御伽噺で、キレイゴトの先で

佳織は、まだ震えが止まらなかった。

いつも優しかった兄の変貌。
悠人が、なにかドス黒いものをまとわりつかせて変わり果てた瞬間。
あの時、確かに自分をも殺そうとした。
棍棒のような得体の知れない武器で、黒い妖精ごと自分を殺そうとした。
 -どうして?
レスティーナやオルファは、あれは永遠神剣というのだといつか教えてくれた。
 -あれは、誰?
何処だかわからぬ此処に放心状態のまま放り込まれて。
 -あの化け物は、何?
しばらくして、やっと視界に入ったベッドに逃げ場を見つけて潜って隠れた。
 -お兄ちゃんは、何処に行ったの?あの時確かにあそこにいたのに何処行ったの?
歯がガタガタと鳴る、身体を気持ち悪い汗がつたうのが止まらない、寒い。
 -怖い。
ようやく自分の現在の感情の正体に、ふと前触れもなく今頃気づく。
 -助けて!
目を閉じたいのに、夢だと自分を騙したいのに目は開かれたままで閉じてくれない。
 -お父さんお母さん今日子先輩小鳥碧先輩
助けて助けてたすけてたすけてたすけてタスケテタスケテタスケテタスケテ

身体が弓のようにのけぞって、喉も裂けよと叫びをあげる。

不意に、自分の身体がゆさぶられているのに気がつく。
叫びと共に、全ての感情が沈んでゆく。
全身から力がぬけて、胸と腹の中の空気がゆっくり全て吐き出される。
頭のどこかがジンジンする。
やっと、まぶたが降りてくる。

そうしてふと、誰かが抱きかかえて背中をさすってくれてるのに気づく。
 -いい、におい。
重いまぶたをもう少しだけ開けて、誰かの顔を確かめる。
それは、自分をさらった黒い妖精だった。
「大丈夫、大丈夫でござる。もう大丈夫でござる。
 何が来ても、手前が斬り捨てます。怖いものは、もう何もござらぬ。
 怖いもの全て、例えなんであろうと必ず手前が斬り捨てますゆえ」
力強く一生懸命で優しくて、そして何よりも信じさせてくれる声だった。
黒い妖精の身体に両手をまわして、逃げ込むように胸に顔をうずめる。
ずっと背中をさすり続けてくれる手が、とてもここちよい。
「ありが…とう、もう大丈夫…」
生まれて初めてかと思うくらい、やっと声を絞り出せた。

どれくらいたったのだろうか。
ようやく佳織は、黒い妖精から身を離すことができた。
ベッドの上で足を直して座り込む。
視線が下に沈んでいく、気力も思考もカラッポになる。
喉が渇いている上に、ヒリヒリ痛い。

すると、湯気をともなった漢方薬のようなにおいが鼻をくすぐる。

「これは、気分を落ち着かせる薬湯にござる。
 味に難はありますが、それでも茶の一種に違いありませぬ。
 さ…ぬるめにしてあります、ゆっくり飲みなされよ」

暖かい器に、元の世界で見たウーロン茶のようなのからほのかな湯気。
恐る恐る両手で受け取ったそれを口に運んで、ぐびぐびと飲み込む。
舌を刺激する、本当に漢方薬とそっくりな味にかえって安心感を誘われる。
飲みきったあと、胃から温まる感覚にほうっと息をつく。
妖精が、そうっと優しく空になった器をとってくれる。

「ありがとうございます」

小さくそう言いながら見上げると、妖精は優しく微笑んでくれていた。
「いえ、手前に出来たのはカオリ殿を悪夢から呼び戻した程度のみ。
 薬湯は、手前の部下がいつの間にか用意してくれたもの。
 …手前に礼はいりませぬ、礼はどうぞ手前の部下に」
黒い妖精の視線の先を追うと、そこには優しい表情の緑色の妖精がいた。
「あ、あの…ありがとうございますっ」
佳織の言葉に、緑色の妖精はふかぶかと頭を下げる。
「戦場で見る以上に、見事な働きにござった。
 そなたを部下に持てた事、手前は心から誇りに思う」
緑色の妖精は黒い妖精の言葉に、嬉しそうに微笑みながら深く頭を下げる。
そして、空になった器を持ってそうっと部屋から去っていった。

