夜風が涼しい。満天の星空の下、詰所の庭に澄んだ鳥の声だけが響き渡る。ここラキオスは平和だった。
「ふぅ……いい夜ですね……」
うっとりと見上げるのは、『月光』のファーレーン。ロシアンブルーの瞳を常にフェイスガードに包み、
赤面症と姉バカを、もとい控えめさと優しさを慎ましく隠している早熟型世間知らずのブラック・スピリットである。
「それはそうなんですけどぉ……」
最早諦めたような口調で答えるのは同じくブラック・スピリット、『失望』のヘリオン。
お下げと悠人命がトレードマークの夢見る乙女は、SHになってもテラーⅠやダークインパクトを頑なに保持している。
「皆、忙しいのです。手前どもも耐えねばなりません」
そして悟りきって正座しているのは、先日捕獲されたばかりの『拘束』後『冥加』のウルカ。
節度と仲間と蟻をこよなく愛し、剣の声が聞こえないという致命的なハンデを勝手に背負った悲哀の戦士である。
「元はといえばウルカさんが掘り当てたんじゃないですかぁ~~!!」
沈着冷静なウルカの態度に、泣きそうなヘリオンの突っ込みが狭い空間に響き渡った。
ランサ防衛戦が開始されてから早数週間。ここラキオスに残っているスピリットは少ない。
特に俊速と行動回数に長けた止め役のブラック・スピリットは忙しく、こうして三人揃うというのは珍しい事だった。
「あうあう~このまま誰にも見つからなかったらどうするんですかぁ~~」
「落ち着いて。そんなに慌てていたら加護を受けている月に笑われてしまいますよ」
「そうです。我らはこんな夜にこそ真価を発揮せねばなりません。まずは己の心をこそ、戒めねば」
「真価って……ここは戦場じゃ無いんですけど……」
時はやや遡り、夕暮れ時。束の間の休息を、ウルカは暫くお留守になっていたエスペリアの花壇の世話に当てた。
いつものように如雨露から慎重に水を送り出した所で、暇を持て余したファーレーンが通りかかる。
彼女は、戦場に置き去りの妹のことが気になって休暇どころでは無い。
自分も残りたいと一応主張してはみたものの、しかし残念ながらSHでは当座彼女の出番は無かった。
そんな訳で覆面越しにでも、ニムントールがいないのでは存在価値が無いとまで言われたみたいな項垂れっぷりだった。
「ところでどうしてウルカさんはこんな所でバニシングハイロゥなどを唱えていたのですか?」
「実はハーブを狙っていた毛虫達を眠らせようと。殺すのは忍びないゆえ」
「毛虫って神剣魔法で眠っちゃうものなんでしょうか……」
地面を見つめていたファーレーンは気づかなかった。ウルカがおや、と首を傾げたのを。そしてそっと土に触れたのを。
突然膨れ上がった黒いマナに顔を上げた時には、神剣魔法の威力で既に踏み込んだ先の「地面」がごっそり無くなっていた。
「そうですか。ウルカさんは優しいのですね」
「納得しないで下さいよっ! そのせいでウイングハイロゥが使えなかったんじゃないですかぁっっ!」
そこに駆け込んできたのは絵に描いたような不幸っぷりを発揮するヘリオン。
突然出来た大穴に落ちようとする二人を助けようと飛び込んだはいいが、そのまま何も出来ずに一緒に落下してしまった。
「ヘリオン、失礼ですよ。ウルカさんのお心遣いが判らないのですか」
「そのように言って頂けると痛み入ります。手前は捕虜の身。何も出来ませぬが、せめてここラキオスで殺傷だけはと……」
「……判ります。お辛いでしょうけれど、元気を出して下さいね」
「あのぉ……そういう問題じゃないと思うんですけど」
夜と月の加護が、こうなると仇になった。いつまで経っても消えないウルカの強力なサポート魔法が障壁を張る。
ヘリオンは、溜息をつきながら空を見上げた。普段なら簡単に飛んでいける距離が、今は途方も無い高さに思えた。
うっとりと頬に手を当てたファーレーンが夢見心地に呟く。
「ほら、月があんなに小さく」
