孤独の心臓

 夜。
 既に深夜十二時をまわった頃だろうか。
 俺は頭を冷やすため、詰め所裏に繁る林へと向かって歩いていた。

 ぱきっ。がさがさ。
 下生えの上を踏み歩く。
 向かうのはいつもの場所。ちょうど良く林の木々が疎らになっていて、空を見渡せる場所が
あった。いつの頃からか、眠れぬ夜にはその場所で、ひとりボーとしていることが多くなって
いた。

「…………あれ?」

 俺のいつもの場所には先客がいた。煌々と夜空を照らす満月を背中にして、少女が夜空を見
上げていた。ややふっくらした少女然とした体型。肩口までの青い髪。いつものメイド服では
なく、水色の寝巻の上に確かハリオン製のカーディガン。
 シアーだ。

 まいったな。ひとりになりたかったんだけど……。
 佳織のこと、そして……瞬。
 あの時の、佳織を拉致した帝国のスピリットに対する俺の変貌。瞬に対する憎しみを、殺意
が簡単に塗りつぶしていた。溢れる衝動に俺の自我は簡単に流され、無限の力がわき出て来た。
あのスピリットが俺の力に耐えられなかったら……。
 俺は、俺自身すら信じられなくなっているかもしれなかった。

 考えることが多すぎて、俺の頭ではどうにもならなくなっていたから、ひとりで頭を冷やし
たかったんだけど。
 本音を言えばそうだけれど、俺は石の上に茫と座る、月の色に染まりそうなシアーの存在に
どこかほっとしていたのかもしれない。それに、なんだかひとりでいるシアーというのも不思
議に感じられた。
 だから、そっと近寄って声を掛けた。

「どうしたんだシアー? こんな夜中にさ」
 シアーは、驚きもせず俺に顔を向けて、
「あ~ユートさまだ~こんばんは~」
 と言った。全くこの動じなさは感心しちまうな。暢気すぎるってセリアなんかは口を酸っぱ
くして言ってるけど。
「ああ、こんばんは。で、何してんだこんな処で? ネリーはどうした?」
「えっとねぇ、お星様見てたんだよ~。ネリーちゃんは一度眠るとね起きないからシアーひと
りでだよ~」
 そう言って屈託なく笑う。月光はかなり明るく、シアーの顔の上に淡淡(アワアワ)とした陰影を
作り出す。俺はその右隣に腰を下ろして口を開く。ちなみに俺の特等席だったはずの座るのに
具合の良い石は、俺とシアーが座ると結構ギリギリだ。だからと言うか……仄かな石けんの香
りが漂ってきて俺の鼻をくすぐる。
「星?」
「うん。今日の昼間ね~ネリーちゃんとオルファと絵本読んでたの。そしたらね勇者さまのお
話だったんだよ~」
 最近のシアー達はちょくちょく本を読むようになったらしく、夕食の席で今日読んだ本の内
容がオルファの口に上ることもしばしばだ。
 シアーの言う勇者の話というのは、幾度かエスペリアやヒミカに聞かされた奴だろうか。な
ぜか皆詳細については言葉を濁してしまうのが不思議だったのだけど、もしその話なら、一度
詳しく知っておきたいと思っていた。
「それってあれか、四神剣の勇者ってやつか?」
 俺は興味を持ってシアーに尋ねた。
「ううんちがうよ、あのお星様だよ~」
 そう言ってシアーは空に手を伸ばす。小さな、佳織とそう変わらない大きさの手が、銀光の
中、人差し指で虚空を指した。
 星と言われても……絵本に関係あるのか? そう思いながらシアーの指先をたどって視線を
伸ばしていく。伸ばした先には、ポツンと赤い星。強烈な輝きを発しながら浮かんでいた。
「星ってあれか? 赤い星?」
「うんそうだよ。勇者さまの星。『龍の心臓』って言うんだよ~。むかしね~、すごく強い勇
者さまがいたんだって~、勇者さまはね悪い龍退治に向かったんだよ。そしたらね~」

