第二詰所の一番端に隔離された一室。
そこに設置されたベッドの上で、いつもの光陰の朝は始まる。
「んっ……あー、よく寝た。しっかしこのベッドってやつはどうにも合わないな」
首をこきこきと鳴らしながら、そんな事を呟く。家が道場だった事もあり、毎朝布団が恋しくなる。
しかしこの世界ではどうやらベッドが主流らしいので、柔らかすぎるクッションにも文句は言えない。
「さて、と。……うむ、いつも通りだな。我ながら大した体内時計だぜ」
窓から太陽の位置を確かめ、得意げに頷く。
まだ山の端から顔を覗かせたばかりなので、時間的には早朝で、外も薄暗い。
恐らくこの時間では朝食の仕度をしているハリオン位しか目を覚ましてはいないだろう。
しかし長年の修行で身体に染み付いた習慣は中々取れるものではない。
そんな訳で光陰は、こちらの世界に来てからも武術の早朝練習を欠かした事は無かった。
「ほっ……ほっ」
まずは狭い屋内でも出来る最低限の運動を開始する。
幸いにしてベッドがあるので、そこに足をかけ腕立て伏せ。当然片手、親指一本で。
ぎっぎっと歪む木目の床にはいつも同じ場所で行なっているせいか、窪みまで出来てしまっている。
「……よし。さってと、次は……よっ」
その窪みに汗が溜まった所でようやく動きを止め、今度は腹筋に取り掛かる。
腕立て300回腹筋300回背筋200回、それを2セット。それをやらないうちはどうにも身体が気持ち悪い。
「ぷぅ。ま、こんなもんだな」
そうして全てのメニューをこなし、額の汗を拭った所でいつも通りに朝日が窓から明るく差し込んでくる。
「やれやれ、やっと日も昇ったな。……おい今日子、起きてるか」
こんこん、と軽く壁をノック。すると相変わらずの寝惚けたような声。
『ん~~~。何よ~~~』
「何よじゃないだろ。早く開けてくれ」
『あ~はいはい』
どたん。ばたん。ぱたぱたぱた……かちゃり。
『ほら、いいわよ。ふぁ~じゃあね』
「全く。いい加減に信用して貰いたいもんだぜ」
『何言ってんだか。同じ屋根の下で眠れるだけ有り難いと思いなさいよ』
「なぁいつも思うんだが、夜に用を足したくなったら俺はどうすればいいんだ」
『我慢しなさい』
ぱたぱたぱた……ばたん。
「断言かよ。まったくまるで囚人だな、こりゃ」
軽く溜息を付きながら、夜は外から施錠されっぱなしのノブをようやく捻る。
女ばかりの第二詰所でこの処遇は当然といえば当然なのかも知れないが、顔も見せずに自室に戻る今日子が少し寂しい。
「ま、あれでも女だからな。寝起きに顔を見られるのは恥ずかしいんだろ」
今日子にしてみればそんな事は全然無く、ただただ面倒臭いだけなのだが、そんなささやかな勘違いもいつもの事。
勝手に都合よく解釈しながら外に出る光陰はどこと無く幸せそうな笑みを浮かべている。
そうして朝食までの間に軽く20kmほどのランニングを済ませ、汗を拭きつつリビングへ。
すると今日は珍しく、年長組、つまりセリアヒミカナナルゥハリオンファーレーンのみが席についている。
光陰カテゴリーで年少組に属するネリーシアーニムントールヘリオンはまだ起きてきてはいないようだ。
「よ、お早う」
「ヤシュウウ、リレシス……なっ」
「あ、ヤシュウウ、リレシス、ソゥコウイン……って」
気軽に声をかけると、まず手前のセリアとヒミカが顔を上げ、そしてすぐに赤くなり、目を伏せる。
「ヤシュウウ、リレシス……ふっ」
次に視線を微妙に上下させたナナルゥが、気のせいか熱い吐息のような挨拶を返してくる。
「あらあらぁ~。ヤシュウウ、リレシスですぅ~」
更に奥のハリオンがフォークを口にしたままにっこりと微笑む。
「~~~~っヤ、ヤシュウウ、リレ、リレシス……」
そして赤面症のファーレーンは俯いたままぼそぼそと呟き、顔を上げもしない。
「おう、お早う。あー腹が減ったぜ。今日は何だ?」
それぞれの照れた反応に満足しながら自分の席に向かう。するとハリオンが嬉しそうに説明を始めてくれる。
「今日はぁ~、キョウコ様も手伝ってくれたんですよぅ~」
「何ッ! 本当か!」
「ええ~。それはもう張り切ってらっしゃいましたぁ~」
「そうかそうか。それは楽しみだ」
見た目は悪くても、今日子の料理はそれだけで別のスパイスがある。
