Aiuóla

 月の輝く夜。悠人は荒い息を吐き、呻き声を堪えながら、詰め所から体を引きずる様にして外に出ました。
 耐え難い頭痛、『求め』の干渉に声を抑えきれず、このままでは皆に異常を気付かれてしまうと思ったからです。
 今の状態でエスペリア達に会ってしまったら、自分を抑えきる自信が無かったからです。
 悠人は、親友達との敵としての再会、その残酷な運命に精神が弱りきっているのを自覚していました。
 一方で『求め』は、『因果』と『空虚』との戦いを控えて神経を昂らせ、戦いの為のマナを強く欲しています。
 その相乗にあって、『求め』の強烈な干渉は当然です。
 よろけふらつきながら詰め所から離れた林の中に入り、そこでようやく悠人は耐えていた声を発しました。
「ーーーーーーーーーーっっっ!!!」
 吐き出される息の余りの勢いに、声帯は叫びを発する事も出来ず、声はまともな音にすらならず、擦れた音とひりつく喉の痛みを生むだけでした。
 地面を掻き毟り、血が出る程に地面に頭を打ち付け、それでもなお頭の内部から打ち壊される様に響く激痛は治まりません。
 いっそ頭蓋を割ってしまった方が楽なのでは無いかとすら、悠人には思えました。
「いい夜ですね~」
 背後から突然かけられた声に、悠人は驚き狼狽えました。
 そこにいたのはハリオンでした。
 いつもと変わらない、にこにことした表情で、真っ直ぐ悠人のところに歩いて来ます。
「く……来るな、ハリオン!!」悠人は声を荒げました。「こっちに来ないでくれ!!」
 音無き叫びによって痛めつけられた喉から出る声は酷く擦れていましたが、それでも悠人は必死にハリオンを追い返そうとしました。
 今の状況下、どこまでも無防備なハリオンを前にして、悠人は自分を抑えきれる気が全くしないからです。
 溢れんばかりの女性らしさを持つハリオンは、その存在だけで男である悠人の本能を強烈に揺さぶります。
 『求め』の欲に悠人自身の欲が加わり、悠人の理性の糸を焼き切ろうとします。

「マナをよこせ!! あの妖精を犯せ!! 契約者もあのスピリットを求めているのだろう? 何を迷う事がある。さあ、犯してしまえ!!」
 『求め』の声が悠人の頭蓋にがんがんと木霊します。
 服を柔らかくも否応無しに押し上げるハリオンの豊かすぎる双丘にふと目がいきかけ、ハリオンを汚そうとしているそんな自分自身の無意識に慄然とした悠人は、頭を抱えうずくまりました。
「来るなハリオン!! 俺なら大丈夫だからこっちへ来るな!! 頼む!!」
 けれどもその悠人の必死の哀願が届いているのかいないのか、ハリオンはにこやかなまま悠人に歩み寄ります。
 そして背を向けて、自分自身を押さえ込む様にうずくまった悠人を、ハリオンはふわりと大事なものを包み込むように抱きしめました。
「護りたいと思うものを遠ざけてまで、一人苦しむ事は無いんですよ、ユート様~。ユート様が思ってるのと同じくらい、私もユート様の事を護りたいと思っているんですから~。
 何と言っても、私はユート様のお姉さんなんですから~」
 悠人が振り解こうとしたならば出来たでしょう。
 けれどもハリオンの優しい抱擁は、振り解こうとするのを躊躇させる様な、そんな不思議な力を持っていました。
 恐慌をきたしていた悠人の心は、それだけで落ち着き、安らぎました。
 ハリオンの温もりは、瞬間にして百万の言葉よりも遥かにはっきりと、悠人は決して一人では無いのだという事を伝えたのです。
 何かを護ろうとして苦しみながら護るべきものが解らなくなりかけていた悠人に、大切な存在は確かにそこにあるという事を伝えたのです。
 その自分は一人では無いという実感が、この優しい温もりを決して傷つけたくはないという強い想いが上位の感情となり、自らの欲も、『求め』の欲をも退けました。
「……ありがとう、ハリオン」悠人はうずくまっていた姿勢を直して言いました。「ハリオンのお蔭だ。本当にありがとう」
 それを見てハリオンは、やはりいつも通りの穏やかな笑みを浮かべました。
 そしてハリオンはそのまま正座し、ぽんぽん、と自分の太ももを軽く叩きました。

「はい、どうぞ~。ユート様~」
「え?」
 ぽんぽん。
「えっと、ハリオン?」
 にこにこ。
「あの……間違ってたらゴメン。……もしかして、俺にひざまくらしてくれるの?」
 こくり。
「いやでも、それはちょっと」
 にこにこ。
「……」
 にこにこ。
「だから……」
 にこにこ。
「あーもう!!」
 恥ずかしい気もしましたが、悠人は観念して、草の絨毯の上に座ったハリオンの膝に頭を乗せました。
「いい子ですね~。ユート様は」
 ハリオンは、悠人の髪を梳くように優しく撫でます。
 照れくさいと思っていた悠人でしたが、それは悠人をどこか懐かしく、安心した気持ちにさせました。
 幼い頃に二度も無くした母親の面影が、ハリオンに重なったのかも知れません。
 悠人は、子供の様に素直に自分の内面を語りだしました。

