伝わりますか

オリンの大地。
ラキオスから遠く離れたサーギオス帝国に広がるこの大草原は、一般にそう呼ばれている。
どこまでも障害無く見渡せる風景の奥で、細い紐のように横たわる一筋の灰色は秩序の壁。
視界を遮るのはせいぜいそれ位で、あとの風景は水平線上で緑と青とに綺麗に二分され、
常に豊富なマナにより活性化した大気が生み出すそよ風だけが僅かながらの変化をそれぞれに与えている。
その巨大な草原の中、ぽつんとひとり、少女が座り込んでいる。神剣『静寂』を傍らに置き、両腕で膝を抱えた体勢で。
その有様は、丁度上空からだと、波打つ緑の大海原に浮かぶ小さな小さな筏のように見えなくも無い。
ポニーテールが前に流れてくると煩わしいのか一応風向きを考慮して座っているのだが、
その為に長くウェーキを引いている蒼い髪が散り散りに乱れていて、その心細さを一層強調してしまっている。
「はぁ……来て、くれるかなぁ」
遥か前方に薄く浮かぶ、秩序の壁。それを目指し、現在スピリット隊は進軍している。
到達すればこれまで以上に苛烈な戦いの中で、ネリーもより一層『静寂』を振るわなければならないだろう。
「うん……でもでも、死んじゃってからじゃ、絶対後悔するもんね……うん」
細身の神剣は、今は柔らかい草の上で太陽の眩しい日差しを浴び、大人しく光り輝いている。
しかし一たび戦いともなればその刀身は肉を切り裂き骨を砕き、赤と金に塗れ、蒼のマナを帯び荒れ狂う。
それは頼もしくも、恐ろしい光景。自分や自分の大切な者達の身にも、いつ降りかかってきてもおかしくない結末。

『でも……ふふふ、ユートさまに守ってもらっちゃった』
『まぁ、俺に出来ることだったら守るさ』
天気の良かったある日。好奇心が先立っての行動。休んでいる所を、無理矢理連れ出した城下町。
ついこの間のようにも思える、ささやかな出来事。その時頭の上に乗せられた、大きく暖かい手を思い出す。
本来、ネリーは考え込むような性質(たち)ではない。
いつも感情だけでオルファリルと喧嘩をしたり、シアーとはしゃぎ過ぎてはセリアに怒られたりしている。
しかしその出来事以来、ネリーの行動は変わった。
自分で言い出した事なのに、あの日以来、お兄ちゃんと呼んだ事が無い。目立つ行動を取るときには、決まって傍に悠人がいる。
シアーと木の実を取りに行く約束をしていた時にも、必要も無いのに何故かそれを報告したくなり、部屋まで押しかけた。
その、自覚も無く、余りにも微妙すぎる変化。それが何なのかに気がついたのは、今朝。だがそこからの行動は早かった。
「うー……戦いでも、こんなに緊張した事ないんじゃないかなぁ」
呼び出したかったから、書いた。渡したかったから届けた。
誰にも、特にシアーにも悟られないように部屋に忍び込むのは大変だったが、思いついたら後先考えず、そして上手くやるのが真骨頂。
しかしそれだけに、約束より半刻以上も早く来たのは自分のくせに、いざ待つとなると驚く程気持ちが後ろ向きに萎えていく。
「うう……なんだかどきどきしてきたよぅ……はっ! まさか、読んでくれなかったなんてこと……ない、よね」
風に揺られた草が太ももや脹脛を優しくくすぐるが、一度暗礁に乗り上げてしまった気分までは元に戻してくれはしない。
不安になり、何度も頷き、緊張を解す。ふと気づくと、抱えたニーソックスの膝部分が皺くちゃになってしまっている。
抱える腕に、知らず力を篭めすぎていたらしい。折角思いつく限りの御洒落をしてきたのに、と少し寂しくなってしまう。
行李を漁って一生懸命選んだ髪留めにそっと触れ、何気なく空を眺めてみる。良く掃けた青に、ひと塊の雲が白く流れていく。