光陰は嬉しそうにフォークを手に取り、それを腹いっぱいに詰め込む。
「んぐんぐ……で、その今日子は?」
「そ、その、もう訓練に」
「そっか。じゃあ俺も付き合うかな」
隣で視線が落ち着かないセリアには、気づかないように装って立ち上がる。
リビングを去る時にも全身に視線を感じるが、敢えて振り向かずにそのまま廊下へ。
隠しても隠しきれていない彼女達の不器用な気持ちには残念ながら応える訳にはいかない。
今日子一筋。そんなさり気ない気配りに、自分でも満足している光陰である。
訓練を一通り終え、第二詰所に戻ってくると、リビングには年少組がたむろしている。
体力がまだ不足している彼女達はその分基礎学力をつけるため、デスクワークに勤しんでいるのである。
「よ。頑張ってるか?」
「あ、コウイン」
「コウインさまぁ~?」
声をかけると、退屈しきっていたネリーとシアーがまず顔を上げる。
「むむ~。む、難しいですぅ~」
本に向けて唸っているのはヘリオン。
「げっ」
素直じゃないニムントールは照れ隠しに嫌そうな声を出す。
「あ、コ、コウイン様。……え゙? ……あー、その、今お茶を」
教育係のクォーリンがぽっと頬を染め、しどろもどろになりながら俯く。
「ああ、いいって。続けなよ」
「は、はい。……で、あの、そのですね」
「? クォーリン、変だよ」
軽く掌をひらひらとさせながら答えてやるが、どうやら緊張したらしく、ニムントールに突っ込まれている。
「あ、い、いいえ何でもありません。えっとここは……」
しかし一瞬にして自分の使命を思い出すのが彼女の良い所だ。
光陰はそんな姿を横目で見ながらネリーの隣に腰を下ろす。
すると彼女はスペースを空けようとしてくれたのか、必要以上に離れて座り直す。
心遣いは感謝するが、大げさな距離には思わず苦笑いが零れてしまう。
「おいおい、そんなに詰めるとシアーちゃんが窮屈そうだぜ」
「あ、あはは~。そ、そうだシアー、席交代しよっか。そっち狭そうだし」
「え? あ、ヘリオン、コウイン様が教えてくれるって~」
「ふぇええ? あ、でもわたし今クォーリンさんに教えて貰って」
「今はニムの番」
「ひ~ん」
よく判らないが、互いに牽制しあう雰囲気が流れる。
そんなに遠慮する事は無いのにと光陰はその無邪気さが面白い。
「おう、誰でもいいぜ。んーでも聖ヨト語か。あまり読めないんだよな」
「そそそ、そうですよね」
「クォーリン、訳してくれないか?」
「は、はいっ!」
「え~、コウインが教わるんじゃ意味無いじゃん」
「ですがこのままでは席が狭いですし。……お、お邪魔します」
「ああ。それで、どこを説明してるんだ?」
「ここです。……あの、それでですね」
「ん? 何だ急にひそひそ声で喋って。何か聞かれたら拙い事でもあるのか?」
「あ、いいえ。そんな訳では。ただあの……」
「じゃ、後にしてくれ。今はみんなに勉強を教えるのが先決だろ?」
「あ……はい」
クォーリンの気持ちには、とっくに気付いている。そしてしゅんとなってしまった姿を見るのも辛い。
しかし、その告白を受ける訳にはいかない。それにしてもいつまでこうやって誤魔化し続けられるだろうか。
罪な男だ、と他人事のように心の中だけで謝る光陰である。
夕食は第二詰所全員で。隣の今日子と軽口を叩き合いながら、食事を済ます。
その間中注がれる他の仲間達の熱っぽい視線をずっと感じながら。
「食べ終わったら、第一詰所に行かない?」
「お、そういや最近悠人の顔を拝んで無いな。いいぜ」
「何言ってんの。悠達は今まで法皇の壁の偵察に行ってたじゃない。その労いよ」
「そう言えばそうだったっけか。うむ、無事でなによりだ」
「今まで忘れてたくせに調子いいわね。オルファに言いつけるわよ」
「ちょ、何でそこでオルファちゃんが出てくるんだ」
「さーてねー。動揺してるって事は、やっぱりなのかしらん?」
「そそそそんな事は無いぞ。大体一体何の話なんだ? さっぱり見えん」
気づいた時には食事ももう終わり、席を立つと遠目から皆に注目を浴びている。
廊下で、ニムントールと鉢合わせる。
「ひうっ」
「お、ニムントールちゃん、丁度良い。俺達これから第一詰所に遊びに行くんだが、どうだい一緒に」
「ば、ばか! こっち向くな~~~っ!」
げしっ!
