チチ、チチチ……チュン、チュ、チチ……
「うー……ん?」
ぼんやりとした声が第二詰所の一室であげられる。
ごそごそと、寝台の中で揺れる針金頭。窓から入ってくる小鳥のさえずりと陽の光に刺激を受けて、
閉じられていた瞼がひくひくと動きだした。
この針金頭の持ち主、高嶺悠人の寝起きはここからが長い。
第二詰所のスピリットたちとの交流を目的とした寝床の変更、というよりお泊り、
それが始まった頃はまだましだったのだが、習慣になるにつれて
どちらに居てようが遠慮なく寝坊するようになってしまった。
顔に浴びせられる日光を遮るように掛け布団を引き上げ、寝返りを打ちうつ伏せになる。
これで鳥の声も聞こえないし、お日様も届かない。安心して二度寝に入ることが出来るのだ。
無意識のうちに得意げに鼻から息を洩らして枕に顔をうずめる。
後は誰かが起こしにくるまで惰眠を貪るのが普段の悠人の朝だ。
第一詰所ではエスペリアが主な訪問者になるのだけれど、こちらでははっきりとは決まっていない。
今までのところ、ヒミカが普通に起こしにきたり、ニムが叩き起こしたのをファーレーンが宥めたり、
ネリーとシアーが二人一組で飛び乗ってきたり、ナナルゥが天井から水を垂らしてきたり、
ヘリオンは部屋に入るのをためらって、扉の前をうろうろしている内に悠人が起きたり、
セリアは悠人を起こさずにおいて朝食に細工をしたりと、
色々と悠人に、誰かに起こされなくても起きるようにしようと思わせるような工夫が
――意識的にか無意識的にかはともかく――凝らされてはいたのだが、全く効果は上がっていなかった。
さて、悠人はすっかりと二度寝の体勢に入って聴覚と視覚を遮断したため、
仮に誰かが部屋に近づいてきたとしてもなかなか気付きはしないだろう。
ところが少し固めの寝台に潜り込んだ悠人の頭がぴくりと動く。
音も無く、光の加減も変わらない。だがしかし、確実にこの部屋に入ってきたものが感じられる。
自分でカットした感覚以外が捉えた刺激、それに圧されて、布団の中に低く長い音が響いた。
枕に埋められた頭をわずかに持ち上げ、掛け布団の外に出す。
よみがえる小鳥のさえずりと陽の光。
それに加えて、香ばしさと甘さが混じった匂いが、さらに濃厚になって嗅覚をくすぐる。
半分意識を眠らせたままひくひくと鼻を利かせると、先ほどよりも大きく腹の虫が鳴きだした。
「何だ、この匂い……」
湧き上がってきた空腹感に堪らず上半身を起こす。意識が覚醒に向かうにつれて、
ぼんやりとしか感じられなかった爽やかな朝の空気もより鮮明になり、悠人の身を引き締めるように包み込む。
もう一度伸びをしながら、胸いっぱいに部屋へと漂い来る香気を吸い込み、味わうように息を止める。
ゆっくりと吐き出し終わる頃には、頭の中に有った眠気の半分は食欲に変わったように感じた。
無意識の内にたまった唾をごくりと飲み込んだ悠人はもそもそと寝台から抜け出て服を着込み、
香気に誘われるままに自室から居間へと歩みを進めていった。
「おはよう……って、みんな早いな……」
悠人が鼻をひくつかせながら居間へと続く扉をくぐると、
既にテーブルには悠人を除く全員が揃っているのが見て取れた。
悠人自身の感覚では、休暇時にこれほど早く起きたことは無かったのだけれども、
それでも一番最後になってしまっているとはと、反省の念が湧く。
もっともまだ呆けたままの頭であるため、いつまでそれが残るのかは定かではないけれど。
そんな風に自分の記憶力を鑑みながら席に近づいていくと、
「あっ、ユートさまおはようございますっ」
悠人を見かけると同時に、真っ先に声を掛けてくるヘリオンを初めとし、
「ユートさまおはよーっ」
「おはようございます」
ネリーにシアーがそれに続く。さらに後から視線をふと悠人に向けて、会釈とともに声を出すナナルゥ、
ニムントールが短くおはよう、とだけ言ってはファーレーンが訂正を言いつけつつ頭を下げる。
ヒミカは悠人に空いている席を勧めながら言葉を掛けて、席に着いた悠人に向かってセリアが
「いつもこのくらい早ければ」と付け足しながらため息をついた。
そして最後に、先ほどから漂っている香りの発生源の入ったバスケットを胸元に抱えたハリオンが、
「お早うございます~。今日はぁ、お寝坊さんじゃ無かったんですね~。
それじゃあ、これは頑張って早起きしたユートさまにおまけです~」
悠人の席に置かれた皿にころころと拳大の丸い塊を乗せていった。
「ああ、サンキュ。すごく良い匂いがして目が覚めたんだ。そうか、正体はこれか」
悠人の前だけではなく、他の面々の皿の上にも乗せられた丸い塊。
ちなみに皆には二つずつ、きっと三個目がハリオンの言う「おまけ」なのだろう。
まぁ、何処からどう見てもパンである。ただし、今もまだほこほこと湯気と香りを振りまくほどの焼きたてだ。
「ハリオン、ネリーにも先にもう一つちょうだーいっ」
「は~い、足りなかったらおかわりも有りますからね~」
ネリーの皿に追加でパンを乗せてから、ハリオンが悠人の隣の空いた席に着いた。
飲み物やサラダなども十分用意されている。けれども、今朝のメインは何といってもこのパンらしい。
「えっと、それじゃあ。いただきます」
『いただきます(ま~す)(ます~)』
いつの間にやら第二詰所にまで浸透した掛け声を上げて、悠人が熱々でふかふかのパンを手に取る。
手で半分に割って、右手に持った方にかぶりつく。しっかりとした歯ごたえのあるきつね色をした外側を
噛みちぎり、もっちりとした白い中身までを口に収める。
口に入れた瞬間から鼻に抜けるように香りが広がっていくが、それだけではない。
もぐもぐと噛みしめるほどに、じんわりと微かな甘みが生み出されていく。
「ふまいっ。……んぐ、いや、旨いっ」
声を上げながら同意を求めるように周りに視線を巡らせれば、
まずは自分と同じようにもふもふと口いっぱいに頬張るネリーが目に付き、
じっくりと分析するような面持ちで咀嚼を続けるナナルゥや、
悠人に向かってこくこくと頷くヘリオンの姿も確かめられた。
