ホーコの月の雨

しんとした食堂に、耳奥に染みこむような音がやさしく響く。
しとしとと降りしきる雨。久方ぶりの天の恵み。草木の色は水気を濃くしていく。

遥か空から落ちてきた滴が食堂の大きな窓を微かに叩く。
すっかり冷めてしまったお茶を右に置いて、セリアは窓際のテーブルに突っ伏していた。
何もする気が起きない。つくのは深い溜息。
組んだ両腕の上に左の頬を乗せて、ほつれた鬢が一本右頬にくすぐったい。けれども髪を払うのさえ面倒に思える。
ホーコの月の、ぽっかりと空いた午後。
微睡みを誘う雨音に弛緩した瞳には、庭木の新緑が無性に華やいで見えた。
遠く、喧噪が聞こえる。二階ではしゃぐ小さい娘達と、微かに轟く遠雷。
気だるさが体を支配して、なんとなく髪を結ったひもを弛めようかと手を伸ばした。
けど、やめた。

「セリアさん」

ガタッ!
余りに驚いたため椅子が大きな音を立てた。正直なところ、不覚。全くもって気付かなかった。
まだ3分の1ほど入ったままの木製カップの方はなんとか無事だった。
たるんだ神経の方はまだ2分の1程度寝てるのを無理矢理たたき起こし、いつもの表面張力を取り戻して返事をする。
「な、なんですか、あ、あ、え、とカオリさま」
あまり戻っていない。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいました?」
目の前には佳織。恐縮顔だ。いつものナポリタンは被っていない。
そのことに何故かちょっとホッとするものを感じつつ、しかしやや赤面しつつ。
「いえ……その恥ずかしいところを……」
「あはは、そんなことないですよ」
両の手をヒラヒラさせて、佳織はあわててフォローしてくれる。だらけて気の抜けたところを見られたのはセリアの沽券に関わるけれど、
相手が佳織ならば、一歩譲って、まあいいかと言う気になる。
軽くウエーブの掛かった赤い髪を垂らしている佳織を、椅子に座ったセリアは見上げる形となる。
年の頃は……おそらくヘリオンくらいだろうか。ハッキリと聞いたことはないけれど。
大きな瞳が純粋さを感じさせる。やや頭が縦長な気もするけど……人を疑うことを知らない真っ正直な人柄は、エスペリアやレスティーナ女王からも聞き及んでいる。
正直あの兄には似ていない。というか似なくて良かったと思う。

そんな酷いことを考えているセリアの隣りに、「ここいいですか?」と聞いてから佳織が座った。
手にはポット。重そうにしてテーブルに置いた。
「あの、寝てるのかと思っちゃいました」
「いえ、寝ていたわけでは……ありません」
一応本当のことだ。間違ってはいない。あと数分で陥落していたかも知れないが。
「それで、なにか?」
自分でも、どうにも冷たい言葉だとは分かっているけれど、ついこんな突き放した言葉遣いをしてしまう。
――――でも、しょうがないじゃない。
言ってから後悔して、胸の中ではいつもの言い訳。それでも、昔と比べれば変わった気がする。
自分で自分を分析しても、良い方に判断して楽観するのは苦手だけれど。一応、他からの評価は有ったには有ったけど評者はアセリア。
「ん、丸くなった」
……これはだめだ。
こんな当てどない思考に気付くわけもない佳織は、いつものくしゃっとしたはにかみ顔で言う。
「お茶……取りに来たんです。そしたらセリアさんがいたんで、寝てると風邪ひいちゃうし……あ、お茶どうですか?」
白い陶器製のポットを押しだし、言葉が繋がらないのを誤魔化したのだろうか。
とはいえ、言葉が続かないのはセリアの方も同じ。胸中で困ったな、と思いながらも、冷めたお茶を一息に飲み干すと、そのままカップを差し出した。
「ありがとうございます」
セリアにとっては普通に出た言葉だけれど、佳織は、自らの分を別なカップに注いでから不思議なことを言う。
「あの……その私がこんなこと言うと怒っちゃうかも知れませんけど……私なんかに敬語というか、
丁寧に話さないで欲しいんです。ネリーやシアーを相手にするようにお話して欲しいんです」
「それは……」
戸惑い。別に……困った申し出ではないけれど、やはり佳織は佳織だ。エトランジェ。
「だめですか?」
――――線を引いているのは私の方なの?
不意に浮かんだ思いは、突如強くなった雨脚にかき消されてしまった。煎れたばかりの熱いお茶でも、
仄かな温もりだけを伝わす木製のカップを両手で包んで、揺れる水面を見詰めた。

