「紅いね……」 
「紅いですね……」 
 川岸に座って、二人の男女が同じようにボソリとこぼす。 
 いや、男女と言うにはまだ早いかもしれない。 
 正確に言えば二人は少年と少女で、そして少年の方はかろうじて思春期に入るかどうか、と言った年頃だろうか。 
 川を挟んだ向こうには民家が並び、そしてそこここから子供たちを家に呼び戻す声が聞こえる。 
 そしてその家々の上に、沈み行く夕日。空は紅いが、しかし反対側の空はまだ藍に染まっていない、そんな時間。 
 少女が体育座りのまま、足元の石ころを掴み上げ、放る。 
 よほど気が抜けていたのか、石ころは手前の地面でバウンドした後、コロコロと転がってポチャンと着水した。 
 少年は呆、とその行方を見つめる。 
「始めに、言えば良かったじゃないですか……」
 少女は誰に聞かせるともなく、またポツリとこぼした。 
 少年は何も言わない。 
 言うべき言葉を見つけられないだけか、それとも何も言わない方がいいと判断してか。 
「私のことを知って、軍に入って来たって言ってました……」
その時のことを思い出したのか、丸まった少女の背中が、さらに一回りコンパクトになった、ように少年には見えた。
「それなのに、私がちょっと訓練生50人抜きとかやったくらいで怖くなるなんて……自分より強い女が嫌いなら、わざわざ軍に入らなくてもいいじゃないですか……」
 あー。50人抜きかー。さすがに師匠はすげえなー。 
 少年は沈む夕日を見ながら、何か重要な気がするものを半ば故意に忘れ去って素直に感嘆した。 
 今度友達に自慢してやろう。 
「私に憧れてくれる人がいるのは嬉しいです……でも、私の強さだけに憧れてるのがそのほとんどなら、ちょっと寂しいかなっても最近思うんです……」
ポソポソと語られる言葉。その内容は確実にダウン方向へ流れて行き、そしてそれに沿うように頭頂部からのツインテールもしんなりと張りを失っていくように見える。
「確かにちょっと、守ってもらいたいなーとか思うんですけど、でもそれだって私より強くなくちゃいけないとかそういうことでは全然なくて、もっとこう、心の部分で大きく包んでくれるっていうか、包容力があるっていうか……」 
「もうその辺にしなよ、師匠」 
「え……」 
 視線を足元に落として誰に向けてかもわからない語りを延々と続ける少女を、ようやく少年は遮った。 
 自らが師匠と仰ぐ少女。確かにフィジカルでの彼女は凄い。時に凄いを通り越して凄まじい。 
 だが内面は逆だ。時に繊細を通りこして軟弱ですらある――特にこういう、恋愛面において。 
 だからこのままやたらネガティブな愚痴を続けさせたら、そのまま自虐となり、さらに最悪、朝までこのままため息を聞き続けることになる。 
 そんなことは、させられない。尊敬する少女を、このまま悲嘆にくれさせてはいけない。 
 少年はやおら立ち上がった。そして思う。自分は男なのだと。 
 だから自分は行動しなくてはならない。男として。少女のために。 
「そんな顔すんなよ師匠。師匠に暗い顔は似合わないって」 
「でも……」 
「いいから! 顔上げろって!」 
 強く言われ、少女は少年の顔を見上げる。 
 少年は既に立ち、師匠たる少女を見下ろしていた。 
 夕日はすでに半ば以上沈み、だが暗く消え行きながらもその光は、強く紅く、少年の顔を染め抜いている。 
 ドキリ、とした。 
 少年の顔。見上げているからそう見えるのか、光の具合でそう見えるのか。 
 それは決意の色だ。 
「結局最初からそんなやつ、師匠にはつりあわなかったんだよ」 
「そう、でしょうか……」 
「そうだって! だって俺がその……好きな女の子ができてさ、その子が俺より強かったらさ。強くなろうと思うもん。それで、守ってやろうと思う」 
「…………」 
「だから早く忘れちゃえよ師匠。もしまだなんだったら、俺が……」 
 少年は言葉を切り、顔を上げ、そして伏目で眩しそうに夕日を見やる。 
 ああ、なんだろうこの感じは。 
 子供と思っていた。自分の後ろをついて回り、師匠、師匠、と嬉しそうに自分を呼びながら、可愛らしい手で精一杯木剣を振るう。 
 その少年が、恐らく初めて見せる、男の顔。 
 ズキューン、と来た。それはもう凄い勢いで来た。ヒミカさんのフレイムレーザーだってここまで鋭くはないですよという感じで来た。 
 待て待て、自分。待つんだ、ネリーさんじゃないけどくーるになるんだ。 
 確かに私は情けないことだが、弟子たる少年にその愚痴を聞いてもらっていた。 
 それを、当のその少年のちょっとした仕草でときめくなんて、そんなのはちょっと軽すぎはしないだろうか。 
 でも、ああ。この少年の表情は、眼差しは。 
 少年から目を逸らせない。顔が熱いのは夕日が当たっているから? 