「ほぅ。普段は気づきませぬが、こうして改めて見ると何やら悠久の距離を感じます」
「ええと……お二人ともひょっとして、現実逃避をなさってるんじゃ…………」
悠久もへったくれもない。実際三人は自力でその距離を縮める事も出来ずにただ指を咥えて見上げているだけ。
スピードを身上としている筈の彼女達は皮肉にも纏めてこの狭い穴に落ち、そのまま半日以上放置されていた。
「うう~、こんな事なら助けようとなんてしなければ良かったのかも」
「ヘリオン、もう三度目ですよその台詞。いいじゃないですか、折角こうして珍しく三人が集ったのですから」
「集ったっていうか、強制的に集められてしまっただけなんですけど……」
「申し訳ありませぬ。手前の神剣魔法の為に、お二人にもご迷惑をお掛けして……せめて償いを」
「わわっ! イキナリ『拘束』を逆手に持ってお腹に当てないで下さいよぅ!」
正座したまま沈痛な面持ちで褐色に引き締まった腹筋を念入りに擦るウルカ。
驚いたヘリオンが懸命に止めようとする。ファーレーンは覆面越しにうんうんと頷いた。
「そうですよ。責任感が強いのは立派ですけど、命の大切さは先程ウルカさん自身が教えて下さったではないですか」
「しかしそれでは……手前は一体どうすれば……」
「まずは考えて。全てはそこから始まるのですから。そうですね、とりあえず――」
「そうです! 今は脱出する方法を探す事の方が先決です!」
「――のんびりと、月でも眺めてお話しませんか?」
「そうそう月を……ってそっちなんですかぁ~~?!」
まるで狼の遠吠えかなんぞのように、ヘリオンの雄叫びが夜空へと木霊した。
「もう、うるさいですね。そんなに叫んでばかりいては喉が渇きませんか?……はいどうぞ」
「ぜぇぜぇ、お二人が叫ばせてるんですよぅ……あ、ありがとうございます。んくんく…………って、え゛?」
「ふむ、中々のお手前です。ファーレーン殿、これはもしかすると」
「ええ、エスペリアのハーブを少々お借りしました。折角落ちていたものですから」
「え? え?」
ヘリオンの顔は、唐突に渡されたカップと二人の顔の間を、ものの見事に数往復した。
そしてもう一度カップに顔を近づけ、何故かくんくんと鼻を鳴らした後。
「ん? どうかしましたか、ヘリオン」
「…………はぁ、もういいです」
にこにこと微笑むファーレーンにどこから出したか聞くことも出来ず、そのままがっくりと項垂れた。
ひょっとしてこの場で良識を持っているのは自分だけなのだろうか、とふと不安になりつつ。
「そういえばウルカさん、もうラキオスの生活には馴れましたか?」
「はい、まだ不慣れな手前にも、皆優しくしてくれます。ここは……不思議です」
「不思議……そうかしら。ウルカさんのお国は違うのですか?」
などとすっかり世間話を始め出すファーレーンとウルカ。一人危機感を抱いたヘリオンが、
「私だけでも何とかしないと……あ、ここに足をかければ……わ、わ、わわわわ」
「危ないっ」
突き出した岩に足を乗せようとしてバランスを崩す。
あやうく仰向けに倒れそうな所を、素早い動きでファーレーンが受け止めた。
「もう、無茶をしてはいけませんよ。怪我しないように気をつけましょうね」
「あ、ありがとうございます……あれ?」
ぽふっと柔らかい感覚。背中を支えられているゴムマリのような感触に一瞬戸惑う。
温かい、充分なクッション。それを備えている彼女に対して起こる、不遜な感情。
「? どうしました、ヘリオン」
「な、何も、何もありません! あ、あははははは…………はぁ」
不思議そうに首を傾げるファーレーンから慌てて飛び退きつつ、何故かヘリオンは虚しい気分に襲われていた。
「そんなに急がなくても、じき日が昇ります。そうすれば、神剣魔法の効力も解けるでしょう」
「そ、そうですね……」
