「――――さま」
……ん。何か、遠くから声が聞こえる。
「―――トさま」
くぐもった音が、わーんという耳鳴りに掻き消される。
ノイズが多くて良く聞き取れない。それでも次第に浮上する意識。
「ユートさま!!」
「わっ!…………何だ、セリアか」
突然耳元に突き刺さった自分を呼ぶ声に、俺は慌てて飛び起きた。
背中にびっしょりと汗を掻いている。どうやら休憩中にうたた寝をしていたらしい。
ゆっくり開いた瞳に飛び込んでくる、眩しい日差し。
手を翳し目を細めると、ふわりと吹いた風に蒼い髪が靡くのが見えた。
「“何だセリア”じゃあ……せん。全く、何度呼……も起きてくれな……ですから」
「え?ああ、ごめん。もう一度言ってくれるかな」
呆れているのか、腰に手を当てるセリア。鞘に収めた『熱病』が拍子に揺れる。
まだ頭がぼーっとしているのか、その声が上手く聞こえない。首を振り、目を覚ます…………あれ?えーと。
「で……から、エ……リアが呼ん……訓練…………です」
ようやくはっきりしてきた頭でも、やっぱり上手く聞こえない。
瓢風の中で会話している感じで、途切れ途切れに単語の断片だけが掠れて届く。
何だ?何でそんなにぼそぼそと喋るんだろう。内緒話でも無さそうだし。
きょろきょろと周囲を見渡してみる。どうやら訓練が終わって大分経ったらしく、辺りには誰も居ない。
「無視しないでっ!」
相変わらずの殺風景な修練場を眺めながら首を傾げていると、
いつの間にかずずいっと詰め寄ったセリアが睨んでいた。
「わっ!悪かったって。でもセリア、別にそんなぼそぼそ喋らなくても」
「わたしは普通に喋ってるわ…………あら?」
慌てて言い訳をしていると、膨れていたセリアの顔がふいに不審めいたものに変わった。
「お、おい……」
そしてやや傾げたすっきりと通った顔立ちが、凄い勢いで近づいてくる。
一体何がと思う間もなく細い睫毛やきらきらした瞳がみるみるアップで広がり、
何か良い匂いが鼻を掠めてくらくらした。
「動かないで」
動揺する間にもどんどんセリアは迫ってくる。
静かに告げる淡い唇が軽く開き、魔力めいた言葉にそこから目が離せなくなる。
「な…………っ」
訳も判らず硬直したまま焦っていると、真面目な視線がひょいと横に逸れた。
同時に耳元で、大きな溜息が感じられる。生暖かい、くすぐったいような感触。
「ちょ、セリア」
「…………やっぱり。ユートさま、つかぬ事をお聞きしますが」
「へ?」
そうしてもう一度正面を向き直しながら、距離を取る蒼い瞳。
ほっとしたような、残念なような複雑な気持ちを抱えていると、少し大きめの声が今度ははっきりと聞こえた。
「最後に耳掃除をされたのは、いつですか?」
(おいバカ剣)
『なんだ契約者よ』
(ちょっといつものヤツを言ってみてくれ)
『…………マナをよこせ、奪え、犯せ。契約を果たせ』
「……本当だ、バカ剣の声はちゃんと聞こえる」
ここに至ってようやく判った。どうやら俺の耳の方が、詰まっている事に。
改めて周囲を見渡すと、鳥の囀りや森のさざめきなんかもまるで聞こえなくなってしまっている。
「ええと…………」
少し振り返ってみる。そういえば、ここ暫く耳掃除なんてしてなかった。
元々不精が災いしてか、佳織にしつこく言われなければ習慣的になんて掃除してなかったし。
あの見えない上にたまに変なトコを擦るとくしゃみが出るのが間抜けで煩わしかったし。
第一こっちに来てからは戦いとかでそれどころじゃなく、耳掻き棒の存在なんて確かめた事も無かったし。
「どうだったかなぁ……ははは……」
とぼけてみた。思いっきり爽やかな笑顔で。しかし反応は冷ややかなものだった。
「………………」
ジト目の視線が突き刺さる。何か言おうとしてセリアは諦めたように肩の力を抜いた。
「…………通じないんでした、ね」
何て言ったのかは相変わらず聞こえない。だけど呆れ返っているのだけは確かだった。
なにせ、首を振りながら大仰に溜息なんかついている。何だか少しむっとした。
「何だよ、しょうがないだろ。大体耳掃除なんて、普通こんな状況で思いつくか?」
ファンタズマゴリアという、全くの異世界。無理矢理連れて来られ、あげくいきなりの戦い。
知らない言葉。知らない国。そんな中で耳掃除にまで気を配られるヤツは、ある意味相当変だ。
「…………って聞いてるのか?セリア」
見ると、憤慨して拳を握り締める俺は完全放置で、セリアは横目で辺りを見回している。
「ええと……ああ、あった。良かった」
そうしてごそごそと腰の辺りを探っていたセリアだが、いきなりぺたん、とその場に正座した。
