怖い話はいかがですか?

窓から差し込む光を感じて、俺は静かに目を開けた。
首筋から背中にかけてじっとりと濡れた感触に、思わず顔をしかめる。
ベッドから身体を起こして窓の外をそっと覗くと、
薄紫に染まりかけた空の端に残る鮮やかな橙の陽が見えた。
昼寝を始めてからの時間を考えてみると、
訓練の後に少しだけ休むくらいのつもりだったはずなのに、すっかり寝入ってしまったらしい。
まあ、普通に眠れるようになったのも最近の事だから仕方が無いといえば仕方が無いか。
とりあえず、お茶でも飲みに行こう。と、まだ重いまぶたを軽く擦ったところに、良く知った声が響いた。
「やれやれ、やっとお目覚めか。ま、俺も今来たところなんだが」
ゆっくりとそちらに目をやると、声と同じく見知った人影が枕元に立っている。
ここラキオスでは珍しい夕暮れ時の蒸し暑さの中、制服を着込んで口の片方を持ち上げているのは、
見間違う事も無く俺の親友だった。余りにも自然な振る舞いに何も言うべき事が見当たらずに、
俺にはただ尋ねることしか出来ない。
「……何をしに来たんだ」
「あぁ、こう暑い上にやることが何も無いとなると退屈でたまらんからな。
ちょいと夕涼みに一席設けてもらいにきたって訳だ」
調子よくにやりと笑った親友、光陰に向かって座るようにベッドから足を下ろす。
「一席? お前が説教でもしてくれるってのか」
「アホか、わざわざ聞きたがるような子もいないだろうがよ。
いいか、蒸し暑い中の夕涼みの一席に上がる話題といえば決まってるだろ。アレだよ、ア・レ」
言いつつ、奴は両腕を軽く上げて、手を身体の前にだらんと垂らした。

気配を感じさせず現れた光陰にはぴったりなポーズだと思いながら、俺はそっと溜息をつく。
その内に皿でも数えだしそうな雰囲気に、こいつが提案した一席の中身に想像がついた。怪談だ。
「本気か? ……いや本気か、その目は」
何処にいようが、考えがあるのか無いのか悟らせずに突発的に物を言い出すのに変わりはないらしい。
「でもな、どっちにしろお前の話をまともに聞く奴がうちに居るとは思えないんだけどな」
「だから、誰が俺が話すって言ったんだっての。お前が声かけりゃ絶対に集まる子はいるだろ?
その子たちが楽しんだり怖がったりする様を堪能させてもらうって意味で、
一席『設けてもらう』って言ったんだぜ。まぁ、機会がありゃあちょいと驚かす役に回っても面白いがな」
そもそも、ファンタズマゴリアに怪談なんてものがあるのかどうかすら俺には分かっちゃいない。
それでもこいつに言わせれば、人間怖い話をすることに国境も世界も関係あるかということらしい。
「いいか、暑さにまいってる子をぞっとさせて涼しくしてやる。
俺はその様子を楽しむ。何も悪い事じゃないだろ?」
それじゃあ俺にとってのいい事ってのは何になるんだ、という言葉を出しかけてぐっと飲み込む。
きっと言っても無駄な事だとは分かったし、もしも楽しめる奴が居るならそれに越した事は無い。
それに、それで光陰の気が済むならまあ構わないと思ってしまったのも確かだし。
「な、な? せっかく今日子に内緒でこっそり来たんだ。気付かれる前に一つ、頼むぜ悠人」
とうとう手を合わせて俺を拝み始めた光陰に対して、
どう考えても妙な光景だという感想を抱きつつ、俺は首を縦に振るのだった。

再び俺の部屋に戻ってきたら、うっすらと残っていた夕日も完全に見えなくなっていた。
後ろについてきたみんなに、集まってもらった理由とその内容を簡単に説明してみたものの、
「ねーねーユートさまー。カイダンってなーにー?」
「なに~?」
「えーっとな、簡単に言っちまえば怖い話ってことなんだけど。
怖い話をしたり聞いたりして、怖いと思うと寒気がするだろ?
それで涼しく感じようっていうことなんだ……って、もしかして誰も知らないのか?」
ネリーとシアーの質問に、いきなりの挫折感が俺を襲う。
いざとなれば、俺が適当に知ってる話を披露するだけでもどうにかなるだろうけど、
と首をひねりかけた俺をフォローするように最後の一人、ヘリオンが補足してくれた。
「そんな事は無いですよぅ。『カイダン』っていうハイペリアの言葉とは違いますけど、
そういうお話はけっこうありますから。
でも……教えてもらえることじゃないので知らない方のほうが多いです」
「そうか。でもまあ、自分が知ってる中でとかでも、体験してみてって感じでも何でもいいからな」
頷いている三人を適当に座らせて、部屋の扉をパタンと閉める。
そう。都合がいいのか悪いのか、詰所を回ってみて集まったのは光陰好みのこの面々だ。
ちなみにその光陰はと言えば、部屋の隅の物陰でひっそりと佇んで完全に気配を断っている。
盛り上がりが最高潮に達したときに驚かせるのさ、と意気込んでいるためだ。
部屋にやってきたみんなを目に入れた途端に一瞬鼻の下がだらしなく伸びたのが確認できたけど、
それでも、自分の役目を果たそうと今の状態を維持して、気付かれてないままだ。
光陰が正面気味に見える位置の椅子に腰を下ろす。
机と椅子の位置関係から、残り三人が俺の方を向いている限り光陰を見る事は無いだろう。