「それは……努力してみます。だけどあまり期待しないで」
悠人相手なら、睨め付けて話しを強制終了も可能だけど。この優しさが強すぎる子には出来そうもない。
自分は好意という物が苦手なのかも知れない。自己分析が過ぎるのも考え物ね、とセリアは独りごちて佳織を見る。
佳織は、にこりと微笑んで、「はい。セリアさんですから大丈夫です」とほんの軽く言った。
なんだか、彼女の赤心を、自分の腹中にポンと置かれてしまった気がしてしまう。
心の武装をあっさり通過されてしまった事にこみ上げる苦笑。隠すように、顔を再び窓に向けた。
琥珀色の香りを鼻で楽しんでから一口飲む。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
世辞ではなくて、本当においしかった。蘊蓄を傾けられるほどお茶に気を掛けて来たわけではないので、うまく言えないけれど、
ハリオンやヒミカのお茶とはまた違う新鮮な味わいだった。

一時の静穏。
それからしばらく、ふたりで雨模様を眺めていた。
相変わらず、降る。
昼前から降り出した雨は、ラキオスの薄い四季の移ろいを感じさせてくれる。ずっと日照りが続いていた大地には、良いお湿りだろう。
「降りますね」
「ええ、そうね。比較的乾燥したラキオスですけど、ホーコの月は毎年こんな物、です」
なんだか滅裂な言い方に、つい下唇を噛む。馴れないことはするものじゃない、と思う。
ホーコの月とは、この世界での六月の事。
年較差の少ない温暖な気候のラキオスといえども些少の変化は存在する。そしてホーコの月は、雨季と言うほどではないけれど、
他月に比べれば雨の多い月となっていた。
「ブルースピリットである私にとっては、この月は調子が良すぎて逆に空回りしてしまうわ。ネリー達はどうということもないでしょうけどね」
未だうるさい二階への諫言であるが、佳織は誤魔かし笑いで受け流す。
「ホーコの月か……ハイ・ペリアの言葉では“ろくがつ”って言うんです。あ、そうだ……そう言えばハイ・ペリアにはこんな言い伝えがあります」
小さな笑顔を見せて、セリアを見る。お茶を口に含んで一呼吸。セリアもそれに倣う。
アセリアほどでは無いけれど、セリアだって人並みにハイ・ペリアへの感心がある。もっとも悠人にどうこう聞くなど出来ようはずもなく、
かといって佳織とは接点がなさ過ぎた。今日はたまたま佳織がオルファともども第二詰所へ遊びに来ていたため、
今のような形となって並んで椅子に座っているけれど。かといって、セリアは積極的に佳織に話しかける気など無かったのだが。

「六月、ホーコの月は……ハイ・ペリアにある別の言語で、ジューンと言うんです」
「ジューン……ね」
微妙に、聖ヨト語の単語に響きが似ている気がする。
「はい。これには由来があって、昔信じられていた女神様の名前なんです。ユノとか、ジュノーって呼ぶのが本来みたいですけど。
でもですね、女神様はとても嫉妬深い人なんです。夫の浮気相手に色々酷いことしちゃうんですけど……実は……」
「実は……何?」
いつの間にか体を佳織の方に傾けている。ポットのお茶を佳織と自分の分に注ぎ足す。
外の雨脚は弱くなってきていた。やや空が明るい。そういえば、ユートはまだ城で会議中だろうか。
「えーと、実は女神様は結婚の守護者だったんです」
「け、結婚?」
思わずどもった。今、ちょうど脳裏に浮かんでいたユートの姿。それが先日、街中を巡回中に偶然見た結婚式の新郎の正装に変わろうとした……慌ててかき消す。
「はい。結婚の守護者だから、夫の浮気が許せなかったのもしょうがないですよね」
ひが目なのか、微かに笑われた気がする。なんだか居心地が悪い。

「ふ、ふーん。そうね、守護者ならしょ、しょうがないわ。サードガラハムみたいなものね」
気持ちをお茶に逃がして、ズズッとすすった。
「だから六月は、ジューン・ブライドって言って、この月に結婚式を挙げれば、花嫁は幸せになれると言われてます。女神様の祝福を受けてるって事で。
あ、ブライドは花嫁のことです。一種の縁起担ぎですけど、でもやっぱり、私もこういうの憧れちゃいます。それにハイ・ペリアの六月も、
今みたいに雨が多くなる時期なんですよ。それで、えと、友達に小鳥って子がいて、その子はこういう話しが大好きで……」
女の子らしい無邪気な、そしてやや取り留めのない話し。しかし小鳥の名を出したとたん、佳織の声が湿っぽくなったのが感じ取れた。
「セリアさんは、こういうのどう思いますか?」
「ど、どうって……」
聞かれても困る。そもそも考えたこともない、はず。巡回の時、隣にいたのは誰だったのかは思い出してはいけないのだ。
「私は、夢です。叶うと良いなあってくらいの」
「そ、そう夢ね」
佳織の横顔がほんの僅かに翳った事にセリアは気付かない。正直こういう話しは苦手なのだ。
「叶うと良いわね」
「はいっ」
意外にも逡巡無しの佳織の返事に少し驚く。少し赤い頬。
なんだか押され気味な気分で苦し紛れに先日の記憶を披露してみる。

