『あっはははー! お掃除、おっそうじー!!』
『うわっ、ちょ、危、狭いんだから暴れないでよぉ!』
『も~ネリー、ちりとりを振り回しちゃだめだよぅ~!』
スリハの月黒いつつの日。今日も今日とてラキオス第一詰所は賑やかだった。
二階から聞こえてくる黄色い声に天井を見上げ、少し疲れたように雑巾を持ったまま壁にもたれたヒミカが呟く。
「…あのさエスペリア。副隊長である貴女の指示が今まで間違っていたことなんてないから異議を挟む気はないんだけど」
「はい? どうしました、いきなり改まって」
声をかけられたエスペリアは正しい雑巾絞りの見本のような姿勢でバケツに向かって屈み込んだまま振り向く。
手元でぽたぽたと滴り落ちる水滴は、ダークブラウンに輝く髪の下に薄っすらと浮かぶ汗と同じ位は澄んでいる。
つまりは普段からの手入れが必要充分以上に行き届いている為に、詰所はさほど汚れてはいない訳で。
「うん、まぁ、なんていうかさ。ここって厨房でしょ? 水回りって本来一番汚れ易い場所じゃない?」
「? ええ、そうですね。ですから特に気を配っていますし、それほど汚れてはいないはずですよ。わたくし程は」
「いや、それはいいから。じゃなくてさ、ここでさえこんなに綺麗に使っているエスペリアは本当に凄いと思うんだ、私は」
「そんなことはありませんよ。オルファもきちんと毎日掃除を手伝ってくれていますから」
「うん、でさ、まぁ、なんというか……」
ヒミカはそこで一旦気まずそうに目を逸らし、前髪を指でくるくると弄りだす。
彼女のそんななんとなく何かを言いたそうな仕草にエスペリアは首を傾げ、雑巾を絞る手をようやく緩め、
すっかり皺だらけになってしまったそれを丁寧にバケツの縁にかけると、改めてヒミカと向かい直した。
萌黄色のメイド服のスカートの裾を払いながら立ち上がり、額の汗を軽く手の甲で拭う。
「……どうしました? 変ですよヒミカ、なにか心配事でもあるのですか?」
言いながら優しくヒミカの肩に手を置くエスペリアの目元には、いつものように柔らかい木漏れ日のような微笑が浮かんでいる。
ヒミカはちらっとその表情を伺い、すぐに視線を逸らすと傍らに立てかけておいた『赤光』に目をやってみた。
すると戦場でもないのにその細長い薙刀は、刃先から柄に到るまで小刻みに明滅を繰り返している。
全身から警告を発しているようなその姿に一度ごくりと喉を鳴らし、ヒミカはハイロゥリングに力を篭めつつ声を絞り出した。
「本当、他意はないからね。これだけ綺麗なんだから、何も全員で第一詰所を掃除する必要なんて」
『すべてを片付け汚れを落とす! くーるなネリーにぴったりよね! 行っくよー!』
『わわわ誰ですかネリーにモップなんて持たせたのはー!!』
『ヘリオン、こっち! これで少しは耐えられるでしょ?!』
どーん……ぱらぱらぱら。
「…………」
「…………」
「だからさ、なんで無理矢理こういう編成にした訳? いくら第一詰所だって、これじゃ狭いよ」
天井から落ちては頭にかかってくる細かい埃を払いながら、ヒミカは呟く。
目の前で相変わらず満面の笑みを湛えつつ、さっきから頭の上に『♯』マークを浮かべたままのエスペリアに向かって。
「……過ちは正さなければならないのですよヒミカ、二度と後悔を繰り返さない為にも。さ、休憩時間はもうお終い、続けましょう」
「…………」
過ちとは、一昨年ユート様に煙突から落ちた所を見られたことだろうか、それとも昨年セリアに任せて大失敗したことだろうか。
どちらにせよ、もう二度じゃないし。しかしそんな事を思っても、この狭い空間でうかつに口を滑らせる訳にもいかない。
(そりゃ全員こっちに来ていればユート様と鉢合わせる事もないでしょうけど)
更に機械的な動きで背中を見せるエスペリアの手元でまた皺だらけになるまで絞られている雑巾を見ていると、
万が一にも頭上で輝きを増しつつある緑色のシールドハイロゥの矛先が自分に向けられてしまったりした場合などを
想像するだけでも身の毛がよだつ。従ってこれ以上は何も言えないし何かを言える程の無謀な勇気を持ち合わせてもいない。
触らぬ神に祟りなし。ヒミカはもう一度こっそりと溜息を漏らし、一応警戒の為にスフィアハイロゥを小さく展開しておく。
