ぱらぱらと降り出してきた雨に、見上げて目を細める。分厚い雲が垂れ込み、どっしりと重い空。
戦いの間中ずっと肌に貼り付いていた粘っこい空気が、霧のように身体の芯まで沁み込んで来る。
汗で冷たく湿ったシャツの隙間からじわじわと潜り込む生ぬるい風は、雨の雫と相まって不快この上も無い。
もたれかかった樹のささくれ立った感触が毒蟲の鋭い棘を連想させつつ背中をじくじくと刺激する。
放り投げた両足はバケツ一杯搾り出せるほどたっぷりと水分や泥を吸い込み、重くてとても動かせない。
力無く吐いた溜息が白い綿飴のように目の前を曇らせ、そしてどこかへと消えていった。
寒い。カチカチと勝手に鳴り出す奥歯。感覚の無い唇は、恐らくすっかり紫に変色してしまっているだろう。
筋肉が硬直する。強張りきった腹筋に力が入り、その拍子に強烈な痛みが走った。
「痛てぇ……」
しまった。口に出すつもりは無かったのに。痛みを庇ってつい傷口を押さえてしまった。
剣で回復させているとはいえ、普通の人間ならまず軽く致命傷になる筈の怪我。
そこにずぶり、と親指が丸ごと入ってしまう。普段で無くても呻き声の一つも漏らそうというものだが。
ぱしゃり、と身動ぎをする気配。樹の陰に立ち、神剣を構えながら周囲への警戒を怠らずに。
「…………ですから、無理だと申し上げたのです」
長く纏めた蒼い髪が靡き、冷ややかな氷の様な視線がゆっくりと振り返った。
初めて紹介された時、彼女は腕を組んだままその鋭すぎる双眸を猫の目の様に細め、
「わたし、貴方のことを信用していませんから」
そんな、何の抑揚も感情も感じられない言葉を投げつけてきた。それも殊更凛とした態度を全く崩さずに。
当然差し出した手になど一顧もされず、俺の右手は行き場を無くして宙を彷徨う結果となった。
それはエトランジェとしてスピリットに傅かれる事に慣れていた俺にとって、かなり衝撃的な出会いだった。
それ以降、廊下ですれ違っても完全無視を決め込んでいる彼女に、自分から話しかける用事もなく、
また、進んで何とか和解しようと深く考えていた訳でもないので今までずるずるとそんな関係が続いていた。
同じ部隊になった事も無い。恐らくエスペリアの方で気を遣ってくれていたのだろう。
そう、ラキオスがサーギオス帝国に宣戦布告し、ここ法皇の壁寸前に迫るまでは。
ここで俺は失敗を三つも重ねた。一つは、散開し、森に逃げ込んだ敵を深追いし過ぎた事。
次に、絶対の防御力に油断し、不覚にも瀕死の敵の反撃を喰らい、深手を負った事。
そして、よりにもよってこの追撃を最後まで反対していた相手に、偶然倒れている所を見つかってしまった事。
特に三番目は、致命的だった。敵に止めを刺して膝をついた所に現れた味方。本来は喜ぶべきなのだろうが。
華奢な彼女では、到底俺は運べない。また、ブルースピリットの彼女には治癒魔法が使えない。
という訳で、不本意ながら俺は彼女の護衛の元、こうして回復に専一しているという状況に陥っていた。
「…………まだ、かかりそうですか?」
特に心配しているとも思えない、淡々とした響き。聞きようによっては皮肉とも取れる突き放したセリフ。
治癒を施している、と言ったものの、実際には神剣は沈黙している。俺は答えを返さなかった。
下手に喋ると呻き声のようなものが漏れそうだったし、本当の事を伝えても事態の深刻さは変わらない。
何より、これ以上軽蔑めいた事を言われて最低の気分を更に突き落とすような無謀な真似はしたくなかった。
軽口の一つでも叩き合えば少しでも気が楽になるかも知れないが、相手に何を期待出来る訳でもない。
「………………」
「………………」
「………………なぁ」
「………………」
「俺の事は置いて行っていいから今のうちに助けを呼んで来てくれないか? 雨が激しくなると視界が悪くなる」
「………………」
「………………」
結局根負けして、同じ言葉を繰り返す。うんざりしながらも、他に話す話題も無い。
もう何回目だろう。彼女が現れた時に始めた会話。……最も会話と言えるかどうか怪しいもんだが。
彼女だってこの状況を快しとは思っている訳が無いだろう。俺としても最大限の折衷案だった。
しかし何度そう提案しても彼女は返事どころかその場を動こうともしない。
こうなってくると、何を考えているのかさっぱりだった。薄々判ってはいたが、相当な頑固者と言えるだろう。
もう一度空を見上げる。気のせいか少し大粒になったような雨が徐々に景色を煙(けぶ)らせていった。
陰鬱さは風景の方では無く、映し出す自分の心なのだな、と一つ利口になった気がして益々自嘲的になった。
がさがさがさっ!