「よーし、それじゃ始めるか。誰が最初に話してくれるかな」
三人を促そうとするが、ネリーが我先にと手を上げようとするよりも早く、慌てたようにヘリオンが声を上げた。
「あの、ちょっと待って下さいっ」
「どーしたのヘリオン? さっさと始めちゃおうよー」
さすがのネリーも黒スピリットの素早さには追いつけなかったらしく、軽く唇を尖らせて抗議する。
ところが、普段よりも幾分きっぱりとした口調でヘリオンはネリーに対して言葉を返した。
「まだダメですよ、『カイダン』はちゃんと雰囲気を作ってから始めなくちゃいけないんです。
ユートさま、せっかく外が暗くなってるんですから、部屋のエーテル灯も切っちゃってください」
「あ、ああ。そうだな。それじゃあ代わりの明かりに……」
言われてみれば確かにその通りだ。なんだかやけに詳しそうなそぶりを見せるヘリオンに言われたとおり、
部屋を明るく照らすエーテル灯を消すためにもう一度立ち上がって、小さなランプを目で探す。
「はい、これを机の真ん中に置けば大丈夫です」
その時には、既にヘリオンがランプに火を灯してすっかり準備を完了させていた。
「何か、手際がいいなぁ。じゃ、消すぞ」
嬉しそうにはにかむヘリオンを目に入れた所で、エーテル灯を消す。
部屋に残った明かりはこれで机の上のランプが一つ。
椅子に座りなおした俺の正面にネリー、左側にシアー、右側にヘリオンが、
それぞれほの明るく照らされている。……のは良いんだけど。
「おーい、シアー。まだ何も始まって無いんだからそんなに緊張しなくていいぞ」
さっきからだんまりだとは思っていたけど、薄ぼんやりとした照明に浮かび上がった人影を目に入れただけで、
すでにぷるぷると震えだしそうになってしまっている。

「う、うん……あのね、シアーも怖いお話するの?」
「もちろん聞いてるだけでも大丈夫だぞ。それに、実際のところ怖い話に限らなくたって、
ちょっと不思議に思えるような話でも、実は笑い話でしたってのでもアリだし」
笑い話、という言葉を聞いてほっとしたように体から力が抜ける。
でもまあ、この面子で洒落にならないような話は多分出ては来ないだろう。
「それじゃ、改めて。さっきはネリーが何か話してくれようとしてたから、お願いしようか」
「おっけ~。えーっと、寒気がするような怖いことでしょ? そうだねぇ~……
『最高Lvの「青の水玉」と「塔」がいっぱいある拠点の敵がヘブンズスウォードⅢとサイレントフィールドⅡを撃ってくる』!」
ネリーは発言の後も元気良く『にっぱ~っ』という擬音が似合いそうな笑顔でこちらの反応を待っている。
部屋の暗さにも合っていないし、どう反応を返せばいいのやらといった空気が満ちてきていて、
それこそサイレントフィールドでも唱えられた気分だ。
シアーは本当にこんな話でもいいのかとしきりに疑問符を浮かべた視線を俺に送ってきているし、
ヘリオンだって、何を言ったらいいのか分からなくなったようにただおろおろとするだけだ。
「ちょっとちょっとどうしたの~!? ユートさまはこの拠点にディフェンダーで突っ込む勇気があるっていうの~!」
「いや、確かにそんな布陣があったら滅茶苦茶怖いけどさ」
「でしょ? この間のミエーユの時だって本っ当に大変だったんだから、それ以上の恐怖だよ!」
知るはずも無いとは言えぽんぽんと言葉を続けるネリーの後方で、
一人静かに立ち尽くしているそのミエーユの布陣の立案者が罰が悪そうに頭をかいているのが目に映る。
この話題を続けるのは、奴が居ることを知ってる俺には辛い。
「うん、だけど俺が思ってた怪談とはちょっと違ったもんだから戸惑っちまったんだ」
「そっかぁ……ほかに怖い話ってあるかなぁ?」
よくよく考えてみれば、怖い思いをする場所なんて俺達にとっちゃ限られてしまっている。
そういう風に怖い話を思いついてしまうこと自体が、もう『怖い話』なのかもしれないと気分がちょっと重くなった。

「それじゃあ普段の、詰所の生活で怖い思いや、不思議な体験をしたことは無いですか?
もっと『カイダン』に近づけるのなら、なんでその怖いこととかが起こったのか分からないっていうのも大事ですよ」
どんな話にすればいいかと悩んでいたネリーに助け舟を出すように、ヘリオンが話しかける。
その言葉に目をぱちぱちと瞬かせてから、記憶の中を探すように腕を組んで目を閉じた。
そしてそのまま考え込むこと数十秒。ネリーは唐突に目を見開いて自らの体験を語り始める。
「あー! あったあった! これなら『カイダン』になるよ! えっとねぇ。
この間、オルファが第二詰所に遊びに来たときなんだけどね、
シアーと三人で、詰所の中でかくれんぼをしてたんだ。
で、ネリーが隠れ場所を探すのに台所に入ったら、その時にどこからか甘い匂いがしてたの。
これはお菓子の匂いだって思って台所の中を探してみたんだけど、
机の上にも、かまどの所にも何にも無かったんだよね~。
でもさ、匂いがあるんだから絶対にどこかにお菓子があるに決まってるじゃない?
ネリーにはそこでピーンと来たねっ。実は第二詰所の台所には『開かずの戸棚』っていうのがあるんだ。
いっつも鍵がかかってて、中に何が入ってるのか聞いても、
誰も教えてくれないからネリーが勝手につけた名前だけどね。
もうここにあるとしか思えないって、戸棚の取っ手をガチャガチャやったんだけど、
やっぱり鍵がかかってて全然開いたりはしなかった。ちょうどそこに、オルファも台所に隠れに来たんだ。
お菓子の匂いがするって言ったら、オルファも一緒になって取っ手を引っ張ったけどそれでもダメ。
だからね、こうなったら最後の手段って『静寂』と『理念』を持ってきちゃった。
もちろん、手加減はしたよ? そうやって戸棚の鍵は開いたんだけど……
戸棚を開けると、ちょっぴり、ちくっていうくらい体が痛くなったと思ったら、
いつの間にか、シアーが『ネリーと、オルファ、見ぃつけた~』ってすぐ横で笑ってるの。
気がついたら、開けたはずの戸棚の鍵が何でかまたかかってた。