(いいけどさ。そんなにストレス溜め込む位なら、いっそやらなきゃいいのに)
生真面目も程が過ぎると考えものだ、そんな思わぬ教訓を得てしまったヒミカだった。
そうして塵一つない壁に向かったヒミカが、やや投げやりに雑巾を当て始めたその頃。
我らがエトランジェ高嶺ユートは『求め』の代わりにバケツとモップを両手に持ち、一人ぽつねんと第二詰所の廊下に佇んでいた。
頭には三角巾、首から下にはエスペリア謹製の真っ白なメイド用エプロンを装着済み。敵や光陰には絶対見られたくない姿である。
「……誰も居ない詰所ってのは結構静かなんだな」
ぼんやりと窓の外を眺めてみる。常春の日差しが暖かそうで、四季のある国に育った身としては年末と言われてもいまいちぴんと来ない。
しかし日付は確かに大晦日なので、戦争が小康状態な現状、こうして大掃除をすることに特別反対するつもりもないのだが。
「だけど何で、今年は俺一人なんだろうな……」
こういう事になるとむやみに張り切り、妙に綿密に計画を立てるエスペリアの指示なので、特になんの疑問も持たずにここまで来た。
どうせ行けば誰か他のメンバーが割り当てを教えてくれるだろうと、そんな軽い気持ちで。
しかし玄関に入ったところで迎えてくれたのは掃除道具一式と見覚えのあるエプロン、そしてメッセージカード一枚のみ。
『頑張って下さいませ、ソゥユート。わたくしが見守っております★』
「はは……俺、なんかしたか?」
太陽に話しかけても、返事は返ってこない。ぽかぽかとした春の日差しを浴びながら、悠人はやや眩しそうに目を細めていた。
そうして多すぎる心当たりに、悠人が一時的な現実逃避行動に出ていた頃。
どこか日本式を思わせる木製の浴場で、ウルカは木目に沿って一心不乱にブラシを走らせていた。
「ブラシに腰を……腰を入れるのです」
「あららぁ~、ウルカさん、そんなにしてはぁ、穴が空いちゃいますぅ~」
傍で窓にはぁー、と息をかけていたハリオンが振り向き、あまり困った風でもなく頬に手を当てる。
ウルカが掃除した風呂の床は確かに見事に輝いていたが、しかしそれは磨いたというよりは鉋で削っただけのようでもある。
実際にウルカが進んだ進路の脇には、摩擦熱で燻ぶったような木の屑がくるくると丸まって転がっていた。
「これは……すみませぬ、手前ともあろう者が、力加減を誤っていたようです」
言われて初めて気が付いたというような感じでウルカはしゃがみ込み、自ら痛めた床を褐色の掌でいとおしげに擦る。
「お前たちには済まぬことをしてしまった。許せ」
「大丈夫ですぅ~。この子達も怒っていませんし~……えいっ」
「ハリオン殿、なにを……おおっ!」
きらきらきらきら。
近寄ってきたハリオンがふいにうつ伏せになるように寝そべると、ウルカが何かを言おうとする前にその豊満な胸が癒しの光を放つ。
するとひしゃげたボリュームに擦り付けられた場所が見る見るうちに蘇り、ウルカは驚愕の声を上げた。
「何と元通り、いや、それ以上に活き活きと。ハリオン殿、この技は一体……いや、手前にも出来るでしょうか?」
「そうですねぇ~。う~んとぉ」
調子に乗ってきたのか頬まで摺り寄せていたハリオンは顔を上げ、ウルカの全身を眺める。
鍛え抜かれた肉体はスレンダーではあるがポイントとなる部分は出たり締まったりしていて意外とスタイルがいい。ただ、惜しいかな。
「言いづらいのですがぁ~。これは、私達グリーンスピリットだけが出来る技なのですぅ~」
「な、なんと……それでは致し方ありませぬ。しかしグリーンスピリットにはそのような技量もあるのですか」
「ええ~、誰にでもという訳でもないのですけどぉ。ウルカさんもぉ、ブラックスピリットでなかったら素質はあると思いますよ~」
自分のライバルとして。そんな言葉をハリオンは飲み込んでいた。
しかしそんな仕草は微塵も見せず、石鹸を手にし、溜めておいた置き湯に浸けて泡立たせる。
一方ウルカも神妙に頷きながら、再びブラシを持ち直し、今度は慎重にゆっくりと風呂の床を擦り始めている。
「それは残念です。……む、全然手ごたえがありませぬが……これも修行か」
「きゃあ、お鼻についちゃいましたぁ~」
微妙に和やかな空気が流れているとも言えなくは無い。