佳織は、黒い妖精に向き直って。
「あの、お名前は…それから、ここは…?」
佳織の問いに、黒い妖精は物憂げに目を伏せる。
「手前は、ウルカ…。
 ここは神聖サーギオス帝国の城の一室にござる」
その言葉で、たった今まで飛んでいた記憶が蘇る。
「…思い出しました。私は、ラキオスから連れて来られたんでしたね」
ウルカは、無言でそうっと佳織の手に自分の手を重ねる。
「今は、どうか休まれてくだされ…。目にくまが出来ておりまする。
 さ…朝餉の時間にもまだあまりに遠い時間にござる」
言われて、窓を見ると今が深夜なのだと理解できた。
「ご心配なく、今宵は手前がずっとそばについておりますゆえ」
その言葉にうなずいて、ベッドに横になる。
そのとたん、抗えない眠気が押し寄せて何もかもが闇になった。

窓からさしこむ陽光に、自然に目が覚める。
なんとなく自分の手に温もりがあるのに気づくと、手を握られていた。
「目を覚まされましたか」
自分の手を握っていたのは、ウルカと名乗った黒い妖精だった。
佳織は、そこでハッと気づく。
ウルカは、一晩中ずっと自分のそばにいてくれた。
それなのに、椅子に座ってもいない。
「あの…立ったままでずっと一晩中手を握っててくれたんですか?」
驚愕した佳織の言葉に、ウルカはこともなげに言う。
「常に武人として鍛錬を欠かさぬ身なれば、この程度はどうともござらぬ」
佳織は、申し訳なさと感謝の気持ちで顔が曇ると同時に胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます、それから…ごめんなさい」
佳織の言葉にウルカは首を横に振って、あくまでも優しく語りかける。
「手前は、たかがスピリット。人間に尽くすは生来の定めなれば…」
その時、部屋の扉からノックの音が響く。
「…朝餉が運ばれてきたようにござる。それでは手前はこれにて、御免ッ!」
言うが早いか、ウルカは一瞬黒い色だけになったかと思うともうそこにいなかった。

サーギオスの、夕刻。

佳織の頭の中で、先ほどまでの光景がぐるぐるしていた。
変わり果てた、秋月瞬。
腰に下がっていた、不気味な装飾の武器。
瞬の声で佳織に語りかけられた、瞬ではない何かの言葉。
鉄格子のはめられた窓を少しあけて、風が髪をさらりと流すのに任せる。
夕焼けの空模様に、オレンジと朱色のグラデーションの雲が流れていく。

 -この世界にも、夕焼けってあったんだ。

佳織は、今更気づいたようにあえてわざとらしく自分でそう思ってみる。
不意に思い出す。
自分が連れ去られた時の、悠人の姿。
佳織はそこではじめて、それと同じものを自分は見ている事に気づく。
変わり果てた秋月瞬と、変わり果てた高嶺悠人。

-似てる。

鼓動が、鈍く佳織の小さな胸を内側から打つ。
変わり果てた秋月瞬と、変わり果てた高嶺悠人。

-似てる、ううん全く同じ。

鼓動が、重く佳織の小さな胸を内側から打つ。
瞬の腰にぶらさがる不気味な武器と、悠人の持っていた棍棒のような剣。

-永遠神剣。

かつてレスティーナたちから聞いた、その名前だけ清らかな魔性の武具。
はねとばされるように、佳織は部屋から飛び出そうとしていた。

扉を、渾身の力を込めてガチャガチャとノブごとひっぱる。
叩き壊す勢いで、がむしゃらに扉を叩く。
両手で、拳を固く握り締めて扉を砕かんばかりに叩く。
やがて力尽きると、荒い息をつきながら扉にもたれかかって両膝をつく。
扉の向こうから、何か聞こえる。
衛兵か誰かが、この世界の言葉-聖ヨト語だっけ-で怒鳴ってる。