その様子をハリオンの微笑みに見守られながら、
もちろん残りの面々も一様にパンの味を楽しんでいる。美味しい朝食から始まる爽やかな一日、
そんな光景がここ第二詰所の食堂で繰り広げられていた。
少なくとも、今この瞬間までは。
両手に持ったパンを平らげて、二つ目に掴んだ物を掲げながら悠人がポロリと洩らしてしまったのである。
「いや、ホントに旨いなぁ。このパン、どこの店で買ってきたんだ?」
爽やかで、和やかな空気が一瞬にして固まった。
だがしかし高嶺悠人はエトランジェ。アイスバニッシャーは効果が無い。
その硬直した空気の中でもまだ何が起こっているのか理解してはいなかった。
いつまでも解けない皆の凍りつき具合に、ようやくサイレントフィールドと化した場の効果が彼に訪れる。
スピリット勢の攻撃力(=視線の鋭さ)アップ&悠人の防御力(=居心地)ダウン。
ここは誰に話しかけるのが穏便なのだろうか、ときょろきょろと席を見回して、
悠人は真っ先にセリアとニムントールを排除する。
目には見えなくとも、二人が放つピリピリとした剣呑なオーラは悠人の身に突き刺さっている。
悠人といえどこの空気の中で話しかけるのは愚の骨頂だと、『求め』の警告が無くとも分かりきっていた。
この状態では、セリアの隣に腰を下ろしている時点でヒミカに声を掛けることも出来ない。
普段の遠慮のないやり取りから、ネリーとシアーの方へ助けを求めようとしても、
二人して気まずそうに顔を見合わせているばかり。さらには残念ながら今日は席が真向かいで、
この沈黙の意味をそっと尋ねることは出来そうにない。距離のことを考えれば、
ネリーの隣でどうにか悠人に助け舟を出そうと考えてはいそうなものの、
良い方法が思いつかずにおろおろと視線をさまよわせているヘリオンや、
シアーとニムントールの間で沈黙を守るファーレーンに聞くのも難しい。
となれば、こっそり小声で喋れる距離にいるのは隣の席にいる二人。
一人はナナルゥ、そしてもう一人はハリオンだ。見た目だけはいつも通りのほぼ無表情とニコニコ顔。
もしも悠人がナナルゥの表情を落ち着いて読み取れば、その顔は物語っていただろう。
――今のハリオンに話しかけてはいけない、と。
けれども、悠人は見た目の話しかけやすさを取ってしまった。
「な、なあ……もしかして、まずい事言った、のか?」
そのニコニコ顔から、普段の陽光を思わせる温かみが失せてしまっていることに気付かずに。
「い~え、お口に合ったようで何よりです。
まだまだたくさんありますから、遠慮しないで召し上がってくださいね」
心なしか、その声にもハリオン独特の抑揚が少ない。それを聞いてようやく悠人にも
ハリオンの変化が感じられるようになった。けれどその違和に気付いたことで直接ハリオンに
尋ねる気がだんだんと萎んでいく。さらに追い討ちを掛けるようにハリオン自らが、
「さぁ、みなさんも。食べないんだったら、わたしが頂きますよ」
と、悠人から視線を外して食事を再開してしまった。
「うん、無くなったらやだから、もらうねっ」
「は、はいっ残さないように頂きますっ」
何とか場をとりなすようにネリーやヘリオンが殊更明るくバスケットに手を伸ばすが、
むしろ悠人にとっては不自然な空気が一層強く襲い掛かって来るだけだ。
流石にこれだけの威圧感にさらされれば自らの失言にも気付こうというもの。
完全にハリオンの機嫌を損ねてしまったようだ。一体、何故。
もう一度、悠人は自分の問題発言を振り返ってみる。
よくよく思い返せばかなり昔にも同じようなことがあったような気がする。
確かあれは、ファンタズマゴリアのことも知らなかった遠いあの日の事。
似たような発言をした後、佳織は困った顔ではにかむばかりで……次の日に今日子にぼこぼこにされた。
「あ、あああぁぁぁっ! は、ハリオンっ、このパン、ハリオンが焼いたのか!」
思わず椅子を鳴らしながら立ち上がって、ハリオンの方へと向きながら叫ぶ。
寝起きの時に嗅いだ香りの意味がようやく悠人にも理解できた。
ただ焼きたてのパンを買って持ち帰ってきただけなら、幾らなんでも館中に匂いが広がることはないはずだ。
間違いなく、つい先ほど館の厨房で焼きあがったばかりなのだろう。
悠人がふと我に帰ってみれば、自分の余りの狼狽振りに目を点にしてこちらを見上げている八対の目。
けれども、少なくともその視線から突き刺さるような刺々しさも、
非難するような不機嫌さも消えてなくなっていることを考えれば、それで正解のようだ。
もっとも、今頃気付いたかと呆れ返るようにこれ見よがしにため息を吐かれたり、
結局は同じような意味でニヤニヤと笑われたり、お茶を飲みなおされたりと、反応は散々だったが。
しかし、当のハリオンだけが今もまだ、黙々とパンをちぎって口にしている。
それも当然、と悠人は腰を下ろしなおしてハリオンに向き直る。
「ハリオン、本当にごめん。せっかくハリオンらしい方法で早起きさせてくれたってのに、
あんな風に言っちまって。パンは本当に旨かったんだから、普通にそう言っとけば良かったのに……」
悠人の言葉を耳に入れながら、ハリオンはもぐもぐとパンを噛んで、ゆっくりと飲み込む。
その間一言も喋らないことに悠人は内心で冷や汗をかきながら、更なる後悔に身を縮めた。
言葉も尽きてうなだれた悠人にハリオンの口から漏れた、ほぅというため息が聞こえ、
続く処断の言葉を予感してぴくりと肩を震わせる。
「そうですね~、もし、ごめんなさいが無かったらぁ、めっめっでしたけど~。
でも、お店で出せるくらいの味に出来てるっていうことですからぁ、
そう考えれば、ほめてもらえたように思えますね~」
そのまま、うつむいたままの悠人の頭に手を乗せて、きちんと謝れたことを褒めるように
『なでなで』する。くすぐったさと気恥ずかしさに加えて、自分の言葉をそのように取ってもらった
申し訳なさに悠人はまともに顔も上げられずに、そっとハリオンの顔を盗み見た。
口調には普段の様子が戻っていたのは分かったが、その笑顔の中には一抹の寂しさのようなものが
にじみ出ているように悠人には感じられる。
