キモウトよ

―――ここは、戦場。


ようやく傷の癒えたエトランジェの前に立ちはだかり、装飾品かと思えるくらい
巨大な神槍を構えるのは、いつも慈愛に満ちた瞳で見守ってくれていた少女。
その身から発せられるのは―――情け容赦のない殺気。

最初は何かの冗談かと思った。
呼び出されたその少女が携えた身の丈以上の槍を目の当たりにしても、
これから何かの余興でも始まるのかと、そう思った。
しかし、吹き付けるマナの風が、近付きつつある死を告げている。
これは、余興でも何でもない。―――いや、或いは、日々の暮らしに退屈した王族にとっての、
ただの余興に過ぎないのかも知れない。

捕らわれた妹。
差し出された剣。
――そして、王の命令の下、瞬時に殺戮機械と化した少女。

「ハハッ」
出て来るのは乾いた笑い声。
―――俺達は、見世物のように戦わされるのか。
周囲を取り囲む兵士達は、まるで判で押したように一様に、冷酷な笑いを浮かべていた。

身がすくむ。
足が震える。
情けないことに―――戦うのが、怖い。

エトランジェ・高嶺悠人がまるで中世ヨーロッパのような異世界に召喚されてから、
既に三日が経過していた。

ラキオスという聞いたこともない国の王城、その謁見の間で、この国に召喚された彼は、
せまり来る死の恐怖に、身動きが取れなかった。
それでも、一つだけ分かったこと。

―――ここは、戦場。

ぴゅうっと、風が目の前をよぎった。
前髪が数本、ぱらりと落ちる。舞い散る毛髪に、その風が少女の神槍によって引き起こされた
刃風であったと、ようやく気付く。少女の、いつもは慈愛に満ちているその翡翠の瞳には、
何も映っていなかった。――全てを吸い込むような闇を除いては。
だが、その少女は、誰に対しても決して簡単に心を開こうとしなかった悠人が、
この世界に来てから、ほんの少しだけ気を許した相手でもあった。

―――俺も、あんな風になっちまうのか。
悠人は目の前に置かれた剣に目を落とす。
ひとたび禍々しい、棍棒のような、無骨なその剣を手に取ってしまえば、全てが崩れ去りそうな気がする。

少女は自分に生きるチャンスをくれたのだろう。それはすぐに分かった。
丸腰の自分に対して、エスペリアは神速の薙ぎを見せた後、瞬時に間合いを明けたのだ。

―――剣を取って戦え。
彼女の何も映さぬ瞳が、これ以上ないくらい雄弁に、悠人にそう語りかけている。

どうする?と、悠人は胸の内で自分に問うた。エスペリアの構えを見ているだけでも、
彼我の実力の差は明白であった。当たり前だ。もしここで剣を拾い上げたとしても、
戦場が日常であった彼女と、戦争が遠い国の出来事でしかなかった高校生の自分とでは、
はなから勝負にならないのは目に見えている。

―――それに。

何より自分が目前の少女のような兵器と化すのが何よりも恐怖だった。
己の心を殺し、自分が自分ではなくなる事。
少女の後ろで冷徹な笑いを浮かべている下品な連中の『道具』になり下がってしまう事。

―――そうだ、例え。
「死んでも、これだけは譲れないよな。」悠人の口から言葉が漏れた。

瞬間、恐怖が消し飛んだ。こわばっていた悠人の頬が緩む。
だが、対峙するエスペリアは、悠人のその笑顔に初めて恐怖というものを感じた。
そこには、彼女が心のどこかで求め続けてきたものがあった。
そしてそれは、今の自分には決して届かないものでもあった。
あるいは、一生縁がないのかもしれない。―――プライドというものには。

「―――ッ!」
一向に剣を取り上げる気配の無い悠人に焦れたかのように短く息を漏らし、
エスペリアは後方を振り返った。
―――どう、致しましょうか?
並び立つレスティーナと国王に視線を投げかけ、無言で指示を仰ぐ。

「フン、ここでむざむざ命を落とすつもりか、愚かなエトランジェめ。」
振り返ったエスペリアには目もくれず、悠人を睨んだまま国王ルーグゥ・ダイ・ラキオスは
吐き捨てるように呟いた。その隣で、レスティーナは目を伏せる。
異世界から来たその男は、彼女にとってもまた、余りにも遠い存在であった。

「かまわん、やれっ!」国王が吼える。
その怒声に小さく頷いたエスペリアが再び『献身』を握りしめ、悠人に向き直る。
「―――待ちなさいっ!」
鋭い一声が、国王の娘の口から放たれた。
ぎょっとしたように視線を向ける父親を、レスティーナは睨み返す。
「お父様。この男を殺したからといって、もう一人のエトランジェのもとに別の神剣が
現れる保証は有りません。――もう少し時間をかけて見ては如何でしょうか。」

