帰る場所

大きく膨らんだ買い物袋を両手に二つも抱え、城の詰所へと向かう緩やかな上り坂をややうんざりしながら歩いていたハリオンは、
ふと石畳が続く道の向こうに開けた広場のような所で豊富に生えている芝生の上に寝転がるニムントールを見つけた。
「おやぁ~? あんなところで何をしていらっしゃるのでしょう~?」
彼女はうつ伏せになり、頬杖をついて特徴のある短いお下げを二本揺らしながら、熱心に前方を眺めている。
ハリオンは小首を傾げながら重い荷物を持ち直し、そっと傍に生えている街路樹へと身を寄せて様子を窺った。


思うがままに伸びた芝生のつんつんと突っつく硬い感触をやや気にしながら、
それでもニムントールは両肘を立てて頬に当てた姿勢を崩そうとはしなかった。
うつ伏せに寝転がった体勢で、濃緑のニーソックスに覆われた両脚を膝から下だけぷらぷらと遊ばせている。
青臭い草の匂いが本来の緑のマナを豊富に湛えて気持ち良く、背中に降り注ぐ日差しはぽかぽかと眠気を誘う。
湖から運ばれてくる爽やかな風が耳元をくすぐり、それに乗って聞こえてくるのは黄色くはしゃぐ声。
「ふあぁ~……平和」
普段の鋭すぎる目付きもとろんと緩め、ニムントールは生あくびを噛み殺していた。

「ほら、行ったぞっ」
「あ~ん待って待ってぇ~」
ニムントールの視線の先では、近所の子だろうか、男の子と女の子が丸い球のようなものを投げ合っている。
素材が柔らかいのか、たまに強く吹いて来る風に揺らされ、軌道が覚束無い。
それを狙っているのか、男の子の方はわざと風が吹くタイミングに合わせて球を投げているようだった。
当然自分の守備範囲外に飛んでいく球を、女の子は毎回追いかけさせられるはめになっている。
「頑張れ……惜しいっ」
懸命に手を伸ばす女の子の指先を僅かに掠め、また球は転々と芝生の上を転がっていく。
ニムントールはその度に頬に当てた両手を軽く握り、いつの間にか小声で応援するほど熱中していた。


「も~、そんなの取れないよぅ。もっと上手に投げてぇ」
「へへ~ん、お前がへたくそなだけだろ~」
「え~、そんなことないよぅ」
言い争っているようにも聞こえるが、しっかり二人とも笑顔を浮かべ、はしゃぎ回っている。
そしてそれを熱心に見つめながら、たまにぴくん、と浮かせた爪先に力の入るニムントール。
「なるほどぉ~……んふふ~」
ハリオンは普段通りの細い目を一層細くして微笑むと、木にもたれかかるように座り、
どこからか持ち出したお茶のセットを広げてみる。枝や葉の影がゆらゆらと揺れていた。

そうして小一時間。
『……あ』
ぼんやりと夢心地でいつの間にか寝こけていたハリオンは、小さく飲み込むような声に目を覚ます。
「ん~……」
足元に、空になったティーカップが転がっている。白いその陶器は、今はすっかりオレンジ色に染まっていた。
どうやらもう夕暮れ時らしい。目を擦っていると、流れてくる風も少し肌寒く、湿ってきている。
「さ、もう遅いから帰りましょうね」
「え~、もっと遊びたい~」
食器を手早く片付けていると、広場から人間の女性と思われる声が聞こえてくる。そろそろ自分の出番のようだった。
「明日また来ればいいでしょう。それに、いい?」
立ち上がったハリオンがそちらに目を向けた所で、女性の声は少し低く重く囁くようになる。
ハリオンは一度息を短く詰め、そして深く哀しい溜息を付いて再び木に寄りかからなければならなかった。

  「だめでしょう、スピリットの傍でなんか遊んじゃ。危ないじゃない」

予想されていたとはいえ、何度聞いても残酷な台詞。ハリオンは、悲鳴を上げかける胸をぎゅっと握り締めた手で抑える。
重い塊になってしまった身体の中で激しく波打つ動悸を抑えなくては、いつもの自分に戻る事が出来ない。


「……え」
突然こちらを窺うように睨んできた女性に、ニムントールは身を竦める。
沈みかけた夕日を背にして彼女の視線はとても冷たく、そして幾らかの侮蔑の感情までもが含まれていた。
ぷらぷらと気楽に遊ばせていた両脚がぴたりと止まり、急激に気温が下がったような風が冷たく背中を撫でて行く。
「え~、なんでぇ?」
異質な空気を覚ったのか、女の子が母親らしきその女性に縋りつき、上目遣いで訊ねる。
隣の男の子が何となくつまらなそうに手持ち無沙汰な感じで球を弄んでいた。
「いいじゃん、それよりお腹空いたよ。ねぇお母さん、今日のご飯は何?」
「はいはい、今日はね……」
そうして女性はそそくさと、急ぐような仕草で二人の子供を連れ、その場を去っていく。ニムントールの周囲を大回りで避けるように。

「……好きで」
残されたニムントールはのろのろと起き上がり、身体中に付いた芝生を払いながら呟く。
「好きで、スピリットになったんじゃないよ」
「そんな悲しいことを、言わないで下さいぃ~」
「え? ハ、ハリオン?」
「お迎えに来ましたぁ~。さ、もう遅いですし、そろそろ帰りましょうか~」
急に声をかけられ、驚いて振り向くと、手を差し伸べたハリオンがにこにこと立っている。
「……ん。わかった」
ニムントールは内心の動揺を必死に押し殺し、自然さを装って一度胸に手を当て、そしてどうでもいいという感じで黙って頷いていた。

「……聞いてた?」
「え~、なんのことですかぁ~?」
「……ふん」
帰り道。ニムントールはいつの間にか、ハリオンの手を握っていた。
するとがさっと持っていた紙袋から音がして、覗き込むとかなりの数のヨフアルが見える。
「あらあら、すっかり冷めてしまいましたねぇ~」
「って、それひょっとして今日のみんなのおやつじゃ」
「さぁ~、どうだったでしょう~」
「……まさか、ずっと見てたの?」
「そんなことはぁ、ありませんよ~?」
相変わらずぼけぼけと惚けるハリオン。しかし早すぎる反応は、すぐに嘘だと判ってしまう。
ニムントールは強引に荷物を一つ奪うと、繋いでいる手とは反対側の手で持ち直した。
あっという間のすばやさに、ハリオンがあららぁなどとさほど驚いてもいないような顔をするが、気にしない。
ぷい、と横を向いたまま、つまらなそうに訊ねる。
「……ハリオン、今日のご飯は何?」
「んふふ~、今日はニムントールさんの大好物のぉ~……」
そろそろ夜の帳が落ちかけている街並みの中で、ハリオンの横顔にも影がかかり始めている。
それでもニムントールには、変わらず浮かんでいる筈の微笑が容易に判り、そして昼間の芝生の上のようにとても温かかった。

「……嘘、だから」
「え?」
「嘘だから。忘れて」
「ん~、なんのことでしょうかぁ~」
「……なんでもない」
ニムントールは繋いだ手に少しだけ力を籠める。
スピリットとして生まれたこと。それもそんなに悪くない。今日のことは、お姉ちゃんにもちゃんと報告しよう。
本気で首を傾げているような横顔や、手から伝わるとくんとくんという落ち着いてきたハリオンの鼓動を感じながら、
近づいてくる城のシルエットに向け、ニムントールはくすっと小さく微笑んでいた。