静寂の理由

  ―――さまぁ。起きてるぅ?

「ん…………」
ぼんやりと遠く白く霞む景色の中、何かが聞こえる。木霊のように耳元に届く音。
まるでアンテナの少ない携帯電話越しに小声で囁かれるような。それとももう思い出せない夢の続きだろうか。
なんだろう。考えようとしても無駄だった。吸い込まれるようなまどろみの気持ち良さ。
微かに響くこんこん、という音が子守唄のように響き、温かい泥の中へと引き摺り込まれてしまう。

  ―――おじゃましま~す……

「ん……んん…………」
きぃ、という少し軋んだ鋭い音に、再び引き上げられる沈みかけた意識。
寝返りを打ち、ささやかな抵抗を試みる。拍子に薄っすらとした光を瞼越しに感じた。
……そうか、朝か。でも勘弁してくれ、まだ眠いんだ、などと叫ぶ心の声。つまり口を動かすのも面倒臭い。
ごそごそ。手探りで毛布を顔まで引っ張り上げ、安全地帯を作り上げる。腕が自分の物じゃ無い位重かった。

  ―――すぅーー…………

「…………んあ?」
すぐ近くに、風の流れるような音。気のせいか、何だか良い匂いまでする。おかしいな、どこか隙間が…………

「ユ ー ト さ ま ぁ、 起 っ き ろ ~~~~! ! !」
「どわわわぁぁぁっっ!!!」

鼓膜が破れるかと思った。
一気に覚醒し、首だけ仰け反った拍子に、強烈に後頭部を壁に打ちつけてしまう。
布団の中で発した甲高い声がくわんくわんと耳鳴りのように頭の中を跳ね回る。
痛覚と聴覚の同時攻撃に悶絶しながら少し潤んだ目を開くと、そこには至近距離でにっと笑う幼い顔立ち。
何気に腕を抱え込むようにしがみついている。なるほど重い訳だ、とそこだけ辛うじて納得出来た。

「なっ、ネ、ネリー?」
「へへ、ヤシュウウ(おはよう)、ユートさま♪」
「何で俺の布団の中にネリーがいるんだ……って何かあったのか?!」
咄嗟に非常事態が思い浮かぶ。つい先日も敵の威力偵察による襲撃を受けたばかりだ。
無意識に『求め』の位置を手探りで確認する。しかしその手はすぐにしっかりと抑えつけられていた。
「しーっ、大声出しちゃダメだよ。まだみんな寝てるんだからぁ」
だけではなく、顔を更に接近させ、目の前に立てた人差し指を口元に当て、耳元で小さく囁いてくる。
「へ……寝てる? じゃあ、また敵襲とかじゃないのか?」
「敵さん? ん~ん、来てないよぉ? ナンで?」
何故そんな事を訊くのか、と不思議そうにくりくりと動くネリーの顔。そうか、来てないのか。よかった。

「…………ヤヤカウ(おやすみ)」
安心した途端、再び眠気が訪れた。じゃあなんでネリーがここに、と疑問が頭を掠めたが、とりあえずは眠い。
背中を向け、惰眠の続きをしようとする。ネリーの感心するような声が背後から聞こえてきた。
「あ☆ユートさまヨト語上手になったねぇ……ってわわっ!」
「………………」
「コラぁ、寝ちゃダメぇ!」
一転、激しく揺さぶられる感覚。暫く無言で耐え続けてみたが、震度が3を越えた辺りで諦めた。
「……あのなぁ、今日は久し振りの休みなんだから、もう少し眠らせてくれよ……」
「ダメだよぅ。そんなの待ってたら、エスペリア達が起きちゃう~」
ゆさゆさゆさ。何に拘ってるのか、小さな体を精一杯使って揺さぶってくる。震度が5を越えた。限界だった。
「判った、判ったから……。ふあぁ~……なんだってんだ一体…………」
執拗な攻撃に、まだぐらぐらと揺れる頭を振りながら、しかたなしに布団を剥ぐ。
飛び込んでくる朝の日差しに目を細め、出てきた欠伸に涙を擦りながらネリーの方を向いて文句を―――
「――――あ゛?」
「へへ~、やった♪」

――――言おうとして、動けなくなった。

ベッドのすぐ脇にぴょん、と立ち上がったネリーは朝日を浴びて、気持ちよさそうにはしゃいでいる。
長いポニーテールがくるくると元気に回る身体に合わせてきらきら蒼く靡いていた。

