前奏曲

今日は、雨。
シンと静まった部屋に、ぱたぱたと窓を叩く雨音だけ。こんな日も、悪くない。
厚く垂れ込めた灰色の雲を見つめながら、ヒミカは独り『赤光』を磨いていた。
軽くはあ、と息を吐き、曇った部分をきゅっ、きゅっと小気味良く布で拭く。
柔らかい艶を帯びていく刀身を翳してうん、と満足気に頷く。
「………………ん?」
ふと音がした気がして、窓際に寄り、外に目を凝らした。
雨でやや薄暗い景色に映りこむ、徐々に憂いを帯びていく自分の顔。
その向こうに広がるのは、気のせいか少し元気の無さそうな森の木々。
項垂れるように雫を滴らせている、じっとりと水分を含んだ枝葉。

「…………ばか、ね」
視線を動かせないまま、ヒミカは呟いた。しょうがない、そんな諦めの口調で。

ぱしゃぱしゃと落ちてくる雨が波紋を作り、広がりやがて消えていく。
透明な軌跡を描き、空から落ちてきては吸い込まれ、流れていく。
そんな雫が寄り添って出来た一つの水溜り。その傍に、ナナルゥは立っていた。
雨を凌げる場所なら他に幾らでもある。第一外に出る必要など無い。
それでもナナルゥはここから“動けなかった”。いつもと同じ、この場所から。
「………………」
そっと濡れた葉を口元に当てる。目を閉じ、ゆっくりと息を送る。
いつもより少し難しかったが、ちゃんと音は出た。やがて奏でられる旋律。
普段なら、誰かが聴き付けて集まってくる穏かな時間。
空っぽな心に、不思議に心地良い風が吹き抜ける束の間。
……今日は何故か肌寒い。揺れた拍子か、前髪から雫が零れた。
静かな独奏が森中を打つ雨音に掻き消される。それでもナナルゥは吹き続けた。

ぱしゃ。
雨音に、異音が混じる。ナナルゥはゆっくりと瞳を上げた。
「…………何やってるのよ、ナナルゥ」
そこには、いつの間にか傘を手に立っているヒミカ。
黙って睨みつけるように、問いかけている眼差し。ナナルゥは答えた。
「……草笛を、皆に聴かせています」
悠人と交わした約束。詰所の皆にも聴かせるという事。その為に。

「だからって…………何もこんな雨の日にまで」
呆れた口調のヒミカは大げさに首を振る。俯き、ずぶ濡れになっている友人。
ナナルゥの、余りにも自分に無頓着な態度がヒミカを落ち着かなくさせていた。
神経質に短い髪を掻き分け、相手の言葉を待つ。
ややあって、ナナルゥはぼそぼそと口を開いた。
「それが……私が今『やりたい事』ですから」
告げて、ふっと緩んだ表情が見上げる。その様子に、ヒミカは一瞬息を飲んだ。
そのままぽかんと口を開けたままじっと見ていたが、やがてふわっと微笑み返す。
「…………しょうがないわね。でも、雨避け位は必要でしょ?」
そう言って、傘を差し出す。ナナルゥは何も言わず、ゆっくりと頷いた。

雨音に混じり、草笛の音が再び響き、流れ出す。
寄り添うように一つの傘に入る、二つの影に見送られながら。