「そこを、どいてえッ!」

衝動に突き動かされるままに、部屋にあった椅子を両手で掴む。
絶叫とも奇声ともとれぬ叫びをあげながら、扉を打ち叩き続ける。
ふと気がつくと、床に四つん這いになって火照った体全部と肩で息をしている。
少しずつ、息が落ち着いてくると共に汗が幾粒も床に落ちる。

すくりと立ち上がって深呼吸をする。
そして、部屋で扉から一番遠い位置に移動する。
佳織は上着から靴まで全部脱いで、隅っこに投げ捨てて下着だけの姿になる。
先ほどよりも、深く深呼吸して出来るだけ身体に力を行き渡らせる。
両頬を、両手でぱしんと勢いよく叩いて思い起こす。
いつだったか、学校の体育の授業で習った短距離走のやり方。

床に指をついて、覚えている限りで陸上短距離選手のフォームに姿勢を近づける。

目をつぶって、イメージを作る事に集中する。
頭の中で、空砲がぱぁんと鳴る。
スタートダッシュ。
助走。
上半身は垂直に脇をしめてひじを気持ちだけ深く曲げて両腕を振る。
肩に力がこもらぬように、けれどもしっかり勢いつけて身体で振る。
足はひざで動かすのではなく腿を上に引っ張りあげる。
つま先は床に突き刺すように、カカトを決して地面につけないように。
呼吸を鼻でしてはならない、口から酸素を肺にしっかり送り込む。
目は決してゴールただ一点から動かすな、頭も首も揺らすな。
遠い、目標まで未だに遠い。
でも、焦るな。
頼りない直感が、ちょうど半分の距離にたどり着いたと告げる。

加速ッ!

目標が、むしろこちらに近づいてくる。
そして。
そのまま勢いと体重ののった体当たりで、扉を粉々に砕いた。

通路に散らばった扉の破片の中で仰向けに寝転がる。
さっきまでよりも、ずっと息が荒い。
頭がづーんと痛くなってくる、視界がぼやけている。

 -出来たけど、やり方はこれで本当に良かったのかな

不意にそんな思いが浮かんでくると、呼吸がだんだんおさまってきた。
立ち上がって、身体にくっついた木片などを払いながら周囲を見回す。
足元では、扉の巻き添えをくらったらしい衛兵が気絶している。
「秋月先輩は、何処だろう…あの剣を何とかしなくちゃ」
とりあえず、右手の角を曲がってみる。
戻って、今度は左手の角を曲がってみる。
どっちも、全く同じ景観でまず迷子になること間違い無しだった。
どうしたもんかと、壁によりかかってロダンの考える人のポーズをとってみる。

結論…不退転。ひたすら前進。突き進め。そうさ強引グMy人生。

何かが致命的に間違っているような気がしたが、とにかくそうする事にした。
まぁ、あの悠人の妹だし。義妹でも家族に違いはないんだし。
小走りに、何処までも続く通路を進んでいると向こうが何やら騒がしい。
その場所まで走っていって、柱から顔を覗かせると探し人がいた。
誓いのシュンが、ただならぬ表情で衛兵とスピリットたちに何かを言っている。

「秋月先輩、探しましたっ!」

今まさに、その声の主を探すための指示を飛ばしていた瞬が驚いて振り向くと。

秋月瞬が心から神聖視し愛してやまない少女が、下着ヌードで仁王立ちしていた。
予想の範疇をあまりにも物理法則とか色々無視して超越した事態に固まる瞬。

そんな瞬の様子を無視して、ずかずかと近づいてくる佳織。
現在、自分がどんな姿格好なのかは完璧に忘れている。
「秋月先輩!その武器は危険です、持ち主の心を飲み込んでしまうんです!」
強くそう言って、瞬に右手をずいっと突きつける佳織。
「そんなものを持ってたらダメなんです!だから私に渡してっ!」
佳織の声だけが瞬の頭に響く。身体は動かない、視線は胸とか色々に釘付け。
「秋月先輩っ!私の話を聞いてるんですかっ!?」
がしっ、と佳織が瞬の腕を掴んだ瞬間。