オルファもネリーみたいに戸棚を開けてからシアーに声を掛けられるまで、
なんだかぼうっとしちゃってたみたいに何してたか覚えてないって言うし。
シアーには見つかっちゃうし、お菓子は結局見つからないし、もう訳わかんなくなっちゃった。
今でも『開かずの戸棚』には何が入ってるのか全然わからないままで、ずうっと鍵がかかってるんだよねぇ」
話しているうちにその時の不思議さを思い返したのか、ネリーは腕を組んでしきりに首をかしげている。
ただし、向かい合ったシアーとヘリオンは顔を見合わせて軽く苦笑いを浮かべているけれど。
「えっと……勝手に開けちゃうと、また勝手に閉まっちゃうなんて不思議ですね?」
「……うんうん~」
「そうでしょ、そうでしょ~? それで、時間がたったら戸棚からはお菓子の匂いもしなくなってたんだよ!」
微妙に空いた間にも気がつかないで、ネリーはぶんぶか首を縦に振って『不思議体験談』を続ける。
けどそれなら何となく、二人の苦笑いの理由に思い当たったような気がするぞ。
「へぇ、どのくらいの時間が経ってからなんだ?」
「う~んと、遊び終わって、手を洗って、ハリオンがネリーたちにおやつを出してくれてから!」
ああ。頭の中に、『つまみ食いしちゃ、めっめっですよ~』とか言いながら鍵をかけている姿が浮かび上がる。
壊れた鍵だって、ハリオンならあっという間にどうにかしてしまいそうな気がするし。
とはいえ、ネリーの方を見ると俺たちの微妙なにやつきにも反応せずに、
『開かずの戸棚』の謎を反芻し続けているようだ。だったら、今のうちはまだ種明かしをすることも無いだろう。
「確かに、そこに何が入ってるのか分からなかったりすると気味が悪いよなぁ。
もし変なものとか、嫌いなものばっかり入ってたらと思うと大変だ」
「嫌いなもの……お菓子の匂いがしてるのにリクェムとかラナハナがいっぱいとか……?」
途端に、さあっと顔色を悪くしてネリーの動きが止まってしまう。
そうか、ネリーはまだ駄目なのか。それなら今度エスペリアに頼んで克服メニューを……
と思いかけた時、ネリーは唐突にハッとして立ち直りを見せた。
「ああっ、ユートさますごいねぇ~! ネリー、今無茶苦茶怖くなっちゃったよ。そっか~、これが『カイダン』か~」

「そ、そうなのか。怖くなったんならそれはそれで良かったけど……まあいい。
一番手はネリーによる『開かずの戸棚』の話でした、と。じゃあ次の人の番なんだが、その前に」
言いながら、次はどっちかなとシアーとヘリオンの顔を見比べて、妙にうずうずとしているヘリオンの顔を見て気がついた。
机の上に置いてあるランプに手を伸ばして、明かりの量を調節し少しだけ暗くする。
ふと、部屋の隅のほうにさりげなく視線をやると、光陰の姿はほぼ影に隠れていた。
これなら、最後に盛り上がってきたときに驚かすという効果も高まるだろう。
俺がそう思っているのと同期したように、奴の漂わせる雰囲気が何か親指でも立てたように変化した。
いや、まだ意味はわかんないけど、こっちに来てからそのサインを向けられるのは変な感じがするからやめてくれ。
「一人の話が終わったら、こうやってちょっとずつ明かりを消していくんだ」
「へぇ~、だんだん暗くしていくんだー」
さっきまではまだ、座っている姿がはっきりと見えるくらいだったのが、
今では身体の前面を照らすくらいの光量になっている。
そんな中でも、何故かヘリオンの顔はいよいよ雰囲気が出てきたと、期待に満ち溢れているように見えた。
それとは対称的に、決して怖いとは言えなかっただろうネリーの話の後でも、
部屋の暗さに飲まれたようにまた震えだすシアーがそろそろと手を上げた。
「ゆ、ユートさま~、じゃあ、次のお話の後はもっと暗くなっちゃうの?」
「そうだぞ。で、最後の人が話し終わったら全部消して……お開きなんだけど」
危ない危ない。全部消したときに『出る』なんて今のうちから言ってしまったら、
シアーの怖がり様からすればまだ全然怖くもないのに帰ってしまいそうだ。
などとちょっとばかり意地の悪いようなことを考えているうちに、シアーは覚悟を決めたようにこくんと頷いていた。
「だったら、シアーが先にお話する~。えっと、怖いお話じゃなくて、
不思議に思ったお話なんだけど……ヘリオン、いーい?」
「ええ、いいですよ。だったらシアーの後はわたしが話しますね」
「わかった。それじゃあまずはシアーからだな、さ、始めてくれ」
もう一度、シアーは首を縦に振ってから俺たちを見回して話を始めた。