『っ!』
同時に、反応した。少し開けた右手の更に奥。そこで草叢が激しく揺れる。敵。咄嗟に剣を杖に立ち上がった。
とたん腹部に激痛が走り、力が抜け、膝が落ちそうになる。しかしその時どん、と肩が柔らかい何かにぶつかった。
「…………あまり世話を焼かせないで」
隣で彼女が細身の剣を構えたまま、俺を支えていた。華奢とも思える四肢に、ぐっと力を籠めて。
初めて会った時と同じ眼光で真っ直ぐに正面の草叢を見据え、前髪から滴り落ちる雫に瞬きもせずに。
「……ああ、スマン」
痩せ我慢というヤツだったのかもしれない。
助かった、とは素直に言えず、俺は口元だけでにっと笑い、そして同じように正面を睨んだ。
ぱしゃぱしゃと、いつの間にか本降りになった雨が泥の中で跳ねている。音は、それだけだった。
意識を神剣に集中させる。雨粒の一つ一つが通り過ぎるのが判るほど鋭敏になっていく感覚。
同時に時間が間延びされる。長く静止した瞬き。じわじわと、重くプレッシャーが圧し掛かってくる。
しかし、不思議に恐怖は無かった。まるで前の世界であいつが隣にいるような、そんな安心感があった。
「いたぞ!……大丈夫かっ!!」
飛び込んできた親友を見て、俺は体中から力が抜けていくのを感じた。遅いぞ、そんな憎まれ口も出てこない。
ざっ、と下ろした神剣を地面に刺し、かろうじて体勢を支える。深く長い溜息が漏れた。
ふと隣を見てみると、相変わらずの仏頂面。俺は思わず苦笑した。どこまで冷静なのか、と半ば呆れた。
そんな俺をちらっと一瞥した彼女がそのままニ、三歩歩き出したところで――――
「はい、問題ありませ……あ……」
――――どさっ、と助けに来た悠人に向かって倒れこんだ。
「光陰っ! 無事なのっ?!」
草叢から、続けて飛び出してきた今日子が駆け寄って来て激しく揺さぶる。
しかし俺は、悠人に抱き抱えられたセリアを唖然として見ていた。水滴を滴らせ、背中に貼り付いている長い髪。
意識も朦朧としているらしく両手両足とも力なく垂れ下がっている。頭を悠人の胸に埋めたまま動かない。
そして…………つつー、とずぶ濡れの服から腕を伝う鮮血が、マナに変わりつつ『熱病』に吸い込まれていた。
両手で抱き上げながら、悠人が懸命に呼びかけている。
「セリアッ! 馬鹿、そんな怪我で飛び出しやがって!!」
「馬鹿って…… 言わないでよ…… しょうがないじゃない……」
風に乗ってなのか、微かに聞こえて来るうわ言のような掠れた答え。
「仲間が死ぬのは…… もう見たくないもの…… そんな悲しい思い、ユートさまには…………」
「……セリア! おいっ! ……くっ、今日子、先に行く! すぐにハリオンを呼ぶからっ!!」
「了解! こっちは大丈夫。悠、ちゃんとセリアを守るのよっ!」
「ああっ! 言われなくてもっ!」
急に目の前が明るくなる。悠人が『求め』の力を解放していた。そのまま必死の形相で駆け出していく。
ばしゃばしゃと泥を跳ね上げていく後姿を見送りながら、俺はやっと呼吸を取り戻したように呟いていた。
「……なぁ今日子 ……アイツら、強いな」
「ええ、ホントにね。光陰にも見せたかったわよ、悠の慌てっぷり」
「ん? なんだ、何かあったのか?」
「まぁ最初はセリアだったんだけどね……アンタが居なくなったって聞いた途端」
そこまで言って、今日子は喉の奥をくっくっと鳴らした。
「自分だって怪我してるくせに、エスペリアの治療を振り切って飛び出して行っちゃったのよ」
「あたしより血相変えて、『ユートさまのご友人を見殺しには出来ませんっ!』ってさ」
「……あん?」
「ブルースピリットのスピードだからね。慌てて追いかけたんだけど、いや~探すのに手間取ったわ」
「ちょっと待て今日子」
「悠も悠で、もうずっとセリアセリアって迷子の飼い猫探すようでさ。……全く、見てて妬けるくらい」
「いや、あのな。俺彼女には嫌われてたはずなんだが」
「へ? 何言ってんの? 馬鹿ねぇそんな訳ないじゃない。…………ほら、少しは楽になったでしょ」
「いやしかしだな……あ、おおさんきゅ、今日子。よっこいせっと」
ぽん、と傷口を軽く叩かれたが、痛みは感じない。『空虚』のマナが応急手当程度に回復させてくれていた。
俺は立ち上がりながら、『因果』を持ち上げてみる。微かだが、刀身が鈍く輝き始めていた。
「話せば判るけど、あの娘は誰に対してもああやって不器用なのよ。……最も悠以外には、だけどね」
今日子の言葉に思い知らされる。先程までの印象は、話さなくても完全に逆転していた。
「ああ……なるほどな。俺もまだまだ修行が足りないぜ」
ウインクしながら苦笑いする今日子に俺も片目を瞑って返す。ふと気づくと、雨が上がっていた。
思い出したように陽の差し始めた空を仰ぎながら、ふぅ、と大きく溜息をつく。
清々しい気分とは何故か正反対の言葉が出た。
「まったく…… 勝てなかった訳だぜ……」
「え? 何か言った?」
「……いいや。そういや今日子、さっきあたしより血相変えてって言ってたよな。少しは心配してくれたのか?」
「なっっ!! そそそそんな事、あたしが言うわけないでしょうがっっ!!」
「おおっと勘弁してくれよ、これでも重傷なんだ」
頭を守るように、両手で降参の意思表示。ハリセンを構えた今日子がしぶしぶ取り下げる。
俺は笑いながら、今度コツというやつを悠人に聞こうと思っていた。
悠人に教えを請うなんて少し悔しい気もするが、このまま礼も言わずに済ませるのは男が廃るというものだ。
『熱病』。まったくぴったりの神剣だな、蒼く美しい髪を靡かせた後姿を思い出してそんな余計な事を考えていた。