そうしてハリオンのハイロゥがちょっぴり黒く、ウルカのハイロゥがちょっぴり白くなった頃。
我らがエトランジェ高嶺ユートはようやく気を取り直し、一番奥の部屋の前に立っていた。
「こうしていても仕方が無いし、とっとと終わらせるか。どうせハリオンが管理してるんだからそんなに汚れちゃいないだろうし」
独り言を呟きながら、ノックもせずに扉を開く。誰の部屋なのかは知らないが、どうせ誰も居やしないし。
そんなやさぐれた心境がいつもの女だらけの生活の中で培われつつあった気配りを失わせていたのかもしれない。がちゃり。
「あ」
「……?」
不意に開いた扉の音に反応したのは部屋の中央で着替えている途中だったファーレーン。
振り向いた覆面越しの瞳と目があった悠人は一瞬で頭の中が真っ白になるも、彼女からどうしても目が離せない。
丁度前開きの戦闘服をたくしあげたような姿勢で固まっている腕の下で、白い肌の全てが晒されてしまっている。
振り向いた拍子にぷるんと揺れる胸の余韻やくびれた腰の中央で綺麗に窪んだお臍や柔らかそうな太腿に、
顔が一気に熱くなっていくのは抑えても抑え切れない揺れるこの乙男心。
「……ユート、様?」
「! う、うわわっ! ごめんっ!」
声にようやく我に返り、慌てて後ろを向く。身体中の血液が逆流しているようで、ばくばくと鳴る心臓が五月蝿い。
しかし何をどう間違えたのかファーレーンはそんな悠人に平然と近づき、背中から不思議そうに覗き込んでくる。
「どうしました? 何だか慌てていらっしゃるようですけど。お顔も少し赤いようですし、まさか熱でもあるのではないのですか?」
「うわわわわっ! ちょ、ファーレーン、当ってる、当ってるって!」
「? 何がです? 本当に、どうしたのですか?」
反射的に飛び退いた悠人に対し、ファーレーンは本気で首を傾げていた。覆面以外、全裸で。
悠人はモップとバケツを投げ出し、両手で目を覆いながら必死になって抗議をする。
「何って何でそんなに平気なんだ! 着替え中だったんだろ! って俺が悪いのか、ごめん!」
「え? ……ああ、そういえば。クスクス、大丈夫ですよそんなに謝って頂かなくても。別に素顔を見られた訳でもないですし」
「……へ?」
「私こそ驚かせてしまいましたよね、ごめんなさい。まさかユート様がいらっしゃっているとは気がつかなかったものですから」
「いや、あのさ」
「はい?」
「……なんでもない。取りあえず俺は外に出てるからさ、何か着てくれよ」
「そんな、そんなのユート様に失礼ですよ。困ります」
「俺が困るのっ!」
ばたん、と廊下に飛び出した悠人は後ろ手で勢い良く扉を閉め、壁に背をもたれかけるとそのままずるずると座り込んでしまう。
胸に手を当ててみると、まだ心臓が激しい鼓動を打ち続けていた。先程見た美しい肢体を思い出しかけ、慌てて首をぶんぶんと振る。
「いや確かに赤面症だとは知ってるけどさ、そういう問題か? それとも俺、もしかして男として見られてないのか?」
頭を抱え、ぶつぶつと呟き出す。
そうでもしなければ一度煩悩へと傾きかけた思考は中々理性的な方向へと針路を曲げてくれそうにもない。
「あのーユート様、本当に大丈夫ですか? お体の調子が優れないようでしたら、ニムに頼んで治療を」
「いいから服を着てくれぇ!」
そっと開いた扉から顔を出しかけたファーレーンに、悠人は泣きそうになりながら叫んでいた。
そうしてお約束のような展開の中、理解しかねる異文化へのギャップに悠人が悩んでいた頃。
散乱した応接間の中央で、アセリアとセリアは神妙に向かい合って佇んでいた。
「……どうするのよ」
「ん」
「ん、じゃなくて。何か他に言いたいことは無いの?」
「セリアが悪い」
「なんですってぇ!」
ぱりん。セリアの蒼いニーソックスの足元で、先程割れたばかりの皿の破片が更に細かく砕け散った音がする。
それを棚から叩き落したはたきを片手で器用にくるくると回しながら、
気のせいか少しだけ頬を膨らませたアセリアは迫るセリアを正面から受け止めるようにじっと見上げていた。
元々ソファーに蹴つまづいて背中からぶつかってきたセリアが悪いと言わんばかりの不満そうな表情である。
「……」
「ゔ。……大体なんで食器棚をはたきなんかで払ってるのよ。危ないでしょう?」