「あのね、イオお姉ちゃんが訓練してくれるときには、お勉強も教えてくれるの。
そのときに聞いたお話なんだけど……
イオお姉ちゃんがヨーティアさまのお部屋をお掃除するでしょ?
でも、いつの間にか床の上が本でいっぱいになっちゃうんだって。
それでね、イオお姉ちゃんは、一体どういう風に本が散らかっちゃうのか調べてみたの。
そうしたら、お掃除した次の日には、お部屋の隅に一冊だけ置いてあったんだ。
それで、その次の日には落ちてる本が二冊に増えちゃってるの。
その日までは、イオお姉ちゃんも仕方が無いなぁって思ってたらしいんだけどね、
三日目になると、床には四冊の本が置かれてたの、それから、四日目には八冊になってたって。
じゃあ、五日目には何冊になるでしょうって聞かれたから、十六冊って答えたら良く出来ましたって褒めてくれたの。
でね、六日目とか、七日目の本の数も問題になって、答えるのはできたんだけどね、
急にイオお姉ちゃんがふぅって大きく溜息をついちゃったの。どうしたのって聞いてみたら、
『もしも、私が一ヶ月、いえ三週間でも掃除をしなかったら、と考えると恐ろしくてなりませんでした』
ってなんだか疲れきっちゃった顔で答えてくれたんだ。
それで、シアーもお掃除しなかったときを考えてみたら、ちょっとおかしなことに気がついたの。
だからイオお姉ちゃんに、もしそんなに長く放っておいても、いつか本棚から本が無くなっちゃうから、
お部屋が本で埋まっちゃうのは無いんじゃないかなぁって教えてあげたんだ。
けれども、イオお姉ちゃんはシアーを見てゆっくり首を横に振って言ったの。
『本当に恐ろしい事はですね、ヨーティア様の本棚はいつ見ても、
一定の本が入っているように見えることなのです。例え、片付けた後でも』って。
だから、イオお姉ちゃんは大変な事にならないように、ヨーティアさまを叱ってお片づけしてるんだって。
もしも、ヨーティアさまのお部屋の本が全部床に置かれちゃったら、
どうなるのかなぁ、不思議だなぁって思っちゃった」

おしまい~、とぺこりとやって、はにかんで。シアーにしては珍しく長いお喋りを終えた。
俺としては話の不思議さよりもむしろ、イオが年少組への訓練方法を
きちんと考えてくれていることに驚いてしまったわけだが。
まぁ、ひたすら型やら戦術やらを詰め込もうとしてくる訓練士もいる中、
イオを始めとする少数はきちんと理論立てた訓練メニューを用意してくれる。
それでも、スピリットにこうやって色々と教えてくれるのはイオならではだろう。
「えー? えーっとぉ、何で三週間で大変なことになっちゃうの?
一冊が二冊で、二冊が四冊、八冊、十六冊……ね、ね、ヘリオン? 次、何冊?」
そっち方面の訓練が本当に必要な者もいることだし……
「あ、あの、十六冊と、もう一回十六冊が追加されるんですよ? だからどうなりますか?」
うん、自分で解けるように問題を出してやってくれ。ヘリオン。
おっと、肝心の不思議な内容については何も言って無かった。
シアーも俺の言葉を待つようにじっとこちらを窺っている。
「そういえば、ヨーティアの部屋ってたまたま片付いてるときも、
普段どおり散らかってるときも、本棚の中身ってあんまり変わってないような気がするな……」
実際にヨーティアのあの研究室に入った事があるのは俺とエスペリアくらいだ。
でも、見た感じではイオの言葉にはあまり間違いは無いような気がする。
早々に暗算から逃げ出したネリーが、指を折り曲げていた手を机の上に置いて口を開いた。
「そうなんだ? だったら、片付けた本はどこに行っちゃってるんだろうね~?」
言われてみればますます謎だ。本の山の中から酒が出てくるくらいだし、
もう何があの部屋で起ころうが、どこか異次元に繋がってようが何にしろありえそうな気がしてきた。
何かいい知恵でも出してくれそうな奴は暗がりの中だ。ちらりと見やると、
それでも奴は俺に何かを伝えようとするかのように口を動かしている。
……あ、い、え……い? 違うな。は、い……け……やめよう。