 龍退治。
 ドンと胸を打たれた気がした。なんだか……何年も前の出来事な気がしてならない。
 サードガラハム……あのときの言葉を俺は、未だにどう受け取ればいいのか分からないでい
る。

 シアーの言葉は続く。
「そしたらね~勇者さまはがんばってね悪い龍を倒すことが出来たんだよ。仲間の人はみんな
死んじゃったけど、勇者さまがトドメにその龍の心臓を思いっきり剣で刺したらいっぱい血が
噴き出してきてね、勇者さま血で真っ赤っかーになっちゃったんだって~」
 俺はシアーの言葉を聞きながら北の空に赤く輝く星を見詰めていた。いつだったか元の世界
でバイト帰りに見た……確か火星だったと思う。それに似ている気がした。
 血の色なのか……心臓の色なのか。いやでも思い出してしまう。
 ラキオスの守護者だった存在に、突き立てた『求め』。あの時の感触を昂揚を、今でも覚え
ている。忘れることなど出来ようはずもない。俺も浴びた龍の鮮血……。

「それでねその後川で体を洗ってもね剣の色が赤くなったままで落ちなくて、街に戻ってもみん
な知らんぷりなんだってぇ~」
「……知らんぷり?」
「うんそうだよ~知らんぷり。せっかく退治してきたのに誰も何も言わないの~。王様も、勇
者さまの恋人だったお姫様もみんなだよ~。それでね勇者さまはそのうちね気付くんだぁ。み
んなね、勇者さまのことを知らないんだって」
「……知らない?」
 どういうことだ? 思わず聞き返した。
「知らないの。勇者さまはみんなから忘れられちゃったの。それでね寂しくて独りぼっちでね、
何年もずっとずっとさまよったけど、耐えきれなくなってお空にのぼってハイペリアに行っ
たんだってぇ~」
「ハイペリアに……か?」
「うん。お空の向こうにあるの~。でもね勇者さまはハイペリアに行っても寂しいままなんだ
よぉ。だれも、いないから。勇者さまを知ってる人。勇者さまはずっとずっと独りぼっちなん
だ~」

「そっか。独りぼっち、か」
 独り……脳裏に浮かぶのは泣き顔の佳織。
「うん、だからね……勇者さまはお星様になったの。でもお星様になっても、周りには他のお
星様はいないの。そしてね、一晩中あそこで動かないままずっとず~っとこの世界を見てるん
だって。寂しいよ~って」
 赤い星。孤独の星。確かにあの星のまわりは目を凝らしても何もない。暗黒のままだ。晴れ
た夜は冗談みたいな星空がまき散らしたように空を覆うというのに。
 そう言えば、極初期の頃にエスペリアに教わった覚えがある。方角を知るための標としてだ
けで、こんな話しは教えてはくれなかったけど。だから北極星と似たようなものとしか考えて
いなかった。皆、単に「北の赤」と呼んでいたから、「龍の心臓」なんて名前は知らなかった。

 風が吹いた。林の木々をガサガサと揺らす。真夜中の木々は、鬱蒼と果てがないように見え
る。紅星は瞬き一瞬だけ流れ雲がその姿を隠した。
「かわいそうだよね勇者さまぁ」
「…………ああ、そうだな」 
 シアーの何処か湿った声に、俺は、かすれ声を返すしかできなかった。
 寂しい。
 独りぼっち。
 結局、俺が佳織に強いてきたことなんじゃないか? 俺のつまらない意地で。そして今も、
それは現実として起こっている。
 俺は何をしてきたんだろう? 龍退治の果てに、ここまで戦ってきた俺は何を得たんだろう。
戦う力以外の何を得たんだろう。

 俺という渦は全てを引きずり込む。何時かは……いや既に佳織をも飲み込んで。
 グルグル。グルグル。
 瞬への怒り。俺への焦燥。佳織への不安。マイナスだけの感情が渦巻き、混じり合う。
 