「おうっ!」
「コ、コウインは苦手っ!」
しかしいきなり『曙光』で顎をかち上げられ、彼女はそのままどすどすと廊下に足音を響かせ、去っていく。
「何もそんなに照れなくてもいいのになぁ。なぁ、今日子?」
「たはは……そりゃあねー」
呆れたような今日子が頬をぽりぽりと掻いている。
「あ、コウイン様」
もう薄暗くなっている外に出ると、クォーリンが待ち伏せしている。
「あの……お話が」
目が真剣な上、どことなく彷徨っている。そわそわと落ち着かない素振り。
「悪いな。これから第一詰所に行くんだ」
敢えて殊更冷たい口調をつくり、遠回しに断る。
「あ、で、でも。その……もう手遅れかも知れませんけど……」
「ん? 何口籠もってるんだ? 重要な作戦か何かか?」
「い、いいえ。そういう訳では。ただあの……出来れば二人っきりで、その」
「なぁにー? アタシには内緒の話?」
「そそそそんな事はありませんっ!」
「じゃあいいじゃない。ここで」
「う……キョ、キョウコ様。もしかして気付いててわざと」
「あらぁ、何の事かしらぁー?」
「ゔ……」
何だか険悪な雰囲気になってきたので間に入る。
「おいおい、もういいだろ。今日子ももう行こうぜ」
「はいはい。あ、クォーリン?」
「はい?」
「余計な事は言わない方が身のためよ」
「……ヒィッ?!」
クォーリンは一目散に詰所へと駆け込んでいく。
「ありゃ? ちょっと脅かしすぎたかな?」
「お前なぁ。もう少しクォーリンとも仲良く出来ないか?」
「あら? 別に仲悪くなんかないわよあたし達」
「なんだかなぁ」
呆れながらも可愛い嫉妬を出してくれる今日子にちょっぴり嬉しい光陰である。
「コウイン様いらっしゃいませ……あっ」
ノックした玄関に顔を出したエスペリアは瞬間沸騰したように顔を赤くして目を背ける。
元々奥ゆかしい彼女は異性と目を合わせるという行為自体が恥ずかしいらしい。
もう結構長い間同じ部隊で戦っているのだからそろそろ慣れてくれてもいい頃なのだが。
「こんばんわ。お邪魔するわね」
「あ、キョウコ様。どうぞ、こちらです」
そそくさと奥に引っ込んでしまう。光陰は頭を掻いて苦笑いをするしかない。
そう言えば、悠人に対してはあまり問題が無いらしい。同じ屋根の下に住んでいるからだろうか。
「あれ? ところでその悠人はどこに行ってるんだ?」
リビングに入ると、席にはアセリアとオルファリル、ウルカしか居ない。
「……コウイン」
アセリアは相変わらずというか、殆ど感心がないようにぼーっと手元のハーブティーを見つめながら挨拶らしきものをする。
どうでもいいが名前を呟かれながら茶を眺められると食物と同レベルに扱われたみたいで落ち着かない。
「っっっ!」
ちらっとこちらを窺ったウルカは口を開こうとして物凄い勢いで窓の外に顔を向けた。
マロリガンの時に戦った時の記憶をまだ引き摺っているのか、全身から警戒の気配を滲ませている。
「えへへ、いらっしゃーい」
そんな雰囲気を察したのか、オルファリルだけが元気よく手を上げて誘う。
「あ、今お茶の準備するね~」
「おお、悪いな」
「あんまり急ぐと転ぶわよー」
そしてぱたぱたと元気よく厨房に駆けていく姿を見送った後、二人は席につく。
