シアー ~ソネスの月

窓から入る涼しい風を頬に感じながら、シアーはじっと目を閉じていた。
抗マナ変換装置の作動開始にまではまだ少し時間がある。
スピリット隊は一応待機中なので、ネリーは珍しがってその作業に立ち会いに行った。
しかし彼女程には素直に喜べないので、こうして一人自室の机で頬杖をつき、窓の外を眺めている。

「大丈夫……だよね」
誰にともなく呟く。
抗マナ変換装置。それにより、この世界は大きく変わる。
マナはエーテルとして使えなくなり、生活が不便になる代わりに緩やかな滅亡からは逃れられるのだという。
しかし、スピリットは一体どうなるのか。マナによって形成されている自分達には直接の影響は無いのだろうか。
心配要らないと言われてはいたが、やはり不安は残る。ましてや開発したのはやはり人間なのだ。
決してヨーティアを信用していないという訳ではない。彼女が居なかったら戦いには勝てなかった。
自分達も生き残れていたかどうか判らなかっただろう。彼女は真剣にスピリットも含めた未来を心配してくれている。

「だけど……人」
それでも、虐げられてきた記憶は消えない。
甘い諌言。冷たい眼差し。平気で切り捨てられる自分達。
スピリットはどれだけの裏切りを、今まで受けてきただろう。
目に映る景色の中で、どれだけの仲間がハイペリアに還ったことか。
今までの想い出が、次々と脳裏をよぎる。その殆どは苦々しく、思い出すだけでも心が悲鳴を上げる事ばかり。
「……ううん、だめだよね。……信じなきゃ」
暗くなっていく考えを誤魔化すように軽く頭を振る。
手元に残しておいたお菓子を一切れ口に運び、再び外を眺める。
青く広がる空。緑に映える木々。遠く太陽を反射して煌く湖。時折聞こえてくる鳥の囀り。
そっと目を閉じれば、頬をくすぐる優しい風。少しずつ洗い流されていく思考。

「……あ」
そうして心に残されたのは、どうしても仲間達の笑顔だけ。
戦いだけの毎日で、それでもささやかな事に笑い合えた日々。そう、辛いばかりでは無かった、楽しい思い出。
シアーはそっと頬を指でなぞる。いつの間にかそこは、温かく湿っていた。
「……んっ」
目を軽く擦り、確かめるように傍らの『孤独』を眺める。もう、これを振るう機会も無い。
大きく制限されるであろうスピリットの力は必要の無い世界に変わる。その中で、これからは生きていく。
だから、生きていくために。これからも笑い合えるように、初めて"人"を。

「うん……信じよう」
シアーは小さく頷き、立ち上がった。窓際から見える全ての景色。
その中に段々と近づいてくる見慣れたウイングハイロゥを見つけ、大きく手を振る。
どうやら装置は上手く作動したようだ。そして自分にも、『孤独』にも何の異常も感じられない。
「……よかったね、『孤独』」
沢山あった哀しい事。それを全部胸に仕舞いこみ、呟いたシアーの瞳は柔らかく輝いていた。