いつかへの船出までのバラード

背中に感じる、訓練場の石の床の冷たさが汗でべたついた身体にここちよい。

「兄さん」

そう呼びかけられて、重いまぶたを無理やり開ける。
身体中の筋肉が骨ごときしむ、全身が酸素を求めて身体ごと荒く呼吸してしまう。
鼓動が激しすぎて、まるで内側から閂がかけられた鉄扉を強くノックするみたいだ。

「兄さん、大丈夫?」

その声の方へ、視線を促すと見知った少女が僕の顔を心配そうに覗きこんでいる。
綺麗に切りそろえられてるけど後ろがはねてるオカッパ髪の青い少女。

シアー・B・ラスフォルト。

イカレてて声を搾り出させてもくれないノドが、どうにもガラガラで返事が出来ない。
仕方ないから、無理やり笑みを作ってみる。
すると、シアーは余計に心配してしまったようで表情を曇らせる。

 -いけないな、こんな事じゃ…。

たかだか、日課の訓練メニューを一通りこなしただけでこうなってしまう。
色々あって、せっかくこの子に「兄さん」なんて呼んでもらってるのに。
僕は、剣聖ミュラー・セフィスの弟子なのに。
女の子に心配かけさせるなんて、男は絶対にやってはいけない事だ…と僕個人は思う。

 -しっかりしろよ、ロティ・エイブリス!

不意に、顔に柔らかい感触が優しくふれてくる。

シアーが、自分のタオルで僕の顔と首の汗をふいてくれている。
タオルから、自分でも陳腐な表現だと思うけれど…花のような香りが鼻をくすぐる。
とても優しくて、気持ちが落ち着いて楽になれる香り。

 -いい香りだな…これって、シアーの香りだよね…。

そう思ってしまった自分に気がついて、急に恥ずかしさがこみあげてくる。
ようやく呼吸が落ち着いてきたので、まだノドはガラガラだけど声を絞り出してみる。

「も、もういいよシアー…どうもありがとう」

すると、それまで僕の身体を拭いてくれていたタオルの感触が離れて。
まだ僕の顔を覗きこんでいたシアーが、とても柔らかく微笑んでくる。

「はあぁっ…ふうっ…」

ちょっと大げさに深く深呼吸してから、上半身を起す。
上半身を起すと同時に、顔の前についっとグラスがつきつけられる。
それを受け取って、文字通り身体を生き返らせるように飲み干す。
よく冷やしてある水だ、しかも氷が少し入ってる。

 -うまい。

水を飲み干したあと、氷も口の中に放り込んでボリボリと噛み砕く。
チラリと氷水をくれた相手を見やると、上品で柔らかな優しい微笑みの大人の女性。
綺麗なブラウンの髪と慈愛を宝石にしたらこうだろうかと思えるブラウンの美しい瞳。
いつも緑色のメイド服をまとってるその女性の名は、エスペリア・G・ラスフォルト。

「ありがとうございます、エスペリアさん」

頭をさげて、氷水のお礼を伝える。

「どういたしまして、ロティ様。…訓練、お疲れ様です」

僕の手から空のグラスを受け取りながら、また優しく微笑んでくれる。
話には聞いているけど、先の永遠戦争の英雄の一人にはとても見えない。
ラキオスの名参謀と大陸中から畏怖を込めて呼ばれるまでの戦術知識と戦闘能力。
エターナルと戦ったメンバーの中でも実力は間違いなく上位クラス。
シアーやみんなに聞くとエスペリアさんの凄さをそれは詳しく教えてくれるけども。
やっぱり僕には、この目の前のたおやかな女性がそんな鬼神の如き女傑に見えない。
クォーリンさんやウルカさんあたりだと素直に信じられるのだけれど。

「…兄さん、エスペリアお姉ちゃんに見惚れてるの?」

その言葉で我にかえり、じっとエスペリアさんを見てた事に気づいて真っ赤になる。
横目でシアーを見ると、呆れた表情で小さくため息をついている。

「あ、いや…すみません、エスペリアさん」

頭をぼりぼりかきながら、またエスペリアさんに頭を下げる。

「いえ、いいんですよ…そんなに気になさらないでくださいませ」

くすくすと笑いをこぼしながら、エスペリアさんはやっぱり上品に返してくる。

「シアーにもお礼を言ってくださいませ。この氷を作ったのはシアーなのですから」

そういえば、エーテル技術の封印が決定されたから機械的な冷凍は出来ないんだっけ。

「氷ありがとう、シアー。…体も拭いてもらっちゃって、なんか悪いね」

ところがシアーは未だに呆れた表情で僕を見ている。

「言っとくけど兄さん、エスペリアお姉ちゃんは求婚の申し込みが絶えないんだからね。
 それはもう毎日まいにち、まーいにちぃ…ただでさえ仕事で多忙なのに」

な、なんだろう…なんだかわからないけど責められてるような気がする。
どうにも居心地が悪くて、曖昧な引きつり笑いをシアーに向けてしまう。
僕のそんな態度を見て、ふーっとやるせなさそうなため息をついて俯くシアー。

「シアー、ロティ様が困っていますよ。
 …ああそうそう、忘れていました。ロティ様、もう食事の時間です」

その言葉で、ハッとなって慌てて立ち上がる。
そういえば、周りには先ほどまで同じ様に訓練していた者がもう誰もいない。

「そうそう!…エスペリアお姉ちゃんと呼びに来て見れば一人でのびてるんだから」

なんでか、まだ少し不機嫌なシアー。
そんなシアーと、なんだかおかしそうにくすくす笑うエスペリアさんと共に訓練場を出る。
訓練場の扉をくぐると、もう真っ暗になっていた。
ついと、満点の星空を見上げる。
何故そう感じたのかはわからないけど、いつもより星の瞬きが優しいような気がする。
ふとシアーが気になって視線をやると、星空のどこかをじっと真剣に見ている。
シアーの視線を追ってみる。

赤くて、大きな…なんだか寂しそうに瞬いている星。
よく見ないとわからないけど、その赤い星のそばに小さくて淡い青い瞬きがある。

「…シアーにとっては特別な意味を持つ星でしたね」

エスペリアさんの言葉に、軽く頷くシアー。
視線は、じっと赤い星から離さないままで。

 -どうして、なんだろう。

赤い星を見つめるシアーの表情は、とても寂しそうだ。
シアーが、あの赤い星を見つめているだけで何かひどく落ち着かない。
けれど、なんだか声をかけたりしちゃいけない気がする。

「兄さん」

いつの間にか、シアーは僕にまなざしを向けていた。

「いつか、兄さんにも話すからね…あの赤い星と小さな青い星のこと」

シアーの言葉とまなざしは、まだ寂しげだったけれど何か決意のようなものも感じた。

 -いつか、兄さんにも…か。前に話した人は誰なんだろう、シアーにとって何なのかな。

漠然とした疑問を抱えながら、三人で連れたって仲間たちの待つ詰め所へ帰る。

ロティは…赤い星が、その帰る場所への道をずっと照らしてくれているような気がしていた。