真摯な瞳に篭められた至極まっとうな反論を読み取ってしまったセリアは思わず怯み、追究も弱くなってしまう。
気まずさを誤魔化すように落ち着かなく後ろ髪を払う仕草は既に半分以上は負けを認めた形だった。
「こんなに壊れやすいものばかりなんだから、丁寧に布巾を使うとか」
「私はちゃんと慎重にしていた。こういうのを扱うのは、……うん、得意」
「得意とかそういう事じゃないの。問題は、これが」
と、床を指差したセリアの声は多少の恐怖を含んでいるせいか、珍しくやや震えてしまっている。
「……エスペリアのお気に入りってことよ」
「ん。エスペリア、きっとすごく怒る。セリア、頑張れ」
「どうしてそこで他人事っ!?」
ぱりん。止めを刺された皿の欠片が、断末魔の悲鳴を上げて粉々になった。
そうして激昂したセリアがばたばたと広げたウイングハイロゥのせいで、応接間の被害が余計に拡大してしまった頃。
薄暗く狭い天井裏で、ナナルゥは前方に漏れている明かりに向けて匍匐前進を敢行していた。
「目標発見。引き続き索敵行動に入ります」
天井裏は、普段一体どうやって掃除しているのかと疑うほど埃一つなく、勿論何かの巣なども張っていない。
隠密行動には比較的理想の環境と言える。大振りな『消沈』すら苦も無くこうして携帯出来てしまう。
「それにしても見事に行き届いていますね。ヨーティア様のお部屋もこの百万分の一でいいですから整頓されていれば」
「しっ! 声は悟られる危険性を増大させます。深く静かに潜行して下さい」
「……了解しました。ピュリファイ」
何故かナナルゥの後ろに続き、ヒソヒソと自前で発生させた水で湿らせた布巾を使い、梁を拭き始めるのはイオ。
果てしなく家財道具の一種へと堕ちてしまった永遠神剣『理想』が不服そうな光を主の性格通りにささやかに灯す。
可能性として一番汚れていそうな所としてナナルゥに薦められ、ついここまで付いて来てしまったが、
殆ど汚れの落とし甲斐も無いピカピカの木目をつい恨めしげに凝視してしまうのは掃除マニアの性なのか。
「ほう……これは」
ナナルゥはナナルゥで、最初から掃除などする気は毛頭無く、予め嵌めを外しておいた天井板を一枚ずらし、部屋の中を覗き込んでいる。
隙間の向こうに広がるのは戦術書などが積み置かれた第一詰所の書庫のような薄暗い部屋の景色。
黴の生えていそうな本が、それ以外には間に合わせ程度に用意された机一つという殺風景な空間にうず高く積み重ねられ、
それでいて埃は一切無いという摩訶不思議な場所の中央で、一人の男が胡坐をかきながら何かの本を熱心に読み耽っている。
「お、おおっ! これは……ごくり。ネリーちゃん、いつのまにこんな大胆な格好を。いかんな、これはいかん。ハァハァ」
「……」
自分でごくりとか言うな。
聞いているだけで支離滅裂な台詞に不覚にも軽い眩暈を覚えたナナルゥは、危うく額を天井板に打ち付けそうになる。
恐らくは最近発掘された、聖ヨト王国の宮廷画家が書いたといわれる春画集かなにかでも読んでいるのだろう。
ネリーという単語から想像するに、ポニーテールブルースピリット特集といった所だろうか。しかし、それにしてもとナナルゥは思う。
(こうまで堕ちてしまうとは。エトランジェといえども、所詮は男性ということですね)
「あ、あふぅ! いやだめだってニムントールちゃん!」
「……」
どうやら呆れ変えているうちに、ツンデレグリーンスピリット特集ページへと飛んだらしい。
激しく上下し始めた右腕などを黙って観察していると、その背中にやたらと物悲しさが漂ってきて、ナナルゥは困った。
この、胸の内から込み上げて来る切羽詰ったような甘酸っぱいようなイタいような感情は一体なんなのだろう。
「……任務完了。速やかにこの場を撤退いたします」
「あら? そうなのですか? ですが掃除がまだ」
「なんだか嫌な予感がします。このまま留まっていると非常に不愉快な体験をするかと」
「予感? ……ふふ、珍しいですね、貴女がそのようなものに従うなんて。あ、失礼致しました」
「? 問題ありません。気にしていない……とでもいうのでしょうか、この場合は」
行きよりもかなり和んだ空気の中、二人は天井裏からの撤退を始める。そしてその直後。
ばたん!