 グゥ……だめだ、こんなんじゃ。となりにシアーがいるってのに。
 爆発しそうな感情を拳と共にギュッと握りしめた。
 隣を見る。シアーの横顔。空を見上げているその瞳には真珠のように光るものが浮かんでい
た。

「シアーね~ネリーちゃんがいなくなったら寂しくてダメだもん。だからシアーもね、勇者さ
まのお側にいてあげようって思ったの~」
 そう言って何処か儚く笑う。その拍子に涙が落ちた。シアーはただのおとぎ話相手に本気で
心を痛めていた。この子は心底から泣いている。人の痛みや寂しさを一緒に分け合える、そん
な子なんだ。
 俺は言葉が出てこなかった。シアーを見ていることも出来なくて、ただじっと、シアーの手
の甲に残る夜露の様な水滴を見詰めているだけだった。

 一瞬、静寂が降りた。俺とシアー、木々と風にも。
「龍の心臓」は輝き続ける。月光も変わらず。

「……あのね、ユートさま~」
 静寂を破るのを恐れるような小さなつぶやき。
「……ん?」
「ユートさまは大丈夫ぅ?」
「なにが……だ?」
 顔を上げた俺に、シアーの眼差しが染みこんでいく。
「カオリさま、いなくなっちゃったから……ユートさまは寂しくなぁい?」
 ポツリと零れた言葉に、心が、体が熱くなる。俺という渦に生じた、ひとつだけの波紋。シ
アーの労りが優しさが、たとえようもなく嬉しくて。そしてなぜか、シアーの隣にいることが
言いようもなく恥ずかしくて。

 シアーの心遣いが嬉しかった。まだまだ幼い子だとばかり思っていたのに、ネリーの陰に隠
れがちなこの子もしっかりと成長しているんだ。きっと俺なんか簡単に置き去りにされる位に。
 俺の世界の人たちも、きっと俺と佳織を気に掛けていてくれたのだろうと思う。でも、俺は
何も見てなかった。佳織の為。ただそれだけに凝り固まっていたんだ。

 不安そうな瞳が少しだけ佳織とだぶって見えた。この子は佳織と同じなんだ。優しくて、きっ
と強い。自分より他人を優先して、ちょっと困った顔で微笑んでくれる。

「シアーは優しい子だな」
 月並みな表現しかできないけど、俺の喉からやっと出た言葉だった。
「え~そんなことないよぉ~」
 小さな指で涙を拭い、はにかんだ笑顔が俺の心を暖かく解きほぐしていってくれるのを感じ
た。シアーは、喉奥で甘えた声を出して俺の腕を取り肩に頭をもたせかける。いつの間にか開
いていた手でシアーの頭を撫でた。月光に生まれた淡い天使の輪が髪の上で踊る。
「俺、大丈夫だ。寂しくなんか無いよ。シアーがこうして傍にいてくれるし、ネリーもオルファ
もアセリアも、他のみんなもいるんだから。きっとさ、その勇者さまも寂しくないと思うぞ。
シアーみたいな良い子がこうして見ていてくれるんだから」
「んふふぅ♪……よかったぁユートさま~。ユートさまも勇者さまも寂しくないんだ~」 
 シアーの満面の笑みを見て思う。本当に思いやりのある良い子なんだ。
 佳織にも、いつかきっとこんな風に笑って欲しい。

「シアーねぇ~カオリさまの作るお菓子大好きなんだ~ネリーちゃんもオルファもだよ~。だ
からねカオリさまを助けるためにシアーもがんばるよ~」
「ありがとなシアー」
 俺は少しだけ苦笑しながら、心の底から礼を言った。
 だけど俺は思う。
 シアーががんばるってことは、戦うってことだ。そんなことに駆り立てる権利なんて俺にあ
るわけが無い。
 けど、それでも俺は……佳織を助ける。そしてそのためには、皆の助けが必要なんだ。

