聖ヨト歴330年スリハの月黒よっつの日。
イースペリアが消滅したその翌日、悠人は一人ラキオス城郊外で『求め』を振り回していた。
「はぁ、はぁ……くっ!」
ぶん、ぶんと構えも何もなく、ただがむしゃらに振り回す。
既に日は落ち、目の前にある筈の小屋でさえその影を溶け込ませつつある薄紫の闇の中。
それでも、悠人は素振りを続けた。握り締めた手の痛みが、あの惨劇を忘れさせるまではと。
「――――っ!」
がきん! 振り下ろした拍子に『求め』が岩に当り、弾かれて手元を離れる。
悠人は手首を抑えながら、蹲った。どさっ、と乱暴に腰を下ろすと同時に、目の前に転がる『求め』。
微かに瞬き始めた星の光に照らされて刀身を青白く煌かせるその神剣を、無言で睨みつける。
しかし、そんな事をしても無意味だった。憤りは、どこにも消えない。無力感は、手首の痺れでは誤魔化せなかった。
「はっ……ははは…………」
息を搾り出すようにして無理矢理作った笑いが、白々しく空へと還っていく。
夜風に晒されて芯底から冷やされていく、汗に塗れた身体。寒さからなのかも判らず、震えながら悠人は手を見た。
所々豆が潰れ、血の滲む両手。降りて来た闇に、その赤は判別出来ない。だが、ぎゅっと握れば痛みはある。感じられる。
未だ頭にこびりついたままのあの断末魔のような悲鳴から伝わる苦痛に比べれば、それでもなんという事も無い。
イースペリアの人達は、もう痛みすら感じられない世界へと旅立ったのだ。そう、この世界でいうハイペリアへと。
「俺は、一体何をした……何が出来たんだ……」
マナ暴走が始まった途端、言いようの無い危機感に苛まれた。気づけば、全員に撤退命令を出していた。
ふと、もう少し残ろうと思わなかった訳ではない。それでも、逃げた事には変わりは無いのだ。
結局、佳織の為と言い訳をして踊らされていただけの自分に気づく。悠人は、膝の間に顔を埋めた。
――――ふわ。
鼻を掠める、一筋の風。柔らかい香りに悠人は顔を上げた。滲んだ視界の先で、灰色の戦闘服が屈んでいる。
その背中に流れる蒼い髪が先程の匂いを運んできた事に気づき、悠人は慌てて目を擦った。
暗闇の中、纏めた少し癖のある髪がふわりと浮き上がり、ゆっくりと立ち上がった姿が月明かりに浮かび上がる。
「なにをしているのですか」
振り返った少女の眸は、月を背にしているせいか、いつもより酷く冷たく硬く輝いて。
「セリア……? どうして、ここに……」
「お返しします。神剣を乱暴に扱うのは……正直、感心しません」
両手に鈍く光る籠手の中、たった今悠人が放り投げた『求め』を丁寧に差し出していた。
「あ、ああ。ごめん、ちょっとな」
「…………」
もぞもぞと手を伸ばし、『求め』を受け取る。すると何を思ったか、セリアは無言でそっと悠人の隣に腰を下ろした。
腰の神剣『熱病』の剣先が足元の草に触れ、ちゃり、とその鍔元が小さく鳴る。
しかしセリアは気にした風も無く、すらっと長い足の爪先を綺麗に揃え、悠人と同じように膝を軽く抱えた。
そのままじっと前方を見つめたまま、一言も喋らない。悠人はあっけに取られつつ、つい横顔を眺めた。
「…………」
「…………」
時間だけが、沈黙の間に横たわる。どれ位経っただろう、ふとセリアの視線に気づいた悠人は、前方に顔を向けた。
「あ……」
森の切れ目にある、なんの変哲も無い草原。丈の高い草叢から、ちらほらと浮き上がってくる、光。――――マナ蛍。
夜の、弱々しい明かりの下、それらはとても儚げに、それでも次々と増えつつ舞い上がっていた。
まるで意志を持ち、目指すように。途中で失っても、尚且つ新しく生み出されていく者へのせめてもの墓標のように。
道を拓き、道を造り、道を託し、道を進み。やがては遥かな高み、ハイペリアへと導かれるように。
――――なんだろう。悠人は、自分に問いかけた。何故今、こんな事を考えているのだろう。
以前エスペリアに聞かされたマナ蛍は、あくまで単なる物理現象の筈。それなのに、感情移入なんて柄でもない――――
「アセリアは、変わりました」
突然、まるで悠人の動揺を見透かしたかのように、セリアが語り始めた。
「――――え?」
「サモドアでユート様が話された事は、伺いました。あれ以来、アセリアは真剣に自分の事を考え始めています」
髪を掻き揚げつつ、セリアは続けた。いつの間にかこちらを向いている蒼い瞳に吸い込まれるように、悠人も横を向く。
視線に気づいたのか、手を膝に揃え直し、少し俯き加減で落ち着かない気配が伝わった。
「皆も同様です。きっと、私達スピリットが考えてはいけない事。それでも、皆、真剣に」
いつもの通りの無表情の奥に、どこか優しさを含んだ口調。前髪を揺らしながら、そうして静かに目線を合わせてくる。
今度は逆に悠人の方が落ち着かなくなった。考えてみれば、こんなにすぐ近くで彼女の表情を見た事は無い。
元々初対面の時以来、まともな会話などなかった。信用すらされていない突き放すような態度を取られ続けていたのだから。
「ユート様は、後悔されていますか? 私達に、あのような事を教えられた事を」
だからだろうか。今のセリアの少し穏かな問いかけに、きっぱりと頷けたのは。