『ちょっと光陰、何掃除さぼってこんな所に隠れ……ってうわわ、なにをやってんのよこの猿はーーーっっ!!』
『お、おおお落ち着け今日子これはだnくぁwせdrfgtひゅじょl;p:@!!!』
背後から伝わる爆発音と振動が、ナナルゥの予感の正しさを如実に物語っていた。
そうして今まさにという時に今日子に踏み込まれ、思春期の少年のような断末魔の叫びを光陰があげていた頃。
着替えを終え、悠々と第一詰所に向かったファーレーンを玄関先で見送った悠人は、改めて掃除に取り掛かっていた。
まずは無難な所で長い廊下1、2階分。続いて厨房。ハリオンが普段から良く手入れしているせいか、さほどの手間はかからない。
窓のさんにすら埃の溜まっていない応接間などはものの10分で片付いてしまっていた。
「~~ぷう。ま、こんなもんかな。後、は……」
汗を拭きつつ問題なのは、仲間達の個室、それから。
「さて、どうしたもんか。やってもやらなくても何か言われそうだしな」
目の前には、聖ヨト語で『トイレ』と大きく書かれた扉。悠人は暫くモップを肘掛にして目の前のハードルを眺めていたが、
「……パス。駄目だろ、やっぱり」
結局乗り越えるのは諦め、個室の並ぶ廊下へと踵を返した。脳内で佳織がうんうんと嬉しそうに頷いている。
「さて、まずはええっと……ヒミカの部屋か」
廊下に並んだ扉のうち一番玄関や応接間に近いのは、第二詰所のまとめ役、ヒミカの部屋。
居ないだろうとは思いつつも、いちおう軽くノックだけはしておく。ファーレーンのように無事で済ませて貰えるとは限らない。
いやむしろ、普通は滅多打ちの処刑に遭っても文句は言えないだろう。
スピリットの全力で膾のように刻まれば文句を言う暇すら与えられないに違いない、とそこまで考えてしまい、悠人は身震いする。
「……よし、いない。いないよな。お邪魔します……」
そんな訳で、扉を開ける姿勢がやや腰の引けた格好になっているのはご愛嬌。恐る恐るといった様子で覗き込む。
こざっぱりと整頓されている部屋にはやはり人っ子一人居ない。悠人はほっと息を付き、モップを持ち直すと部屋に入った。
「ふぅ。なんでこんなに緊張しなきゃならないんだ。……ん?」
ようやく落ち着き、なんとなく部屋の中を眺め回していると、ふと妙な暖かみが感じられる。
「……ああ。なるほどなぁ」
暫く考えて、気が付いた。カーテンや机に置かれたペン立てなどが、淡い橙色で統一されている。
デザインも何も無い、シンプルなオレンジ。その点在する暖色が、ほんのり感じた暖かみの正体だった。
思わぬ所で女の子らしいセンスが窺える。きちんと並べられたペーパーナイフやペンの握りまでもが同色系で纏められていて微笑ましい。
「へぇ~、ああ見えて、拘るところはちゃんと拘ってるんだなぁ。……おっと、あんまりじろじろ見ちゃ悪いか」
女の子だもんな、そんなやや失礼な事を呟きつつ、悠人は改めて掃除の必要な部分を探し始める。
しかし、やはりというか塵一つ落ちては居ない。良く磨かれた窓から差し込む陽光にも、埃一つ舞い上がる様子すら無い。
「シーツも皺一つ無いし。これで一体どこを掃除しろと……お」
ふと天井を見上げた拍子に、よせばいいのに薄く隙間があるのを見つけてしまう。
最近動かしたらしく、天井板の「嵌め」の部分に僅かに引っかいたような跡がある。丁度机の真上だった。
「これ位なら俺にも直せるかな……っと」
机の上の備品を壊さないように、慎重に踏み台にして両手を伸ばす。悠人の背の高さでもやっと指先が届く程度。
「う~んなんでまたこんな所が外れてるんだ? ヒミカが自分でやった訳でも無いだろうに」
爪先立ちながら、彼女の身長を思い出してみる。確かに皆の中でも高い方だから、届くといえば届くけれど。ごと。
「おっと、余計外れちまったか……ん? なんだ、コレ」
