サルドバルトとの決戦を終え、北方五国を統一したラキオス。
束の間の休息に完全に暇を持て余していた俺は、ぶらっと第二詰所に顔を出してみた。
『シクシクシクシク……』
「……ん?」
リビングまで来た所で妙なすすり泣きのような声が聞こえる。
覗き込んでみると、屈んだメイド服の背中とその奥で揺れるポニーテール。
「ほら、もう泣かないで」
「よ、何してるんだエスペリア」
「ひゃっ!……ユ、ユート様?」
別に驚かせるつもりは無かったのだが、声をかけた途端、膝を付いたままぴょんと兎みたいに飛び跳ねた。
それでも背筋を伸ばした行儀の良い姿勢は崩さず、胸に手を当てながら恐る恐るといった感じで振り向く。
先程の裏返った声といい普段は見れない小動物のような仕草に一瞬不覚にも可愛いな、とか思ってしまった。
「はは、ごめん。驚かす気は無かったんだけど」
「……びっくりしました。あの、どうしてこちらに?」
「今だけど。それよりどうしたんだ? ネリーだろ?」
「えぐっ、えぐっ」
「あ……いえ、これはその……ゴニョゴニョ」
「…………」
両手をグーに握り締めたままごしごしと目元を擦っているネリーは明らかに泣いている。
しゃくり上げる呼吸も辛いらしく、肩も激しく上下に揺れていた。
だばだばと際限無く流している涙を見ると、結構尋常では無い事が起こっているらしい。
そして一方のエスペリアも口籠もったままきょろきょろと落ち着き無く視線を漂わせている。
見比べていると、考えたくは無いが、あまり良いとはいえない想像が頭に浮かんだ。
「……まさかエスペリアが泣かした、とか?」
「……は? あ、ち、違います! ただその」
「なんだ。俺はてっきり」
ゴゴゴゴゴ ――――
「てっきり。何ですか?」
「なんでもないです」
訊き返してくるエスペリアの貼り付いたような笑顔が怖かったので、それ以上の追究は潔く諦める。
ちゃきっと俺からは死角になるような所で構える『献身』が纏うオーラからも、どうやら嘘ではないらしい。
とはいえ口籠もるエスペリアでは埒が明かない。という訳で、当の本人に尋ねてみる事にする。
エスペリアと同じように屈み、視線を同じ高さに合わせ、髪を撫でながら声をかける。
「で、どうしたんだ? ネリー」
「えぐっ、えっ、ぐずっ」
「泣いてちゃ判んないだろ? セリアにでも苛められたのか?」
ビョオォォォォォォ ――――
「…………」
「ユート様、誰が誰に苛められたのですか?」
「…………」
「ユート様、誰が誰に苛められたのですか?」
「二回言うなよ。悪かった、口が滑ったんだ」
俺の首筋には、いつの間にか背後に忍び寄ってきた蒼い悪魔の持つ氷のような神剣の刃先がぴたぴたと当てられている。
振り返って様子を窺ってみるなどという恐ろしい考えはとてもじゃないが浮かばない。
隊長の威厳も無く、ただ謝る。それだけだ。そうしないと生き残れない。第二詰所は俺にとってはそういう場所だから。
「え゙っ、え゙っ」
「……って、まだ泣いているのか」
本人達曰く、これでも手加減をしたという攻撃で貰った頭の上の瘤を擦りながらネリーを見ると、まだぐずっている。
鼻水をすすり上げる様からはいつもの元気さが微塵も感じられない上、しおしおになってしまったポニーテールが何というか痛々しい。
「ほら、元気だしなさい。別に病気じゃないんだから」
ハンカチをネリーの鼻に押し付けたセリアがこちらをちらちらと窺ってくる。
ここは隊長として、やはり何か行動で示さなければならないのだろうか。
しかしそれにしても理由がさっぱり判らないので何をどうしたものやら。
「そういやシアーはどうしたんだ? こういう時必ず居るだろ?」
「シアーなら、別の部屋でハリオンとファーレーンが看ています。やはりというか、同時期でしたので」
「あーなるほど。って、え、シアーもこんななのか? 同時期? っていうか、やはりって何が?」
「あ……っと、その」
「?」
何気無い質問に答えかけたセリアは何故か途中で口に手を当て、しまったというような顔をして口籠もる。
珍しく慌てた様子に何かマズい事でも訊いたかな、とちょっと振り返ってみるが、思い当たる節は無い。
「……あ゙」
いや、一つだけ思い当たった。セリアの『別に病気じゃない』という台詞に。以前佳織にもあった事だ。女の子特有の、アレ。
「……ご、ごめん! あああそういえば俺、用事があったんだった!」
急激に蘇った思い出に背中を押されるように、慌てて部屋を出ようとする。
当時の佳織も身体の急激な変化に戸惑い、本気で怖がっていた。家族が俺だけだったので、恐らくは今日子にでも相談したのだろうか。
しかしどちらにしてもここは女同士の方が何かとスムーズにいくだろう。
具体的にどういったものかは良く知らないが、具体的に考えるのも失礼だし何だか顔が熱くなってくるし。
というか今更ながらに自分の鈍さが嫌になってくる。これじゃヘタレなどと陰口を叩かれても反論のしようがない。
がしっ。
「……へ?」
などと混乱しながら退散しようとしたのだが、何故かがっしりと肩を掴まれてしまった。
振り向くと、能面のような表情を浮かべたままのセリアが淡々と告げてくる。
「どこへ行かれるのですか。こうなったのも元はといえばユート様のせいです。丁度良いですから責任を取って下さい」
「え、俺? 何で? セキニン?」
馬鹿みたいに繰り返す。責任、という言葉が上手く頭に馴染まない。
「そうです。まさか逃げるつもりじゃありませんよね」
「逃げっ……そんな訳ないだろ!」
逃げるなどと卑怯な響きに思わず反発してしまう。しかしそんなものに心当たりがある筈も無い。
従ってどう責任を取れというのかも――――責任? セキニン……ちょっと待て。
この単語、ドラマとかでよく使われる場面が無かったか?
