ある日のクラウの日記

「じゃあクラウ!お休み!」

これから寝るとはとても思えない元気な声で挨拶し、さっさと寝息を立ててしまう師匠。
ベッドに散らばる長い黒髪を横目で見ながら、クラウはこっそりと小さな溜息をついた。
(……なんで、こんなことになっちゃったんだろう)
事の始まりは、街で偶然会った師匠に今日こそ剣の稽古をつけて貰おうと頼んでみた事だった。
たまたま時間が空いていたらしく、快く引き受けてくれた師匠。一日、厳しいけど楽しい訓練。
教え方に無駄が無く、たった一日なのに、自分がとても強くなれたような気がして嬉しかった。充実していた。
が、そこからが問題だった。クラウは、自分の母親の余りの屈託の無い強引さを計算に入れてはいなかった。

「まぁまぁまぁまぁ、遠慮無く食べていって下さいな」
息子を鍛えてくれたお礼なのか、困っている師匠を半ば無理矢理家に引き摺り込んでいつもより豪勢な料理を振るまい、
「あらあらあらあら折角の可愛い顔がそれじゃ台無しだねぇ。ほら、お前も一緒に」
と、息子と一緒に風呂に押し込み、手際が良いのか悪いのか、その間に訓練で汚れた服を一家のものと纏めて洗濯し、
「ごめんなさいねぇ、まだ乾いてないのよ。もう遅いし、今晩は泊まっていって下さいな」
などと気づいた時には一晩の宿まで提供してしまっていた。そこに相手の意思など介入する余地は全く無い。
押しの強さに最初は困っていた師匠だが、すっかり馴染んだのか最後にはクラウとの同衾まで承知してしまっていた。
しかし当のクラウにとってこの母親の親切は、別の意味での有難迷惑そのものだった。

「スゥ……スゥ……」
隣から、暖かい湿った寝息が吹きかけられている。それがさわさわと首筋を撫でる度、むず痒くなっていく背中。
無意識なのか、肩をがっちりホールドされたまま離してくれないので、姿勢を変えるのもままならない。
時折ぴくぴくと動く長く綺麗な睫毛やふっくらとした頬。薄く半開きな桜色の唇から目が離せない。
洗いたての前髪からは風呂上りのいい匂いが漂ってきて、仄かに芽生え始めたばかりの淡い恋心を刺激する。
そろそろと指を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。

まだあまり自覚は無いものの、クラウも立派な男の子。
無防備過ぎる目の前の光景に、年上のお姉さんへの憧れがいつ狼に変じてしまうかも判らない。
まして今は、迂闊に目線を下げると少々だぶついた借り物の服の大きく開いた襟元辺りが凶悪な兵器になる状況。
すらっと浮かび上がった鎖骨、桃色に染まった肌、そしてその奥でふっくらと息づく…………
(うわあぁぁぁ! )
釘付けになりかけた目を強引に逸らす。
冗談ではない。危険が危ないといったレベルでは済まなくなってきた。
意味も無く今日食べた夕飯のメニューなんかを思い出したりなんかして、荒くなりかけた鼻息を必死に整える。
「師匠……僕だって、男なんだよ……」
言わずにはいられなかった。
実行する勇気などはとてもない。ただ、この悶々とした空気を何とかしたかった。

「ン……ンン……」
「し、ししょほ?!」
ところが何を思ったのか、寝惚けたらしい師匠がいきなり抱きついてくる。
頭を抱え込むように密着され、一瞬頭がパニックになった。
ふと、両脚の間に暖かく弾力のある物体が割り込んできているのに気づく。
(エdrftgyフジコlp;!!)
それが、膝を折り曲げた師匠の、熟してはいないといっても充分に女性らしい温もりを持つ太腿だと理解した瞬間、
クラウの心は思わず挫けそうになった。あげかかった声をすんでの所で押し殺す。
と、すぐ目の前に、白く細い首筋。すっきりと整った鎖骨。…………今目線を下げれば、大変な事に。
手を伸ばせば、などという距離ではない。至近、というか、まさにガロ・リキュア(意味不明
頭の中で、唐突に白のハイロゥと黒のハイロゥが鬩ぎ合う光景が浮かんだ。

「あん……♪」
「………………ごくり」
そこで畳み掛けるように、甘く誘うような吐息。ブラックスピリットらしいといえばらしい連続攻撃。
猛攻の前に、まだ未熟なクラウの魂はあっけなく陥落した。今まで懸命に押し止めていた理性の堤が嘘のように決壊する。
後先など考えず、攻撃あるのみ。師匠もそう言っていたではないか。
「……し、師匠――――」
荒くなった鼻息も大きく飲み込んだ唾も、もはや隠そうという気も起きない。
クラウは自分の口をん~と伸ばし、耳元で何かを呟こうとしている師匠の禁断の唇へと吸い込まれるように――――

「ん、んん……ユート様ぁ……ふふ…………褒めてくれるかなぁ…………」

「………………」
今までに見たことがない、この上なく幸せそうな表情。
同時に呟かれた、初めて会った時、一緒にいた勇者様の名前。
唇を突き出したひょっとこのような表情で動きが固まったまま、クラウの心はざっくりとダークインパクトだった(意味不明

ちゅん……ちゅん…………

「ふぁぁ~お早うございますぅ~……って、ふぇぇ?!」
次の日の朝。気持ちの良い目覚めを迎えたヘリオンは、大きく伸びをしながら目を丸くした。
そこに一緒に寝ているはずのクラウが、冷たい床の上に毛布一枚でくるまっている。
「ちょ、ク、クラウさん?! どうしてそんな所で!」
慌てて飛び起き、肩を揺する。しかしクラウはまだ夢の中なのか、寝言のように呟くだけだった。
「うう~ん……師匠…………僕だって……いつか勇者様みたいに…………」

「…………ぷっ」
暫くぽかん、としていたヘリオンは、やがて小さく噴き出す。
そしてそっと小さな身体を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
毛布をかけ直し、ぽんぽんと軽く髪を撫でてやる。
「ふふ、ユート様はとても強いですから追いつくのは大変ですよ。……一緒に頑張りましょうね!」
清々しい朝の空気の中、ヘリオンは目を細め、窓の外を見た。気持ちが良いほどよく晴れた朝だった。