指先に、紙のような感触が伝わってくる。少し引っ張ると、何の抵抗もなく滑り出してくる本の表紙。
ここまで来てしまうと流石のヘタレでも、女の子の秘密を探るという背徳感よりも好奇心の方が勝ってしまう。たとえ猫を殺すとしても。
半分ほど見えてきた所で、そのタイトルと著者名が判明した。聖ヨト語で大きく書かれているので嫌でも目に入る。
『マロリガンより愛をこめて Final♪:遂にセリアーのヘヴンズが炸裂! ユウの心をgetgetなバルガーロアの熱い夜!!』
著:ファイヤー☆ミカ
どんがらがっしゃん。
そうして再度お約束のような展開の中、理解しかねる異文化へのショックに悠人が落下していた頃。
沈黙だけが支配する厨房の中で、ヒミカは何故か激しい悪寒に襲われていた。
唐突に訪れたおぞましい感覚に、危うく手にしていた皿を取り落としそうになる。
幸い今、ここにエスペリアは居ない。先程応接間の方から聞こえてきた激しい金属音に反応して出て行ってしまっている。
もしいたら、たとえ未遂であったとしても、こっぴどい説教からは免れなかったことだろう。
「……なにかしら。おかしいわね……『赤光』?」
ふと見ると、立てかけておいた『赤光』の刀身はかたかたと震えだし、ふいにばたんと倒れてしまう。
そしてその穂先がぴたりと止まったのは、まごう事無き第二詰所の方角。ヒミカは一瞬呆け、
「――――いけない! この間の在庫がまだっっ!」
次の瞬間にはだっと駆け出していた。それはもう、ハイロゥ全開で。
ちなみにスフィアハイロゥではいくら全開にしても加速はしないという事実には全くもってこれっぽっちも気がついてはいない。
そうしてもうきっと間に合わない、でもあぁいやいやそんななどと身悶えしつつヒミカが自室に向けて疾走していた頃。
セリアは両手と頭の上にばけつを装備したまま廊下に立たされていた。正面の窓越しに第二詰所が見える。
しかしうかつに視線を動かしたりしようものならなみなみ注がれた水を頭から被るはめになるので身動ぎ一つ出来ない体勢だった。
まがりなりにもスピリットなのでこの程度の重さは苦にならない。が、一体自分は今何歳なのかと泣きたくなってくるのが困る。
「うう、今時こんな罰、子供にもやらせないわ。全くエスペリアも、あれだけ土下座したのに許してくれないんだから……」
ぶつぶつと呟きながら、器用に首の上だけを揺らし、バランスを調節する。昔から散々経験済みなので、悲しいことに馴れたものだった。
しかしもしこの様子をネリー辺りが発見すれば指を指しながら腹を抱えて笑い転げることだろう。今後の威厳にもかかわる。
ただ、幸いというか、今は二階の余りの騒がしさにこめかみを押さえたエスペリアが踏み抜く勢いで階段を昇っていった所。
そのわりにはとことこと間抜けな足音だったが、あれは相当腹に据えかねているだろう。年少組には万に一つも逃げおおせる術は無い。
「……とかいってる間に、静かになったわね」
姿勢が姿勢だけに上を見上げることは叶わないが、時折思い出したように響いていた振動はぴたりと鳴り止んだ。
五人分の気配が一瞬消え失せかけたような気もするが、多分気のせいだろうとセリアは思うことにする。
「……セリア」
「……なによ」
「……ん」
隣で同じようにバケツを乗せ、ぼーっと窓の外を眺めていたアセリアが目の動きだけで視線の先を促す。
「?……ッッッ!?」
つられて見た先。見慣れた第二詰所のとある一室で桃色に膨れ上がった気配とその部屋の主が頭の中で結びついてしまった瞬間。
「あ、あ……あああああっっっ―――――」
「ん、任せろ」
妙な雄叫びを上げながら駆け出すセリアの後姿にのんびりと呟きながら、
慣性の法則に従って落下する三杯のバケツを器用に片足の爪先と膝と太腿で受け止めるアセリアだった。