瞬は、鼻血を盛大に吹きながら生きたまま金色のマナの霧と散りはじめた。

「へっ?…あ、あの先輩?秋月先輩っ!?」
突然の瞬の異変に、未だ自分の姿格好へ思考が及ばぬ佳織は慌てる。
周りは呆然としていたが、やがて事の重大さを悟って騒ぎはじめる。
結局、瞬はウルカの部下のグリーンスピリットの神剣魔法で涅槃から生還。
夕食もとらずに自室のベッドに横になって、翌日まで放心状態だった。

「秋月先輩、大丈夫ですか?」
昼ごろになって、ようやく復活したベッド上の瞬の顔を心配そうに見る佳織。
「佳織…僕の事はいいのさ。佳織に何もなくて良かったよ」
サーギオスの王侯貴族の娘の衣装を着た佳織に、いつも通りに接する瞬。
「ごめんなさい…」
恥ずかしそうにうなだれてしまう佳織に、自分を責める瞬。
「違う、佳織は何も悪くないんだよ。僕が平常心を保ってればよかったんだ」
すまなそうに頭を下げはじめる佳織を制して、そう言う。
部屋を見渡す。
誰も、いない。
佳織と、自分しかこの部屋にいない。
ベッドで上半身だけ起こして横になってる自分と、その側で椅子に座る佳織。

 -どこかで。この場面は、確かに以前にも。

「………ですね」
思案にふけっていると、佳織の声が耳に飛び込んできた。
「ああ、今ちょっと考え事しててよく聞こえなかったよ。
 すまないが…もう一度言ってもらえないかな、佳織?」
瞬のその言葉に、一呼吸おいてもう一度今度は少しゆっくり喋る佳織。
「ずっと小さい頃。はじめて、お会いした時と同じ場面ですね」
佳織のその台詞に、はっとなる瞬。
 -そうだ…これは、あの時と同じだ…佳織と初めて出会ったあの時と…
瞬の胸に、今なお忘れえぬ大切な思い出が蘇る。
「佳織、佳織も…覚えていてくれたんだ…」
佳織は、懐かしそうに優しく微笑んで頷く。

自然に瞬はベッドの掛け布団の上に置いていた手に、ぎゅっと力をこめる。
握り締めた手の中に、布の感触が絡まってくる。
 
 -いつ以来なんだろう、佳織のこんな顔を見れたのは。
 -いつ以来なんだろう、この胸のわけわからないけど温かいもやもやは。
 -いつ以来なんだろう、自分の気持ちから暗いものが晴れていく感覚は。

知らずに、瞬は視線を下に落としてうつむく。
全てが闇色に塗りつぶされていた、あの頃。
自分は、あまりにもひ弱だった。入院を何度繰り返したか覚えていない。
泣いていた。いつも、泣いていた。寂しくて、泣いていた。

 -「……どこか痛い……の?」
泣くのは弱い者、弱い者は蹂躙される者。
 -「えっと、痛くなったらすぐにボタンを押せばいいって、お母さんが…」
違う。泣いてなんかいない。
 -「えっと…わたしも、泣いてるとき、お母さんがいてくれるといいから…」
何で、思い出すんだよ。どうして、あんな気持ちになれたんだよ。

「どうして、僕は笑えたんだ…」

前置きも無しにそう呟いた瞬の顔に、佳織はハッとなる。

「奪われる者じゃなくて、奪う者になったんだ。
 怖かった。佳織を奪われるのが…佳織の笑顔だけは奪われたくなかった。
 たくさん、たくさん今まで何もかも奪われてきたから…だから。
 弱いから奪われるのが怖かった。弱いのが、怖かった…。」