「……げ」
そしてそこに思い当たった瞬間、俺の背中にはだらだらと大量の冷や汗が流れ落ちた。
「いやでもまさか。だって」
身に憶えが無い、とは言い切れないのが辛い。
夢の中の話だとばかり思っていたが、たしかに二人いっぺんに相手をした記憶があるようなないような。
しかし二人とももう始まっていたのかなどと見当違いな考えまで浮かんでしまい、追い払うように頭を振る。
「え゙ぐっ、ひっく」
「……」
未だ泣きじゃくっているネリーを窺ってみると、気のせいか下腹部を抑えているようにも見えてくる。
髪を撫でて落ち着かせようとしているエスペリアが視線に気付いたのかこちらを振り向き、目が合うと慌てて逸らしてしまった。
『……おい、バカ剣』
『なんだロリ契』
『気色の悪い新語を生み出すな!……で、どうなんだ?』
『ふむ、こういう場合人間同士では黙秘権というものを駆使するのだったな』
『そんな御託はいいからさっさと説明しろ。あれは本当にあった事なのか?』
『――――フ』
『こ、この野郎……お前今、他人事だと思って遠い目をして鼻で笑っただろ? なあ?』
『心地良いマナだ。怒りに満ちているな契約者よ。それでいい』
『それでいい、じゃねぇーーー!!!』
埒が明かない。
それどころかこのまま頭の悪い問答を続けていたら、自分自身を見失ってしまいそうだ。そしてそれこそ『求め』の思う壺だろう。
俺はいつの間にか握り締めていた拳の力を慎重に抜き、ついでに額に浮かんだ脂汗も拭った。軽く深呼吸をして心を落ち着かせる。
『相変わらずからかい甲斐のある奴だ』
「……」
無視。バカ剣を相手にしていてもこの状況は進展しない。
それにさっきから不審そうに首を傾げつつこちらを見ているエスペリアとセリアの視線もそろそろ痛くなってきた。
特にエスペリア辺りは今俺に何が起こっているのか薄々勘付いているのか、熱っぽい眼差しを向け、そわそわと落ち着かない。
「――――何故エスペリアが挙動不審なの?」
「うん、俺もそう思ったけどまさかセリアの突っ込みが入るとは思わなかった」
「???」
耳打ちしてきたセリアに何とか苦笑いだけを返してとぼける。彼女がこういう事に疎くて本当に助かった。
そうでなければ今頃百回は膾に刻まれ、詰所の庭にハーブの肥やしとして埋められていた事だろう。
それはそうと、はっきりしない。しかしはっきりとはしなくても、現にネリーは泣き続けている。
普段元気良く飛び回っている姿ばかりを見ているせいか、こんな仕草を延々と見せ付けられると逆に段々冷静になってきた。
妙に肝が据わるというか、このまま泣かれる位なら責任でも何でも取ってやろうじゃないかと。
意を決し、ネリーの隣に改めて腰を下ろす。エスペリアが何事かを悟ったのか、少し離れて場を空けてくれた。
目だけで感謝の意を伝え、まだ痙攣したようにしゃくり上げているネリーの両頬にそっと触れる。
フィクションではベタな展開だと思っていたが、まさか自分でこんな場を演じる日が来るとはなどと考えつつ。
「え゙っえ゙っ……ぐすっ、ユートさま?」
「ごめんな、でももう大丈夫だから。ちゃんと俺が面倒見るよ。一緒に育てような」
そうして俺は清水の舞台からでも飛び降りるような覚悟とともに、出来るだけ真摯な口調で言い切っていた。
「……ホント? ホントに育ててくれる?」
「ああ、本当だ。だからもう泣くな」
両手で包むようにして少し強引にネリーの顔を上げ、潤んだ円らな瞳を覗きこむように力強く頷いてみせる。
「ほら、瞼もこんなに腫らして。全く可愛い顔が台無しだぞ」
「え……えへへありがとお、ユートさま」
「馬鹿、礼なんていいよ。俺の責任なんだからな」
「でも、言いたいから。へへ」
からかってやると、やっとくしゃくしゃな笑顔を見せてくれた。
それでも目元からはまだ後から後から涙が溢れ出してきていて、止まる気配を見せない。
ネリーは困ったように小さな手をごしごしと顔の上で往復させる。
「あ、あれれおかしいな……あは、ユートさま、涙が止まらないよぅ」
その眩しそうに細めた目は、何というか俺のツボを見事に貫いていた。胸がぎゅっと絞られるように切なく痛む。
そこまで嬉しそうにしてくれるのかと、感激のあまり思わず抱き締めそうになった。
