BLACKBIRD

「ふう...」

もうこれで何十回目だろうか。
あきらめにも似た思いで溜息をつきながら、少女は夜風で冷えきった両の掌を擦り合わせた。

「また今度な、―――か。」
ぼちぼち日も暮れようかという頃合い。
少女はスピリットの館――通称第一詰所の前で、ただただ佇んでいた。

「頑張ったんだけどなあ...」

昼間の出来事を思い返す。この小さな胸の、それこそありったけの勇気を振りしぼって口にした、その一言。
勿論相手にとっては些細な一言だったのかもしれない。その言葉に籠めた気持ちなんて届くはずもない。

「私と散歩に行きませんか――?」
少女はもう一度その言葉を囁いてみる。少年の笑顔を思い浮かべながら。

だが、彼が傷ついて、弱った体をベッドから起こそうとしたその時、ヒミカが彼を呼びに来たのだ。
トキミさまがハイペリアのお菓子を作ってくれている――と。

どうしてあの時、いつ散歩に行くか、はっきりと約束しておかなかったのだろう。
そうすれば彼だって応じてくれたはずなのに......そこまで考えて、ヘリオンは思考を止めた。
あの時自分は仕方なく愛想笑いを浮かべるだけで、それ以上何も言えなかった。
――しつこい奴だとは思われたくなかった。

でも、もしもあの場に甘いもの好きのハリオンがいなければ、彼だって、散歩を優先させてくれたかも知れない。
『オハギ』...だっただろうか。確かに美味しかったけど、あれなら別に作りたてでなくっても...
「ああっ、もう!」
知らぬ間に眉間に皺を寄せてしまう自分に腹を立てる。これではただの嫌な女だ。

「こんなに暗くなっちゃった...。」
ヘリオンはふと空を見上げた。太陽はほとんど姿を隠し、ラキオスの空にはそろそろ星がいくつか見え始めている。
自分はさっきからここで何をしてるんだろう。「また今度な」、なんて、体よく話を流されただけの事なのに。
―――けど。
ひょっとしたら、そんな約束とも言えないような言葉を、あの優しい隊長は憶えてくれているかも知れない。
そして、明かりの灯り始めた詰所から出て来てくれるかも...。
「―――そんなわけ、ないか。」

我ながら、よくそんな都合のいい考えが出来るものだ。ふふ、と苦笑混じりの息を漏らす。

―――と、その時。

詰所の中から声が聞こえてきた。あれは、エスペリアの声だ。そして、もう一人は...間違いない!

「本当に、お一人で大丈夫ですか、ユートさま?」
「大丈夫だって。子供じゃあるまいし。」
「いえ...でも、まだお体の具合が...」
「これ以上寝てたら、それこそ寝たきりになっちまうよ。」

思わず木の陰に身を隠してしまう。自分が何のためにここに来たのかも忘れて。

「―――分かりました。ですが、無理はなさらないで下さい。」
「わかってるよ、心配性だなあ。」
はは、と呆れたような笑い声がする。そして、建物の中から出て来る人影が見えた。

「―――ユートさま」
ついその名を口にしてしまった。もっとも相手に届くほどではないが。

「...ちょっとは体、動かさないとな。」
少年は誰にともなく呟きながら、自分に気付かず目の前を横切って行く。しかし、やはり足取りは重そうだ。
エスペリアが心配している通り、まだ体調が万全ではないのだろう。
追いかけて、付き添ってあげないと...昼間だって、そのつもりで散歩に誘ったんだし...早く!

「...うぅ。」
なのに、体はまるでその場に縛り付けられたように動かない。
焦れば焦るほど、何と声を掛けて出て行けばいいのか、さっぱり思い浮かばなくなってしまう。

「どうして、よぉ...。」
じわあっ、と涙がうかんでしまう。自分が臆病というか、意気地がないという事は自覚していたが、
まさか、これほどとは...

「おっ、と。」その時、少年がよろめいた。小石に足を取られたようだ。
同時に、ヘリオンの足を縛っていた見えない鎖が解けた。
「ユートさま、危ないっ!」
転びそうになった悠人が驚いて振り向くのと、猛ダッシュをかけたヘリオンがその体を支えるのと、
全く同じタイミングだった。

「ヘリオン...?」
唖然とした顔で名前を呼ばれる。
「あああの、あのっ、だっ大丈夫ですかっ?」
悠人の顔を見上げながら、ヘリオンは真っ赤な顔で尋ねた。
「あ...ああ、大丈夫だ...けど。―――なんだ、いるならいるで声くらい掛けてくれりゃよかったのに。」

「あっ...そ、それは...あの...お、お邪魔じゃないかと、思いまして...っ!」
しとろもどろで答えるものの、自分でも、もう何を言っているのかよく分からない。
「邪魔なんて、そんな...。ヘリオンだって昼間、少しくらい体動かした方がいいって
俺に言ってたじゃないか。」悠人の顔に広がる苦笑い。
「あっ、あの、ですから、まだ一人で歩くなんて、無茶です!私っ、ご、ご一緒させていただきますからっ!!」
そう言って、キッと顔を引き締めたヘリオンは悠人の体を抱えなおした。
ちょっと驚いたような悠人のその瞳から、つい目をそらしてしまいながら。

「はは、歩くくらいどうって事ないって。」
「だ、駄目です!もし転んで怪我でもしたらどうするんですかっ!」
ヘリオンは動揺を悟られぬように、声を大にして言った。

「―――わかったよ。じゃ、まあ、横で並んで歩いてくれるかな。」
ふっ、と小さな溜息をついて悠人はあきらめたように言った。
その言葉とともにさっきまで少女に預けられていた体の重みが消えてゆく。
「あ...はい。」
離れて行くその温もりに未練を残しつつ、ヘリオンは悠人の横に立った。
「じゃ、行こうか。」
もう、影も出来ないくらい薄暗くなった木立の間の道を、二人は歩き始めた。