「あの、さ。ハリオン。お詫びと言っちゃなんだけど、何か俺に出来ることか、
それか俺にして欲しいことって無いかな? 言ってくれたら出来る限りの事はするよ」
そして、悠人の口をついて出てきたのはこんな言葉だった。
悠人の頭に置いていた手を自分の頬に当てて、ハリオンが小首を傾げる。
突然の申し出に眉を寄せて戸惑いを表しながらも、口元が「あらあら」と楽しげな形に軽く動いていた。
傾げた首を戻したハリオンが周りに目をやる。彼女の長年の連れは唇の片方をくいと持ち上げた笑みで
『まぁ、いいんじゃない?』と返してきている。
他には、若干名からの実に羨ましそうな視線が密かに向けられていた。
そこではこそこそとした声で、
「ハリオンさん、いいなぁ~」
「ネリーもユートさまにお願いしたーい」
「でも言うことを聞いてもらう前に、ユートさまからひどい事を言われないとダメなんだよ?」
「あっ。ぅう~それはイヤです……」
「そうだね……」
というやり取りが展開されていて、諦めのため息と共に収まりを見せた。
その様子を目と耳に入れたハリオンはしばしの間目を閉じていた後、
ぽん、と一つ手を合わせて、
「それじゃあ~……」
と悠人を手招きし、彼が近づけた耳元にぼそぼそと『指令』を吹き込んでいく。
ハリオンが悠人の耳元で囁いている間に、一瞬悠人の顔が苦しげに歪められるが、
観念したように神妙に頷いて、「分かった」と返した。
それからは食事の雰囲気も和やかさを取り戻し、ハリオン特製の朝食を再び美味しく摂り始める。
先ほどよりもより深く味わうように、パンを噛みしめる悠人が皆に印象を残していた。
そして、しばらく経ったある日の夜。
「ユートさま~、そろそろ時間ですよ~」
ゆさゆさ。
暗い部屋の中に少しばかり間延びした声と、何者かに手を掛けて揺さぶる音が響く。
そこそこの強さで身体を揺らされているにもかかわらず、刺激を受けている人物、悠人は一向に起き上がる気配がない。
「ユートさまぁ~?」
声の主、ハリオンの声に対して「うぅ~ん」だの「ぁあ~」だのと言葉にならない声を返すのみ。
とりあえずは起きているけれども、何時再び眠りに落ちても不思議は無い、そんな声だった。
「『約束』を守らないとぉ、めっめっですよ~」
言いつつ、なおも呟きを漏らす悠人の口を両手の指で作ったペケ印で塞ぐ。
ハリオンのしなやかな指の感触を唇に感じて、そしてまた、
その言葉の『約束』という部分に反応して、悠人はあわてて目を開いた。
「もう時間か。ごめんな、ちょっと仮眠してるだけのはずなのに起こさせちまった」
周りを見渡せば窓の外は真っ暗闇。ハリオンに伝えられていた時間からすると、
恐らく日付が変わるちょっと前だ。ハリオンに早めに休んでおくように言われて
ベッドに入ったのが夕食と風呂を終えてすぐだったから、大体一、二時間ほど寝ていたことになる。
ごしごしと目を擦る悠人に向かってハリオンはニコニコと笑顔を向けながら、
まだ身体にかかっている毛布を剥ぎ取ろうと手を動かす。
「いえいえ、大変なのはこれからですから~。さぁさぁ起きてくださいな~」
「あぁっ、わかった! 起きてる、もう目は覚めたからっ。
着替えたらすぐに行くから、ハリオンは先に台所へ行っといてくれ!」
毛布の下にはシャツとトランクスしか身に着けていないはずなのは、
すぐ傍に掛けられている制服の上下で分かるだろうにと思いつつ、
必死に毛布を押さえながらハリオンが部屋から出るように頼み込んだ。
ハリオンがどこか残念そうな顔をしながら退室したのを確認して
身支度を整えながら、悠人は『約束』の内容を反芻する。
こんな真夜中に揺り起こされた理由は、もちろんこの間の失言事件の罪滅ぼしだ。
『次に第二詰所で寝泊りするときには、ハリオンの指導の下全員分の朝食を作ること』
実際に耳打ちされた言葉を要約するとこういうことになる。
その上、最重要事項として手作りのパンを必ず作らなければいけないらしい。
「大変さを身をもって実感しなさいってことだろうなぁ……」
まさか、作り始めるのがこんな時間になるとは思ってなかったと、
上着に袖を通しながら呟いた。
しかしながら、その自分の呟きにはたと気付く。一応、料理のできる全員が持ち回りで
この役目をこなしているのだし、ヘリオンやニムが手伝うために早起きする時もあるという。
流石にこの時間から用意しだすのは早すぎではないかとも思わないでもないが、
先日を初め、料理が出来上がった頃にのこのこと現れてばかりの自身を省みて、
大きく深呼吸した悠人は頬をぱしんと張って勢いよく厨房へと足を運び出した。
テーブルの上には、もう既にハリオンが用意したと思しき調理器具の数々が並べられていた。
軽量カップに大さじ小さじ、麺棒、ボウル、包丁、まな板と順に視線を移した先には。
「……フリルつきのエプロン?」
「はい~、わたしたちが使っている物しか無かったので~。
粉が飛んだりしますから、必ず着けてくださいね~」
そう言うハリオンの格好も、起こしに来たときの戦闘服から、
家事仕様のメイド服へと変わっている。
白いエプロンを体の前で広げてみて一瞬の戸惑いを見せた後、
悠人はええい、ままよと身に着ける。お似合いですよ~という楽しげな声に
苦笑いを浮かべながら、メイド服まで着せられることが無かったことに安堵した。
気を取り直してハリオンのほうを向くと、さらにテーブルの上に料理の材料を並べている。
「で、まずは何をすればいいんだ? 出してる材料からするとパン作りだろうけど」
「えぇ、そうですよ~。 材料は揃ってますから、頑張って作りましょう~」
用意された物は悠人の知るパンの材料と変わりなさそうだった。
小麦粉に塩や砂糖、それにバター。そして、ビンに詰められた何かどろどろとした物。
「あぁ、それは私特製のパンの素です~。これを使うと、とぉっても美味しく出来るんですよ~」
思わず手にとってしげしげと眺めていると、横から得意そうに胸を張るハリオンが顔を覗かせた。
佳織が見ていた料理番組ではドライイーストを使っていたなぁ、