更に、見上げる形になった俺を手振りで呼んでいる。なんだか拍子抜けした気分だった。
「何だよ…………痛てててててっ!」
良く判らないまま顔を近づけたとたん、耳を摘まれた。そしてそのまま引っ張られる。
体勢を整える暇も無い。俺は激痛に耐えかねて、そのまま倒れこんだ。
ぽふっ。
「…………あれ?」
柔らかい。当然訪れるであろう地面との激突を予想していた頬に、思わぬ感触。
覚悟して硬く閉じていた目を恐る恐る開く。するとすぐ側で、アーモンド形の蒼い瞳が覗き込んでいた。
事態が掴めた。
俺の頭は現在進行形で、セリアの膝の上にある。つまり、所謂膝枕。
状況を理解したはいいが、今度は緊張で心臓がばくばく鳴り出す。俺は慌てて起き上がろうとした。
しかしその頭をぐいっと押さえ込まれ、より強く太腿に押さえつけられてしまう。
「セ、セ、セ、セリアさん?」
「………………」
抗議というか、もはや狼狽の口調になっている俺に構わず、髪を掴んでくい、と横を向かせる。
急に捻られて首が嫌な音を立てたが、それどころではない。太腿と細い指に挟まれて動けなくなった。
「あ、あのさ…………あ」
その時ふいに、目の前に細い棒が示された。先が小さい匙のように曲がっている。つまり。
(ああ、そういう事か)
体中から力が抜ける。今度こそ本当に、セリアの意図が掴めた。
「…………さんきゅな、セリア」
呟いた一言に、懸命に無表情を装いながらも少し赤くなり、こく、と頷くセリアが何だか可愛く見えた。
とはいえ。
「………………」
蒼いさらさらしたストッキング越しに、しっとりとした温かさが伝わる。
柔らかい太腿の感触をダイレクトに感じて、心臓の動悸がまた一層激しくなった。
落ち着かなく頭を動かしていると、くすぐったそうに身じろぎしたセリアが軽く頭を抑える。
「じっとして。まったく、怪我するわよ」
聞こえないが、感じはする。耳元で囁かれる生暖かいセリアの息遣いが嫌でも。
覗き込んでいるせいか、いつもより大きく見える胸が視界の隅で揺れているのが気になってしょうがない。
「んしょ、んしょ…………」
そうこうしている間も、眉を八の字にしたセリアは何だか夢中になって指先と格闘している。
ある意味、拷問だった。
女の子、という意識を追い払おうとすればするほど感覚が鋭くなる。感情が昂ぶる。
耳に触れる細くひんやりした指が、接近した唇から漏れる吐息が、視界を覆うすらっとした腰のラインが、
垂れ下がって頬をくすぐる髪の良い匂いが、耳を掻き回す棒が擦れる感じが……いや、これはちょっと違うか。
とにかく俺は、イケナイ部分に血液がパッションなのを必死の思いでレジストしていた。
……何を言っているのか判らない位に混乱しつつ。
悠久の刻を駆け巡りながら、長い長い旅をしていた意識が呼び止められる。
「…………あっ!ほらユートさま、こんな大きいのが取れました」
「うわっ!ごめんすまない!!」
「きゃっ!…………どうした、の?」
急に飛び込んできた声に、はっと現世に帰還して思わず顔を上に向ける。
とたん、そんな俺に驚き目をぱちくりとしながら首を傾げるセリアの顔がほんの数センチ先に飛び込んできた。
長い睫毛に覆われた、気のせいかやや潤んでいるサファイアのような蒼い瞳。ほんのり染まった頬。桜色の唇。
「ああああありがとう!」
俺はもう、色々と堪らなくなって飛び起きた。叫ぶように礼を言って。
考えてみれば、こんなに女の子と接近したのは初めてだった。
呼吸を整えるように、深呼吸する。まだ心臓がどきどきと激しく波打っていた。
「…………ふぅ~~」
ざぁ、と風が吹き、木々がざわめく。気づけば鳥の囀りが、そこかしこから聞こえてきた。
ようやく落ち着いてくる。音があるって事がこんなに素晴らしいことだとは思わなかった。
「……ははっ、聞こえるよ。セリアのおかげだ」
「………………」
嬉しくなって思わず呟き振り向いた。と、セリアが何だか残念そうな不思議そうな顔をしている。
「…………?どうかしたか、セリア」
じっと地面を見つめ、何かを考え込むように動かないので不審に思って覗き込んでみた。すると。
「痛ててててててっ!」
どすん。
また急に耳を引っ張られた。慌てたが、反射的に膝をつき、倒れこむのだけは防ぐ。
どうやら先程の教訓が体に生きていたようだ。それはともかく乱暴さに一言言ってやろうと顔を上げ――――
ぽふっ。
「…………へ?」
足に、軽い感覚。ふわりと浮き上がってスローモーションのように降りていく……髪?