「ひょっとして、俺のこと、待っててくれたのか?」
歩きながら、突然悠人が問いかけた。
「え――?あ、いえ、た、たまたまです。ちょうど通りかかった時に...」
「そっか。」優しい微笑が向けられる。

...どうして素直に「待ってたんです」と言えないのだろうか。
ヘリオンは、まともに悠人の顔を見返す事も出来ずにうつむいてしまった。
下に向けた視線の先で、自然と悠人のおぼつかない足の運びが目に入る。
神剣が砕け散ってしまい、今は本当に並みの人間以下の能力しか残っていないようだ。
つい、また何かにつまづいてくれないだろうか、などとバカな事を考えてしまう。

あ、とヘリオンは胸のうちで呟いた。今なら...そうだ、今ならスピリットである自分の方が、
体力的には遙かに彼を凌いでいるではないか。
それに、今まで叱られたり、からかわれたりした事だって有るのだから、
少しばかり悪ふざけするふりをしてしがみついたって...

「でも、良かったよ、ヘリオンが付いて来てくれて。」

「――へっ?」
思わず間抜けな返事をする。この人は、突然何を言い出すのかと思えば...
「男の俺が言うのもなんだけどさ。やっぱりこんな暗い道、一人で散歩するなんて寂しいから、な。」

考えを読まれたわけでもないだろうに...。
今、そんな事言うなんて反則です、と少女は心の中で言い返した。
顔が赤くなるのが自分でも分かる。

「変なもんだな。―――昔は一人でいる事なんて、全然苦にならなかったんだけどなあ。」
少女の気持ちを知ってか知らずか、悠人は言葉を重ねる。
ヘリオンは少し照れ臭そうに話すその横顔を見つめた。まさか、あの勇猛果敢な隊長の口から
こんな言葉が飛び出すなどとは思ってもみなかったのだ。


どのくらい並んで歩いていただろうか。距離にすれば、ずいぶん長いこと歩いたはずなのに、
ヘリオンはどこをどう歩いたのかさっぱり憶えていなかった。

「...そろそろ帰ろうか。」
「―――はい。」少女が顔を上げる。

「おわっ!」帰りかけたその時、再び悠人がふらついた。
「あっ、だ、大丈夫ですかっ!」咄嗟にヘリオンが悠人の腕を掴む。
「はは...悪い悪い。やっぱりだいぶ体がなまってるみたいだな。」
小柄な少女に支えられ、笑いながら悠人は言った。
「あは...良かったです。転ばなくて。」つられてヘリオンの顔にも笑いが浮かぶ。

「――ずいぶん冷えてるぞ。」悠人は自分の腕に添えられたヘリオンの手を見て、言った。
「これ、着とけよ。」
少女の小さな体に陣羽織が被せられる。
「そっ、そんなの、駄目ですよぅっ!」
「ま、いいからいいから。」ヘリオンは慌てて返そうとするが、あっさり制されてしまった。
これじゃまるで子ども扱いだ、と複雑な気分になりながらもヘリオンはしぶしぶ腕を通した。

―――あ、大きい...。

掛けられた上着は、小柄なヘリオンにはだぶだぶであった。
悠人が羽織っている分には全く違和感が無かったのだが。少しだけ残っているその体温を感じながら、
ヘリオンは、改めてその長身の少年を見上げた。
思えば、この世界に悠人とともにやって来た佳織は、彼のことを「オニイチャン」と呼んでいたが、
もし自分が人間で、兄というものがいればこんな人だったのだろうか―――、と。

「どうした?」悠人がヘリオンの顔を覗き込む。
「なっ、何でも!」ヘリオンは掛けられた上着がずり落ちないように、ぎゅっと両手で押さえ、
頭をぶんぶんと振り回した。ワンテンポ遅れて二つにくくった髪の毛が、風に吹かれる柳の枝のように舞う。

「お―――見えてきた。」
二人の歩く前方に、詰所の明かりが浮かんでいた。もう少しで、こんな暖かい時間も終わってしまう。
上着を握りしめるヘリオンの足が重くなった。
「あ...悪かったな、付き合わせちゃって。ここんとこ訓練がキツいんだろ?」
ヘリオンが疲れたと思ったのだろう。悠人の口調は優しかった。

―――違う。確かに訓練はこの数日苛烈なものになってはいるが、
今、自分の歩みを遅くさせているのはそんな事ではない。

「あ―――ユートさま、これ、どうも有難うございました。」
ヘリオンはゆっくりと上着を脱いで、それを悠人に返した。
「...うん。」
悠人はさっさとそれを受け取って、詰所の中へと向かって行った。
だが、ヘリオンの重い足はその場から動かない。建物の中へ入ってゆくその大きな背中を、
少女はぼうっと眺めていた。―――自分の望んだ通り、一緒に散歩する事が出来たというのに、
この寂寥感はいったい何なのだろうと、そう思っていた。

「あ―――そうだ。」不意に悠人が振り返る。少女の体がびくっ、とこわばった。
「明日の晩もまた、散歩に付き合ってくれるか、ヘリオン?」

「あ...は、はいっ!!」
思いもかけないその言葉に少女は、自分でもびっくりするくらいの大きな声を返していた。


「~~~♪」
―――満天の星空の下、第二詰所へと続く帰り道。ヘリオンの両足は、まるで翼が生えたように軽かった。


                                                  
                                             BGM:「HAPPY DAYS」 by Ai Otsuka