急に大人しくなったヘリオンに、勘違いしたファーレーンが優しく諭す。
しかし当のヘリオンは生返事しか返さず、じっと視線をやや下に向けたままウルカとファーレーンを見比べた。
「……? どうなされたヘリオン殿。手前とファーレーン殿に何か?」
「あ、いいいえっ!何でもありませんっ!」
そしてぶんぶん、と擬音が聞こえて来そうなほど激しく首を振る。ファーレーンとウルカは顔を見合わせた。
俯いて黙り込んでしまったヘリオンの隣へとファーレーンが座り直し、そっとその手を取る。
「あ……ファーレーンさん……」
顔を上げたヘリオンに、ファーレーンのロシアンブルーの瞳が優しく微笑んでいた。
「ヘリオン。何か悩みがあるのですか?」
「え……?」
「良い機会です故、話されてみては如何でしょう。手前で相談に乗れる事でしたら喜んでお聞きしますが」
珍しく女性的な柔らかさで穏かに見つめるウルカ。
頼れるお姉さんオーラ全開の二人にヘリオンの心の強張りがゆっくり融けていく。
「ファーレーンさん……ウルカさん……」
「私達は仲間なのですから。ね、ウルカさん」
「はい。同色とは、ありがたいものです」
「……くす。ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……あの、その、む、胸って……」
「胸?」
「胸?」
「胸ってどうやったら大きくなるんでしょうかっ!!!」
「………………」
「………………」
予想外の質問だったのか、思わず自分の胸元を覗き込んで頼れるお姉さん二人は沈黙した。あっけないものである。
答えようが無かった。二人とも、意識して大きくした訳ではない。もちろん、大きくしてもらった訳でもない。
大体、皆と比べて見ても過不足無く持ち合わせているのでそういう事に興味すら持った事が無かったのだ。
しかし、こう円らな瞳で見つめられては何か言うしかない。まず、ウルカが歯切れの悪い口調で答える。
「その、ヘリオン殿。“これ”は手前の意志とは関わり無く膨らんだものでして」
「え、ええ。大体“こんなもの”、大きくても戦いにとっては邪魔でしかありませんし」
大粒の汗を浮かべながらすかさずファーレーンが合いの手を入れる。二人とも、元々こういう話題が苦手だった。
ましてや自分より小さい娘に対して大きくする方法を説明するなどは、龍を倒すより難しい事。
「ファーレーン殿の仰る通りです。小さい方が何かと抵抗も少ないですし、速さにも磨きがかかると……あ」
思ってもいない事の方が、人間良く舌が回る。ウルカは途中でとある事実に思い当たった。
ヘリオンが、速さではラキオスでも随一だという事を。そして今、自分は墓穴を掘ったのだ、と。
「うう、やっぱり……私が速いのって、つまり胸が小っちゃいからなんですね……」
「ああ、後剣を振る動作にも支障をきたしますよね。最近体勢によっては邪魔で振り切れない時もありますし……あ」
心当たりのある事の方が、人間良く思い出せる。ファーレーンは途中でとある事実に思い当たった。
自分がSHで伸び悩んでいる事を。ヘリオンが、行動回数ではラキオス随一だという事を。そして墓穴を掘った事を。
「ヘ、ヘリオン殿……?」
「ヘ、ヘリオン……あのね」
「ふぇぇぇ~ん! もう、ヤだぁ~~~!!!」
「………………」
「………………」
一人戦闘台詞で泣きじゃくるヘリオンに、二人はこれ以上藪蛇を恐れ、もう何も言えなかった。
女性の先輩として、はっきりと失格の烙印を押された瞬間だった。
さて。
ぽつ。
「ん……」
「おや……」
ふいに、ファーレーンとウルカが同時に空を見上げた。
ぽつ。ぽつ。
「これは……」
「雨……ですね」
「ふぇ? あ、冷たっ!」
頬に当る水の感触に、ヘリオンも空を見上げる。いつの間にか星が全然見えない。空気も何だか湿っているようだった。
ぽつぽつぽつ…………どざぁぁぁぁぁぁ!