と思い出すと共に、「天然酵母」という単語が頭に浮かんできた。
確かにこれなら、旨いパンが作れそうだと納得する。
「なるほど、それじゃハリオンのパンと同じくらいのを作らなきゃな」
「はい、頑張ってくださいね~」
小麦粉を計ってからふるいにかけておき、ボウルにパンの素を取り出してぬるま湯を加える。
そこに小麦粉と砂糖を混ぜて、固さをみながら湯を加えつつ一まとめにするのが手順なのだが。
「固さをみながらって、どのくらいの固さがちょうど良いんだっけ?」
悠人が、ぬとぬととしてまだ粉がまとまりきっていないパン種を捏ね回しながら、
横について指示を出すハリオンに尋ねる。今のままで本当にまとまるのかどうかも少し疑問だ。
「もうちょっと、しっかりと混ざってから言いますからぁ、それまで我慢です~」
そう言われるままに、頷いて力を込めて混ぜ込んでいく。何せ十人分を一気に作っているのだから
量が思っていた以上に多い。それでも時間がたつにつれて、パン種は徐々にまとまっていき、
悠人の手に絡み付いていたどろりとした粉もいつの間にかその中に入っていった。
「はい、それじゃあ全部が混ざっちゃう前に、固さの調節です~」
妙に嬉しそうな声色で悠人の動きを止めて、ハリオンがボウルの中のパン種を指先でつつき、
「う~ん、ちょっと固いようですね~。ふふ、実はですね、ちょうど良い固さにするためには
コツがあるんですよ~。大体、耳たぶくらいの固さにすると良いんです~」
とっておきの手品の種明かしをするような笑みを浮かべて、手を拭うための布巾を悠人に渡した。
「耳たぶか。どれ……、ってハリオン?」
拭いた手で自分の耳をつまもうとする悠人の腕を、ハリオンがぐっと押しとどめる。
「うふふ~。違いますよユートさま~。私とユートさまの耳たぶが同じ固さとは限りませんからね~。
私のパンを目指すなら、パンの固さは私の耳たぶの固さが正解なんですよ~」
「そ、そうなのか?」
「はい~。ではどうぞ~」
顔は笑みのままだが、半ば有無を言わせない圧力を秘めた勢いを持ち、
逡巡を浮かべる悠人の手をとって、もう片方の手で耳元の髪をかきあげながら
軽く自分の耳へと導き手を離した。
「そ、それじゃつまむぞ」
別に、耳たぶくらいで身体を硬くすることなんか無いとは思うものの、
すっと髪をかきあがる仕草と露わになった首筋に、動揺を抑えきれない。
導かれた速さで近づけた指先でそっと耳たぶに触れて、親指と人差し指を使って軽く摘んだ。
「この固さか……」
耳たぶを指に挟んだ瞬間にハリオンがぴくりと身を震わせたのを感じて、
引っ張ったりして耳の中を傷つけないように注意しながら、羽毛をつまむようにそっと揉む。
ハリオンは悠人が感触を覚えるまで待ってくれるようで、静かに目を閉じて佇んでいる。
むにむにとした肉の弾力と、その柔らかさに反したやや冷たい触感が妙に気持ち良い。
空いたもう片方の手で悠人が自分の耳たぶにも触れてみると、
確かに感触が違うような気がした。そもそも自分の耳たぶを触ったところで気持ち良くも無い。
言われなければ気付かなかったほどの違いだが、これでパンの味が変わるかもしれないのだから、
「お姉さん」の言うことは聞いておくに越したことは無いだろう。
そう考えながら自分の耳を触った手をもう一度拭ってパン種をつつくと、確かにハリオンの耳たぶよりも固い。
感触を比べるように目をつぶってもう一度ゆっくりと耳たぶを捏ねる。
「ぁんっ」
突如上げられたハリオンの声に驚いて手を離して、目を開いた。
そこには今まで悠人が触れ続けていた耳たぶを自分で軽く擦っているハリオンの姿がある。
ずっと刺激を与え続けていたためか、うっすらと耳までが紅潮しているようだった。
「えっ。わ、悪い、強すぎたか!?」
「いいえ~大丈夫です~ちょっとくすぐったくなっただけですからお気になさらず~。
ええっと~それでぇ、パンの固さは分かりましたか~?」
何時に無く微妙にテンポ良く言葉が飛び出してくるハリオンの勢いに圧されて、
「あ、ああ。大体分かった。今の固さになるまで湯を入れて捏ねるんだよな」
と悠人がボウルの方に身体を向ける。ハリオンの返答を期待してちらりと横を向くと、
かすかに深呼吸らしき動きを見せていた。悠人の視線に気付いた所ではたと顔を上げて頷く。
「そうです~、上手く出来たら言ってくださいな~。最後に、私がチェックしますから~」
口調こそ元に戻ってはいたものの、どこか動作がぎこちない。
とりあえず、言われるままにハリオンの耳たぶの感触を思い返しながらパン種を捏ねくり回す。
大体、手のひらに感じる弾力も、指先でつついてみた感触も似たようになってきた。
そこでふと悠人の脳裏にハリオンの見せた変化が思い浮かんで、
ちょっとした好奇心と悪戯心が頭をもたげる。もしかしたら、
普段は翻弄されてばかりのハリオンに一矢報いることができるかもしれない。
一旦用を済ませた湯の入った器を脇において、思い切って尋ねてみる。
「ひょっとしてハリオンの耳って敏感なのかな?」
「……さぁ~、どうでしょうね~?」
時間が経ったためかもう先ほどのような大きな動揺は見受けられないが、
微かに戸惑いが見え隠れすることに、何となく新鮮さを感じて悠人はもう少しだけ言葉を重ねていく。
「いや、思ったよりも触り心地が良かったから、ついつい長いこと触っちまってたんだけど、
それでハリオンの方がくすぐったいんだったら悪いことしたなと思って」
「え……触り心地が、ですか~。えぇっとぉ、私もぉ、別にいやな感じはしてませんけれど~……」
面と向かってこういう言葉を掛けられることには、ハリオンと言えども慣れてはいないらしい。
ここまでは一応、顔色も平静を保っていたけれども、そこまで口にした所ではっと気付いて悠人の顔を見た。
まさかハリオンの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったと、
半分は驚きで、もう半分は聞いた本人が恥ずかしくなって、呆っとした顔。