……しかし、目を奪われたのはそんな事ではなくて。ネリーは、普段の戦闘服では無かった。
「……佳織に借りたのか?」
思わず声が漏れる。っていうか、それしか考えられなかった。ファンタズマゴリアにあるはずの無い衣装。
濃紺のワンピースに朱色のネクタイ。セーラーを形取った三角の襟が白く肩から背中へと垂れている。
襟にひかれた二本のラインは、紛れも無くあの学園の幼○部のものだった。

「ねね、ユートさまぁ。似合う? 似合う?」
視線に気づいたネリーが少し気恥ずかしげに囁き、スカートの裾を掴みながら上目遣いで覗き込んでくる。
「あ、ああ…………」
機械的に頷いたものの、真っ白な頭では咄嗟に声が出ない。
やった、と小さくガッツポーズを取ったネリーがぴょん、と飛び跳ねた。
その瞬間、フリルを飾った短めのスカートがふわりと浮き、すらっとした健康的な足が太腿まで見えた。

……酷く、似合っていた。
いつもは青いハイソで覆われているそれが、念入りにも白いソックスに履きかえられている。
足首を申し訳程度に隠している短めのソックスがよく締まっている脹脛をより健康的に見せていた。
そして膝から急に丸みと柔らかさを帯びている真っ白な太腿。スレンダーなネリーが持つ、思わぬ脚線美。
普段見えない部分が見えるというのは必要以上に胸をどきどきとさせる。気づけば呆然と見とれていた。

「―――ユートさまぁ?」
「わあっ!」
いきなり目の前で手を翳され、急速に我に返った。
「も~まだ寝惚けてるのお? 早く起きようよ~」
「あ、ああ判った、起きるよ、起きるから……」
どうしてこうも急かされるのかは判らないが、取りあえずは今の気分を誤魔化そうと腰のシーツをよけようとして、
「…………頼むから、一度外に出ていてくれないか?」
朝から刺激が強過ぎる。俺は情けない声でネリーに“懇願しなければならなく”なっていた。


着替えを済ました途端、ネリーに引っ張られて詰所を出た。
何故か廊下では足音を立てないよう言われ、理由を聞こうにも声を出す事も許されず。
外に出てからも、ずっと腕を引っ張られながら、気づいたら街の方角に向けて森の中を歩かされていた。
先導するように歩くネリーの大きなポニーテールが揺れている。木漏れ日が反射してきらきらと輝いていた。

ある程度まで来た所でようやくネリーの歩みがぴたりと止まる。
しかしそのまま耳を澄ませるようにじっと動かない。何かを探しているようにも見えた。
「??…………ネリー?」
「……うん、もう大丈夫だよね…………あ~どきどきしたぁ! 脱出かんりょ~!」
不審に思い始めた頃、唐突にその背中がぱっと大きくウイングハイロゥを羽ばたかせた。
「うおっ! びっくりした…………って? 脱出?」
くるっと振り返るネリーの表情が、悪戯っぽいものに変わっている。ぺろっと小さな舌を出していた。
どうやらもう声を出してもいいらしい。とりあえずの疑問を訊いてみる。
「脱出って……詰所から、か?」
「うんっ! だってみんなに見つかりたくなかったから……えへへ☆」
「? 見つかるとなんかまずいのか?」
頭に疑問符を浮かべたままの俺に、うーん、と伸びをしたまま日差しに目を細めたネリーは呟いた。
「だってだってユートさま、いっつも誰かと一緒だから。だからぁ、今日はネリーの番なんだよ……ダメ?」

……そうか、だからこんなに朝早く。そういえば、最近は忙しくて殆どかまってやれなかったしな。
「ああ、そうだな。今日はネリーの日だ」
くしゃっと頭を撫でてやる。纏めた後ろ髪がふわりと弾んだ。
「わわ! ……あはは、ユートさまありがとう!」
くすぐったそうに身を捩り、にぱっと笑う。くるくると変わる表情が可愛いらしい。
さらさらのストレートな蒼い髪にその髪形はネリーにとても良く似合っている、改めてそう思った。
「……あれ? ネリー今日の髪留め、いつもと違うのか?」
「え……う、うん。だって折角ユートさまと“でぇと”なんだから……」
ごにょごにょと口籠もり、微かに頬を染めて俯く。
急に大人しくなった仕草に笑いが込み上げてきた。苦笑しながら更に頭を撫でくり回してからかってみる。
「ところでシアーにも内緒なのか? 後で怒られるぞ」
「あ、ううん、ちゃんとシアーには話したよ。おやつ一日分で許してくれたんだ」
「…………俺はお菓子かよ」
そんな雑談を交わしつつ、俺達は改めて街へと向かった。気づけば気持ちの良い朝だった。