佳織は、瞬の言葉から彼の心の闇の深さを敏感に感じ取っていた。
これまでの、自分が見てきた限りの瞬の姿を思い出す。
 -泣いて、いたんだ…いつも。こんなに、弱かったんだ…。
何故かくも長い間、誰もせめて自分くらいは気づいてあげられなかったのか。
佳織は下唇を噛んで、心の中で自分を責めたてる。
そして今までどんなに、悠人や友人たちに護られてきたか。
心に押し寄せる、それらのとてつもない重さを知らないでいた自分。

佳織は、瞬の顔に手を伸ばして。

丁寧に優しく、涙をぬぐっていく。

それで我にかえった瞬は、自分が泣いている事に気づく。
気づくが、佳織を見て彼自身もまた気づく。
佳織もまた、泣いていた。
佳織は、思い出す。
さらわれる直前、ラキオススピリット隊の館の食堂での会話を。
あの時の悠人の言葉、自分の言葉。
 -お兄ちゃんは、どこまでも私のお兄ちゃんだった。
 -そして、私だけのお兄ちゃんじゃなくて。
 -みんなの…たくさんの人たちの、お兄ちゃんだった。
「佳織…佳織?」
瞬の呼びかけに気づかないまま、佳織は思いをはせる。
 -そうだよね、失恋して当然だよね。
 -お兄ちゃんがいつも私を最優先にしてたのは、確かに重かった。
 -でも、お兄ちゃんを縛り付けていたのはいつだって私だったよね。
瞬はやがて、佳織の顔に手をのばして…佳織の涙をぬぐいはじめる。
 -泣くのは弱い者。弱い者は蹂躙される者。
 -佳織は、泣いている。弱い者だから?蹂躙される者だから?
 -でも、僕も泣いている。弱い者だから。蹂躙される者だから。
 -それって、本当なのかな。
 -佳織は、僕の涙をぬぐってくれている。僕が、泣いているから。
 -僕は、佳織の涙をぬぐってる。佳織が、泣いているから。
 -どうして、お互いに泣いてて涙をぬぐってるんだろう。
不意に、佳織が視線を下にむけてつぶやく。
「もう、自由になってもいいよね…お互いに」
佳織の…その言葉に、瞬は。
本当にごく自然に…微笑んで…ごく自然に…答えた。
「うん、佳織の言うとおりだね…本当に、そのとおりだ」

その瞬間、佳織は初めて自分たちの状況に気づく。
「…秋月先輩。私、泣いて…?」
優しく微笑んで佳織の涙をぬぐいながら、瞬ははっきりと言葉を紡ぐ。

「いいんだよ、佳織。
 泣いてもいいんだよ。泣いていてもいいんだよ。
 泣いてたら、こういうふうにすればいいだけなんだ。
 泣いたら、ぬぐえばいい…たったそれだけのことなんだ。」

佳織は、目の前の全てがにわかに信じられないでいた。
瞬が、微笑んでいる。
瞬の目が、優しい。
瞬の手の温もりが、あたたかい。
「秋月先輩…今の先輩が、本当の先輩なんですね…」
しかし、佳織のその言葉を瞬は悲しそうに首を横にふって否定する。
「違うんだよ、佳織。
 今、こうできてるのは…相手が佳織だから。
 そして、たまたまこうなったから僕もこんな気持ちになっただけだ。」
瞬の涙はもう、乾いていた。
それでも佳織の涙はまだあふれるままだったので、ぬぐう手は止めない。
瞬はまっすぐ、まっすぐに佳織の目を見て言う。
「僕は、自分の弱さから逃げてる。
 自分の弱さを誰にも見られたくないから、奪う者になろうとした。
 でも、一番欲しいものだけがどうしても奪えなかった。
 それは気づいてみれば、全く当たり前のことだったんだ。

 僕が佳織を奪ったら、それは同時に佳織の大事なものを佳織から奪う。
 僕自身の涙は、僕が自分でぬぐえばいい。
 でも、佳織の涙をぬぐってくれる人まで奪ってしまったら。
 …こうして佳織の涙をぬぐう僕をも、僕自身から奪うことになるんだ」
瞬の言葉に、佳織の涙はますますあふれてくる。