「―――む。」この国において、国王である自分に逆らえる存在などあるはずもなかった。
しかし、正論とも言える。仮に新たに神剣が出現したとしても、
もう一人のエトランジェ―――高嶺佳織がこの男より戦力になるとは考えにくい。

「あの娘を連れて来いっ!」
国王はレスティーナから目をそらし、側近に苛立ちを隠せぬ口調で命じた。
悠人とエスペリアの戦いを好奇の目で見ていた臣下が、敬礼もそこそこに部屋を飛び出して行く。

悠人にはヨト語でなされたやりとりは理解できない。
だが、彼らがしようとしている事の想像はついた。悠人の顔から笑みが消える。
―――やっぱり、剣を取って戦うしかないのか。
あきらめにも似た思いが胸中をよぎった。

『ねえ、お兄ちゃん、人間の手はどうして二本あるのか、知ってる?』

ふと佳織の言葉を思い出す。悠人とは血の繋がらぬその妹は、徹底した平和主義者でもあった。
佳織は悠人や光陰、今日子の些細なケンカすら嫌がっていたのだ。

『いやぁ、佳織ちゃんは実にいい娘だな。悠人の妹にしておくのは勿体ない。
おい、今日子、爪の垢でも煎じて飲ませて貰え』

光陰はよく佳織に色目を使っていたが、正直悠人にはその気持ちが理解出来なかった。
佳織は、――兄の立場からひいき目に見ても決して光陰の好む「美少女」の部類に入る事は
ないだろうと思われた。世界中の女の子を乱暴にルックスだけで二分すれば、
多分不細工なグループに入るのだろう。また、兄の自分が世を拗ねているだけなのかも知れないが、
その言動がファンタジー染みていると言おうか、理想論に過ぎるきらいがあった。
ひょっとしたら、光陰も本気でちょっかいを出そうとしていたのではなく、佳織に女としての
自信をつけさせるために、あえてあんな事ばかり言っていたのかも知れない。――あるいは、
今日子が彼のそんな言動に反応するのを、心のどこかで安心に置き換えていたのかも知れなかった。

――そういや、もう一人いたな。
この切迫した状況においてなお、悠人は苦笑した。―――秋月瞬。
今日子を怒らせて面白がっていた光陰とは違い、瞬は佳織に本気で執着しているようであった。
しかもそれは、異常とも言えるほどのものであった。
ただ、最近の瞬の行動は佳織に対する愛着よりも、むしろ悠人に対する反感のほうが目立っていたのだが。

...しばらくの時が流れた。
荒々しくドアが開けられ、鎖に繋がれた妹の姿を再び視界に捉えたとき、
悠人の表情から笑みが消え去った。
「佳織っ!」
「お兄ちゃんっ!」
同時に呼び合う兄妹。悠人にとっては、それでも佳織はやはり、
可愛い妹である事に違いはなかった。……主導権が再び国王の下へと戻る。

「己の立場を思い出すが良い。――少々痛めつけてやれ。」
冷酷な嘲笑とともに国王が兵士に言い渡す。
その言葉が終わらぬうちに兵士の拳が佳織の下腹部にめりこみ、どすっ、と鈍い音をたてた。
「あ...うぐっ...」
衝撃で眼鏡が落ち、佳織の顔が苦痛に歪んだ。

「貴様あ――ッ!」
「動かないでッ!」
奔り出そうとした悠人の目の前に『献身』の穂先が突き付けられ、悠人は再びその場に
釘付けにされた。血走った目で睨みつける悠人に向かって、エスペリアは無言で『求め』に視線を送る。
「―――ちっ。」舌打ちとともに悠人は他に選択肢がない事を悟った。
ふっと小さく息をつき、悠人は置かれた剣を拾い上げる。
「やってやるさ。...何もしないよりはマシだ。」

ピイィィ―――ン!

エスペリアに向かって剣を構えた瞬間、『求め』が鋭い光を発し、握りしめた手を伝って悠人の体内に快感とも、
違和感とも判別し難い力が流れ込んで来た。それは、どんな事でも出来そうな万能感のようでもあり、
自分が自分でいなくなるような喪失感のようでもあった。

「お......うっ」
流れ込む力と同時に、悠人は第三の目が開いたような感覚にとらわれた。
目の前で槍を構える少女が織りなしているマナの風が感じられ、自分をはるかに凌ぐ力を持つ事まで判ってしまう。
「これが...剣の力って奴かッ!」
何となく悠人には、この国の王族達が、一介の学生に過ぎなかった自分に
ここまでこだわる理由が分かった気がした。
剣を構えた悠人に向かって、エスペリアが静かに『献身』の柄を握り直す。――しかし、その時、
向かい合う二人の間の空気が切り裂かれた。

「だ...だめぇ―――ッ!!」
それまでうずくまっていた佳織が突然起き上がり、悠人に向かって駆け出したのだ。

パキイィン!