「俺は……俺はファンタズマゴリアに来る前も、こっちの世界に来てからも、ずっと強くあろうと思ってやってきた。体も、心も、どんなに辛い事にも耐え切れるようになろうと。色んな理不尽から佳織を、みんなを護る為に、強くなろうと。
 でも、まだ迷ってる。ずっと迷ってる。迷ってばっかりだ。答えが見つからない。何が正しくて何が間違っているのかすら解らない。今回だって、割り切らなきゃいけないんだろう、なのに……」
 内面の吐露。
 それはその言葉通りに強くあろうとしてきた悠人が、今まで他人に見せまいとしてきた弱みでした。
「あらあら~」苦虫を噛み潰したような顔で言葉を紡ぐ悠人に、ハリオンはやっぱり穏やかに微笑んだままで応えます。「割り切る必要なんてありませんよ~。
 たった今、ユート様が御自分でおっしゃったじゃないですか~。『みんなを護る為に強くなろう』って。
 お友達を傷つけるなんてメッですよ。それでは答えになってませんよ~。それは強さじゃありません~。
 『みんな』の中には、当然お友達も入っているんでしょう~?」
「けど……じゃあ……俺はどうしたらいいんだ!? 分からない。本当にもう分からないんだ……」
「ユート様は、自分である事を捨ててまで強くならなくたっていいんですよ~。弱くてもいい、愚かでもいい、間違ってもいいんですよ~。迷って、悩んで、戸惑ってばっかり。私はそんなユート様が好きなんですから~。
 何一つ間違いを犯さない、独りで何でも出来る強い人にとっては、他人は不要でしょう~? 私はユート様に必要とされるからこそ、私にもユート様が必要なんですよ~。
 ユート様がユート様であれば、それだけで私はユート様の味方です~。だから無理して変わらないで下さい~。ユート様である事を捨てないで下さい~。お姉さんからのお願いですよ~」

 強くなれ。
 結果を示せ。
 リーダーとして相応しくあれ。
 正しい判断をしろ。
 悠人は常に周囲からそう言われ続け、自らにもそう言い聞かせてきました。
 実際、世界から自分や佳織を護る為に、そうしなければなりませんでした。
 ですがハリオンは、悠人に何も変化を求めませんでした。
 悠人はそんなハリオンの心が、乾いた胸に染み渡るように感じました。
「それに~」ハリオンはどこまでも優しく微笑みます。「ユート様は弱いばかりじゃ無いと、私は思いますよ~。
 自らの無知を知る事が知の第一歩だとするなら、自らの弱さを知る事が強さの第一歩ですよ~。
 ね? もうユート様は強さの一歩を踏み出してるじゃないですか~」
 『千里の道も一歩から』ですよ~、と、悠人が以前に教えた諺を付け加える。
「ユート様はもう充分に強い子です~。私が保証しますよ~」
 ハリオンの言葉は、悠人を励ますものではありませんでした。
 甘やかしであり、安らぎであり、慰めでした。
 ですが、それゆえに、だからこそ、悠人は自分を護る為に身に着けねばならなかった心の鎧を、脱ぎ捨てる事が出来たのです。
 全ての心の鎧を脱ぎ捨て、悠人は自分自身を見つめ直しました。見失いかけていた自分自身を取り戻しました。
 今、忘れかけていたものを。自分が心から求めるものは何だったのかを。
「……そうだな。うん」悠人はハリオンの目を真っ直ぐに見つめました。「絶対に俺は今日子達を犠牲にはしない」

「見つけましたね~」優しく悠人の頭を撫でながらハリオンはにっこりと笑いました。「簡単な事なんですよ~。答えは初めから全部、ユート様の中にあるんですから~。
 答えは外に求めるものではないんです~。自分の真の求めを見つければ、それが全ての答えなんですよ~」
「うん。……でも、今日子や光陰を護る為には、一体どうしたらいいんだろうな」
「う~ん。どうしたら良いんでしょうね~」言葉とは全く裏腹に全く悩んだ様子も見せずに「でも、ユート様ならなんとかなりますよ~。大丈夫です~。何もかもうまくいきます~」ハリオンは悠人を信じきった目で見つめ、柔らかく微笑みました。
「そうかな」
「そうですよ~」きっぱり、というには穏やか過ぎる口調で、それでも寸分の淀みも無くハリオンは言います。「だってユート様は、これまでとっても頑張ってきたんですから~。こんなに頑張ってるユート様に、マナの導きが無い訳無いですよ~」
「そうかな」
「当たり前じゃないですか~」
「……ははっ。変だな。具体的な事は何も分からないままなのに、ハリオンの声を聞いてるとそれでも何とかなりそうな気がするよ」
 悠人の中に不安はもう全然残っていませんでした。
 それは自分の心から求めるものがはっきり見えた事、迷いが無くなった事が理由かも知れません。
「ユート様の辿って来た運命は過酷でしたね~。辛い事がありましたよね~。悲しい事がありましたよね~。
 でも私は、それが無ければ良かったとは思いません~。そのお蔭で、ユート様はこんなにもステキな男の子になる事が出来たんですから~。
 今のユート様がいるのは、全ての過去があったからですよね~。ユート様が誰よりもユート様らしくいられるのでしたら、その辿ってきた全ては、肯定し感謝する価値があるものだと私は思いますよ~」
 ハリオンの緩やかに奏でられる声の音は、悠人の胸に深く豊かに響きました。