辛うじて背後に立つ二人の小姑の存在を思い出し、何とか肩を抱くだけに押し留め、からかうように微笑みかける。
「だめだろ、そんなに泣いてばっかりいちゃ。お腹の子に笑われちまうぞ?」
「……ふぇ? ネリー、お腹に子供がいるの?」
「――――は?」
ぴしり、と場の空気が一瞬ガラスのような音を立ててひび割れた。
「……」
「……?」
「え、だって……それで泣いてたんだよな?」
「うーん……でも笑ってないよ? それにお腹に子供がいたら、もっとおっきく膨らむよね?」
「いや、笑うっていうのは比喩なんだが。じゃなくてあ、あれ? でもさっき、腹を押さえていたよな?」
覗き込んだネリーにつられて視線を下げると、ネリーの腹筋は相変わらずすっきりと引き締まっている。
言われてみれば、仮にそうだとしてもこの世界に早期妊娠判定剤などあるのだろうか。しかもスピリット用のなんて。
膨らむまで判らないんじゃないか、などとぐるぐる回る頭に、ネリーの止めの一言。
「あー、あれ? へへ、恥ずかしいなぁ。あのね、ネリー泣いてたら何だかお腹が空いちゃって」
「……」
俺は次第に真っ白になっていく頭の片隅でぺろっと小さく舌を出すネリーを見ていた。
もちろん先程感じた可愛らしさではなく、別の意味で違った子悪魔さを感じつつ。
つまり、さっきまでの俺の葛藤や決断や何やかやは全て――――
「……じゃあ何で泣いてたんだよ」
「え? だって、Md足りないうちから訓練してたらダークヴァルキリーになっちゃったからぁ」
「確認しないで便利使いしていたユート様の責任だと申し上げたつもりだったのですが」
ビョオォォォォォォ ――――
――――壮大な勘違いだったのだと、背後の不穏な空気が告げていた。
「は、はは……クラス、アップ」
「やっぱりくーるなネリーとしてはセラフが良かったんだけど、ユートさまがセキニン持ってちゃんと育ててくれるんならまぁいっかぁ」
目の前では、俺の力無い笑いを完全無視でお気楽そうにはしゃいでいるネリー。
「ところで無事解決した所で少々お話があるのですが、ユート様」
ゴゴゴゴゴ ――――
いつの間にか正座したまま音も無くにじり寄り、引き攣ったような笑みを浮かべているエスペリア。
「そうですね。何だか気になる発言を幾つか耳にしたような気もしますし」
先程から室内の温度を無駄に下げまくっているセリアの『熱病』が再びぴたり、と俺の首筋に当てられる。
「子供がどうとか。ユート様、説明して頂けますか? 詳 し く」
「ええ、わたくしといたしましても隊内の不祥事は速やかに 排 除 するのが役目ですから」
「あ、ネリー、シアーにも教えてくるねー!」
そして急に詰問される俺に何がしかを感じたのか、ぴょん、と立ち上がりそそくさと部屋を飛び出していくネリー。
「あ、こらずるいぞ自分だけ逃げるなっ」
バチバチッ
「あ痛っ!」
腰を上げかけた俺の太腿には雷を帯びた超重量級の『献身』が押し付けられ、力が一気に抜けていく。
四つんばいになったような姿勢で見上げると、陽炎のようなマナを背負った悪魔が二人、御降臨なされていた。
無駄だと知りつつ、へこへこと変な格好のまま腰を振りながら後退し、言い訳を試みる。
「い、いやちょっと待て落ち着け二人とも、さっきのあれは誤解だって」
「まさかあんな小さな娘にまで手を出すなんて……」
「ふふふ躾の悪い下半身にはそれなりのお仕置きが必要ですね」
「聞いちゃいねぇ。あ、いや、というか大体みんな態度が紛らわくぁwsでrfgtyふじこl;p@:!!!」
『ふむ、心地良い怒りのマナだ』
悶絶する俺が最後に聞いたのは、セリアとエスペリアのエレメンタルシンクを堪能している『求め』の愉悦の声だった。
「あのねユートさま、シアー、最初から50しかないの。だから」
「……ありがたいんだけど、そんな見当違いの慰めはいらない」
遅れてやってきてしゃがみ込み、黒こげになった頬を『孤独』の先っぽでつんつんと突っついてくるシアーに、
俺は言いようの無い理不尽さを感じていぢけていた。
「うん、でもぉ、ファーレーンがそう言って慰めてあげてって。あ、私はアベンジャーのままでいいですとも言ってたよ~」
「……」
もう色んな意味でどうでも良かった。どっとはらい。