「本棚に入らないんだったら、どこか別の部屋……寝室に放りこんじゃうのはどうでしょう?」
「いやぁ、確かにそこも散らかってたけど研究室の本が入れられてたことは……」
ふと、ヘリオンから出された言葉への答えが、光陰の発言に気をとられていた頭から、
何も考えを通さずに口をついて出た。……まずい。
案の定、ネリーとシアーは特に何も勘付いてもいないようだけれど、
いくら何でもヘリオンまでスルーしてくれるはずも無かった。
絶句して、何ともいいがたい目つきで俺を見つめてきている。
「いや、あの。続き部屋ってことで入った事があるくらい、だぞ。一応」
自分の理性のあるうちでは。それに結局未遂だし。
色々と説明を重ねるほどに妙な感じになることを察して、俺は言葉を飲み込んだ。
二人の手前か、そうですか……と言いつつも追求をやめてくれた事にほっとする。
この話を続けるのは俺の心に負担がかかりすぎるように思える。
「考えても分からないってのは確かに不思議なままだな。
それじゃ、『不思議な本棚』の話はこれで終わりにしようか。もう少し暗くするぞ」
だから、もうさっさと切り上げる事にして、再びランプを手に取った。
今度はみんなの顔がうっすらと見えるくらいの明るさに調節する。
本当にロウソクで怪談大会でもするときにはこれくらいの光なんだろうなぁ。
もう完全に暗がりの中に隠れてしまった男のほうに目をやってみる。
さっきまでの口パクももう見ることは出来ないほどだ。
……頼むから、暗がりから抱きつくような真似まではしてくれるなよ。
「そちらに何かあるんですか、ユートさま?」
「別に、何でもないぞ。うん」
さっきの失言から俺を注視していたらしいヘリオンは、微妙な視線の変化にも気付いてしまったようだ。

一度、俺の視線を追って暗闇に目をやるのだが、やはりぱっと見ただけではそこには何も無い。
また俺の方へと目を向けながら、ヘリオンは軽く首を傾げた。
「次はヘリオンだよな。さっきから暗くなるたびに嬉しそうなんだけど、何か意味でもあるのか?」
やはり黒スピリットだけあって、暗い方が好きなのかとも思ったのだけれど、
そんな理由では無いことを証明するかのように、ヘリオンは実に楽しそうにふふっと笑みを浮かべた。
「わたし、最初に言いましたよ? 知らない方が多いって。
だから、わたしが怖い話を知ってるということはですね、
好きで読んだり調べたりした事があるってことなんですよ」
その笑みは、いつもの無邪気な笑みとはどこかが違っているような気がした。
ヘリオンの笑みが持つ何か得体の知れない迫力のようなものに、
ネリーとシアーもごくりと唾を飲み込むようにして話を聞く体勢を作った。
「それでは、最後まで落ち着いて聞いてくださいね……」
そこまで、普段のような明るい口調で話していたヘリオンの雰囲気が一変する。
部屋の暗がりに後押しされるような小さな声、しかし恐怖を煽るような迫力を持って、
静かに、ヘリオンの『カイダン』が始まった。

「これは、ラキオスとエルスサーオを結ぶ街道であったというお話です。
ある日一人の運搬馬車の御者がラキオスで積荷を下ろしてエルスサーオへ戻るときのこと。
ええ、この街道では毎日、馬車が往復して荷や人を運んでいるんですが、
その日はあいにくの雨で、街道には徒歩の人もいなくて、
ただぬかるみに車輪が足を取られないよう細心の注意を払って馬車を操っていました。
大雨の時に事故を起こしてしまった例はいくらでもありましたから、それも当然のことでしょう。
そんな時です。その御者さんはそれまでは誰にも会うことが無かったんですが、
ふと気付くと、前の方に道の端を傘も差さずに歩いている一人の影を見かけました。
泥を軽く跳ね上げながら馬車が進むにつれてその形がはっきりとしてくると、
人影は長い黒髪を雨に晒したままの小さな女の子だという事がわかります。
馬車が女の子に追いついたとき、御者さんは馬車を止めてこう言いました。
『お嬢ちゃん。こんな雨の中どこにいくんだい。
おじさんはこれからエルスサーオへ帰るところなんだが、良かったら乗せていってあげるよ』
馬車には、使い込んではいるもののまだまだ丈夫な幌もついています。
女の子はこのまま雨の中を歩いていては倒れてしまいそうなほど華奢で、
俯きがちの顔色もあまり良くないように御者さんには思えたのです。
普通なら、こんな所で歩いている子がいるわけは無いのになぁ、
と思いながらも御者さんは馬車の荷台を指差しました。
しばらく、その女の子は御者さんの顔を見た後、今にも消え入りそうな声でぽつりと返しました。
『ほんとうに? わたしも、エルスサーオに行きたかったの』
そうして女の子はほんの少しだけ、薄く唇に笑みを浮かべたのです。
ずぶ濡れになった青白い顔が見せたその笑みは、可愛らしいというよりもむしろ、
御者さんをぞくりとさせるのには充分なものでした。
それでも、身体を濡らしたままで放っておくわけにもいきません。
荷台に乗り込んだ女の子に向かって御者席から身体を拭く布を投げ入れて、
再びエルスサーオに向かって馬車を走らせ始めました」

これは……結構本格的じゃないか……
御者の台詞から子どもの台詞までわざわざ声のトーンまで変えて、表情つきで語るヘリオン。
特に、女の子の台詞には見た目の説明も相まって聞き手を釘付けにするような力がある。
その顔つきも、話しているうちに気分が乗ってきたといわんばかりに生き生きとしている。
自分たちが話していた事との大きな違いに、ネリーとシアーもすっかり引き込まれているようだ。