「ふあぁ~……いやそれにしても、流石にまだ店はどこも開いてないな」
「…………うん」
「これじゃどこに行っても同じか……どっか別の場所にでも行くか?」
「そ、そうだね…………」
街に辿り着いた途端、ネリーは急に無口になった。
さっきまでは元気良く前を歩いていたのに、今では俺のすぐ側から離れようとしない。
元気一杯に羽ばたかせていたハイロゥはまるで空気の抜けた風船みたいにしおしおになり、やがて消えていった。
(いくらくるくる変わるっていっても晴れ後雨じゃな……)
裾を掴んだままきょろきょろと辺りを見回しながら、ネリーはどこか落ち着かない視線でそわそわとしていた。

「ネリーはどこか行きたいトコでもあるのか? 今日はどこでも付き合うぞ」
「…………ううん」
適当に話しかけても、なんだかレスポンスが悪い。すっかり萎んでしまったような感じだった。
「なんだ、どうかしたのか? もしかして具合が悪いとか」
心配して覗き込むと少し困ったように眉を顰め、作ったような笑い方で
「ううん、なんでもない。……ねぇユートさま、楽しい?」
「え? あ、ああまあ……朝の散歩なんて久し振りだしな。清々しいといえば清々しいかな」
「そ、そう……良かった…………」
終始こんなやりとりが続く。何だかネリーと歩いている気がしなかった。これじゃまるでシアーのような。
(…………シアー? あ、そうか……)
いつもネリーの影で、怯えるような視線を向けてくるシアー。今のネリーはそれにそっくりだった。
でも一体なんに怯えるっていうんだ? そんな疑問が頭をよぎった時、ふと視線を感じた。
「…………ん?」
改めて周囲を見回す。どこにでもある朝の街のひっそりとした風景だった。
まだ起き始める前の、人気の少ない道。近くに聞こえる鳥の囀り。
朝もやがかかり、少し湿度の高いひんやりとした空気。たまに見かける、散歩途中の人たち。
(あ…………)
ぴくっとネリーの肩が震えるのが判った。すれ違う人が、無言で一瞬だけこちらを見つめる。
その視線と初めて目が合った。

――――それは、不審と警戒と侮蔑の視線だった。


妖精――スピリット。その目は、そう語っていた。
異界の服装、蒼い髪に蒼い瞳。それは誰が見ても、人とは異なるもの。
この国・世界では、その外見は軽蔑と恐怖の対象だった。
街へ出る事が許されてはいるものの、人々の対応は冷たい。常に接触を避けようとする。

彼らは知らない。いや、知ろうとしない。
彼女達が、普通の人となんら変わらないという事を。
いやむしろ、より人としての優しさや温かさを、その業ゆえに持ち合わせているという事を。
自分達が現れる事で人々に不安を与えることを知っている彼女達は、だからこそめったに街には訪れない。
しかしその思いやりは伝わらず、こうして好奇の視線だけを送り続ける。
妖精趣味――そうとでも考えたのだろう、俺とネリーが並んでいるだけで。

「……ユ、ユートさまぁ?」
不安そうな顔が見上げてくる。俺は無言でネリーの肩を抱き、そのまま歩き続けた。
慌てたネリーが何か小さく訴えるような仕草を見せたが、気にせず更に力を籠めてやる。
やがて腕の中の小さな体は、きゅっと裾を掴む手の力を強くしてしがみついていた。


「わぁ…………」
誰もいない高台に出た途端、ネリーは柵に飛びつき、大きく叫んだ。
丁度朝日がヴァーテド湖をきらきらと照らしながら、その全身を水平線から浮かび上がらせた所。
すっかり機嫌を直し、嬉しそうに跳ねる後姿に、俺はようやく声をかけた。

「なあネリー……こうなるのが判っていて、どうして俺を誘ったんだ?」
単独でも不快な思いしかしない。エトランジェと歩いていたら、尚更注目を浴びてしまう。
うかつだったが、考えてみれば当たり前の事だった。もっと早く気付くべきだったのだ。
自分だけならともかく、深く考えなかったせいで傷つけてしまった。そんな後悔で一杯だった。

「うん……ネリーね……一度でいいから、見ておきたかったんだぁ……」
ゆっくりと振り向く蒼い水晶のような瞳。円らなそれは朝日に反射して、猫の目のように細く輝いていた。
「あのね、ネリー、スピリットだから。だから、この国のみんなを守るんだよ。だからね……」
今来た道を振り返る。眼下に広がる、平和な街並み。人々がつつましく守っている生活。