珍しく、ハリオンはきゅぅっと眉を吊り上げて、腰に片手を当ててもう片方の手で悠人を指した。
「ユートさま~、お姉さんをからかっちゃあいけません~。そんなことを言うお口はめっめっですぅ~」
一応怒られてはいるのだろうが、先日の様子に比べればじゃれあいのような暖かさを感じる。
どちらかと言えば悪戯が成功したときの達成感の方が大きく思えて、
悠人は密かに満足しながらハリオンにボウルを差し出した。
「う、分かった、分かった。さ、こんな固さでいいかな」
「もぅ~、ごまかすのもだめなんですからね~……つんつんっと~。
えぇ、良い感じですよ~。それじゃあ、あとは仕上げです~」
まとまったパン種を捏ね台に移して、塩とバターを加えてさらに良く捏ねる。
ボウルの中よりも大きく動かすことが出来て、
パンを捏ねているという実感が湧く作業だと悠人はさらに力を込める。
ところがぐいぐいとパン種を捏ね台に押し付けていると、
斜め後ろから覗き込むハリオンからダメ出しが入ってしまった。
「あらあら~、力を入れるのはいいんですけど~、乱暴にしちゃいけませんよ~」
「そっか、これじゃ力が入りすぎてるのか……」
ハリオンの頷き方をちらちらと見ながら力加減を調節する。
どうやら今くらいの捏ね方が一番良いらしい。一旦分かってしまえば楽なものだ。
そうして慣れてきた様子で作業を続ける悠人に対して、ハリオンの笑みが少しだけ深くなる。
ただし、それは先ほどの悠人が浮かべていたような、ちょっとした悪巧みを含ませたものだった。
「ところでですね~、パン生地の捏ね心地はいかがですかぁ、ユートさま~?」
声を掛けられて悠人の手の動きが一度ギクシャクとする。声に気が散ったのではなくて、
問いかけの内容を考えてみたときにどう答えたものかという困惑だ。
「そりゃぁ、その、触り心地の良かったところと同じ感触なんだから、
気持ちいいとしか答え様がないだろ」
嘘をついても意味は無いので正直に言うしかないのだけれど、
それを聞いたハリオンの笑みに何か楽しげな色が混じっている。
一体、どうしてそんなことを聞くのかと悠人が顔に出したところで、
ハリオンが声を潜めて言葉を続けた。
「ふふ、それがですねぇ、耳たぶと同じ柔らかさなんだそうですよ~」
「『なんだそう』? 同じ感触なのは、パン種がだろ? それがどうしたって……」
手を休めずに頭の中に疑問符を散りばめ始める悠人にハリオンが後ろから近づき、耳元に口を寄せる。
「耳たぶとぉ、……」
言葉の後半を吐息に乗せるだけで発音し、ゆっくりと悠人の鼓膜を震わせる。
「な……」
ぐにっ。
悠人の手の中でパン種が大きく形を変える。背に柔らかさを感じていたのも束の間、
急に頬と頭に血が上っていくのを止められないで、悠人があっさりと身体を離したハリオンの方に
慌てて振り向くと、そこには口元に手を当ててくすくすと肩を震わせる姿があった。
「ふふ、本当かどうかは知りませんけれどね~。そうですかぁ、生地を捏ねるのが気持ちいいんですか~」
「そ、そっちこそ、からかわないでくれよ……!」
「え~、何のことでしょう~。……あら? ユートさま~、何だか手つきが……くすっ」
「……もう勘弁してくれ……先にやったのは悪かったから……」
何とも意味深な笑みを浮かべながら自分の狼狽振りを楽しんでいるハリオンに
たっぷりとやり込め返されて、ようやく生地が捏ねあがった時には、
悠人は心の底から、どうしたって彼女には敵わないと思い知る羽目になったのだった。
再びボウルにどさりとパン生地を置いて、乾かないように濡れ布巾で蓋をする。
「はい、お疲れ様でした~。一旦ここで休憩ですよ~」
「このまま朝まで放っとくのか。道理でこんな時間から始めるはずだ」
「朝ごはんにぴったりの時間に焼き上げようとしたら、日が昇る頃までは生地を寝かさないといけませんから~」
また、早めに生地を捏ねてしまって寝かせ過ぎてもダメだと言う。日によって異なる気温や湿度に左右されるが、
基本的には夜中に捏ねて夜が明けるまで寝かせ、それから焼く。これが美味しく焼ける生地を作るコツらしい。
つまりは、先日もハリオンは今日と同じ作業をこなしていたと言うわけだ。
しかも、一人で。
一度エプロンを外して椅子にかけ、悠人はそのまま腰を下ろした。
「やっぱり自分でやってみなきゃ分からないもんだな。普通に飯を作るのとは大違いだ」
「ふふっ、そうですねぇ~。大変さを分かっていただけたなら、『お詫び』のところはもうおしまいですね~」
満足げに笑みを浮かべるハリオンに、悠人はややぽかんとした目を向ける。
やりがいもあったし、楽しんで生地を捏ねていたために、
いつの間にか『お詫び』だったとか、『罰』だったとかいう意識が飛んでいってしまっていたためだ。
もっとも、フリフリエプロンだけは罰ゲームっぽかったが。
「え、でもまだパンを焼いてないんだから、罰が終わったわけじゃないだろ?」
「でもですねぇ、ユートさまがきちんと反省なさいましたので、もうすっかり機嫌がなおっちゃいましたぁ。
これから先はみなさんに、おいし~いパンを食べてもらえるようにご一緒してがんばりますよ~」
真夜中だというのに、ハリオンのニコニコ顔には先ほどまでには無かったような光が宿っているように見える。
つまりは、あんなに優しくて、親切に作り方を教えてくれていたにもかかわらず、
まだまだご機嫌ななめだったということに、悠人はハリオンの心に底知れない深さを感じた。
それでも、その笑顔を見ているうちに何だか心が温まるのは確かだ。
すっと気が晴れたところでふと気付く。陽が昇るまでゆうに数時間はあった。
「ところで頑張るのはいいんだけどさ、これから朝までハリオンはどうやって時間を潰すんだ?」
「わたしですかぁ? いつもは体や髪に飛んでしまった粉を流しに、お風呂に入って~」
「風呂か……確かに、気付かないうちに粉だらけになってそうだもんな。で、その後は」
「上がってから、時間までお休みします~。ちょっぴり疲れちゃってますから、気持ちよぉく眠れるんですよ~」
「そっかぁ。それは気持ちよさそうだ……って、だ、ダメだダメだ!
