「ラキオスのネズミよ……氏ね」
前髪に隠れた瞳が、眼光鋭く獲物を貫いた。
左脚を引き、腰をぐっと落とす。灼けた赤銅色の体躯が引き絞られ、鯉口が切られた。
獲物は……本能が危険を感知したのか、物陰を脱し、血路を一騎駆ける。
「参る……雲散霧消の太刀」
逃がすわけがない。右腕が音もなく疾走する。
シュバババババッ!
雨霧のような無数の刃が獲物を包み込む。狙い過たず、細切れとなる……はずが。
「な、なんと!」
ウルカは驚愕の声を上げた。幾人もの腕に覚えのある者達を討ち倒してきた文字通りの必殺の剣。
それが、悉く避けられたのだ。
空間を縦横無尽にひた走り、虎口を脱せんとする獲物の面魂にウルカは目を細めた。認めたのだ。好敵手と。
「ならば! 月輪の太刀。はぁっ!!」
ウルカ達ブラックスピリットを、尽きることなく照らす夜空の守護者。天空落ちる冷光を刃に乗せ(注:昼間でも使えます)、
厳かに耀く『冥加』を繰り出した。
ドバババババッ!
「物陰に隠れても無駄ですぞ!」
紙のように切断され吹き飛ぶ木。銀色の筋が空気を切り裂き、音よりも数歩早く獲物へ達する。だが。
「まさか!」
見切った。見切られた。
右にホップ。
左にステップ。
華麗とも言える体術で、数ミリ頭をもたげただけで首が無くなるであろう猛襲を捌いたのだ。まさにカミソリ一枚の見切り。
信じられぬ現実。今まで積み上げてきた物が音を立てて瓦解するマインド。
裂帛の気合いがなんら効果を見せぬまま、砂に吸い込まれるが如く消失していく。
「くぅっ、これは侮れませぬ。ならば……出し惜しみはしませぬ。手前の全力受けてみられよ。必殺! 天壌無窮の太刀!!」
腹を括ったウルカはついに伝家の宝刀を抜いた。15連撃の光速の剣が、死地を抜けようと走り続ける獲物に四方八方から襲いかかる。
ズババババババババババッッ!!!
上。右。後ろ。さらに左。時間差など存在しない、同時同瞬の刃。かわせるはずがない天地を埋め尽くす剣。
それでも獲物は、ウルカを嘲笑うかのように毛を数本お土産代わりに切り飛ばさせるのみ。
「逃がさぬ! この聖地を汚す者を、手前は退治せねばならぬのです!」
ババババッ!!
遁走する獲物に離れず併走するウルカ。その手元からさらなる白光が奔った。腕が引き攣り、体がよろけそうになる。
もう限界が近い。スキル回数が尽きるまで後数瞬だろう。屈辱に唇を噛み締め、最後の一撃を鞘から抜き放つ。直前の4発はこのための虚だ。
――――殺トった! そう思った。だが、それこそが油断。
「な!! 手前の剣を踏み台にして飛んだ!?」
信じられることではなかった。獲物は、足下を薙ぐ神速の剣の腹を踏みつけ、文字通り飛んだ。ジャンプした。
栄光への架け橋。いや、生への架け橋だ。技でも力でもない、ただ、生きる。それへの執念がファンタズマゴリア最強と謳われた剣士――漆黒の翼ウルカの全霊を込めた剣技を上回ったのだ。
そして、ついに獲物は逃げおおせた。
「くぅ……無念。エスペリア殿が戦略会議に出ている間、厨房の守りは手前の責。手前のふがいなさに涙が出るのを禁じ得ませぬ」
尊命を拝せないのは残念至極ですが、名も無きネズミよ。わが好敵手よ。次は必ずや……仕留めます」
壁に穿たれた小さな穴。今し方ネズミが消え失せた暗黒を見詰めながらウルカは感慨深く歎息した。
聖地――厨房での戦いの痕は生々しく、癒えることは無い。だが、全ては戦いのため。お互いの死力を尽くした結果なのだから、ウルカに悔いはなかった。
三角形になってしまったエスペリア愛用のまな板の真新しい柾目を撫でながら、口の端に笑みが浮かぶ。
厨房の主の帰還まで、あと四半刻はかかるだろう……剣を収めたウルカは火照った体と共に、どこか不思議な満足感を胸にして、再戦を心に誓うのだった。
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被害報告:ネズミに囓られたヨフアル3枚