「見ておきたかったんだぁ……ユートさまと一緒に……」
へへ、と笑い、仔犬のようにすり寄ってくる。俺は反射的に、小柄な体を力いっぱい抱き締めていた。
「ユ、ユートさまぁ、どーしたの?」
わたわたと両手をばたつかせて慌てるネリー。頭の上で、真新しい白いリボンがふわふわと揺れていた。


「ねぇねぇ、お兄ちゃんたち、何してるのぉ~?」
「うわっ!」
「わっ、ちょっと……きゃんっ!」
急に足元から聞こえた声に、俺はぱっと反射的にネリーを突き放してしまっていた。
結果バランスを崩したネリーは盛大に尻餅をつき、上目遣いで恨めしそうな声を上げてくる。
「いたたた……も~、お尻打っちゃったよ~!」
「あ、悪い……つい驚いて。ええと……」
ぷぅ、と頬を膨らませて睨むネリーに謝りつつ手を差し伸べながら、先程の声の主を探る。すると。
「お姉ちゃん、大丈夫ぅ~?」
「「…………へ?」」
ネリーのすぐ横に、いつの間にか手鞠のようなものを持ちながらしゃがみ込んでいる少女がいた。

「お姉ちゃんたちも~、お散歩の途中なの?」
いきなり話しかけられて、ネリーは怯える暇も無い。目をぱちくりとさせたまま、少女を見つめている。
年の頃はニムントールと同じかやや下といった所。迷子でも無さそうだし、どうやら近所に住んでいるのだろう。
舌ったらずの口調と、印象的な無邪気な瞳。なんだかハリオンとシアーを足して二で割ったような、そんな感じだった。
「ユ、ユートさまぁ……」
動揺し、助けを求めるように見つめてくる。そんなネリーの様子に、ふと思いついた事があった。

膝をつき、少女と同じ高さに目線を合わせ、にっ、と笑って見せる。
「ああ、俺達も散歩だったんだけどさ、お兄ちゃん、疲れちゃったんだ。よかったらこの子と遊んでくれないかな?」
「ユ、ユートさまぁ?!」
「え~? そうなんだぁ……うん! いいよ、お姉ちゃん遊ぼ!」
「へ?……わ、わわわっ!」
「お~。あんまり遠くに行っちゃだめだぞ~」
「ま、待ってよちょっと、ユ、ユートさまぁぁぁ…………」
佳織の制服を引っ張られ、ろくに抵抗する事も出来ずにすぐ下の草原の方へと連行されていくネリー。
当惑しきっている姿を、ひらひらと手を振って見送った。
これで少しでもお互いが歩み寄ってくれれば、そんな願いを込めながら。

やがて二人は手鞠を使って何か遊び始める。最初はぎこちなかったネリーの動きが段々活き活きとし始めた。
微笑ましい光景を見守っていると、唐突に眠気が襲ってくる。
「ふぁぁ……あ~あ、そういや朝っぱらから叩き起こされたんだっけ……」
ふと見ると、寝心地の良さそうなベンチ。俺は吸い込まれるように、そこへ横になっていた。

……………………ん?

「こちょこちょこちょ……」
「ん、ん…………ぶぇっくしょいっ!!」
「きゃはっ! ヤシュウウ、ユートさま♪」
突然痒くなった鼻を擦りながら目を開くと、ネリーが可笑しそうな顔をして自分の髪を摘んでいた。
どうやらポニーテールの毛先でくすぐられたらしい。青い一房がひらひらと目の前を舞っていた。
「んぁ? ……何だ、もう帰ってきたのか?」
「やだなぁ。もう、ってもう結構明るいよ、ユートさま」
「ん……あれ、本当だ」
なんとなく日差しが温かいような気がする。結構な時間、寝ていたのだろう。
「そっか、あの娘帰っちゃったのか…………ん?」
「うん。でもねでもね、すっごく楽しかったよ! ネリー達、お友達になっちゃったんだ♪」
にぱっと笑いながら元気良く答えるネリー。明るくなったのはいいんだが、その、なんだ。
「いや、それは良かったな……ところでネリー、重くない、か?」
制服のスカートがさらさらと頬をなでる。ふにふにと顔をくすぐる甘い香りと柔らかい感触。
……俺はいつの間にか、自分よりも一回りは小柄な娘に、あろう事か膝枕をされていた。