 サードガラハムが言っていた、“負けぬように小さな妖精達を守れ”。
 俺に出来ることはそれだけだ。俺は負けない。誰も死なさない。その為には俺は躊躇なく剣
を振る。その絵本の勇者のように、行き着く果てが永遠の孤独だとしても。代償なんか喜んで
払ってやる。罪と罰が有るのなら、俺がすべてを背負う。

 月が翳る。刹那、星が流れた。
 あ、と声を出した俺は、シアーにハイペリアのおまじないを教えてあげようと思って声を掛
けたけれど。
「シアー?」
 黙りこくってしまったシアーに不審を抱いた俺は俯いた顔をのぞき込む。

 スゥ……スゥ……。

 規則正しい微かな寝息が俺の耳へ届く。
 いつの間に……苦笑して、俺はシアーを支えながら俺の膝の上に導いた。心地よい肩の重み
が惜しかったけれど。そして、着ていた陣羽織を脱ぎシアーの上に掛けた。
 はは。普通逆だよな。
 そういえば昔もこんな事があった気がする。まだ佳織が小さかった頃、俺の膝に頭を載せて
寝てしまったことがあった。あの頃の佳織もこれ位短い髪だったっけ。そう思うと無性にあの
頃が懐かしかった。
 髪に指を入れて梳いた。手入れの行き届いた髪は滑らかに俺の指が通り抜ける。佳織とは違
う、真っ直ぐな髪質。
「ンゥン………ユう…シャさ…ま」
 くす、と思わず笑う。目元に残る涙の痕をそっと撫でて、俺も目を閉じた。シアーは夢の中
で勇者さまに逢えたのだろうか。
 瞼の裏に浮かぶハイペリア。俺の故郷。
 小鳥。光陰。今日子。クラスのみんな。うるさい奴ばっかりだけど、これだけいれば寂しくな
んか無いよな。俺もシアーと一緒に行けるかな……ハイペリアへ。


 そして俺の意識も、幾千の星の彼方へ跳んでいった。

………

……

翌朝 第二詰め所

「うわっうわっうわぁシ、シアーッ。お日様もうあんなとこだよっ。早く行かないとご飯食べ
られないよー」
 ベッドの上で飛び起きたネリーは、いつもなら自分を起こしてくれるはずの妹の姿がベッド
の上にないことに気が付いた。
「あれぇシアー?」
 ベッドの下。
「シアー?」
 クローゼットの中。
「シアー?」
 やはり鞄の中も調べなければならない。

「シアーッどこ行ったのシアーッ。シアーがいないよぉっ!」
 食堂へレッツゴー。

同刻 第一詰め所

「ユートさま。いい加減起きてくださいませ。お食事が冷めてしまいます」
 三度目のノック。さすがのエスペリアも堪忍袋の緒が……というかユートの部屋に入って、
寝顔をばっちり見ることが出来る大義名分を手に入れたことに笑みが隠しきれなさそうだった
り。
「ユートさま。入りますよ、よろしいですね」
 ノブに手を掛ける。もしかして若い男性特有の朝の現象があったりしたらどうしようかは既
にシミュレーション済みだったり。
 ガチャリ。
「おはようございます。ユートさま。今日も予定が立て込んでいるのですからお起きに……」
 丁寧なお辞儀の後、口が止まり目がベッドの上で止まる。
「ユートさま? いない? ど、何処にいらっしゃったのでしょう」
 ちょっと慌てて一階食堂へ戻るエスペリア。


――――そして、ユートさま&シアー捜索隊が結成寸前戻ってきたふたり。


 deep sky

その後、ヨーティアの助手として力を磨き、後の人々から不世出の天文学者と呼ばれるまで
に到った彼女は、晩年、以前の戦友であり未だかくしゃくと文筆業を営む女性の取材を受けて
こう答えたと言います。

私が、一番嬉しかったこと? ふふ、そうだなぁ……この仕事について色々あったけれど、最初
の発見が一番かしらね。
もう、今言いますよ相変わらずせっかちなんだから。
それはね『龍の心臓』に伴星があったってこと。小さな青い星が寄り添うように……ね。
勇者さまは……孤独じゃなかったんだよ。