続いてまだぎこちない感じのエスペリアも自分の椅子を引く。
「ユート様は今入浴中ですので。すぐに戻られるとその……思います」
ちらちらと窺う視線が、腰を下ろすとようやく収まったのはいいが、まだどもっている。
「おっ待たせ~」
「おうさんきゅ。どうだった、元気だったかい?」
「うん! あのねあのね……」
そうして偵察結果を身振りで一生懸命説明するオルファリルに、補足するエスペリア。
ようやく場は和むが、話題だけ取れば戦いの事ばかり。いつもの事とはいえ、光陰は密かに胸を痛めている。
「ふぃーいい湯だった。お、光陰今日子、来てたのか」
彼女達に自分が何か助けになれる事は無いかと思案している所へ頭にタオルを巻いた悠人が戻ってくる。
「よ。遅かったな」
「ハロー悠。おっ邪魔ー」
「何がハローだよ。もう夜だぜ」
「いちいち細かい事言うわねこの男は……まぁいいわ。元気そうだし」
つまらない言い合いが、会話を盛り上げる。こんな馬鹿をやっている時、光陰はふと現実を忘れてしまう。
「さて、と。そろそろお暇するか」
「そうか? ……ん?」
夜も更け、エーテル灯の無駄遣いも居候の身では忍びない。
そんな配慮もあり席を立った光陰に、悠人が訝しげな表情で唸る。
「何だ悠人。宿題でも思い出したか?」
「そんなもんあるか。ってそんな事よりお前」
「さっ、帰るわよ光陰。ほら悠、見送って」
「あ、ああ」
「おい、引っ張るなって」
結局そのまま、ずるずると外へ。慌てているような感じだったが、外に出た途端、今日子は大きく深呼吸をする。
「んーっいい風ね。じゃ、アタシは先に帰ってるから」
「おいおい、帰る場所は同じだろ? 何をそんなに慌ててるんだ」
「いいから。悠、光陰に話しがあるんでしょ。アタシは邪魔だから」
「……今日子。お前まさか知ってて俺に言わせようと」
「じゃねー」
「お、おい逃げるなっ」
「? 何だ悠人、俺に話しがあるのか?」
「あ、ああ」
「?」
悠人はそのまま気まずそうに視線を合わせようとはせず、鬱蒼と生えている森の木に目を向ける。
さやさやという葉の擦れ合う音と唐突にもたらされた重い雰囲気がどこか尋常では無い。
光陰は慎重に悠人の背中に声をかける。
「どうした悠人。何か悩みでも」
「光陰……あのな」
「お、おう」
「その……開いてるんだ」
「何だそんな事か ――――あん? 開いてる?」
「ああ。お前の……窓が」
「窓?」
「社会の……窓、だよ」
ひゅー。
「……」
「……」
二人の間に、この上なく虚しい風が吹き抜けていく。
やがて無言でじーと引き上げた光陰は、悠人の隣に並んで同じように空を眺めた。
「なぁ、悠人よ」
「なんだ、光陰」
「男って……孤独な生き物だな」
「……そうだな」
「誰も……教えてはくれないんだな」
「……一日中だったのか?」
「ああ。朝からずっと……手加減無しだ」
「……」
「……」
「……キツいな」
「ああ……キツいぜ」
きらりと一筋、流れ星が夜空に尾を引いて消えていく。
木陰に隠れていた今日子様は仰いました。
「これで暫くは手癖の悪さも大人しくなるでしょ。自業自得だしね」
次の日から、光陰の部屋の鍵は11個に増えていた。
―――― 終わる