「だんだんと雨足が強くなる中、御者さんがちらちらと荷台の中の様子を見ると、
女の子は身じろぎ一つしないまま、膝を抱えて座っています。
その上、顔は俯かせたままなのに視線は御者さんの方へと注がれたままなのです。
車輪がぬかるみに取られるかもしれないというのに、これではとても落ち着いて運転できません。
『ところで、お嬢ちゃんはエルスサーオに何をしにいくんだい?
それとも、お家がエルスサーオにあるのかな?』
黙って見られているよりはいい、と御者さんは女の子に話しかけました。
『お友だちが、エルスサーオに行っちゃったから。会いに行きたかったの』
『行っちゃった……? ラキオスから、エルスサーオに引越しかい?』
振り向きながら、御者さんが尋ねます。
女の子は良く見てようやく分かるくらいに小さく頷くと、また膝を抱えてしまいました。
でも、御者さんの頭の中には何かおかしいという思いが湧き出てきました。
御者さんは、エルスサーオに住んでいます。けれども、ここ最近でラキオスから越してきた人なんて知りません。
『この子くらいの子どもがいる家族が、ラキオスから引っ越してきたならわかるもんだろうになぁ』
呟いて、一度馬に鞭をやります。ともあれ、目的地まではもう半分もありません。
出来るだけ早くたどり着いて、お友だちがいるのなら会わせてやってお仕舞いにしようと一人頷きました。
ところが。膝を抱え込んだままだと思っていた女の子が、言葉の続きを口にします。
『会いに行きたかったんだ……でもね、行けなかったの』
ぴく、と御者さんの腕が止まります。確かに、女の子は荷台に座ったままのはず、
なのにその小さな声はすぐ耳元で囁かれたように響いたからでした。

慌てて振り向いてみると、もちろん女の子の姿は元の場所にあります。
けれど、もう一度良く見て気付きました。さっき投げ渡したはずの布には全く触った跡がありません。
長い黒髪からぽたぽたと水滴を垂らしたまま、乗り込んだときと同じ薄い笑みを浮かべていたのです。
く、と御者さんが自分が唾を飲み込む音に驚きます。何を言っているのかと声に出す前に、
女の子は小さくゆがんだ唇を動かし続けました。
『エルスサーオには行きたかったけど、今、行きたいところはちがうの……』
御者さんは、息を呑んで首を周りに向けてみます。何故ならその声はずっと耳元で呟かれているから。
『今はね。……ハイペリアに、いきたいの……』
ひっ、と喉から声が漏れました。ハイペリア。死んだ人間が旅立つという、バルガ・ロアーの向こうの世界。
『ずっと、ここから、うごけないの』
今になって、御者さんたちの中に伝わる噂を思い出しました。
『ほかのひとにたのんだら、みんなおどろいて、ひとりでさきに、いっちゃった』
大雨の日のこの道には、事故を起こさせる「何か」がやってくる。
『ねぇ、わたしを、ハイペリアに、つれていって――――』」

「ぴぎゃ~~~~!」
「ひぃ~~~~ん」
搾り出すように掠れた声で訴えかけるヘリオン――今は女の子か――の言葉に耐え切れず、
ネリーとシアーは二人仲良く悲鳴を上げて机に突っ伏してしまった。
元から震え気味だったシアーはともかく、ネリーまでここまで取り乱すなんて、
ヘリオンの話し振りもなかなかに堂に入ったものがあるよなぁ。
「へ、へへへヘリオ~ン……」
「もう、いいよぉ……こわいよぅ……ネリー、こっちぃ~」
耳を塞ぎがちにぷるぷるとしながら、俺の左側のところにネリーが椅子を移動させた。
そんな寄り添う二人に容赦なく、一旦お話モードからちょっとだけ素に戻ったヘリオンが追い討ちをかける。

「え……でも、こういうお話って、途中でやめちゃうとひどい事になるんですよ?」
神妙な雰囲気を作ったまま恐怖を煽る事は忘れない。
お話の中の御者のように、ひぃっとうめきをあげて、
涙の浮かんだ目で二人は仕方がなさそうに首を縦に振った。
恐怖におののく二人を前にして、妙に艶を増した顔色を浮かべるヘリオンがお話の終わりに向かって言葉を紡ぐ。
実に楽しそうな気配を俺に感じさせながら、あらぶる息を抑えようとしている奴がその様子をじっと眺めていた。

「御者さんに聞こえる声はもう呟きではなくて。わんわんと頭の中で響くように鳴っています。
自分の声で響きをかき消そうとするように喉からわあわあと悲鳴を洩らした後、
御者さんははっと気付いて鞭を振るいました。いいえ、速さを出すためではありません。
自分の声に驚いてしまった馬を落ち着かせるためでした。
『連れて行けない、エルスサーオに帰るだけだ。連れて行けるのはエルスサーオだけだ……!』
念じるように呟きながら、荷台から確かに感じられていた気配も、頭の中に響く声も何もかも無視して、
ただひたすらに、御者さんは無事にエルスサーオに着くことだけを考えて馬車を操縦し続けます。
いつまでそうしていたのか、ふと気がつくと雨でふさがれた視界の向こうについにエルスサーオが見えました。
びちゃびちゃと泥まじりの水しぶきを跳ね上げながら、普段よりも随分と速く馬車はエルスサーオの街に滑り込み、
たっぷりと停車場所を行き過ぎてから、馬がいななきをあげると共にようやく止まりました。
はっと気付いたように御者さんが辺りを見ると、見慣れた街の景色が目に映ります。
『は、は、ほら、エルスサーオだ。今からでも遅くない。早く、友達に会って来なさい』
まだ荷台に座ったままの女の子に、息を切らした御者さんが話しかけました。
けれど、膝を抱えたままのその子の視線は一層冷たくなって、御者さんに向けられます。
『……う……のに……ちが……の……』
頭の中でまた、女の子の声が響き始めます。先ほどよりもずっと暗く、低く、重く。
ずしりと胸に重みを覚えた御者さんが堪らずに服の胸元を掴みながら、荷台を見ます。