「わひゃあ! こ、これっ! 本降りになってきましたぁ~~!」
「……どう思われますか、ファーレーン殿」
「まずい……ですね。このままですと」
「このままだと風邪を引いちゃいますよ~~!!」
そしてまさしく振って湧いたような豪雨。迂闊に顔を上げていると雨粒が痛い。
先程の悩みなどどこへやら、裏返った声を出し始めるヘリオンを真面目な表情のファーレーンが嗜めた。
「落ち着きなさいヘリオン。風邪ですめば宜しいのですけど」
「…………え、え?」
「考えてもみて下さい。ここは穴の中。いわば巨大な器の底に、我々はいるようなものなのです。……ほら」
「え……器?……これって」
ウルカが指差した地面を見てみると、もう薄っすらと水溜りが出来てしまっている。
よほど水捌けが悪いのか、じっと見てると秒単位で水位が上がってくる気がした。そしてそれはある意味での事実。
ここにきて、初めてヘリオンは自分達が遭遇している事態の重大さに気がついた。
言ってる間にも、どんどん増す水嵩が靴を通り越して踝の辺りに染み込んでくる。
「わっ、わっ! 一体どうしたらいいんですかぁ!」
濡れたお下げを振り回し、閉所恐怖症でもないのにヘリオンの頭の中はパニック寸前だった。
「あっ、あっ、そうだっ! 曇っている今なら、もしかしてウイングハイロゥが使えるかもっ!」
「無理です。先程から背中に意識を集中しているのですが、どうしてもマナが拡散して」
「はい。手前のバニシングハイロゥはこんなこともあろうかと天候に左右されない強力なものですので」
「なるほど、流石は『漆黒の翼』と恐れられるだけの事はありますね。わたし達も見習わなくては」
「って感心しないで下さいっ! ウルカさんも、そんな魔法を毛虫相手に使わないで下さいよ~~!!」
速まってくる雨脚に、既に水は小柄なヘリオンの腰の辺りにまで来ている。
わたわたと慌てふためくヘリオンを無視して土壁にそっと手を触れていたファーレーンが、小さく溜息をついた。
「……駄目、ですね。どうやらよじ登れそうにもありません」
「雨雲も去る気配が見られません。どうやら先程より厚くなってきた様子」
「決まりですね。わたしが下になります。どうせSHではこれ以上出番は望めませんし」
「……良いのですか? ニムントール殿が……」
「わたしが居なくても、ニムはもう大丈夫。もう自立しても良い年齢ですし、それに……」
「…………それに、ヘリオン殿が無事ならニムントール殿の生き残る確率も上がる、と」
「ええ。でもそれだけじゃありません。ヘリオンも、そしてウルカさん、貴女も……わたしの大事な仲間ですから」
「ファーレーン殿……それならHPの少ない手前も付き合います。今からですと、どうせ訓練不足で戦いには間に合いません」
「…………ごめんなさい。ありがとう……ヘリオン?」
「は、はいぃっ!」
一体何の話をしているのか訳が判らずおろおろしていたヘリオンは、急に声をかけられぴくっと気をつけの姿勢になった。
もう胸まで浸かっているお下げ頭に、ファーレーンはくすっと笑って手を伸ばす。くしゃっと濡れた髪が少し乱れた。
「わわ……どうしたんですか、ファーレーンさん……?」
「ヘリオン、いい? これからは、すぐに動揺してはいけませんよ。常に冷静さを保ってテラーを……いえ、あまり暴れないでね」
「手前の分もダークインパクトを……ヘリオン殿、御免っ!」
「え、ええ? わわわっ!」
次の瞬間、ヘリオンはウルカとファーレーンに二人がかりで持ち上げられていた。