そうして中○雑技団かなんぞにすぐにでもジョブチェンジ出来そうな動きを、誰も居ない廊下の片隅でアセリアが披露していた頃。
エスペリアとファーレーンは二階と応接間の後始末を終え、ほっと一息のティーブレイクを堪能していた。
ただ、ファーレーンだけはニムントールの事が気掛かりなのか、そわそわと落ち着かない。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、ファーレーン。酷い罰は与えてはいませんから。……くすくす」
「そ、そうですか」
そんな風にカップを片手に首を傾げながら微笑まれても、信用できるものではない。
ファーレーンはほんのり甘いハーブティーを口に運びながら、慎重に言葉を選び出す。
「あ、そういえば第二詰所で、ユート様にお会いしました」
「あら。ご様子はいかがでした? 後でわたくしがお手伝いに行こうかと」
「丁度着替えている時に部屋に来られまして。最初はニムかなって思ったんですけど、お顔が赤かったので、風邪かしらと心配」
ぴしっ。
「え? エスペリア?」
「ファーレーン。もう少し、kwsk」
「……Sir」
何もしていないのにひび割れてしまったエスペリアのカップの前に、ファーレーンの背中はすっと伸びた。
能面のように貼り付いたエスペリアの微笑みの中で、その目だけが笑っていない。まるで獲物を目で射殺そうといったような勢いで。
(殺られる?!)
いつの間にか周囲には、戦場にも似た緊張が漂い始めている。
いや、『月光』と共に歩んできた人生の中で、これほどまでの身の危険を感じた事はかつて無かったと断言してもいい。
先程応接間を訪れた時からずっと感じていた違和感の正体はこんな所にあったのかと、ファーレーンは今更ながらに悟っていた。
そうしてファーレーンが心の片隅で、ニム、今からお姉ちゃんもそこに行くからねと良く判らない覚悟を決めていた頃。
第二詰所の一室では、ふたつの物語が終わりを告げようとしていた。
「しっかしまだ描き続けていたのかヒミカ……ふんふん、なるほど」
ひとつは、二次元上のお話。
「そうか、こうすれば良かったのか。でもバルガーロアって。こんなの話だから簡単だけど、実際そう出来るもんじゃ」
ばたん!
「ユート様!」
「うわっ! な、なんだヒミカ?!」
「読~み~ま~し~た~ね~?」
「読んでない! いや、ちょっとだけだぞホントだぞ!」
うろたえまくった口調は最早何を言っているのか良く判らない。
背中に巨大な炎のマナを背負ったままずずいと詰め寄ってくるヒミカは阿修羅像もかくやというような表情で、
黙ってつい読み耽っていた後ろめたさもありすぎる悠人としては当面ちびりそうになるのを抑えるだけで精一杯。
正直次の瞬間蒸発させられても不思議ではない、早急に辞世の句でも考えなければならないような状況だった。
しかし目を血走らせたヒミカは殆ど顔同士がくっつきそうな位にまで接近しておいて、
「で、どうでした?」
などと意外な事を聞いてくる。そんな期待に満ちた瞳できらきらと見つめられても。
というかそれが感想を求めての一言だと悠人の頭が咀嚼する為には、少々時間が足りなさ過ぎた。
「……は?」
「は? じゃありません! どうです、これ力作なんですよ? 徹夜マナもたっぷり篭ってるでしょう!?」
「へ、あ、えと、あの、ヒミカさん?」
「ほらこのページのセリアーなんてもうこれ以上ないってくらいポニーテールざっくりっ! 意外な展開に読者もドン引きですよねっ」
「あ、ああ」
いつの間にか悠人の手から奪い取った著書に頬擦りし、うっとりとした表情を浮かべるヒミカに、悠人はあっけに取られまくっていた。
何度も戦場で見惚れたあの勇ましい後姿ががらがらと音を立てて崩れ去っていく。本よりも現実の展開の方に追いてけぼり状態。
ごーーーーーどたん。ばた。だん、どかん。ごー、ばたばた……ひゅんっ!