荷台の中の女の子はのろのろと立ち上がると、未だにずぶ濡れのままふらりと御者台まで歩いてきます。
足跡もつかなければ、水音も何もしていないと気付いたときには、もうその子は目の前まで来ていました。
そこまで近づかれて、御者さんは、ようやくその子の顔をまともに見たのです。
それは、御者さんが良く知っている動物に蹴られた大きな傷をつけた老婆のものでした。
『わたしは、ハイペリアに、あいに、いきたかったのに……!』
一際大きく、しわがれて怨みのこもった声が届くと同時に、
頬と首元にひやりとした感触とぎりぎりと締め付けるような痛みが襲い掛かって、
御者さんはわけも分からずに大きく悲鳴を上げていました。
声を聞きつけ、一体何事かと御者さんの仕事仲間や、その近くの家の人が駆けつけました。
いつまでも御者台から降りてこないことを不思議がってさらにその人たちが近寄ると、
御者さんは他に誰もいない御者台の上で、『連れて行けない、連れて行けない……』と、引きつった顔で呟き続けていたのです。
何日か経って、ようやく正気に戻った御者さんと同僚が調べてみると、
もう何十年も前のことになっていましたが、ラキオスから引っ越してきた家族は確かにいました。
ですが、その家族の中にいた子どもも、もうすでに亡くなっていたそうです。
そしてラキオスの女の子に関しても。大雨の中視界が悪い中にもかかわらず、
急ぐあまりエルスサーオへの帰り道を無謀な早さで走っていた御者が、
一人の子どもを轢き殺してしまった、という記録が見つけられたのです。
もう一度、御者さんたちはその子に出会った場所まで行って、
ハイペリアへとたどり着けるようにお祈りをしてあげました。
ですがもうその御者さんは決して、恐怖のあまり雨の日には馬車を運転できなくなってしまったので、
本当に女の子がハイペリアに行くことができて、二度と現れないかどうかはわからないままなのだそうです……」

話し終えると同時に、ヘリオンは自らの手で更にランプの火を落とした。
もう左右に座る三人の顔が見えるかどうかってくらいの小さな光だけしか残っていない。
「はい、これでわたしのお話は終わりです。あぁ、楽しかった」
つやつやと頬を紅潮させながら息をつくヘリオンの正面には、
「うぇぇ……ひくっ、馬車こわぁい~、女の子こわいぃ~」
「ふぇ~、お、おわった~?」
お互いを支えあうように抱きかかえながらぐったりと脱力するネリーとシアー。
うーん、まさかヘリオンからここまで怪談らしい話が聞けるとは正直思ってなかった。
どっちかと言えば今やっと立ち直りかけている二人のように怖がるほうだと思い込んでた。
「好きで調べたって事は、こっちにも色々とこういう話があるってことか」
「はい。噂話とかそういうのをまとめた娯楽の本があるところにはあるんです。
けれど……あの、今のお話、気に入りませんでしたか? あんまり怖がってくださいませんし……」
軽く俯き気味に顔を伏せ、ちらちらと上目遣いに俺の様子をうかがう。
「ん? 話はしっかりしてて面白かったぞ。それにさ、
俺まで怖がるような話ならネリーとシアーなんか気を失うくらいになっちまうって」
なぁ? と視線を向けると、カクカクと揃って頷く二人。
それから、と俺は言葉を続けてヘリオンに尋ねる。
「地縛霊っていうか、幽霊っていうかそういうのが居るってのはこっちでも一般的なのかな」
顔色を見るような目つきから一転してニコニコとしていたヘリオンは、
そうですねぇ、と小首を傾げながら調べたという話を思い返すように目を閉じた。
「スピリットの間では、あまりそういうお話が伝わることはないです。
お化けになっちゃうよりも、もう一度生まれ変わると考えられるほうが多いですからね。
ただ、人の間では今のお話みたいに何か強い思いがあると、
ハイペリアに行かずに残ってしまうっていう考え方も結構ありますよ」
どことなく、言葉を選ぶように静かに。ヘリオンは説明を締めくくった。

スピリットが死ねば再生の剣に。人が死ねばハイペリアに。
だとしたら、エトランジェが霧に還れば、一体何処に行くことになるのだろう。
その答えはどうなるのか、柄にも無く考えを巡らせかけたその時に、
横から気を取り直したネリーとシアーの声が上がった。
「あ~、だったらネリーはお菓子をお腹いっぱい食べられないままだったらいつまでも台所に残っちゃうかな~」
「シアーは……う~ん、ネリーと一緒~」
不意に、台所でお菓子をもふもふと頬張り続ける半透明の二人の姿が脳裏に浮かぶ。
確かにそれだけを思えばどことはなしに二人らしい姿かもしれない。けど。
「駄目だぞ、何か思い残すようなことをしちゃ。
お前たちはちゃんと、自分でやりたいことをやり続けないと。なぁ、ヘリオン」
「は、はい……っ。思い残しが無い、ように……」
「それなら、明日のおやつを増やしてってハリオンに頼んでよユートさま~」
「ユートさま~」
この三人だけでなく、みんな、少なくとも今居るみんなは最後まで一緒に居てほしいから。
「おう、それじゃヘリオンの話も終わったから……」
最後は俺の話だな、と左右からの視線に挟まれたその瞬間、
「その通りだ悠人! 思い残しは良くないもんなぁ。……というわけでだ。
誰かこの中に俺の心残りを埋めてくれるいい子はいないかなぁ~!?」
さっきまではネリーの居た場所に、突如としてぬっと暗がりに隠れていた奴が姿を現した。
今にも手当たり次第に掴みかかりそうな言い草に、慌てて俺は立ち上がった。
そのまま牽制するように奴を睨みつける。……のだが。