「……いや。今でも思ってる。みんなに、その、“生きる意味”を見つけてもらいたい。スピリットとか、関係無しに」
手渡された『求め』をぎゅっと握り締めてみる。悠人の感情に呼応したのか、その刀身が微かに青白く輝いた。
同時にセリアの腰で、『熱病』がりぃ、と小さく鳴る。するとセリアは急に、慌てるようにそれを隠した。
「…………セリア?」
「~~なんでもありません。それより、後悔されてないのなら――――」
気のせいか、少し赤くなっているような横顔をぷい、と草原に向け、軽く息を吸い込む。
「――――いつまでも、そんな顔をしていないで下さい。士気に関わります」
そうして言い放った言葉は、キツい言い方にも関わらず、悠人の心にすんなりと沁みこんでいった。
セリアは告げるだけ告げて満足したのか、前方を見つめたまま動かない。
その横顔を眺めながら、悠人は先程言われた意味を考えていた。
アセリア達に、生きろといった自分は、間違っていない。そして“その気”にさせた責任を、セリアは取れと言っている。
悠人がぐらついていては、皆自身に対してまた疑問を持ってしまう。つまり、だから沈んでいるなと、そういう事だろう。
素直に励まされている、とは考えられなかった悠人は、そこでまた呟くように弱音を漏らしてしまっていた。
「でも、俺は実際に何も出来なかったんだ。イースペリアで――――」
ぱんっ。
両頬に、熱い痺れるような感覚。悠人は、目を丸くした。顔が、セリアの両手に挟まれていた。
「当たり前よ! あのような事態を、一人で何とかしようとしていたとでも言うつもり?」
「セ、セリア?」
驚くほど至近距離に、二つの蒼い瞳が睨みつけている。その奥で、きらきらと意志の強さが煌いていた。
「それこそ自惚れだわ。そうやって勘違いして、何もかも一人で背負い込もうとして……それがどれだけ……っっ!?」
そこで自分の行動に気づいたのか、はっとなったセリアは慌てて手を放し、弾けるように立ち上がる。
後ろを向いてしまった細い肩が、軽く震えていた。ぎゅっと両手を胸元で握り締める気配まで伝わってくる。
「それがどれだけ……周りに、心配をかけてると思ってるんですか……忘れないで、“私達も、逃げたんです”……」
背中越しに囁くセリアの後姿を、悠人はやや呆然と見上げていた。今までどこへと思えるほど、次第に聞こえてくる音。
木々のざわめき、虫の鳴き声、風の震え、胸の――――鼓動。じっと手を当てると、確実に波打つリズム。
「……ごめん」
何も、問題は解決してはいない。それでも次第に落ち着いてくる心。悠人は素直に謝罪の言葉を伝える事が出来た。
いつの間にか、じんじんと痛み出す手の平や、両頬の熱さに実感する。
まだ、生きている。そしてまだ、一人じゃない。それで、今は充分だった。
不思議にもう、寒さは感じられなかった。
その代わり、じんわりと優しい安らぎのような何か。それが悠人を内から温めてくれていた。
「あ……」
「うわ……凄いな」
「ええ……」
二人の声が被さる先。まるでタイミングを見計らったように、マナ蛍の群れが一斉に舞い上がる。
青、赤、緑、白。明滅する個々は次第に溶け合い、一つの川となって夜空を駆け昇り、そして吸い込まれるように消えて逝く。
光の奔流を、二人は暫く声も無く見つめた。やがて全てが終わり、辺りを再び穏かな静寂が包みこむ。
「そっか……つまり今日は、クリスマスだったのか」
「え?」
何気なく呟いた悠人の一言に、不思議そうな顔でセリアが振り向いた。
普段は猫の目のように凛と細めた瞳が聴き馴れないハイペリア語のせいか、大きく無防備に見開かれてしまっている。
頭に「?」を浮かべたような幼い表情に悠人は苦笑いを返し、自分も腰を上げながら指を前方に指し示した。
「あれさ、まるで天の川かクリスマスツリーみたいだったなって。それで、プレゼントまで貰っちまった。だからさ」
「なっ……と、突然なにを言って」
次々とハイペリア語を繰り出す悠人に不審な何がしかを感じたのか、心持ち身を引くセリア。しかし悠人は構わず追いかけ、
「……ありがとな、セリア」
泳ぐセリアの視線を逃がさないよう、それだけを伝えた。ありったけの誠意を込めて。
「~~~~っ」
悠人が立ち上がったせいで目線を上目にしなければならなくなっていたセリアの顔が、みるみる赤く染まっていく。
現代世界のイベントなど知らなくても、最後に礼を言われた事が意外だったのだろう。いたたまれなくなり、歩き出す。
「お、おいセリア?」
「~~だっ、だから勘違いしないでっ。私はまだ、貴方の事を“隊長として”信用した訳じゃありませんからっ!」
そうして捨て台詞のつもりだろうか、すたすたと歩いて行ってしまう。
不機嫌そうな後姿を止める事も出来ずに見送っていた悠人は、やがてぷっと噴き出した。
「なんだよ、変なやつだな」
ごろん、とそのまま仰向けになる。それだけで広がる満天の星空。悠人は一度大きく息を吸い込んでみた。
少し冷えた空気が喉を通り、頭をすっきりとさせてくれる。そっと目を閉じて、もう一度ありがとな、と呟いた。
心が軽くなったのは、たぶん錯覚でもなんでも無くセリアのお陰だと、揺れる蒼い髪を思い出しながら。