 なんとなくツインテールの弾力も戻ってきた気がする。ひょっとしたらこれは何かのバロメーターなのだろうか。 
 そして少年は少女に視線を戻す。夕日に向かって固めた決意。少年は自分にそれを告げようとしている。 
 受け止めなければ。そう思った。 
 師として――いや。 
 女の子として。そうまで想ってくれる、少年の気持ちを。 
「師匠、俺が……」 
「はい……」 
「俺が、その男をぶっ飛ばしてやるから!」 
「はっ、はい! …………ハイ?」 
 思わず素っ頓狂な声が出た。 
 それは、少年の言葉が、あまりに想定したものの範囲を逸脱していたからだ。 
「許せないよ、そんなやつ。師匠の心を弄びやがって」 
「あ、あの、別に私、弄ばれた訳では……」 
「何言ってんだよ! 師匠男運無いだろ!」 
「あう!」 
「見た目は悪くないのに今回みたいにべらぼうに強いからってだけで引かれるし! まあ確かに胸は無いけどさ!」 
「はう!」 
「こないだの冒険だって帰ってきたらなんか隊長が同僚とくっ付いて喜ばしいんだけど複雑だーとかいいながら飲めもしないアカスク飲んでひどいことなってたじゃないか!」 
「ひう!」 
「そんな師匠に甘い夢見させてあげくの果てにそれを破ったんだ! それって弄んでるようなもんだろ!」 
「うぅぅ……」 
 重い。一言一言が重い。 
 少年は男である。だからこそ今にも泣き出しそうな少女を放っておくことなど許されない。 
 つまり少年は男として、尊敬する少女に無礼を働いた男を懲らしめなければならないのだ。 
 実に男らしい、正義感。美しい師弟愛。 
 それは少女自信が施した修行により培われ、そして恐らくそれを可能にするだけの力も技量も彼に持たしめているだろう。 
 だが、同時に彼はまだ少年なのだ。 
 その男女の機微の存在さえ夢にも思わぬ、そして短からぬ付き合いによる遠慮の無い、ストレートな物言いがここまでダメージを持つものだとは。 
 うかつにも泣きそうになる。いや、泣いてしまおうか。 
 少女は今なら目の前の川を増水させ、何もかも飲み込んでしまうほどの涙を流せそうな気がしていた。 
「ああもう、泣くなよ師匠」 
「うぅぅ……泣いてません……」 
「泣いてるじゃん。ほら、俺が仇取ってやるから」 
「死んでもいません! それに、報復なんてしちゃダメです! そんな剣、私は教えたつもりはありません!」 
「えー? でも隣のお姉さんが言ってたぜ? 女にとって失恋は死ぬようなもので、だから女を振るような男はどんなことされても文句は言えないって」 
「わ、私振られたんですか!?」 
「え、違うの? 俺話の流れでてっきりそうだとばっかり」 
「うわーーーーーん!!」 
 もはや恥も外聞もなく泣き喚く少女。 
 目の幅大の涙を流して、それはもう盛大に泣いた。 
 少年はそれを宥めつつも、その原因の八割を自分が急ごしらえしたものだとも気づかずに、改めてまだ見ぬ師匠の仇への敵意を募らせていく。 
 夕日は家々の屋根の下に潜り、家路を急ぐ人々はそんな二人を見て物珍しそうに足を止める。 
 そんな彼女はガロ・リキュアスピリット隊所属のヘリオン、失望のヘリオン。 
 極たまに、自分の男運のなさを腰に帯びた剣の名前のせいにする、どこにでもいる普通の少女だ。 
 がんばれヘリオン、負けるなヘリオン。いつの日かその涙を、喜びで流せるように。 
 結局へリオンはその日、同僚が迎えに来るまで河原で泣きじゃくっていた。 
師弟愛・了