束の間の邂逅

細かい霧のような雨が重く降り注ぐ夜の森。
獣道とも呼べないようなスペースを無理矢理切り拓き駆け抜ける。
鬱蒼と繁った草叢からは蒸せるような青臭い匂いが立ち込め、
掻き分ける為に伸ばした腕には湿った水滴がいちいち纏わり付いて気持ちが悪い。
殆ど障害物としか取れない大木だけは最小限の動きで避わす。
薙ぎ払うのは簡単だが、それで速度を落としこれ以上敵を引き付けるのは愚の骨頂。
ぱしっと乾いた音を当ててシールドに弾かれた落ち葉が視界を一瞬狭くする。
「死ねぇッッ!」
「!」
揺れた草叢から飛び出してくるのはブラックスピリット。
繰り出してきた剣を左手に展開したオーラの盾で受け止め、勢いを殺さず片腕だけを捻る。

同時に頭上からはブルースピリットが落下してきている。
「ちっ、悪く思うなよ……むんっ」
「えっ? ちょ、キャアッ!」
この狭い空間で群がるように襲い掛かってくる敵をいちいち相手にする訳にもいかない。だが、これ以上傷を増やす気も無い。
剣を受け止められて足元に力の入らなくなったブラックスピリットの脛を払い、そのハイロゥをむんずと無造作に掴む。
こちらもそれで体勢が崩れるが、代わりにブルースピリットの的からは外れる事が出来る。
「ぬ、おおおぉぉぉっ!」
「ハァッ? ア、アアアアアァァァ――――」
泥の中に横倒れながら、掴んだハイロゥごと野球のアンダースローの要領で上に向けて放り投げる。
小柄な彼女はまるで砲弾のようにどかんと鈍い音を立てて滑空してくるブルースピリットに命中し、
二人はそのまま何本かの枝を軒並み薙ぎ折りながら、仲良く森の奥へとすっ飛んでいった。
当たり所にもよるが、恐らく死んではいないだろう。暫く気絶してくれていればそれでいい。
「――――ぺっ」
倒れた際に口に入った泥を吐き捨て、再び最短距離を突っ走る。夜明けはまではまだ遠い。
「ちぇっ、つまんない目に遭っちまったぜ」
泥だらけになった体も顧みずぬかるんだ地面を蹴りながら空を仰いでみても、月明かりどころか星一つ見えない。
あるのはただ闇の中息づく複数の気配とそれを隠す無数の枝葉のみ。『因果』が無ければ方向さえ判断出来ないだろう。
「もっともこっちの星なんか見ても位置は判らんけどな……はっ!」
進路を塞いでいた胴回りほどもある丸太のような枝に肩から突っ込み、力任せに圧し折って道を作る。
枝の重みで落ちるばきばきという騒がしい音を背中に聞いた時には前方で、待っていたかのようにちかっと赤い光が灯っている。
「今度はレッドスピリットか。よっ、と」
片手で持っていた『因果』を目の前で水平に構え、その前方に意識を集中する。
するとたちまち黄緑色のマナが盾を形作り、降り注ぐ雨粒さえも避けるようにその軌道を変えていく。

『エトランジェ・コウイン。二人だけで、法皇の壁を陥とす事が出来ますか?』

元々敵対していた国の主力だったエトランジェ。
悠人には水に流せとは言ったが、そう簡単に受け入れられるとは思ってもいなかった。
ラキオス女王レスティーナはその辺にまだ寛大だったが、どこの国にも慎重派というものは必ず存在する。
「なるほど。つまりそいつらに口だけじゃなく、実際の行動で力と忠誠を示せ、という訳だな」
「……無茶な注文だという事は判っています。ですが、わたくしといえども、重臣達の全てを言葉だけで説得する事は出来ないのです」
「だろうな。古い国だ、さぞかし重い格式や面子ってもんがあるんだろう?」
「……言葉もありません」
「いやぁ、謝らなくてもいいぜ。むしろそいつらの言う事の方が筋は通ってる。……わかった、法皇の壁だな」
「! 本当にやるというのですか?」
「おいおい、そっちが出した条件だろ? ただ……一つだけ頼みがあるんだが、いいか?」
「はい、それはもちろん、わたくしに出来る事でしたら。ですが」
「この件は、今日子には内緒にしてくれ。大きな声では言えないんだけどな、あいつは嫌がってるんだ。戦う事を」
「コウイン……でもそれでは貴方一人で」
「なぁに壁の一つや二つ、エトランジェ様には朝飯前だ。これ以上連れていったら弱い者いじめになっちまう」
「……判りました。お願いします」
「ああ、任せといてくれ。それと、頼む。……これからも、今日子を宜しくな」
「っコウイン!」
「ん?」
「……帰って、くるのですよ。これは命令です」
「ああ。女王様の命令とあっちゃ破る訳にはいかない、だろ?」

