は、その調べにふと目を覚ました。
辺りを見回すと、残骸の山。転がっている『求め』にも、鍔がついていなかった。
「はぁ~~」
吹っ飛んだままの窓から、夜空を眺める。
そういえば、毎年甘いものが嫌いな俺に、佳織はいつも、代わりと言っては曲を創って演奏してくれていたっけ。
俺はそっと目を閉じると、小さく、ありがとな、と呟いていた。

「ヨーティアさま、どちらへ?」
「ああ、ちょっとな。あのボンクラ、結局誰からも貰えなかっただろう?憐れだから、施してくるよ」
「ユートさまは……いえ、なんでもありません。ひょっとして、計算されていたのですか」
「まあな。『竜虎相討つ』っていうだろ、これだけの面子だ、当然の帰結だよ」
ばたん、と扉が閉まる。イオは、主人の居なくなった部屋を眺め渡した。
所々に出来た、黒い染み。湯煎に使われた、ビーカーや試験管。それらを片付けながら。
「全く、素直じゃないのですね…………」
くすくすと、久し振りに微笑んでいた。


夜中。ラキオス湖周辺にて。
「ね~、もうネリー、疲れちゃったよ~」
「はぁはぁ…………シ、シアー、もう駄目…………」
「なんでオルファ達、こんなとこ走ってるの~」
「ニ、ニムに聞かないでよ……」
「で、でも逃げないとって、さっきから『失望』が…………」
何故かぼろぼろのヘリオンのセリフに被り、遠くから狼の様な遠吠えが響く。
「ネリーちゃお~ん、シアーちゃお~ん、オルファちゃお~ん、ニムちゃお~ん、ヘリオンちゃお~ん……」
「…………ひっ」
その下煩な響きは、少女の本能にダイレクトに伝わり、戦士である彼女達にすら鳥肌を立たしめらせる。
「な、なんでニム達の名前を叫びながら……」
「コーインさまは、追いかけてくるのかなぁ~~?!!」
「よ、よくわかんないけど…………」
「で、でも、きっと逃げないと、後悔すると思う…………」
「って、さっきから『失望』が…………」
うぉ~ん…………
「「!!!っ!きゃあああぁぁぁぁ……………………」」
さっきより接近している邪悪な気配に、さながら童話の赤ずきんのようなヨウジョ達は、
疲れきった体に鞭打ち、一斉に加速した。決して後ろを振り返らずに。