感動的な自己犠牲のドラマが幕を開けた。
「お、お二人とも何を……!」
丁度肩車をされているような姿勢のまま、バランスを崩しそうになってヘリオンは叫んだ。
水位が、支えている二人の胸元まで昇ってきている。壁に手をつけながら、ウルカが冷静に呟いた。
「手前達が処け……いやいや、人柱になりますゆえ、ヘリオン殿はその屍を乗り越えてっ!」
「ちょ、屍ってなんですかウルカさんっ! それに何か言いかけましたね、聞き捨てならない事をさり気なく!」
「ヘリオン、そんな場合では無いでしょう。sy刑……こほん、人身御供はSHでのわたくし達の宿命……」
「人身御供じゃないです! そんな宿命、さっさと捨ててください今すぐっ!」
「いや、手前では本当は羽根を背景にそこから話が進まなくなってしまうのですが」
「うわぁぁぁぁんもう、何がなんだかぁ~~~っっ!!!」
ファーレーンをきっかけに、二人が異次元の会話を繰り広げ出す。ヘリオンは混乱した頭で再び叫んだ。
感動的な自己犠牲のドラマはあっけなく幕を下ろしていた。
同時刻。
「ピュリファイピュリファイピュリファイッ! ……はぁ、おかしいですね…………ピュリファイ!」
「どうしたい、イオ。まるで呪文かなんぞのように井戸に向かって……ああ、呪文なのか」
詰所の食堂脇。そこに設置されている井戸に向かってイオは首を傾げていた。
丁度通りがかったヨーティアの突っ込みを、軽くお辞儀をする事で避わす。
「実はその、井戸が枯れていまして。このままではお料理もままならないので少し水を増やそうとしたのですが」
「…………ああ、そこは当分使えないよ。こないだから、全然水が溜まらないんだ。どっかに水脈が移動したらしい」
「はぁ……」
「先日エスペリアに頼まれて花壇の側に井戸を掘ってみたんだが、失敗して蓋をしたんだ。あれが原因かも知れんが」
「はぁ……」
「そんな訳で、いくら溜めようとしても無駄だぞ。入れるそばから吸い込まれていく底なし沼のようなもんだ」
「はぁ……」
「ま、いいさ。その内気が向いたら調べておいてやるよ。今日は取りあえず、第二詰所の井戸を借りよう」
そういい残し、すたすたと歩いていくヨーティア。イオは、何も言わずに無表情のままそれを見送った。
それはひょっとしてヨーティアさまが原因なのではないのでしょうか、そんな一言を心に仕舞って。
「あら……雨?」
ふと、ぱらぱらと聞こえてくる雨音。イオは、自分の詠唱が空に通じたのかと少し嬉しかった。
ちゅん、ちゅん…………
「ん……ふぁ?」
柔らかく差し込む日差しの温かさに、ヘリオンは目を覚ました。まだぼやける視界に目を凝らしながら首を持ち上げる。
「私……そっか、眠っちゃったんだ……」
こしこしと目を擦りながら、顔を上げる。昨日の事態が少しづつ飲み込まれていく。ヘリオンははっと周囲を見渡した。
むぎゅ。
「んぁ? へ……?」
首を捻った途端、沈み込む感触。温かくて柔らかい、ちょっと湿った感覚。いい匂いがして、思わず擦り寄る。
「ん、ん…………」
頭の上からお下げ越しに聞こえてくる声。ヘリオンは、状況を把握した。ファーレーンに抱き締められていた。
ぎゅっと無意識に押し付けられる胸。さわさわと背中を撫でる優しい仕草。包まれているという安心感。
ニムントールさんもこんな感じなのかなぁ、などと幸せな気分に浸っていると。
さわっ。
「わひゃっ……んぐ……」