「それに~、『求め』さんも力を貸してくれますよ~」
「……おいおい、ハリオン。俺はあのバカ剣に酷い目に合わされてるんだぞ? さっきだってそうだったし」
「永遠神剣は~、私達の心の声に応えてくれるんですよ~。だから~、ユート様がユート様御自身の心をしっかり見つめて、真の求めを見出したならそれにしっかり応えてくれるんですよ~。
 前に『求め』さんのお蔭でカオリ様は助かったんですよね~。だったら『求め』さんはユート様の大恩人さんじゃないですか~」
「……確かに……そうだな。そう、だった。佳織を助けてくれたのは『求め』なんだったな」
「そうですよ~」ハリオンがゆっくり含める様に言います。「だったら、ね?」
「ああ。『求め』にはちゃんと応えてやらなきゃな」
「はい~。その通りです~」ハリオンは満足げに頷くと、今度は悠人を通して『求め』にも語りかけました。
「『求め』さん~。無償の奇跡は、確かに存在しないのかも知れません~。でも、今ユート様は『求め』さんとの約束をしっかり果たそうとしてますよね~。だったら、余計な手出しはヤボってものですよ~」
 ともすれば襲われたかもしれない相手に対しても何ら変わらない、自愛に満ちたハリオンの在り方こそ、もしかしたら本当の強さというものなのかも知れないと悠人は感じました。
 それを悪意に愚鈍だというのなら、それこそ他者を信じられない心の弱さだと。
 ハリオンは重ねて『求め』に語りかけます。「それに~、『求め』さん、貴方の今の求めは本物ですか~? ユート様は御自身を見出しましたよ~。『求め』さんも、頑張って御自分の真の求めを見つけてくださいね~」
「真の求め、だと?」
 悠人の頭の中に、珍しく『求め』の困惑が伝わって来ます。
 言うべき事は全て言ったという事なのか、ハリオンは慈しみに満ちてただ微笑みます。
 やがて、悠人の中に『求め』の声が響きました。
 今やその声は、頭痛を伴うひび割れたものでは無く、鐘の音の様な荘重な響きすらありました。

「ふっ。今日のところは我の負けだ。我は我の求めの為にも引き下がるとしよう」
「おい、バカ剣」悠人は心の中で『求め』に語りかけました。
「何だ?」
「お前には大きな恩があったのをすっかり忘れてた。絶対に恩は返す。お前の求めを叶えてみせる。だからもう少し力を貸してくれ」
「……無論だ。契約者が真に求めたならば、我はそれに全力を持って応えよう。それが我の在り方だ。ましてや、それが我の求めと重なるものならばな」
「ありがとよ」
「ふん、契約を果たす前に倒れる事は許さんぞ」ほんの僅かに照れたような余韻を残し、『求め』はそのまま静まりました。
「当たり前だ。やってみせる。俺自身の為にも」悠人は、自分自身を見つめ、決意を新たにしました。「ハリオン、俺、頑張るよ」
 なすべき事は、実の所何一つ変わっていないのかも知れません。けれども、悠人の中では何かが決定的に変わっていました。
「はい~。頑張れ、な~んて無責任な事は言いません~。一緒に頑張りましょうね~」
 ハリオンに撫でられながら、悠人は深い眠気を感じてきました。
「ごめん、ハリオン」悠人は重い瞼を感じて言いました。「何だか急に疲れが出てきたみたいだ」
 無理もありません。友人との皮肉な再会からこちら、或いはもっと以前に親を失い佳織を自分が一人で護ると決意した時からずっと、負荷がかかって疲弊していた悠人の心が、ようやく護られている事を知り、無防備に休む事が出来る様になったのですから。
「ゆっくりお休みなさい~。眠い眠いの頭のままで、輝く明日を過ごすのはもったいないですからね~」
 ほんわかと間延びした声は、緩やかな旋律となって悠人の耳を撫でました。
「うん……おやすみ……ハリオン」
 ハリオンに優しく撫でられながら数年分の重さの瞼を閉じ、悠人は心地よい眠りに身を委ねました。深く、ゆっくりと。

 次の日に悠人とハリオンを探しに来た面々が、抱き合って眠る二人を見つけて大騒ぎになりますが、それはまた別のお話。