「おおおおおっ!!」
上空から槍のように飛来してくる無数の炎の中には必要最低限に張ったシールドをすり抜けてくるものもある。
威力が弱まっているとはいえ、触れればそれなりの火傷を負わせ、そしてじゅっと泥を沸騰させては地面に吸い込まれていく。
しかし擦過傷のように赤く爛れていく肩や頬や二の腕に構っている余裕は無い。
十の字に組んだ腕で出来るだけ受けるようにして、詠唱しているレッドスピリットとの距離を詰める。
後ろからいつの間にか追いすがってくるブルースピリットはとりあえず速度の差だけで引き離してしまう。
的を中心にして対角に位置しているのだから、エーテルシンクが発動される心配は無い。
そうして正に次の光球を魔法陣の上に浮かび上がらせようとしていたレッドスピリットに殺到し、その神剣をがしっと鷲掴む。
「つーかまえたっと」
「――――ヒィッ」
「よ、惜しかったな」
短く刈り上げた髪の奥で琥珀色の瞳が怯え、神剣を掴まれたまま半歩後ずさっている。
濡れた髪から飛び散る雨粒が地面に落ちる前に間合いを更に詰め、『因果』を持ったままの腕を少女の背中に回し、持ち上げた。
「きゃあっ! な、なにを」
「なんだそんな声も出せるのか。そっちの方が可愛いぜ」
「な――――」
ようやく追いついてきたブルースピリットに対し、掴んでいる神剣を横殴りにして、未だ燻ぶっている炎のマナを打ち放つ。

「っっっ!」
「ぐぅっ」
同時に腕の中で妙に大人しくしているレッドスピリットには当身で気絶して貰う。
無言で腹部に炎の塊を受けたブルースピリットは一度大木に全身を打ちつけ、ずるずると沈み込んだ。
そのまま地面に横たわり、ぴくぴくと痙攣を繰り返している。ウイングハイロゥが消えうせているのでこれ以上の戦闘は無理だろう。
一瞥して立ち上がり、見当をつけた方角に向け、更に駆け出そうと――――

「――――あ?」

がくん、と揺れる体。視界が一瞬ぶれ、膝もばしゃっとぬかるみに落ちる。
「ははっ……そういえば、もう三日も何も食ってないんだっけか」
力が入らず倒れこみ、その場でごろんと仰向けになってしまう。一度止まってしまうと、もう指一本動かすのもだるい。
相変わらず見えるのは深い闇。頬にゆっくりと落ちてくる霧のような雨。
本当は、断食など慣れている。問題は戦い続けて回復が追いつかなくなってきた怪我の方だろう。
ケムセラウトを出てから三度目の夜。流石に『因果』も庇いきれなくなったらしい。
いくらその力を防御のみに回していたとはいえ、これだけの連戦はいかに長い時を過ごしてきたこの剣でも初体験だったといった所か。
「へ、へへ。付き合わせちまって悪かったな……まったく、本当につまんない目――――」
そこで記憶は途絶えた。

 ―――― ん

ぼやけた意識の中、唇に触れてくる何か温かく柔らかいもの。続いて口中に広がる生温い感覚。水。そうだ、これは水。
「ン、ンン……」
すぐ側から聞こえてくる吐息にも似たくぐもった声。ぬるっと送り込まれてくる柔らかな匂いと、喉を通る甘い水。
「はぁ……。何故、殺さなかった?」

 ―――― 命令されなかったからな

「フ……」
一瞬だけ鼻で笑うような声が聞こえ、次第に遠ざかっていく気配。そして再び記憶は混濁していく。


「光陰っ! ちょっとねぇ、光陰!」
「…………お」
激しく体を揺すられて目を覚ます。飛び込んでくる眩しい日差しが夜明けを教えてくれていた。
だが雨は上がっている筈なのに、何故か降ってくる大粒の雫。
「今日、子?」
「今日子じゃないわよ! どれだけ探したと思ってんの!」
今日子が泣いていた。
頬に当る水滴の熱さが、まだ生きているという事を実感させてくれる。
「何の相談も無しに出て行くなんて酷いじゃない! 馬鹿じゃないの! 何考えてんのさ!」
どん、と大きく一つ、胸板を叩かれる。いつものハリセンではなく、ただの拳で。そしてそれがやけに痛い。
「アタシ確かに嫌だけどさ……それでも、サポートくらい、出来るんだから……」
今日子の声は、いつの間にかくぐもってきている。顔もうつ伏せ、肩も細かく震え、弱々しい。
「……悪ぃ」
それだけ呟き、後は抱き締めた。

それから半日余りその場で休息を取ったが、不思議と敵は現れなかった。頃合を見計らった今日子が膝を払いながら立ち上がる。
「さ、こっからは後少しよ。頑張らないと」
「ああ、そうだな――――」
からん。
「あん?」
立ち上がろうとして、何かが手に触れる。見ると、地面に茶色っぽい容器が落ちていた。
この世界では主に水筒として使われる携帯用の皮袋で、戦闘に出るスピリットに支給されるもの。
マロリガンでもよく見かけたが、エトランジェには必要が無い。常に補佐役のスピリットが側にいたからだ。
「おい。これ、今日子のじゃないのか?」
「え? ああ、水筒? 光陰が持ってきたんじゃないの? てっきり雨でも集めていたのかと思ってたんだけど」
「いやいやいや、とてもじゃないがそんな悠長なことを言ってる暇なんか無かったぜ……ん?」
何か、引っかかる。気絶している間に何かがあったような。ぼんやりと浮かぶのは赤い髪と後姿。そして声。
「――――助かったぜ」
「ん? 何か言った?」
「いや、何でもない。さ、とっとと片付けてくるか! 今日子がいれば百人力だしな」
訝しむ今日子の背中を軽くぽんぽんと叩きながら歩き出す。澄み渡った雨上がりの空にはっきりと聳え立つ法皇の壁に向かって。