さっきから起き上がろうとはしているのだが、ただ胸に添えられただけのネリーの手から、信じられない圧力を感じる。
流石はスピリット、とか感心している場合ではない。全く動けないのだ。道行く人がさっきとは違った視線で見ている。
中には耐え切れなくなったのか、くすくすとあからさまに笑っている女の人もいた。恥ずかしい事この上ない。

「え? べっつに~? …………えへへ…………」
なのに、そんな事はどこ吹く風のネリーの態度。珍しくそっぽを向いた視線が微妙に泳いでいる。
知らんぷりを決め込んだのか、それでも頬は薄っすらと染まっていた。
「いや、あのな……」
言いかけて、止めた。きっとこれも、ネリーの「したいこと」なのだろう。今日は「ネリーの日」なんだし。
「あ~、気持ちいいねぇ、ユートさまぁ」
目を細めて、街の景色を見つめる猫のような横顔。少し大人びたような表情に一瞬どきり、とした。

「……ああ。平和だな…………ふあぁぁ……」
「ヤだユートさま、また欠伸ぃ?」
「しょうがないだろ、いきなり誰かさんに叩き起こされたんだから。寝足りないんだよ」
「ひっど~い! ネリー、叩いてなんかいないよ~」
口を尖らせながら、それでもくっくっと喉を鳴らす。こんな休日も悪くないよな、そう思った。


「いや、叩くってのは比喩で……まぁいいや。ヤヤカウ」
太腿の柔らかい感覚が、まどろみの誘惑を駆り立てる。俺は再び目を瞑ろうとした。
「あ☆ユートさまヨト語上手になったねぇ……ってわわ、だからせっかく起こしたのに、また寝ちゃだめだよぅ!」
途端、ぽかぽかと全然力の篭ってない手で頭を叩いてくる。全く痛くは無いのだが、眠気は遠のいた。
元々冗談のつもりだったので苦笑しつつ、そういうのを叩き起こすっていうんだと文句を言おうとした瞬間――――

――――きゅるるるるる…………

「……………………」
「……………………」
ネリーの腹が、盛大に可愛い音を立てた。

さわさわさわ…………

湖からの涼しい風が、虚しく流れていく。二人の間に、神剣『静寂』の力が働いた。……訳はないけど。
少なくとも膝元の至近距離で否応無しに“音”を聞かされてしまった俺にはしっかりサイレントの効果があった。
「……………………」
「あ、あはは……も、もうヤだな~ユートさま! お腹が空いたならそう言えばいいのにぃ~!」
「…………をい」
「あっ、そういえばもうお昼時だもんね。よく考えたら朝も何も食べてないし!」
「いや今のはネリーの腹……」
「あーーーっ!! ねね、ユートさま! あそこにヨフアル屋があるよ! すっごい偶然だよねっ!」
誰に説明しているのか、大声で捲くし立てる。その横顔に流れるのは大粒の冷や汗。
どうあっても誤魔化したいらしい。ねっ、ねっと促すネリーの顔には鬼気迫るものがあった。

「…………そうだな、腹減った。ネリー、ヨフアルでも食べないか?」
「…………へ?」
俺の一言に、蒼い瞳が一瞬ぱちくりと瞬く。そうして次の瞬間、ネリーは弾けるような笑顔を見せた。
「…………うんっ!! ありがとう、ユートさまっ!」
起き上がって歩き出した俺に、ぴょん、とベンチを飛び跳ねて駆け寄ってくる。
頭をくしゃっと撫でてやると、嬉しそうにはにかんだ。きらきらと輝いている瞳にまたどきり、とした。
ちゃんと女の子なんだな、と改めて思う。少しくすぐったいような、温かいような。とにかく妙な気分だった。


「早く早くぅ、ユートさまぁ!」
くいくいと裾を引っ張りながら、ねーねーとねだられては悪い気がしない。
ヨフアル屋は高台から少し離れた小道の脇にあった。気をつけないと判らないような所に看板がある。
小さいながらも繁盛しているようで、ある程度の行列が出来ていた。
一番後ろに並ぶと、仄かな熱気と美味しそうな匂いが鼻をくすぐって食欲をそそった。

「お、美味そうだな……ネリー、何個食う?」
「えとえと……う~んう~ん……」
隣を見ると、首を捻りながら懸命に考え込んでしまったネリーの頭の後ろでポニーテールがゆらゆらと揺れている。
朝と違い、人々の視線も余り気にならなくなったのか、無口という訳でも無さそうだ。
「でもでも……あ、それじゃイイオンナが……」
それでも指を口元に当て、真剣な目つきで何かをぶつぶつと呟いている。
自分で連れて来て今更何を悩んでいるのかさっぱりだったが、取りあえず聞いてみた。