俺だったら時間までどころか昼までグッスリいっちまう!」
悠人は慌てて、風呂でほぐれた体が、ゆったりと布団に包まれる想像から首を振って抜け出す。
作り始めですら起きられなかったというのに、朝まで眠って早起きできるわけがないと、がしがし頭を掻いた。
「あらあら~、それはいけませんね~。
でも、少しはお休みにならないと最後の仕上げに差し障ってしまいます~」
「うーん。まぁ、とりあえず風呂に入ってから考えるよ。粉がかかってることは間違いないからな」
かたん、と椅子から立ち上がって外に向かいかける。
「ええ、ごゆっくりどうぞ~。ああ、でも、お風呂の中で寝ちゃったらいけませんよ~。
もしもお帰りにならなかったら、様子を見に行きますからね~」
「う……だ、大丈夫だから、来なくていいっ」
ギクシャクとした動きに変わる自分の手足を感じて、
どうにか抑えようとするものの余計に絡まらせそうになりながら、大浴場へと消えていく。
その後姿を、やはりニコニコと見送ってから、ハリオンはもう一段、笑みを深くした。
風呂に入ってこざっぱりした悠人が再び厨房に姿を現すと、
そこには先ほどまで無かったものが用意されていた。椅子の背に掛けられた一枚の毛布だ。
「ふふっ、お帰りなさいませ~」
予想外の代物に瞬きを繰り返す悠人が、ハリオンの声に顔を向ける。
そこには、彼女がさらに考えから外れた格好で椅子に座っていた。
一足先にすっかり毛布に包まってぬくぬくと温まっているように見える。
「なあ、ハリオン。これってもしかして……ここで一晩過ごせってことか?」
「はい~。お布団の中では起きられないなら、すぐに目が覚めるように、ここで休みましょう~」
風呂でリラックスした身体に、見ているだけで温まりそうな姿と、
実にゆったりとした口調がたっぷりと眠気を運んでくる。
けれど、悠人は軽く首を振ってハリオンを留めた。
「毛布一枚で寝るのは野営で慣れてるからいいけど、ハリオンまでこんな所で寝なくてもいいじゃないか。
起きられないのは俺の問題なんだから」
悠人としては、ハリオンの身体を気遣った上で当然の台詞だったのだが、
当のハリオンはきゅっと眉を寄せて頬を膨らませてしまった。
「ダメですよ~。だってこれから先は、パン作りをご一緒するって言いましたからね~。
それに、パンを作る生徒さんだけを、ここで寝かせるなんてそれこそできません~」
「せ、生徒……?」
そう言われてみれば確かにそんな関係が成り立つのかもしれない。
かなり強引な論法だと思うと同時に、どこかハリオン自身がその生徒と先生
という言葉を楽しんでいるように悠人には感じられた。
「さぁ、ユートさま。早くお休みになりませんと、眠る時間がなくなってしまいますよ~」
包まった毛布の隙間から手を出して、ハリオンが隣の席の毛布を指し示す。
彼女の楽しげな雰囲気に後押しされるように、悠人は細く息を吐き出して口の端を持ち上げた。
「うん……ま、ハリオンがいいなら、いいか。それじゃ、お休み」
「は~い、お休みなさいませ~。明日の授業は、最後の仕上げですからお寝坊さんはめっめっですよ~」
言いつつ、ハリオンは悠人が見ているうちにすぅすぅと眠りについてしまった。
「おいおい、台所の明かり、点いたままじゃないか。しょうがないなこの先生は……」
椅子に腰掛ける前に部屋の明かりを消して、目が慣れてから席へと戻る。
暗闇の中で目を閉じると、ぷん、とパン種の香りが鼻をついた。
授業の成果は明日の朝食が物語るのだと考えて、
悠人は静かに、成功を祈りながらしっかりと毛布を身体に巻きつけた。
真夜中の暗闇では感じられなかった光が、悠人のまぶたにわずかに差し込んでいく。
不自然な体勢で眠り込んでいたために身体の節々に妙なこわばりがある。
この身体の痛みと、夜明け時のごく微かな陽光。
普段。この詰所とは異なるもう一つの普段の習慣が、悠人の目を強引に覚ました。
「朝か……今日は、どこまで進むんだっけエスペリア……?」
「いえいえ~今日はどこにも行きませんよ~。
あぁ、パン作りなら、最後までしっかり進めますけれどね~」
寝ぼけ眼で目を擦る悠人の目の前では、グリーンスピリットはグリーンスピリットでも
エスペリアではなく、ハリオンが軽く身をかがめて椅子に座る悠人を覗き込んでいた。
はっとして、椅子から立ち上がろうとした悠人は、身体に絡まった毛布に邪魔をされ、
もぞりと大きく身体をねじるだけにとどまった。
「パン……作り。そうだ、パン作りだった。まだ、寝坊じゃないよな?」
「えぇ。ちょうど良いところでお目覚めですよ~。
戻ってこられたらすぐに始めますから、お顔と手を洗ってきてくださいな~」
いそいそと悠人の肩から毛布をはぎ取り、立ち上がるのを助けると、
ハリオンはパン種の入ったボウルを指差した。風船のように膨らんだ生地が、
悠人のまだしょぼしょぼとした目から最後の眠気を吹き飛ばす。
「へぇ……こりゃすごいな。よし、すぐに戻ってくる」
言って、手早くかつ丁寧に準備を済ませて、もう一度悠人は厨房へと姿を現した。
再び差し出されたフリルつきエプロンをぱっと身につけて袖を捲る。
手順だけは昨日の内に一応聞いている。あとは間違えないように進めるだけだ。
「ちょうどいい大きさに分けて、しばらく置いておくっと……」
まずは包丁で等分に一個の量を切り分けて、適当な形に丸めてバットの上へと転がしていくだけ。
しかしながら、ぷっくりと弾力のある生地を掴んで切り分けるたびに、昨夜の問答が思い出されて、
そのたびに悠人は頭を振って想像を追い出す羽目になる。
「ええ、そうそう、お上手ですよ~」
何故なら、昨夜の発言の通りに、今朝はハリオンもしっかりと包丁や打ち粉を手に取り、
悠人の向かい側に立って作業を手伝っているからだ。ちょっと生地から目を離せば、
すぐ前でハリオンの身体が元気よく動いていた。そういう訳で、悠人が一つ分作る間に、
ころころころといくつも出来上がっていくから、どちらが手伝いなのかは分からないが。
「生地を休ませたところで、オーブンの天板に並べる、だな」
「十分に間隔を開けておかないと、まだまだぷくぷくしますから気をつけてくださいね~」
