新しい時代への稲妻~血涙のイナリ~

あの人が、私に微笑んでる。

「大丈夫、大丈夫…だ。俺はッ、大丈夫だ…から。
 だから…、だから君は何も気にしないで…」
いつも夢で思い出すのは、あの日の戦場での光景。
血まみれの、あの人を私が抱きかかえている。
私はただ目の前の現実を受け入れられなくて、身体を震わせるばかり。
あの人の腹には、他の誰でもない私の剣が刺さっていて。
あの人の腹の、剣が刺さった傷口から流れ出る血の量に目が釘付けになる。

私の…私の剣が、私の剣があなたを…

それが、あの人から命を少しずつ、けれど確実に奪っていく。
それが、あの人から人間である事を証明する赤い血を傷口から溢れさせる。

永遠神剣の第九位・血涙。

私が生まれた時に、はじめから私の側にいた永遠神剣。
私の血涙が、あの人を殺してしまう。
私の血涙が、あの人を私から奪っていく。
「俺は、いいんだ…。いいんだ、何も…かも…。」
ただ震えるしか出来ない私に、息もたえだえで声もかすんできてるその人は。

今まさに私の腕から失われようとしている、その人は。
ゆっくり、けれど優しく手を伸ばして私の顔を包んでくれた。
優しく、ゆっくりと私の両頬を撫でてくれるその手は温かみを失っていく。
「君の、せいじゃない。俺が…勝手に望んだことなんだ」
私はその時初めて我を取り戻して、慌てて刺さった剣の柄を握る。
傷が広がらないように、慎重に血涙を引き抜く。
自分の永遠神剣であるにも関わらず、私は引き抜いた血涙を投げ捨てる。
「ああ…ありがとう…」
それでも血は止まらず、あの人の命は刻一刻と失われていくばかり。
戦場である事も忘れて、私は声をあらん限りに叫ぶ。

誰か、誰かあぁぁッ!助けて、この人を助けてえッ!
ラキオスでもなんでもいい、誰か回復魔法をかけてぇ!治療してえぇぇ!
助けて!この人を助けてよおッ!お願いぃ、助けてぇッ!

ノドが焼けるように痛むのもかまわずに私は戦場で叫ぶ。
人間にはスピリットの回復魔法は効果が無いのも忘れて、ただ叫ぶ。
ふと、するりと私の右頬を包んでいた手が落ちる。
私は慌てて、また落ちそうになるもういっぽうの手首を掴む。
あの人の顔を見て、もう何も言えなくなる。
悲しそうに、けれどやわらかく優しい微笑みをただ私に向けていた。
「イナ…リ…、イナリ」
最後の気力を振り絞って私の名前を呼ぶその人に、私もその人の名前を叫ぶ。

「いつか、君を…お嫁さんにしたか…た…」
その言葉で、戦いしか知らないはずの私は生まれて初めて涙を流す。

「愛している」

はっきりとした口調で告げられた、その言葉にまた更に涙があふれる。
その言葉を最後に、その人はこときれた。
動かなくなった、その人の身体を懸命に揺り動かす。
あらん限りの声で、何度も何度も名前を呼ぶ。
そんな事をどのくらい繰り返したのだろう。
ひどく遠い時間のあとに、死んだのだとやっとおぼろげに理解しはじめた。

戦場の天を仰いで、私は私というスピリットを愛した人間の名を叫んだ。

そこで、いつものように目が覚める。
今朝もまた、ノドが痛い。今朝もまた、寝ながら泣いてしまっていた。
呼吸が、荒い。鼓動が激しく胸を内側から叩いている。
ふと、陽光が差し込む方向を見やると窓のカーテンが風に閃いていた。
昨夜寝る前に戸締りは確認したはずなのに、窓が少し開いていたようだ。
違和感に気づく。
ここは、私の部屋と違う?
マロリガンのスピリット隊詰め所の、私の部屋じゃない?
眠ったのに疲労が抜けたとは感じられない重い頭と上半身を起こして部屋を見回す。
そうして、ぼんやりとだけれどようやく思い出す。
ああそうか、ここはマロリガンじゃないんだ。
ここは、ラキオスのスピリット隊第一詰め所の空き部屋だっけ。
そうか…昨日ここにエトランジェ様と一緒に来て、それぞれ別々に寝床を借りたんだっけ。