「 何だよ、何をそんなに悩んでるんだ? ヨフアル、好きなんだろ?」
「あ、そうじゃないの! ヨフアルは大好きだよ! 大好きだけど…………」
そうして今度は腰に手を当て、捻ったりしている。かと思ったら、じーっとこちらを見上げてきたり。
「……? 別に食えるだけ食っていいんだぞ。そんなに高いモンでもないし、今日は俺の驕りだから」
「う、うんありがとぉ……」
「???」
何だか煮え切らない返事。意味不明な行動と言動に、俺の頭の上にはまたもや疑問符が飛び交ってしまった。


そうこうしている内に、俺達の番が回ってくる。カウンターのような所から、人の良さそうな親爺が顔を覗かせた。
「へい、らっしゃい! ……ほぅ、珍しいな、スピリットか」

「…………何か問題があるか?」
朝からの出来事ですっかり警戒してしまったせいか、妙な江戸前口調の親爺に対して知らず声が低くなってしまう。
そんな俺の険しい表情に何か悟ったのか、親爺は頭をがしがしと掻きながら、かかか、と高笑いをし、
「そう睨むなって、俺っちはそんなんじゃねぇよ。スピリットだからって差別なんかしねぇさ」
言いながら野太い腕をぬっと伸ばしたかと思うと、いきなりわしゃわしゃとネリーの髪を撫で繰り回し始めた。
「え…………わきゃっ!」
まだ考え事を続けていたネリーが突然の事に小さく悲鳴を上げる。どうしていいか戸惑っているようだった。
「これでも判ってるつもりだ。こんなちんまい嬢ちゃん達のお陰で俺達ゃ平和に暮らせてるんだってな」
「おっさん…………悪かった、な」
「がっはっはっはっ、まぁいいって事よ。よし、今日は俺の驕りだ! 好きなだけ食っていいぜ、嬢ちゃん」
「はわ、はわわわわ…………」
「…………ありがとな」
面白がって撫で続ける親爺と目を回しながら懸命に頷くネリー。俺は親爺に小さく礼を言った。二通りの意味を籠めて。


大量のヨフアルを包んだ紙袋を両手に抱えながら、俺達は親爺の店を後にした。
どうして江戸前口調なのかは最後まで疑問のままだったが、俺は親爺にかなりの好感を持ってしまっていた。
それこそ最後に片目を瞑ってよこしたところに思わず親指を立てて返しそうになったくらいだ。危なかった。
「…………ところでどうするんだ、こんなに」
ゴツい外見に相応しく、これでもか、と豪快に袋に詰め込まれたヨフアル。
とりあえず力任せに頭をシェイクされ、まだふらふらと足元の覚束無いネリーに聞いてみる。
「う~、目が回るよぅ~」
当然ながら、答えは返って来なかった。

「お、美味い。やるな親爺」
草原に下り、そこで紙袋を広げる。ふわりと広がる匂いに、俺は早速一つかぶりついていた。
ほどよい甘みが口の中を満たす。かといってしつこい訳でもない。などとこんな所で○味しんぼ状態にさせられるとは。
「あのゴツい腕でどうやったらこんな繊細な味を出せるんだ……なぁ、ネリー?」
見ると、やけにネリーが大人しい。きっちり正座をし、両手で掴んだヨフアルをもきゅもきゅと小さく啄んでいる。
「……どうしたんだ、腹減ってんだろ? いつもみたいに豪快に食べ…………ぐぼっ!」
最後まで言う前に、ヨフアルを口に突っ込まれた。勢いが良すぎて喉まで到達してしまう。
「むぐっ……む、ぐぐ…………」
「…………ユートさま、サイテー」
悶絶している俺をよそに、ネリーはそのままぷい、と横を向いてしまった。

「ふぅ、食った食った……ってまだこんなに残ってるのか……」
腹を擦りながら溜息をつく。結局ネリーは二個しか食べなかった。いつもの半分以下だ。流石に少し心配になってきた。
「へへ、みんなにオミヤゲだね」
「……どうしたんだ? どこか調子でも悪いのか?」
「え? ううん。なんでもないよ……えへへ……」
言い終わると小さくなって俯く。そしてもじもじと、何だか落ち着かなくヨフアルの袋を眺めている。
今日のネリーは調子が狂いっぱなしだが、今回もやっぱりというか「らしく」無かった。理由があるのは明らかだ。
その上聞いても誤魔化そうとする。俺はじれったくなり、ネリーの頬っぺたを摘むと強引に顔を上げさせた。
「なんでもないことないだろ。言わないと……」
「うひゃ! いひゃい、いひゃいよユーヒョひゃま~っ!!」
更に頬を軽く両側に引っ張ると、ネリーは両手をじたばたさせながらたちまち涙目になった。