何とか切り分けを終えると、今度はこのまま、焼く直前まで更に発酵させておくのだという。
「それじゃ、それまでは……そうか、別のおかずを作っておくんだ」
「そのとおりです~。ユートさまにははい、これを一口大に切ってくださいな~」
と差し出されたかごの中には、ごろごろとたっぷりの野菜が収められていた。
さらにその野菜の中に、鮮やかな橙と緑の塊を発見して、悠人は首を傾げた。
「いいのか、このラナハナとリクェム。こっちは何とか食えるようになったけど……」
「かまいません、ズバッっとやっちゃってください~」
鍋に水を張って、調味料を棚から取り出しながらやや物騒な擬音付きで答えるハリオン。
そして、悠人がいわれるままにズバッといった野菜をあるいは炒め、あるいは煮始め、
見る見るうちに数品のおかずが出来上がっていく。
「ん~、ユートさま、お味見はいかがですか~?」
味付けの最中からいい匂いは厨房にたちこめているのだ、断る理由は全く無い。
炒め物を一摘み、野菜スープを一掬い。どれもこれも、修正する必要が無いほどに美味かった。
「みんなより先にこんな美味いものが食えるってのはいいよなぁ。
味見だけで腹いっぱい食っちまいそうだ」
「あらあら、朝ごはんを独り占めしちゃいけませんよ、ユートさま?」
ここまで来れば、後は主食を完成させるだけとなる。二次発酵が終わった天板には、
ふくふくと丸まったパン生地が、今か今かとオーブンで焼かれるのを待ち構えている。
「これを、焼くのか……」
いろいろと教えられつつ、捏ね上げたパンが今まさに完成しようとしている。
オーブンに火をいれ、十分に予熱が行き渡ってから、悠人自身の手で天板がオーブンに入れられた。
「はい、よくできました~。もう、これでわたしから、ユートさまにパン作りで教えることはありません~」
「ちょっと気が早いんじゃないか? 焼きあがってからとか、食べてからじゃないとうまくできたかどうかは……」
なにしろ、自分が初めて捏ねたパンの出来には不安がたっぷりとある。
苦笑いを浮かべながら腕を組む悠人に向かって、ハリオンはその不安を打ち消すのに十分なほどの微笑を浮かべ、
「そんなことありません。あの生地を見て、触っただけでも、
とっても美味しいパンになるってわかります~」
つい、と爪先立ちになって悠人の頭に手を伸ばした。
何度されても恥ずかしい事この上ない『なでなで』ではあっても、
結局は心が落ち着いたり、晴れ上がったりすることに違いは無い。
それがはっきりと分かっているから、今日は特に抵抗することも無く自分から身をかがめて、
悠人はハリオンの手を受け入れる。しかし。
今朝のハリオンの手は、片手だけを頭に乗せるのではなくて。
そっと、両の手で悠人の頬を包み込んだ。
「……ハリオン? あの、これ……」
「ユートさまも、両手を出してくださいな~」
かがむために膝においていた両手を、目の前に持ってくる。
途端に、ハリオンは悠人の頬から手を外して彼の手をとり、今度は自らの頬へと導いた。
「こうして、きちんと両手で捏ねたパンが美味しくないはずありませんからね~」
「……え、と。それはどういう」
ふっくらとした感触に思考を止めた悠人が意味も無く呟くうちに、
ふと、自分の中にあった言葉を思い出した。
両手で剣を握る自分が、果たして握手などできるのか。
考えてみなくても、ハリオンたちの握る神剣は、両の手を使う槍だ。
少しだけ、ぼうっとしてしまっていたのだろう。いつの間にか悠人の両手は頬から外され、
しかし今もなおハリオンの手に包まれていた。
「ふふっ、何かを作る前に両手がふさがっていたら、持ってるものをポイしちゃえばいいんですよ~」
「ぽ、ポイって……」
ハリオンの発言に思わず悠人の目が丸くなる。
それと同時に、何かがすぅっと悠人の中に流れ落ちる心地がした。
ハリオンがお菓子や料理を作ることに対する思いは、
今、両手を塞ぐモノの先まで見据えたものだということに気付いて。
じっと見つめあい、悠人がようやく両手の柔らかな感触を意識するに至った頃。
「さあさあ、もうすぐ焼き上がりです~」
ぱっと両手を離して、ハリオンは香ばしい匂いを館中に広げるオーブンへと視線を移す。
「え、あ、そうだな。放っといたら焦げちまう!」
手の甲の温かさの名残が、妙に強く脈打つ心臓に移される。
だというのに、あちらは何事も無かったように鼻歌を歌いながらオーブンに近づいていく。
そんなハリオンの後について歩き、最後の指導といわんばかりにキッチンミトンを両手にはめられる。
悠人がオーブンから取り出したパンは、先日とほぼ変わらない見事なきつね色に焼きあがり、
誰もが一瞬で目を覚ますような芳香を立ち上らせていた。
次いで、サラダと炒め物、スープを器にとりわけて食堂へと運び込む。
すると。
「お、お早うございます、ユート様」
ヒミカが居た。妙に気まずげに居住まいを正している。
「早くお目覚めになったと思えば、厨房で何をなさっていたのか……」
セリアが居た。薄っすらと顔色に怒りを滲ませながらため息をついている。
「おはよう、ございますっ……えっと、お、おいしそう、ですねっそのスープっ」
ヘリオンが居た。ちょっぴりうらやましそうに厨房を見やり、直後に瞳に何かの決意を浮かべている。
「起床しました。朝食の献立をお教えください」
ナナルゥが居た。特に関心は無さそうに、運んできたスープを覗き込んでいる。
見られていた。と悠人が気付いて慌てだすよりも前に、
さらに厨房からサラダを持ってきたハリオンが姿を見せる。
「あらあら~、みなさんおはようございます~。今日の朝ごはんは特別ですよ~」
そのごく自然な声の響きと笑顔に、三人はそれぞれに一息を入れた。……ナナルゥはサラダを覗き込んでいる。
ちょうどそこに、残りの面々が次々に姿を現し始めた。
「ん~、やっぱりハリオンの焼いたパンの匂いで起きると気持ちいいねー!」
「朝ごはんが、もぉっとおいしくなるからねぇ」
鼻をひくひくとさせながら席に着くネリーとシアー。
「おはよう……げ、なにユート、そのヘンな格好?」
「ニムっ、ユート様に『げ』とか『ヘン』なんて……あ、いえ、その。お似合い、ですよユート様」