瞬の涙がすでに乾いているのに気づいて、佳織はそっと手を離す。
そのまま、自分の涙をぬぐっている瞬の手にその手をそえる。
「だったら…だったら。
 秋月先輩の手は、今私の涙をぬぐうためにあるんですよね?」
そう言って、佳織は更にもう一つの手を瞬の手にそえる。
両の手で、佳織は瞬の手を包み込む。
「私の手は今、こうして先輩の手を包むためにあります。
 さっきは、先輩の涙をぬぐうためにありました。
 今だけじゃなくて、これからもです。
 先輩が泣いてしまったら、また私の手でぬぐいます。
 先輩の涙が乾いたなら、またこうして私の手で包みます。」
瞬は、じっと真剣に佳織の目を見つめて黙って聞いている。
「先輩も、今だけじゃなくてこれからも私の涙をぬぐってくれますよね?」
泣きながら微笑んで、瞬にそう問いかける佳織。
瞬は、口をきゅっと結んで強くうなずく。
「だったら、私の涙だけじゃなくって。もちろん今だけじゃなくって。
 秋月先輩の手は、これからも私以外にもたくさんの人の涙をぬぐえます」
佳織の言葉が、瞬の心に染みていく。
それでもまだ瞬は、佳織以外の他人は怖いと感じていた。
佳織が望むように、佳織以外の誰かの涙をぬぐえる自信が持てなかった。

不意に、佳織が瞬の手を佳織自身の顔から離していく。
佳織の涙もまた、もう乾いていた。
「今は確かに先輩の手は、あの永遠神剣を握ってます。
 でも。
 人間の手は、それだけじゃなくてもっとたくさんの事が出来ます。
 だから秋月先輩の手も、もっと色々な事がたくさん出来ます。
 剣を持ったり涙をぬぐうだけじゃなくて、もっと、もっと…」
佳織は、すうっと一呼吸置いてからようやく最後の言葉を紡ぐ。

「自由に」

佳織は、瞬の横たわるベッドに瞬の手を置いて両手で包み込んでいる。
瞬は、佳織の言葉を自分の口で声を出さないでつぶやいてから。
まだ自信なさげだったけれども、佳織の手の上から自分の手をそえた。

秋月瞬の心は、今この瞬間ここに至ってようやく解け始める。

だが、瞬の胸を重くて粘つく鼓動が打つ。

 -契約者、汝の誓いを成せ…

その声が響く毎に、瞬の心がドス黒く塗りつぶされていく。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!」

 -汝の誓いを成せ…
声は意識のみならず精神や身体や記憶の奥深くにまでも響いてくる。
「秋月先輩っ!」
突然、頭を両手で抱え衣服をやぶりながら胸をかきむしり苦しむ瞬の姿。
佳織は、それがなんなのか察しがついていた。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!」
口から泡を吹き、目と鼻と耳から血を流してのたうちまわる瞬。
佳織は、永遠神剣がそうさせているのだと気づいていても。
…気づいていても、暴れる瞬を必死に抱きしめるしか出来ないでいた。
 -誓いを成せ…
瞬の心にぞわりと這いずって来るドス黒くてぬめる醜い汚物。
瞬は両手足を痙攣させながら、海老のように背中をのけぞらせる。
目の焦点はあっていない、瞳孔は開いたり閉じたりを激しく繰り返す。
口が、力なくぱくぱくと動く。
「…ゃ……だ………」
佳織は、聞き取れたのが奇跡なくらい小さな瞬の小さな声に気づく。

「いやだあああああああああああああああああああああああああああ!」

部屋の外まで響く、瞬の絶叫。
佳織は、瞬が永遠神剣の意思と戦っているのだと悟る。

「先輩、先輩っ!負けないで先輩いぃぃぃぃっ!」
自分も必死になって呼びかけながら、瞬の手を強く握る。

-誓いを成せ…誓いを成せ…誓いを成せ…誓いを成せ…誓いを成せ…!