「いふ! いふからゆゆしてぇ~」
「よし、それでこそネリーだ」
訳の判らない事を言いながら手を放してやると、むーと恨めし気に睨まれてしまった。大層御不満だったらしい。
「う~、まだひりひりする~…………ユートさま、酷いよぉ」
「素直に言わないから、お仕置きだ。昔佳織にやったら効果覿面だったな」
「も~カオリさまに同情しちゃうよ…………言うけどユートさま、絶対笑わない?」
「ああ、笑わない。約束だ」
「ホント? 絶対の絶対だよ」
すっかり赤くなった頬をさすりながら上目遣いで見上げてくる。これも佳織の時と一緒だ。
予想通りだったので、俺は視線を逸らさないよう力強く頷いてやる。
案の定ネリーはそんな俺の態度にまだ疑うような視線を向けていたが、やがてぽつぽつと話し始めた。

「……実は最近ね……ちょっと…………その、体重が…………ゴニョゴニョ…………」
「え? 何?」
よく聞こえない。断片的な単語が上手く繋がらないので、耳を近づけ訊き返す。
見ると、真っ赤に染まったネリーの顔。泳がせた瞳がうるうると潤んでしまっている。
ここにきて、ひょっとしたら無理矢理におかしな事を訊き出そうとしてしまったのかと不安になってきた。
「いや、あのな。やっぱりそんな無理に言わなくても……」

「~~だ、か、ら、太っちゃったの! だいえっとしてるんだよっっ!!!」

「………………は?」

ざわざわざわ…………

本日ニ撃目の静寂が俺達を包んだ。


「…………………………ぷっ」
「……ユートさま?」
「ぷっ……はは、はははははははっっ!!!」
我慢しようとはしたが、限界だった。込み上がる可笑しさが、これでもかという位突き上げてくる。
心配して損した、とかそんな次元の問題では無かった。
「あ~んもう、やっぱり笑ったぁ! ユートさまの嘘つきぃ~~っっ」
ぷぅ、と頬を大きく膨らませたネリーが泣きそうな顔でぽかぽかと叩いてくる。
俺は両手で頭を庇いながら懸命に呼吸を整えていた。

「はは、いや、だってネリーは全然太ってないだろ? むしろ良いスタイルだと思うぞ、なんでそんな事考えたんだ?」
「え……? だ、だって…………」
ネリーの手がぴたり、と止まる。そして物哀しげに自分の腰の辺りに目を落とした。
見た目、というかよく眺めても全然太ったようには見えない。むしろすっきりし過ぎている位。
例えば妹分のシアーに比べ、スレンダーな感じさえする。何をそんなに悩んでいるのか逆に不思議だった。
「ネリーはそのままで充分だと思うけどな。それよりちゃんと食べないと健康に悪いんだぞ」
ぽん、と頭に手をやりながら、そう説得する。しかしネリーはまだ納得がいかない様だった。

「う~……。でもネリー、女の子だもん……太ったらヤだよ……」
「馬鹿だな、ネリーは成長期なんだから重くなって当たり前だ。それは太ったって言わないよ」
「え、そ、そうなの? ……じゃあじゃあネリー、まだセリアみたいに“くーる”になれる?」
「へ? えっと……う~んそうだな……ちゃんと食べればなれるかもな」
いきなり出てきた名前に驚きつつ必死に頭を回転させて出てきた台詞だったが、ネリーの顔がぱぁっと明るくなった。
「少なくとも俺は、食べないでげっそりしている奴よりは健康的な方が好きだな」
「ネリー食べる! ちゃんと食べるよっ!」
「ああ、ただしヨフアルばっかり食うなよ。偏食は美容の大敵だぞ」
どうやらネリーにとっては正しい成長より美容の方が効果がありそうだ、そう思って補足してみた。が。
「ん~? ユートふぁま、ふぁにかゆっふぁ~?」
「…………食ってから喋れ」
悩みから開放されたネリーは物凄い勢いでヨフアルに齧り付いていた。