そうこうしているうちに、三次元でのお話もお約束の終局を迎える。
「ぜーぜー、……ヒミカ! 例の本の残りちゃんと処分、したん、でしょ、う、……ね」
飛び込んできたのはウイングハイロゥ全開のセリア。もちろんウイングハイロゥだから、制限速度もぶっちぎり。
ちなみに先程の擬音は狭い筒状の廊下をあまりにも早く駆け抜けたセリアが磨いたばかりの床への着地に失敗し、
ブレーキが利かないまま応接間のあたりで尻餅をついた途端自ら生じたソニックウェーヴに追いつかれて転倒し、
連続前転を繰り返しているその後方に一瞬出来た真空へと急速に流れ込んだ空気の渦が竜巻となって襲い掛かり、
咄嗟の機転で振るった『熱病』で打ち消したはいいが慌ててマナを注ぎすぎてしまい、うっかり壁ごと切り裂いてしまった音である。
「よ、よおセリア」
「……」
しかしそうまでして全力で駆けつけたにも拘らず、待っていたのは一番恐れていた現実。
人の気も知らないで気楽そうな笑みを浮かべながら手を振っているのは彼女にとって今一番遭いたくなかった人物。
悠人にしてみれば最早収拾のつかなくなったこの状況ではもう笑うしかないというだけのなげやりな態度だったのだが、
ぐっと唇を噛み締めながら俯くセリアに、そんな事まで察する余裕は無い。落とした視線の先に見えるのは、擦り傷だらけの膝小僧。
戦場でもここまで破れた事はないんじゃないかという勢いでぼろぼろになってしまっている蒼いニーソックス。そして一冊の本。
「……読みました?」
「え゙? あ、う」
ぱらぱらと捲れているページは丁度クライマックスを迎えつつあり。
「あ、あのさ。お話とはいえ良く出来てるよな、これ。特にラスト4ページで新キャラ登場した時には一体どうなることかと」
「まさかまさかの、ここに来ての意外な伏兵登場! もー自分で考えておいて、今更どう収拾つけようかと悩みましたよ~」
呑気なヒミカの陶酔をBGMに、ユウとセリアーがあんなことやこんなこと。
「――――読んだんですね」
「……はい」
「……フ」
「フ? あの、セリアさん?」
「フ、フフフフフ……忘れなさい、忘れるのよ」
「え、お、おい何言って」
「そう、忘れる気は無いっていうのね。なら強制的に葬り去るのみ。恨むなら、本のとおりにヘタれな自分を恨みなさい」
「いや俺まだ何も言ってないからっ?!」
背中からはミカ先生の萌えさかる、いや燃えさかるスフィアハイロゥ、正面からは人の話を聞かないセリアーの、もとい、セリアの冷気。
「ユート様、お話はファーレーンから全てうかがいました」
そしていつの間にやってきたのか首筋にぴたぴたと『献身』をあてがってくるのは微笑んだままのエスペリア。
「は、ははエスペリア……話って?」
「本当に目が離せない困った人なんですから」
既に臨戦態勢なのか、緑色のシールドハイロゥが異様な厚みを帯びている。こう、周囲を粉々に砕いていく削岩機のように。
もうどう転んでも虎口からは逃れようがない。ああ、前門の虎後門の狼とはよく言ったものだなぁとうろんな頭で考える悠人だった。
「ユート様の……」
「馬鹿ぁーーーーーッッ!!!」
ごーーーーん……
タイミング良く、除夜の鐘が響き渡る。
そしてそれは長時間のお仕置きの末、今日子の『空虚』が止めとばかりに光陰の頭蓋骨を直撃した瞬間でもあった。
来年も良い年でありますように。