『……?』
ヘリオンを始め、シアーも、ネリーも。俺の視線の先、
光陰へと目をやった後、いっせいに首を傾げて俺を見上げた。
「……あれ?」
左右を見回してからもう一度正面へ。ぼりぼりと頭を掻きながら苦笑いを浮かべている姿。
「いやぁ……悠人の話が終わってからと思ってたんだが。
黙って見てるだけになっちまうのも勿体無いものでなぁ、ま、十分楽しみはしたけどな」
その頬からつつぅと一筋の汗が流れた。さらに、その背後から、もう一つの影が浮かび上がってくる。
パシッ パシッパシッ ピシィッ
直後に、俺の部屋に乾いた音が響き始めた。
「ひぁぁっ!?」
「なななな何、この音ぉ!?」
「わ、分かりませんけどぉっ、『カイダン』をしてるとたまに……来る、とか……」
ガタガタッっと椅子を倒して立ち上がり、よたよたと這うように俺の傍まで寄ってくるみんな。
……ネリーとシアーはともかく、ヘリオンもか……
話すのも好きだけど驚かされる側に回ることも出来るとは、ある意味怪談にはぴったりの性格だ。
そこにもう一度大きく、パッシィィン! といっそ気持ちよくなるくらい甲高い響きが部屋を揺らした。
『ひぃやぁぁぁ~~~~!?』
腰から腕から、完全にしがみついている三人を身体の陰に隠して、そのまま正面を見つめる。
果たして、その場所には。げんなりと首根っこをつかまれたまま床にくずおれる光陰と、
「全く……黙って一人で先に行ったと思ったら、まぁたバカな事して。もうあんまり時間も無いってのに」
こちらも制服を着て右手にハリセンを持つ、もう一人の親友、今日子が共に居たのだった。

さっきからの音は今日子が光陰をハリセンで殴り倒す音だったのだけれど。
ああ、そうか。こういうのって、気付く奴と気付かない奴がいるもんな。
特にこいつらの場合は、つながりの深い俺だけがってことも十分にありえる。
「で、今日子は何をしに来たんだ?」
気負わず、普段どおりの調子で話しかけた。それに満足したように、今日子はにっと笑みを浮かべる。
「べっつに~。へへ、ホントはね。悠が随分ヘコんでたみたいだから……
あたしたちは、大丈夫だよって言いに来てやるつもりだったんだけどね。
でもなんか、ちょっと前から自分で吹っ切っちゃったみたいだし」
じっと、軽く睨むように目を見つめられて、俺の頬にぴしゃりとした痛みと、包み込むような柔らかさが蘇る。
「う……あれも、見てたのか……」
「まぁね~。だから、普通に会いに来るだけってつもりだったのに、このアホは……」
「そう言わないでやってくれ。俺も結構面白かったんだからな」
どこへとも無くハリセンをしまい込み、やれやれと肩をすくめて大きく溜息をついた。
「一応この後どうするかってのについて、悠の言葉も考えに入れるわ。
で、もう大丈夫だとは思うんだけどね、さっきのやり取りを見てても。
……負けちゃ、だめだよ。悠ももちろんだし、
その子たちだって、あたしたちみたいにしちゃ許さないからね?」
びっ、と指を俺の胸元に突きつけて力強く俺の目を見つめる。
決してそれから目を外さずに、俺も負けないくらいに今日子を睨みつけて頷いた。

「ああ、わかってる。もうこれ以上、絶対に誰も犠牲になんかしないから。
……だから、今日子も、光陰も、心配しないで見ててくれ」
よし、と今日子が頷くと、床に倒れかけていた光陰も身体を起こしてニヤリと笑う。
「言ったな? もしも約束破るような事があったら、俺がこの子たちを可愛がってやるから……ゴフッ」
今度はみぞおちに強烈な打撃を食らって、そのまま光陰は悶絶した。いい加減にやめればいいのに。
「それじゃあ、ね。もしも、次があったら今度は佳織ちゃんも一緒に会えたらいいな」
「……おう。それじゃあまたな。それまでは二人とも……元気で、でいいのかな?」
最後にくすりと笑った後、光陰の首根っこを引っつかんだまま、二人は俺の部屋から溶けるように姿を消した。
なるほど、鍵のかかった部屋だろうがお構いなしに出てきたのはそうしたからか。
「あ、あのぅ~……ユート、さま? 今、一体どなたとお話を……?」
「ひょ、ひょっとして……『カイダン』したから来たっていうのとお話?」
「……?」
ラップ音もどきを聞いてからずっと、未だに俺の服にしがみついたままの三人をそっと振り返り、静かに頷く。
「そう、だな。最後に俺の話が残ってたんだから、説明も込みでそれを俺の怪談にするよ」
だんだんと服にかかる力が緩んで、もう一度三人が起こしなおした席に着く。
「……ハイペリアには、というか俺のいた国には、か。『お盆』って言う風習があってな……」
そして、俺は。今日体験したこの出来事を、静かに語り始めたのだった――