十分に拭ききれていないニムントールの顔を拭いながら、ファーレーンも姿を見せる。
そのニムントールの遠慮の無い物言いに、ほぼ全てのスピリットたちの視線が悠人のフリルエプロンに注がれた。
「こ、これは仕方なかったんだって! 何せ、今日の朝飯をだなぁ……」
しどろもどろになって上手く説明も出来ていない悠人の代わりに、
台所からバスケットを抱えたハリオンが出てくる。
「今朝の特別メニューは、ユートさま特製の焼きたてパンです~。
さ、ユートさま。みなさんに配ってくださいな~」
と、山盛りになったパンの入ったかごを悠人に手渡した。
どこと無く形が不揃いなものばかりなのは、第一弾が悠人製のものだけだからなのだろう。
一様に、ふぅん、へぇ~、ほぅ、と興味と期待、あるいは不安を混ぜた表情で、
それぞれの席に置かれた皿を、悠人からパンを受け取るために差し出す。
その間に、ハリオンは残りの料理についても、
「スープもサラダも、炒め物も。ユートさまが作るのを手伝ってくださいましたから、
朝食はユートさま特製メニューの大盤振る舞いですね~」
と、悠人が聞けば少し、いやかなりの誇張が含まれる内容で説明をしていた。
やや訝しげに悠人が視線を返すと、ハリオンは唇の端をちょっと悪戯っぽく吊り上げて、
ネリーやシアーの方を見やる。すると、スープに入っているラナハナ、
炒め物に混ざっているリクェムを前にして、覚悟を決めた表情でフォークを握り締める二人が目に入った。
二人には見えないようにそっと苦笑いを浮かべて、悠人もバスケットからパンを掴んで席に着く。
そして今日もまた、手を合わせての挨拶が響く。
「いただきます」
『いただきます(ま~す)(ます~)』
とは言え、挨拶の口火を切った悠人はすぐにはパンを口に運ばず、
ただみんなの様子を見守っていた。もちろん匂いは悪くないのだけれど、
それでも初めて作ったものには確実な自身は持てなかったから。
「見た目はともかく……味は、良いわね」
セリアの言葉の前半でこころもち身を硬くした悠人だったが、
微かな笑みと同時に洩らされた呟きにほっと肩の力を抜いた。
「だ、大丈夫ですよっ、おいしかったらそれで良いんですから」
「それに、比べるのがハリオンのじゃ、ユート様には分が悪いでしょう」
齧ったパンを飲み込んだ者から順に感想を述べていく。
思惑通りにリクェムやラナハナを口にして、顔をしかめて我慢していたネリーたちも、
パンと一緒に食べているとすっかり苦味も無くなった様子で、更に追加で苦手克服作戦を展開している。
「この味、よほど上手に仕込まれたようですね?」
食事中には覆面を取っているファーレーンが、ハリオンとユートを交互に見ながら微笑みかける。
「先生がいいんだから当然じゃない。ヘンに作るほうが難しいんじゃないの?」
そうは言いながらも、小さくちぎっては口に運び続けるニムントールに、
ファーレーンの諌めるような視線と、悠人の苦笑いが寄せられた。
でもな、と前置きしてから悠人の目が真っ直ぐにハリオンに向く。
「ハリオンがどんな気持ちでパンを焼いてたかって叩き込まれたよ。
確かにめちゃくちゃ美味くなって当たり前だな」
言葉を聴いて、その場に居た者全員がそれぞれに――ごく微かにとは言えナナルゥもが――
温かそうな笑みを洩らした。
きっとこの前にみんなからも責められていたのは、
それを分かっていなかったことも含めてだったのだろうと再び情けなさが蘇ってくる。
けれどそれが顔に出てしまう前に、ハリオンは悠人の作ったパンを差し出して、
「そんなに褒めていただいても、わたしに出せるのはこれくらいのものですよ~」
と、悠人の手に握らせた。彼女の笑顔に促されるままに、手製のパンにかぶりつく。
味も、歯ごたえも、先日に食べたものとの違いは自分でも良くわからない。
つまりは、自分の手でも、ハリオンと同様にこのようなパンを生み出せたということだ。
もう一度深く味わうようにパンを噛みしめると同時に、
皆が喜ばしげに自分が作ったものを食べてくれている嬉しさをもまた、悠人は味わう。
「こんなに喜んでもらえるんだったら、また作ってみてもいいかもな」
「そ、それじゃ今度は、わたしがお手伝いしますっ」
「えーっ、だったらネリーも一緒にやるよー!」
「シアーもお手伝いしてもいい、かなぁ……?」
ぽつりと洩らした呟きに、すかさず声と手を上げるヘリオンたち。
彼女たちに囲まれるような形で迫られて、悠人は後には引けなくなったように笑いかける。
果たして、ちょうどいい捏ね具合がハリオンの助け……というか耳たぶなしで出来るのか、
と、決して目の前の三人には言えないようなことを頭の隅によぎらせながら。
一旦離れたところに移動し、その様子を見ながら、
ハリオンはやはりニコニコと笑みを浮かべて、こっそりと言葉を紡いだ。
「ふふ~。それなら、これからはユートさまが朝ごはんをお作りになるときは、早起きさんになれますね~」
「よくやるわね、ハリオン……」
長年の連れの行動を読んで、いち早くその隣でヒミカがため息をつく。
「まさかユート様に朝食を作らせてしまう事になるなんて思わなかったわよ」
「えぇ~? でも、ご自分から起きる気になっていただかないと~、
あんまり無理に起こして差し上げるのも、いけませんからね~」
それに~、と心の底から『お姉さん』らしい笑顔で、ハリオンは続けた。
「これで、みんなも一緒にユートさまとお料理できるようになりますよ~」
「えっ……?」
ごく僅かに自分の表情に期待が表れたことを自覚し、動きを止めるヒミカを見、
ハリオンは更に視線を動かしていく。
「みんなと一緒に朝ごはんを作れば、ユートさまだって毎日早起きさんですしね~」
微かに、聞き耳を立てていたようなニムントールの肩が揺れ、
食事を終えて覆面をつけ直していたファーレーンの頬が、それでも分かるほどに紅潮し、
セリアはバカバカしいとばかりに席を立ちつつも、その頭の中ではいろいろな献立が渦巻いているようだ。
そして……しばらくの間、微動だにせずハリオンの言葉を耳に入れていたナナルゥが、
「……へっへっへ」
僅かに、楽しげな色を乗せた声を洩らして、結局はみんなみんなが。
(ハリオンには、かなわないなぁ……)
と、思ったのであった。