恐る恐る膝元を見ると。
「………………聞こえません」
「はい?」
「だから、聞こえないわ。きっと急に耳元で大声を出されたせいです」
横顔を見せたまま決してこちらを見ないセリアが俺の太腿に頭を乗せていた。ぷっと赤い頬を膨らませたまま。
「聞こえないって…………俺?」
思わず自分を指差すと、相変わらずそのままの姿勢で視線だけを遠くに向けつつ、小さくこくっと頷く。
(…………そういえば、さっき慌てて大声出したっけ。だけどそれにしても、こんな急に…………)
「だから…………責任取って下さい、ユートさま」
そっと先程の耳掻き棒を差し出してくる。受け取りながら、俺は戸惑っていた。
(…………こんな急に、耳って聞こえなくなるんだろうか。まさか鼓膜が破れた訳でもなさそうだし)
首を捻りながら見下ろす。目を閉じ、じっと猫のように動かないセリア。その首筋が真っ赤に染まっている。
そんな様子を見て、俺は何だかどうでもよくなった。思わずぷっと吹き出したが、恐らく聞こえてないのだろう。
「じゃあ動くなよ、セリア」
ちゃんと反応して、もう一度こくっと頷く。俺は笑いを堪えながら、出来るだけ優しくその髪を撫ぜた。
――刺さないで――
「あーなんだ、なぁ今日子?」
二人の様子を遠目で見ていた光陰が、側らの今日子をにやにやと見つめる。
「そう言えば、俺もこっち来てから耳掃除ってしたことないんだよなぁ」
「だ、だから何よ?」
嫌な予感を感じ、じりじりと後ずさりする今日子。にじり寄りながら情けない声を上げる光陰。
「な~あ~。きょ~こぉ~」
「だーーーー!!!わっかったわよ!判ったから気持ち悪い声出さないでったら!!」
そう言ってポケットから棒を取り出す今日子の顔は、真っ赤に染まっていた。
悠人とセリアに触発されたのか、まんざらでも無いらしい。
「ほら、横になりなさい…………全く、今日だけだからね!」
ベンチに座り、急かす今日子の膝に、しっぽを振らんばかりの光陰が飛び乗った。
「おお、法悦とはこういう事をいうんだなぁ」
そして愛する者の温もりを充分に堪能する。しかし、幸せはそう長くは続かない。
「何バカ言ってんだか…………いくわよ」
くるくるくるくる――しゅぴん。
急に低くなった今日子の声色に嫌な予感を感じ、顔を上げる。
その頭上に、狙いをすました耳掻き棒がぴたりと静止していた。
「お、おい……今日子…………」
「黙って!動くんじゃないわよ…………」
尋常じゃない気配を感じながら、光陰は見た。心なしか震えている手と、棒に纏わり付く紫色の雷光を。
「あ、あのな、やっぱり……」
「ううう、動くなって言ってるでしょ!なんたって、は、初めてなんだから……外れたって知らないわよ!」
「む、無理はいかんぞ今日子。大体ココはデリケートなんだから出来れば優しく…………」
ぷす。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
暮れなずむファンタズマゴリアに、憐れな断末魔が木霊した。
――番外――
次の日。
「お~いそろそろ訓練……うぉっ!」
「あー、ユートさまいらっしゃーい!」
「……いらっしゃーい」
「こここ、こちらに、どうぞっ!」
「あらあら~、お姉さん、上手なんですよ~」
「た、隊長として、聴覚に問題があるといけませんから!」
第二詰所を訪れた悠人を待ち構えていたのは、それぞれに耳掻き棒を持って正座しつつ、
きらきらとした瞳で見上げるラキオススピリット耳掻き隊だった。
「あ、あのコーインさま…………」
「ん?何だクォーリン。悪いが今ちょっと耳が遠くてな……いてて…………で、何か用事か?」
「はい!……あの、お耳の調子がお悪いのでしたら、あの、あの…………これを…………」
「う、うわわわわーーー!!」
「あっ、コ、コーインさま?!…………くすん」
クォーリンに呼び止められた光陰は、背後に見え隠れする棒を見て反射的に逃げ出していた。
どっとはらい。