「大丈夫か、イナリ?」

声の方向へ顔を向けると、開かれた戸の隙間から見慣れた顔が心配そうに覗き込んでいた。
現マロリガンのスピリット隊をまとめる、エトランジェたる因果のコウイン。
「平気です、エトランジェ様。いつもの事ですからどうか気になさらずに」
コウインは、遠慮がちに静かに戸を閉めて部屋に入ってきた。
「そうか?あまり大丈夫そうに見えんがな」
そう言いながら、イナリが身体を横たえているベッドの脇へ椅子を引っ張ってきて腰をおろす。
「また、夢を見てしまったのか。…俺のところまで聞こえていた」
その言葉に、イナリは目を伏せる事しか出来なかった。
「ほら、これで顔や首を拭け」
コウインが差し出した手ぬぐいに、イナリはようやく自分の寝巻きが汗で濡れて気持ち悪いのに気づく。
受け取った手ぬぐいは、ちょうどよい加減に冷たい水で絞ってあった。
首周りを拭いて汗をぬぐう、身体の拭いた部位を風が撫でるのがここちよい。
「ありがとうございます、エトランジェ様。余計な手間をかけさせてしまい申し訳ありません」
礼儀正しいイナリはそう言って、コウインに頭を下げる。

ふと、イナリは思い出す。
いつもは同室のグリーンスピリットが、叫んでる途中で起こしてくれたりしている。
彼女が、顔や身体を拭くのを手伝ってくれたりもしている。飲み水も用意してくれる。
「…アロマ・グリーンスピリットは本当によくしてくれているんだな」
その彼女の名を、コウインが不意に告げる。
「今回の件でマロリガンを発つ直前、お前の事をよろしく頼まれたんだ」
イナリの脳裏に、メガネかけてて地味めだけれどいつも慈愛に満ちたアロマの笑顔が浮かぶ。
「いつも…彼女にも誰にも護ってもらってばかりです。
 そして、今日もまたこんな時だというのにエトランジェ様にまでこうしてもらって」
イナリはベッドからそっと脚を出し、座った姿勢でコウインと自分の位置をちょうど向かい合う形にする。
「そんなに気に病むことはないさ、イナリ。
 俺自身もマロリガンの民も…そしてお前以下、稲妻のスピリットたちの誰も」
コウインは、部下であるイナリに対して真剣な眼差しでけれど優しい声で語りかける。
「この俺が見出した、3代目稲妻部隊隊長イナリ・ブルースピリットに護られてきた」
そう言うと、コウインはいたずらっぽくウインクして笑ってみせる。
「私が今の隊長なのは、先代の隊長や他のもっと強い稲妻たちがもういないからに過ぎません。
 実力においても、私は稲妻に所属する事自体がそもそも奇跡のようなものですし。
 何より、今ごらんになられたようにメンタルな面においては壊れモノとしか言いようがありません」
イナリの言葉に、コウインは深くため息をつきながら首を横にふる。
「あのな、イナリ。確かに戦術面で言えばお前は先代の隊長やかつての稲妻たちより劣る。
 剣術はあくまでも中の上程度だし、魔法もそれほどでもない。統率能力が結構高いくらいだ」
イナリは、あくまでも真っ直ぐ投げかけられてくるコウインの眼差しを正面から受け止めて話を聞く。

「でもな、お前が俺の前に初めて現れた時な。あん時が時代が変わる瞬間だったんだよ」
突然、時代という単語が出たことにキョトンとしてしまうイナリにコウインは少しおかしそうに笑う。
「正直、今までの稲妻たちは戦士として本当に強かった。でも、それだけだったのさ。
 お前を見出す以前にそれまで残った稲妻たちから新しい隊長を選ぶ時、俺は途方にくれた。
 …確かに隊長をはれるだけの剣の技量や魔法や統率能力を充分に持つやつは他にも何人かいた。
 でもな、イナリ?普通のスピリット隊ならいざ知らず、稲妻の隊長はそれだけじゃダメなんだ。
 隊長をはれるだけのやつじゃなくて、隊長をやれるやつがどうしても欲しかったんだ」
なおも言っている事の深い意味を図りかねているイナリに、コウインは身を乗り出してくる。
「さっき言ったろう、時代が変わる瞬間だったって。
 あの時の、お前の涙が教えてくれた。お前こそが、これから始まる新しい時代の剣なんだって」
至極大真面目にそう力説するコウインの言葉に、イナリはぽかんとしてしまう。
「これから始まる、新しい時代のための剣? 私が…これからのための、剣?」
ただわけわからなくて目をパチクリさせるだけのイナリの前で、コウインは椅子から立ち上がる。
「このラキオスの館の風呂は絶品だ、寝汗を流して、さっぱりしてくるといい。
 …まぁ、なんなら俺も一緒に入りつつ着替えとかも上から下まで手伝ってもいいんだが?」
コウインのありがたい好意に対して、イナリは枕元に置いてた血涙を朝陽にギラリときらめかせてみせる。
「んじゃ、そういうわけで俺は食堂で待ってるぞ?」
ささっと逃げて、部屋から出て戸を閉じかけたところでコウインへの本心が少しだけうっかり漏れる。
「せっかく有能でカッコいいところもあるのに、女性に対して少々ふしだらなのがもったいなさすぎます。
 …しかも、アロマのように幼い外見だとなおさら人間もスピリットもお構いなし」
飄々とした表情のまま戸の隙間から顔をのぞかせてコウインはイナリへ言葉を返す。
「まてまて、その言い方じゃアイツが誤解するだろう?まぁ確かに年下はひかれるものがあるが」

