清々しい午前中の空気を胸に吸い込みながら、ナナルゥは森を歩いていた。
踏みしめる湿った枯葉や土が、先程まで降っていた雨の気配をまだ残している。
おかげで蒸れた森の匂いがたちこめ、辺りには活性化した樹木のマナが満ち溢れていた。
自分を加護するマナではないが、洗い流された澄んだ空気は嫌いではない。
もう一度深呼吸した所で、いつもの場所へと辿り着く。一本の巨木が聳え立つ場所。
別に決めている訳でも無いが、いつの間にかここが定番となってしまった。
「…………ラスト ラーリク、エヒグゥ?」(……エヒグゥ、ですか?)
しかし今日は、そこに先客がいた。白く小さな塊が、樹の根元で鼻をひくつかせている。
全く逃げる気配も無い。警戒心が強い動物だと聞いていたが、これは一体どういうことか。
「…………ルゥ」
ナナルゥは、困った。
決めている訳では無いが、折角ここまで来たのだから、同じ場所でなければ何となく落ち着かない。
だが、人やスピリットでも無い一匹のエヒグゥに、場所を譲ってくれと言っても通じそうには無かった。
もちろん、追い払う事くらいは造作も無い。その気になれば、威すことなど簡単に出来る。
しかし、気忙しく首を傾げながら見上げてくる紅い瞳を見ているうちに、何故か他の衝動が湧いてきた。
そっと音を立てないようにしゃがみ、神剣を後ろ手に隠して怖がらせないよう空いた手を差し伸べる。
「……チチ、チチ」
「…………」
当然、エヒグゥは全く寄ってこようとはしなかった。暫くの間気まずい空気が一人と一匹の間に流れた。
ナナルゥは少し考え、そして潔く諦めた。立ち上がり、エヒグゥと並んで幹へと背をもたせかける。
そして手の届く枝から適当な葉を取り、唇に当てた。その間も、足元の小動物は逃げようとしなかった。
「~~~♪」
やがてナナルゥの口元から流れてくるのは、綺麗な草笛の音色。
同時にピタリと熄んでしまう、それまで騒がしいほどだった鳥の囀りや虫の鳴声。
森の静寂に、笛の音だけが通り抜けていく。
緩やかで澄んだ旋律に、エヒグゥの長い耳だけが静かに揺れていた。
憶えているフレーズをひとしきり吹き終えた後、ナナルゥはそっと呟いた。
「……ル ヨクイス ヒツラフ」(……そろそろ、でしょうね)
リクディウスの守護龍。精鋭部隊がその討伐に向かったのは昨日のこと。
順調なら、もう遭遇している頃だろう。
龍と戦う、などと無謀な事を言い出したのが誰なのかは知らないが、胸の奥がざわざわと気持ち悪い。
理解しがたい焦燥感に、そっと胸へと手を当ててみる。鼓動が少し速くなっていた。
「……イワル ホカゥ。ニルカ ニス イキロ ミハ シスエク レテングス ヤァ ヨテト」
(……不思議ですね。私が戦うわけでもないのに)
まるで語りかけるような口調になってしまっている事に、ナナルゥは気がついてはいなかった。
それでも慰めるかのように、いつの間にかくんくんと鼻を擦り付けてくるエヒグゥ。
踝のくすぐったい感触に、ナナルゥはくすっと小さく笑い、慎重に抱き上げてみた。
暴れることもなく腕の中に収まった、白くふわふわした毛並みに落ち着いてくる胸の鼓動。
「フフ……クミトラス ルゥ……」(ふふ……暖かい……)
そうして頬擦りする切れ長の紅い瞳はいつもより少しだけ、エヒグゥのように丸く輝いていた。