悠人は自分の目を疑った。まるでプラスチックの指輪でもへし折るような音とともに、
佳織を繋いでいた鋼の鎖がたやすく断ち切れたのだ。

「佳織...?」
周囲の家臣達の間から、おう、とどよめきの声が上がる。しかし、その意外な光景を
目の当たりにしてもなお、国王は顔色一つ変えようとしなかった。
「ほう...さすがはエトランジェ、神剣の助けも借りず、これだけの力を出して見せおるか。」

駆け寄った佳織が悠人にしがみつく。
「絶対に...駄目っ!今ここで戦ったりしたら、もうお兄ちゃんに戻れなくなっちゃうよっ!!」
悠人はその言葉にカッと目を見開いた。佳織がなおも叫んだ。

「お兄ちゃんは人殺しなんて出来る人じゃないっ!!――こんな...こんな人達の道具になっちゃ駄目っ!!」

「佳織......」
悠人は体の力を抜き、ふうっとゆっくり息を吐き出して剣を下ろした。
悠人はこの時、異世界に飛ばされた自分が独りではなかった事を、ようやく実感した。
―――自分と同じ感覚を共有する妹が、ここにいる。
悠人はあらん限りの力でしがみついている佳織の針金頭にゆっくりと手を回した。
「大丈夫...大丈夫だ、佳織。俺は――ずっとお前のお兄ちゃんだ。今も...これからも、ずっと。」
涙をいっぱいに溜めて見上げる妹に、悠人は微笑んだ。そして、己を恥じた。
佳織は決してただの夢想家などではなかったのだ。
「そうだよな。俺達の手は、剣を握るための手じゃない。」

その言葉とともに『求め』が悠人の手を離れ、ガシャッ、と床に落ちた。

―――どうする?

悠人は佳織の頭を抱え込んだまま、エスペリアに向かって――否、正確にはその後ろに控える国王父娘に向かって、
視線で問いかけた。―――このまま兄弟揃って仲良く串刺しにするのか、それとも―――。
「―――ひっ捕らえい。」国王が低い声で呟くように家臣たちに命じた。
佳織が軽々と鋼鉄の鎖を断ち切ったのを、つい先刻目の当たりにした家来達が顔を見合わせる。
「何をしておる。さっさとせんか!」
国王の再度の叱責に家臣達が走り始めた。しかし、異世界から来た兄妹達は抵抗する事もなく、
なされるがままであった。国王が満足気な笑みを浮かべ、舐めるような視線を佳織の身体に送った。
「―――なかなか良い面構えだ。だが、小娘とはいっても女の身だ。」言葉を切った王が次いで悠人に視線を向ける。
「目の前で妹が嬲られるのをいつまで黙って見ておれるか、な。」
ククク、と下卑た笑い声が漏れる。歯噛みしてその皺だらけの顔を睨みつける悠人に、佳織が声を掛けた。
「お兄ちゃん、私の事は心配しないで。例え私の体がどうなってもいいから、
お兄ちゃんは最後まで自分の信じたものを守って...お願い。」
「佳織―――!」
振り向いた悠人が見たものは、見慣れた筈の妹の笑顔であった。だが、悠人はその笑顔に絶句した。

―――佳織の笑った顔って、こんなだったのか...。
この時悠人は自分が躍起になって守ろうとしていたものが何であったか、真に理解した気がした。
そして、悠人の胸中を瞬の言葉がよぎった。
悠人は佳織の本当の笑顔を知らないと言った、その言葉を。

―――佳織を縛っていた鎖は、俺自身だったのかもな。
悠人は思った。この世でたった一人、血が繋がってはいなくとも、たった一人自分に残された『家族』。
それが佳織だった。その妹のためにと、悠人は全てを捧げて生きてきたつもりであった。
だが、その行動は逆に、佳織の重荷になっていたのだ。
そしてその鎖は、皮肉にも悠人が「自分のための」行動を選択した瞬間に、やすやすと断ち切られたのである。
「そうだな。例えこの世界で命を落としたとしても...」
「―――うん。最期の一瞬まで、せめて人間として、ね。」
悠人が誰にともなく呟いた言葉を、義妹がつなぐ。そして兄妹は、示し合わせたかの如く、
兵士達に脇を抱え込まれながらも、微笑み、胸を張った。

「男は、地下牢にでも放り込んでおけ。娘は...そうだな...」
二人のエトランジェの誇らしげな姿に一瞬たじろいだ国王が、何とか威厳を取り戻そうと
重々しい口調で宣告しようとした、その時。

「その娘の身柄は私が預かります。――私の部屋にお連れなさい。」
王女の凛とした声に、それまでニヤついていた家臣達は、慌てて姿勢を正した事であった。