ふうっと呆れたため息をついて、更にイナリは言葉を続ける。
「それだから、女性からの評判が惜しいところで今ひとつなんですよ?
 …あの人に、ほんの少しだけちょっぴりだけそっくりです」
あの人、という言葉にコウインはわずかに顔を曇らせる。
「お人好しで単細胞で女好きで軽薄で…。
 妖精趣味でもない癖に…スピリットなんかを…愛してしまった、あの人。
 どうしようもないくらいに優しくって、騙されやすくて本当にバカだったあの人…」
イナリがしまった、と思った時はもう遅かった。流しつくしたはずの涙がまた溢れ出してしまっていた。
「…あれは、くだらない陰謀だったんだ。
 お前もお前の愛した男も、たまたまソレに巻き込まれてしまっただけなんだ。
 これ以上そのままだと身体に障るぞ。早くさっぱりしてきたほうがいい」
コウインは、静かにけれども諭すようにイナリにそう促す。
「エトランジェ様…。
 私が愛したあの人も、あの人を殺した奴らも人間でした…」
イナリは、何も映らないのに涙だけが溢れてくる瞳をコウインに向けて問う。
「まず、これからお前が覚えなければいけないことがある。
 これから始まる、新しい時代のための剣として覚えなければいけないこと。
 3代目・稲妻部隊隊長として、覚えなければいけないこと。
 そして何より、お前がイナリという他の誰でもない一人であるために覚えなければいけない事」
コウインは、再びイナリの真正面でかがみ込んでイナリと同じ視点の高さで真っ直ぐに言い聞かせる。

「お前の愛した人が愛したのは、スピリットなんか、じゃあない。
 お前を愛してくれた男が愛したのは、ただのお前だ。世界にたった一人のイナリなんだ。
 だから、もう今のみたいにスピリットなんかとかそんな言い方は今日でこれきりにするんだ。
 これから始まる新しい時代では、人間もスピリットも互いに何も何一つも違わないんだ」
涙は、止まっていた。
コウインの言葉に、イナリは目をつぶって黙ってうなずく。
「あの事件以来、心を何処かにやってしまったお前が稲妻に戻るまでそれなりの月日を要した。
 経緯を聞いていた俺は、正直お前と対面する瞬間までお前を除隊しようと考えていたよ。
 でも俺の召集に応じて隊長室に来たお前は…部屋に入るなり、こう言ったよな?」
イナリは、うなずく。覚えている、確かに覚えている。だから、もう一度言った。
「私を、戦わせてください。あの人の愛した全てを護るために戦わせてください。
 あの人の愛を護るために、あの人を殺したこの血涙で戦わせてください…!」
コウインは、イナリの言葉に小さく微笑む。
「そうだ、その台詞と涙だ。命令されたからでも復讐のためでもなく。
 お前ははっきり、愛を護るために戦うことを俺に示してみせた。
 だから、決めたんだ。だから、わかったんだ。
 お前こそが、次に始まる新しい時代のための新しい稲妻の隊長だと」
そう言うと、コウインはくるりとイナリに背を向けて振り向かずに静かに部屋をあとにした。

朝風呂ですっかり寝汗も涙も洗い流し、朝食と身支度もすませて。
色々な想いのこもった半身である永遠神剣第九位・血涙をしっかりと携える。
ラキオススピリット隊・第一詰め所の玄関を出たところで、イナリはふと立ち止まる。
長かった、あまりにも長かった戦争は終結を告げた。
あの時仰いだ戦場の天は汚れた灰色だったけれど、今仰ぐ天は何処までも澄み切った青。
「さ、レスティーナ女王や噂の大賢者様とご対面しに行くぞ?」
すでに待機していた馬車の中にいたコウインがいつもの調子で促してくる。
「はい、コウイン様。新しい時代の始まりのため、いざゆきましょう」
はじめて、それもどもるどころか迷いもなしに自分を名前で呼んだ事にコウインは心底ニヤリとする。
馬車のタラップに足をかけたところで、イナリはふともう一度天を仰ぐ。

あの人が、私に微笑んでる。

終わり