急に腰の辺りを撫でられ、出てきた変な声に慌てて口を噤んだ。今更のように、太腿にある重量感に気づく。
ウルカが、ヘリオンの膝の上ですぅすぅと寝息を立てていた。起きている時には想像も出来ない程穏かな表情で。
そーっと二人を起こさないように、上を見上げる。ぽっかりと丸く切り取られた空の青。いつの間にか雨は止んだらしい。
地面にいるのに、水の感触も無い。どうやら水難は去ったらしかった。心地良い疲労感がじんわりと身体を浸している。
「ふぇぇ~~」
「ん…………あら…………」
「これは……一体……」
「あ、起こしちゃいましたか? ごめんなさい、でも私達、助かったんですよ!」
「ニム……嘘……嘘、だよね……」
まだ寝惚け眼のファーレーンが、いきなり危険な台詞を飛ばす。
ヘリオンはがくがくとその首を揺らしながら、慌てて大声を出した。
「そそそそれはダメですっ! うかつに言うと第五章に行けなくなっちゃいますよぅっ!」
「第五章……キハノレ……手前が造られ」
「わーーっストップッ! ウルカさんウルカさん、レレレレ、レッドカードッッ!!!」
昨夜からの洗脳を浴び続けたせいか、ヘリオンも充分ネタばれだった。というか、わりと元気だった。
「む……どうやら手前の神剣魔法もどうやら解けたようです」
頭に大きなタンコブをこしらえたウルカが、真面目な顔でうんうんと頷く。
「ええ、これなら……えいっ」
ようやく目が覚めたムチ打ち気味のファーレーンが小さく屈み、ちょっと子供っぽい声と共に背中に力を籠めた。
ふわぁっと広がるウイングハイロゥ。ヘリオンとウルカも倣うようにそれを全力で展開する。
「では、帰りましょう。出口はそこで……むぎゅ」
「ちょ、狭いですね……」
「うむ、これでは身動きがとれませぬ……くっ」
「あ、と、わわ、お二人の羽根が……きゃっ、く、くすぐったいです……あんっ!」
最後まで姦しい三人だった。
最初に地面に手を伸ばしたヘリオンが喜びの声を上げる。
「で、出口です!」
「おお、やっと出てきたね。イオ~、朝飯の準備は出来てるかい?」
「ええ、待ち侘びました。皆さん、いちゃつかれすぎです」
「まったくだね。黙って聞いているこっちの身にもなってくれ」
「……え? え?」
「あら? イオさんに、ヨーティアさま。お早うございます」
「ああ、お早う。早速だが、朝飯にしよう。もう腹がぺこぺこなんだ」
「イオ殿が用意されたのですか。痛み入ります」
「え? え? え?」
「ほらどうしたヘリオン。さっさと来ないと無くなっちまうぞ」
突然の事態に穴から首を出したままの体勢で、ぱくぱくと金魚のようにヘリオンは口を開閉した。
彼女を残した黒と白が何故か花壇に設置されているテーブルへと当たり前のようにすたすた歩いていく。
「ヨ、ヨーティアさま、どうしてこちらに……?」
「ん~~? いや、ちょっと気になって覗いてみたら水溜りの中変なスクラム組んで気絶している奴がいるもんだからさ」
「そ、そ、そ、それって……」
面倒臭そうに振り向いたヨーティアががしがしと頭を掻きながら、説明を始める。
「何だか楽しそうだから水だけ抜いて待ってたんだが」
そうしてにっと眼鏡の奥で目を細めるヨーティア。それは心底楽しそうな表情で。
「ま、引き上げるのも面倒だしね」
「面倒がらないで、助けて下さいよぉ~~~っ!!!」
ヘリオンの、ブラックスピリットに相応しい瞬速の雄叫びがラキオスの平和な空に響き渡った。
こうしてちょっぴりサバイバーな黒のお茶会は無事終了した。どっとはらい。