だが、永遠神剣第4位「誓い」の強制力は瞬にはあまりに強すぎる。
そしてまた、「誓い」の強制力に耐えるには瞬はあまりに弱すぎる。

佳織は、瞬の手が氷のように冷たくなるのを感じていた。
同時にまた、瞬の目から光が失われていくのを感じ取る。
「やめてっ、もうやめてえっ!やめてよおぉぉぉぉっ!」
半狂乱になって絶叫する佳織。

「カオリ殿っ!」

その時、窓をブチ破って飛び込んできた黒い妖精。
ファンタズマゴリアにて最強の誉れ高き大陸三傑が一人。
居合い刀型の永遠神剣第六位「拘束」を振るう、漆黒のウルカ。
「ウルカさんっ!」
救いを求めて見つめてくる佳織に、ウルカは力強く頷く。
瞬の手をとり、まるで本物の医者のように診察していくウルカ。
「カオリ殿」
ウルカの言葉に、次をじっと待つ佳織。
「今ならまだ、この者は助かります。
 まずは、カオリ殿こそがどうかお気を落ち着かせてくださいますよう」
ウルカの、助かるという言葉に目を輝かせる佳織。
深呼吸して幾らか気持ちを落ち着かせてから、瞬の手を更に強く握る。
「よいですか、カオリ殿」
佳織はうなずいて、ウルカをじっと見つめる。
「すでにおわかりとは存じますが、この者は神剣に飲まれかけています。
 普通なら、神剣が主を飲み込むのは極めてごくゆっくり。
 自らの心でなく神剣の威力を力任せに振るうごとに飲まれるのです」
ごくりと唾を飲み込む佳織に、ウルカは言葉を続ける。
「この者はもともと、神剣に己をかなり飲まれていました。
 むしろ、自ら進んで喜んで神剣に己の心を食わせていくようでした。
 察するに、心の隙間に神剣が入り込むのが快感だったのでしょう。
 先ほどからの話を聞いていた限り…恐らくは。」
そのウルカの台詞に、佳織は目を丸くする。
「それって、ずっと聞いていたってことですか?」

驚く佳織に、ウルカは平に頭を下げる。
「申し訳ありませぬ。
 この者に、カオリ殿の監視と守護を命じられていた故…。
 どうしても、カオリ殿に隠れて側に潜みざるを得ませんでした」
ああ、と納得する佳織だが瞬の手を握る力は決して緩めない。
「さて、普通なら起こらないこの状況に何故陥っているのか。
 …この者の心に入り込んでいた神剣が追い出された反動ゆえです。
 先ほどのカオリ殿との対話により、この者は心を救われた。
 救われたという事は、神剣の入り込む隙間がなくなったということ。
 永遠神剣はマナを得る事により、その存在を維持しています。
 ですが主の心から追い出された今、再び元通りへと心を侵している。
 神剣が己を維持するために主へマナを要求する行為…強制力です」
以前にレスティーナたちから聞かされていた永遠神剣なる代物。
今の瞬の姿とウルカから改めて聞いた話に、佳織は怒りを込めて叫ぶ。