「あーえーと先日、ね。街中で結婚式を見かけたわ。綺麗な女の人が正装の男の人に手を引かれて、たくさんの人に祝福されてました」
「うわあ、そうなんですか! 見てみたかったなー凄いんだろうなー綺麗なんだろーなー」
佳織は、無邪気にもまだ見ぬ光景を思い描こうとしていたものの、意外にあっさりと鉾先を変えてセリアに再び話を振る。
「そういえば、さっきセリアさん言ってましたよね。ホーコの月はブルースピリットの調子が良くなるって」
「ええ」
「それって、セリアさんと六月の相性が良いって事だから、もしかしてセリアさんも良いお嫁さんになれるかも知れませんね」
ニッコリ笑って夢見る瞳で爆弾発言。セリア即効性麻痺。戦闘前の緊張など比べるべくもない激しい動悸息切れ不整脈。
「な、なななにをば、馬鹿な事を言ってるの全然関係ない」
「ん~~そうかなあ? でもセリアさんだったら凄く綺麗だと思いますよ。料理だってうまいし。見てみたいなー」
小首をかしげる佳織。悪意など欠片もない天然なのだろうが、だからこそたちが悪い。佳織も女の子。乙女チックに語りたくなる日もあるとはいえ。
「わ、私は」
「そういえば、以前、お兄ちゃんとお話ししたことあったんです。お兄ちゃんが、ラキオスでお嫁さんをもらうなら誰が良いかって。そうしたらお兄ちゃん」
「~~っ!?」
――――なにをカオリさまはっ、ユ、ユートさまがどんな答えを返そうとも、私には関係ない。きょ興味なんか。
どうせ、エスペリア辺りに鼻の下伸ばしてるに決まってる。本性も知らないでホントに馬鹿なんだから。
あんな、頼りない人にはもっとこう……いつも冷静沈着で厳とした、自己分析に長けていて必要以上に感情移入せずそういう……、
ど、どうでもいいけど、ホントにどうでもいいけど、一応聞いてやっても。

「そ」――――ドタドタドタ。
ちょうどその時、二階から足音3つ。食堂の扉を元気よく押し開けて、飛び込んできたのは青青赤。
スピリット1ユニットは、あっさり目標を発見し、口々に姦しくしゃべりまくる。
「カオリさま遅ーい」
「カオリさま特製お茶まだなの~?」
「あ、セリアお姉ちゃんとお話ししてたんだ? でもほらカオリ早く行こっ」
セリアのことなど眼中にない3人娘は、佳織をあっさり引っ立てて、連れて行こうとせかす。
「テク! テク! 何でも迅速じゃないといい女になれないよー」
遅刻常習者の言葉も、セリアのややハイ・ペリアに片足突っ込んだ意識にはうまく認識されていない。いやこの場合バルガ・ロアーだろうか?
どちらでもいい気もする。とにかく逸る心に急ブレーキ。
3匹のお邪魔虫は、セリアにくーるな冷や水を浴びせて未来の小じoーとをテク テク テイクアウト寸前なのだ。目の前で跳梁しているというのに、
それを阻止するのは戦況が許さない。セリアのステータスはバニッシュ状態。
「あ、ごめんね。あのそれじゃセリアさんごめんなさい。私行きますね」
「……え、あ、うん、そ、そうね」
求める限り答えは逃げていく。それが定めのように。
とにもかくにも機は去った。半分は軽くなったポットを手に辞去する佳織へ、生返事を返したセリアの眼前からあっさりと。

ドタドタドタドタ。
二階への足音四つ。
うなり声を発しながら立ち上がったセリアは、食堂の木製扉に今現在のマインドにマッチしたスキルを叩きつけた。
バン、と音を立てて開いた可哀想な扉の先には、
「うぉっ!!? な何だセリア?」
いつもの針金髪を雨だれにしんなりさせて、驚きに目を見開いている隊長ユートの姿があった。
一瞬わき上がる当惑と謝罪の気持ち。
「あ、ご、ごめ……」
それを上回る羞恥といつもの気位。
「…………ふ、ふん。これで勝ったと思わないで!!」
くるりと豹変するセリアの表情と意味不明な言葉に目を白黒させるユートをほったらかして、セリアは玄関口へ疾く歩いていった。

苛つく。八つ当たりなのは気が付いているけど、やはり面白くない。雨で頭を冷やそう。
「お嫁さん」などセリアには戯れに過ぎないのだ。有りもしない未来だとも分かっている。
大体あんなヘタレ隊長とどうこうしようなどという物好きがそうそういるわけがない。なにより選択権はユートにだけ有るのではないのだから。
歩きながら、何故か思い出すのは、あの時見た青空の下の結婚式。花嫁の、太陽いっぱいの笑顔。祝福する人間達。隣にいたユートのごく当たり前の感想。
……ジューンブライドは幸せになれる。なら……あの女性も幸せになれるのだろうか。

玄関の扉を押し開ける。“ろくがつ”の雨はとっくに上がっていた。