夢中で食べているネリーを置いて、俺は飲み物を買いに一度高台へと上がった。
そこでネネのジュースを見つけ、二人分を買い込む。
戻ってみると、満足して横になったのか、ネリーは草叢ですーすーと寝息を立てていた。
足元に、まだ中身の入った袋が二つ転がっている。覗き込んでみると、片方は第二詰所の人数分。
そしてもう片方には四つ、つまり第一詰所の人数分がきっちり残されていた。
なんだかんだ言いながら、ちゃんと“オミヤゲ”を残している。俺は寝顔をそっと指でつついてみた。
「そんな格好で寝てたら、制服が皺になって佳織に怒られるぞ」
「ん~……くーる、なんだからぁ…………」
全く判らない寝言に苦笑する。同じように横になって覗き込みながら髪を撫でてやると、頬を摺り寄せてきた。

「お、おい……」
「んん……あったか~い♪…………」
「全く……甘えん坊だな、ネリーは」
胸に顔を埋めて気持ち良さそうにされてはどうしようもない。起こすのは諦め、そっと肩を抱いてやる。
膝を畳み、両手を胸元に揃えたネリーはそれだけで腕の中にすっぽりと収まってしまった。
そういえば戦闘中によく言っているな、と思いだす。恐らく佳織からでも聞きかじった英語なのだろうけど。
「ネリーは、どうして“くーるな女”になりたいんだ……?」
なんとなく声に出してしまう。すると寝ている筈のネリーの口元が微かに動いた。
「それはねぇ……へへ、ニブいユートさまには内緒だよぉ」
「……起きてたのか」
胸の中で、悪戯っぽい蒼い瞳が見上げていた。


「ん~、やっぱカオリに怒られちゃうかなぁ?」
「ああ、もうカンカンだ。“なぽりたん”投げつけて暴れるかもな」
帰り道。しきりにスカートの裾を気にしているネリーに俺はぶっきらぼうに答えていた。
「も~まだ拗ねてるの、ユートさまぁ」
「…………拗ねてなんかないけどな」
なんとなく一杯食わされた感じがするのは間違いない。気恥ずかしさも相まって、まともに顔を見れなかった。
しかしさっきからのそんな俺の態度にも、ちょっと覗き込んだだけで気にも留めずにやけに嬉しそうなネリー。
横目で見てみるとくるくると手を広げて楽しそうに辺りを飛び回っている。このままではどっちが年上か判らなかった。

「しょうがないなぁ……えいっ!」
「うわっ急に飛びつくなよ、危ないだろ」
そろそろ変な態度を取るのにも疲れてきた頃、いきなりネリーが体当たりをかましてきた。
文句を言ってみたが、実際小柄なネリーがぶつかってもふわり、とした羽のような軽さしか感じない。
咄嗟に両手で受け止めた時、長いポニーテールが夕日に煌いているのが目に映った。

「優しかったね、あの娘も、おじさんも……」
「え……ああ、そうだな」
背中にしっかりと手を回しながら、そっと呟いてくる。どことなくほっとしたような、穏かな口調。
判ってくれている人達がいる。それがこの小さな心にどれだけの勇気を与えてくれた事だろう。もちろん俺にとっても。
「あのね……今日はその、……ありがとぉ」
纏めた髪の隙間からみえるうなじが赤く染まっている。
夕日のせいなのか、それとも照れているのか。多分そのどちらでもなのだろう。だから、心から思った。
この街を守り、今日会った少女を守り、ついでにあの親爺を守り。そしてこの小さな心を守って。

「ああ、俺も楽しかったよ。…………また会いに行こうな。戦いが終わったらのんびりと、さ」
「…………ホント? いいの?」
不安そうに見上げてくる瞳は相変わらず蒼い。夕日を反射して映った俺の顔も朱くはなかった。
ふと、今朝の人々の反応を思い出す。スピリット。本来、戦いのみに生きる存在。人とは異なるモノ――――
俺は懸命にその考えを振り払った。どこから見ても普通の女の子じゃないか。小さな、健気な、ただ夢見ている。
「…………ユートさま、痛いよ……?」
「…………」
不思議そうな声が胸元で囁く。構わず、ぎゅっと抱き締める腕に力を籠めた。
……そうか、日向のような匂いがするんだ、ネリーって。鼻を掠める小さな頭に、俺は出来るだけ優しく囁いた。
「約束だ、ネリー。絶対にもう一度、“でぇと”に行こうな」
「…………うんっ!」


森の風が木の匂いを運んでくる。戦いの合間の、平穏な休息。黄昏が木漏れ日となって降り注ぐ。
さやさやと、今日三度目の『静寂』が世界を包んでいた。