「それって…それって全然、神剣じゃない!
 物凄く邪悪な、ただの魔剣じゃないのっ!!」

叫んだあと、佳織は周囲を見回して…探す。
「…探し物でしたらここにござる、カオリ殿」
すでにウルカの手に瞬の永遠神剣第4位「誓い」があった。

「ウルカさん、それ壊してっ!
 粉々に砕いてっ、今すぐお願いっ!!」
佳織の言葉に、ウルカは首を横に振る。
「手前の神剣はこの神剣より格下ゆえ、それはかないませぬ。
 仮に出来たとしても、行き場の無くなった神剣の意識は…。」
ウルカは、佳織が聞き逃してしまわないように慎重に次の言葉を告げる。
「今度は、主の心を喰らい尽くして身体を乗っ取ろうとするでしょう」
その言葉に、佳織は愕然となる。
「カオリ殿…先ほど手前の言った事をお忘れか?
 今ならまだ助かる、確かにそう申したはずです」
そう言って、佳織の手に「誓い」を握らせる。
「カオリ殿も…この者と共に戦うのです。
 カオリ殿の心も、この者の心と共に神剣の意識と戦うのです」
何をすればいいのか、佳織は悟って唾をごくりと鳴らす。
「ただし、心なされよ。
 神剣に語りかけるという事は、神剣に心を開くという事。
 すなわち、神剣の意識に常に心が晒されている事に他なりませぬ」
左手は、瞬の手を強く握って。
右手は、「誓い」の柄をやはり強く握る。
「大丈夫…先輩の心は護ってみせる。私の心も食われたりなんかしない」
目をつぶってウルカに頷き、「誓い」を握る手に意識を集中する。
「微力ではありますが…手前も加勢いたしましょう!」
力強い台詞と共に、ウルカは「拘束」を抜いて刃を「誓い」に重ねる。

重ねられた神剣から、鈴の鳴るような音色がかすかに鳴る。
佳織とウルカは、それぞれ同時に「誓い」に語りかけ始めた。

無言で音も無ければ動きもない、けれど苦しくて激しい戦い。

顔中に油汗を滝のように流しながらよろける佳織を、ウルカが支える。
佳織が瞬の手を握る力がほんの少し弱まると、苦しみながら瞬が握り返す。
瞬が佳織の手を握る力が抜けていくと、佳織が必死にそれを繋ぎとめる。
瞬が悲鳴をあげながら身体をのたうちまわらせると、ウルカが押さえる。
佳織と瞬の互いの手から同時に力が抜けると、ウルカが片手で強く包む。
それは、残酷なまでに長く続いた。
翌日の朝を迎えても、三人の戦いは終わらなかった。
その翌日もそのまた翌日も、そして七日がたってもまだ終わらなかった。
誰にも見えない戦いの間、瞬と佳織は互いの心を見た。
瞬は、佳織の心に佳織のこれまでの全てを痛みで知った。
佳織は、瞬の心に瞬のこれまでの全てを痛みで知った。
ウルカは、そんな二人の心をひたすらに刀一本で護り続けていた。
やがて、幾度目ともしれない朝日が窓から差し込む…。
ついに、ウルカの雄たけびと共に戦いは終わりを迎える。

「この二人の恋路を阻む者は消え去るが必定ッ!
 もはや、ただの邪剣たる貴公に回避する術など無い…!
 今の手前に撃てる最高の抜刀術…雲散霧消の太刀いぃぃぃぃぃッ!!」

サムライの雄たけびの直後、部屋がしんと静まり返る。

やがて、「誓い」がカランと乾いた音をたてて床に落ちる。
床に落ちた「誓い」は、逃げるようにくるくる回りながら滑って壁ぎわへ。
瞬と佳織にウルカの三人とも、その途端にがくりとその場に崩れた。
佳織が自分の手が握られたのに気づいて顔をあげると。
あの時はじめて出会った、泣いていた少年が嬉しそうに微笑んでいた。
その様子を見たウルカは、自らの神剣を杖にしてのろのろと部屋を去る。
「待てよ」
ウルカの背中にかけられる、瞬の声。
振り向いたウルカの目に入ったのは、耳に入ったのは。

「ありがとう」

もう、自分の弱さ故に作った歪みに飲まれた狂気のエトランジェはいない。
そこにいたのは、線の細い極めて普通のどこにでもいる少年だった。
ベッドによりかかって寝息をたてる佳織の髪を優しく撫でる瞬。
「カオリ殿といい、スピリットに礼を言うとは奇特な二人にござるな」
くすりと満足げに微笑んで、漆黒のウルカは片手で答えて去っていった。

それから数日後、ラキオスの悠人は佳織からの手紙を微笑んで読んでいた。
最後に隠れるように混じっていた小さな紙にはただ一言の謝罪と感謝。
佳織の文字じゃないし差出人も書いてないが、充分に伝わった。

帝国の降伏により終戦が告げられたのは、それからまた数日後であった。

-完-