「あ~あ……雲はいいなぁ、気持ちよさそうだし。……ぁ」
目で追っていると、何かが視界を掠めていく。右から左へと滑らかに通り過ぎていくそれは、一羽の鳥。
大きな翼を目一杯に広げては高く舞い、そして滑空を繰り返し、やがて小さくなっていく。
ネリーは蒼い大きな瞳を輝かせ、夢中になってその姿を見送った。心を、少しだけ軽くして貰ったような気がする。
「……あはは、そっかぁ。お前も、気持ちがいいんだね」
ごろんと仰向けになり、深呼吸。草の、青臭い匂い。澄み渡った空。清々しい風。
そっと瞼を閉じてみる。すると今度は草の擦れ合う音、通り過ぎる風の囁き。そこに溢れている大気の、そして緑のマナ。
「くす……変なの」
自分が。
1年前までは、剣を振るう事しか考えてなかった癖に。それがスピリットとしての、“当たり前”だった筈なのに。
誰がそれを変えてしまったのかは、初めから判っている。ネリーは背中を丸め、くすくすと小さく笑う。
とくん、とくんと高鳴る心臓。それが周囲の音と混ざり合い、融け合っていくのが心地良い。
「……ふぁぁ~」
いつしか、まどろみの中へと落ちていく。風と大地の温もりに包まれながら。

「……ん?」
「よ、起きたか?」
「ふぇ……あれ? ユ、ユートさま!? ……きゃあっ」
ゆったりとしたリズムで揺すられる感覚に、目を覚ませば大きな背中の上。
突然の事態にネリーは目を見開き、身を仰け反らそうとして危うく落ちそうになり、慌てて広い肩に両腕を回す。
「おっとっと。暴れると危ないぞ?」
「ど、ど、ど、ど、ど……」
動揺のせいで舌が縺れ、どうして、という単語すら上手く出てこない。
しがみついているような格好のせいで、背中の逞しさや体温を嫌でも全身で感じてしまう。
顔が、熱い。急速に激しくなってくる動悸を、どうか聞かれませんようにとネリーは必死で願う。
「どうしてかって? あのままじゃ風邪引きそうだったからさ。それにそもそも呼びつけたのはネリーだろ?」
「あ、あうぅ……」
ひらひらと先程したためたばかりのラブレターを見せつけられ、今更恥ずかしくなり、耳まで熱くなってしまう。
焦って視線を彷徨わせてみれば、確かに周囲はいつの間にか、茜色に染まりかけている刻限。
ラキオスとは違い、この国の夜風は冷たい。ネリーはふと思いつき、ようやく冷静さを取り戻し、ぷ~っと頬を膨らませる。
「……う~、ユートさま、一体どれだけ待たせたの~?」
「いや、多分時間は守れたと思うよ。何回か起こそうかとも思ったんだけど。たださ、ちょっと起こすにはその……可愛かったからな」
「え……?」
首を絞めて懲らしめてやろうとしていた指が、ぴたりと止まる。ネリーは咄嗟に何と言われたのかが理解出来ない。
ぼーっとしながら、ただ目の前で揺れる黒い針金のような髪を見つめ続ける。
「でもさ、ここは一応敵地だから。だからさ、約束通り、守ってた」
「あ……」
「あーでも、なんか話があったんじゃないか……ネリー?」
ネリーは顔を悠人の背中にそっと埋め、しがみつく両腕に力を篭める。
気遣い、軽く揺すってみせる悠人に合わせるように、その耳元へと唇を寄せ。そして大事な言葉を囁き告げるために。

  ―――― あのねユートさま、ネリー、ユートさまのこと……

軽く巻いた風が草原を波立たせ、長く靡く蒼を夕日の赤に沁み込ませてくれる、その一瞬の静寂の中で。