白百合と、逃げ道と

あたしは、岬今日子。
あのひとは、イオ・ホワイトスピリット。

初めてそのひとを見た時、今まで一番心を奪われた。

今までに見たどんな銀色よりも控えめだけれど上品になびく白い髪。
今までに見たどんな宝石よりも静かだけれど確かなこころをたたえる真紅の瞳。
今までに見たどんな芸術作品よりも儚げだけれど遥かに存在感のある空気をまとう立ち居振る舞い。

まさか、女のあたしがこんな異世界に来て異世界の妖精に対してこんな気持ちを持ってしまうなんて。

あたしは、岬今日子。
あのひとは、イオ・ホワイトスピリット。

元の世界で、後輩の女の子からラブレターやバレンタインチョコをもらった事は数知れなかったけど。
それでも、自分はあくまでも悠や光陰が好きなんだと思ってた。
佳織ちゃんや小鳥もいて、彼らがいて…そこにいる居心地の良さがいつも心地よかった。

だけど、時折何かにつけて自分がこう呼ばれる毎に鼓動があたし自身を打つのを心地よく感じていた。

おねえさま。

ガラじゃないよ、とか誤魔化してその場では笑って受け流してきたものだったけれど。
本当は時々、自分ひとりきりのときにその言葉を小さな声で呟いてみた事も数知れなかった。

おねえさま。

だけどやっぱり、自分がそう呼ばれるよりも自分が誰かをそう呼びたい気持ちのほうがいつも強くて。
いつしか、誰にも言えない秘密の憧れはどうにもならない現実に対する諦めに変わっていった。
だけど、この異世界に理不尽に召喚されて理不尽な剣に支配されて…長すぎた悪夢がやっと覚めて。
光陰とともに悠にラキオス城下町のファンタジー的な風景を案内してもらっていた時。
まだあたしの中に残る悪夢のにおいから少しでも逃げたくて、早足でレンガ道を歩いていて。

なんのことはない、それはありふれたラブロマンスの…お約束だった。

早足のはずみにレンガ道の溝に足をひっかけて転びかけたところを、抱きとめられて助けられた。

「大丈夫ですか?」

なんだろう、その声の不思議な響きがあまりにも気持ちよかった。
弾みとは言え顔をうずめてしまってる、そのひとの胸の優しい柔かさが気持ちよかった。
鼻をくすぐってくる、そのひとの香りがとても気持ちよかった。
悠たちといる時の居心地の良さとは全く違う、不思議に優しく花よりもかぐわしい居心地の良さだった。

「もしもし、大丈夫ですか? …どうやらご自分で思っている以上に疲れてしまっているご様子ですね」

後ろで悠たちが何か言ってるけど、自分の鼓動が激しくて何を言ってるかなんて遮られてしまう。

「これはユート様。私はヨーティア様の使いで食料とお酒の買出しに出たところです」

悠たちの声なんて聞こえないのに、このひとの声だけが鮮明にあたしに響く。
後ろから光陰に抱えられて離されるのが、理屈ではわかっていたけど気持ちは寂しかった。
足腰が余韻で未だふにゃふにゃになっているのを支えられながら、あたしは…そのひとを初めて見た。

おねえさま。

その可憐な容姿を確かめたとき、不意に口からかすかにそうこぼれてしまった。

「イオ・ホワイトスピリットです。どうぞお見知りおきください、エトランジェ・キョウコ様」

微笑んでもらえたのがあまりにも純粋に嬉しすぎて、つい自分でもだらしない笑みを返してしまう。

用件をすませてきます、と背中を向けて雑踏に消えていく後姿をあたしはいつまでも見つめていた。

 -あんなに影のある儚げなひとなのに…どうしてあんなに不思議な存在感があるんだろう。

帰ってきた時には足腰はどうにか普通に歩けるようにはなっていたものの、余韻は抜けていなかった。
スピリットはみんな例外なくきれいだったけれど、あのイオというひとはあまりにも綺麗すぎた。

ラキオススピリット隊詰め所で自分に割り当てられた部屋のベッドに寝転がって、あたしは考える。

逃げたいと、あたしはいつも思っていた。

元の世界でも、逃げたい事で何もかもがいっぱいだったけれど。
この世界に来て、無理やり悪魔のような剣に支配されて無理やり人殺しをさせられて。
それはある意味で肉体的な痛覚をともなわない、不気味で気持ちの悪い痛みだった。
逃げたいと、この得体の知れない痛みから逃げたいと、あたしはいつも思っていた。
いっそ、誰かにこの身を文字通り貫いてもらえれば…せめて、自分で選んだ痛みに逃げたかった。

 -あのひとの、あのひとだけがまとう、あの柔かさに逃げられれば…どんなに楽になれるだろう。

そう考えて、寝転がったままで激しく首を振る。

 -ダメ、あのひとは…あたしなんかが逃げていいひとじゃないんだ。

不思議と、あのイオと名乗ったひとに対してスピリットという言葉は出てこなかった。

ただ、ひと、と…ただ、あのひとは…あのひと、としか考えられなかった。
そしてあたし自身、それを不思議とそれこそが自然な事だと感じていた。

 -イオおねえさま。…あのひとを、堂々とおねえさまと呼べたらいいなあ。

そう考えて、ごろりと天井をあおいで仰向けになる。

 -あーあ…あたしって、こーゆー趣味っていうか…結局そんな女だったんだ。

自分に対して苦笑しながらも、不思議とそう自覚した事が自分で晴れやかだった。

 -よし、このままだと悠に対してみたいにズルズル気持ちを引きずることになるから。

だから、自分で直接気持ちを伝えて…ズバッと振られてこよう。
あたしは、あのイオという人が城の研究室に寝泊りしてる事を聞いておいてから出かけた。
出かける直前に、未練がましく身なりをそれなりに整えていった自分にまた苦笑してしまったけれども。
詰め所を出て城へ向かう道は、すでに夕焼けだった。

「もしもし、キョウコですけどーっ、イ、イイイ、その、イオさんはいらっしゃいますでありますかーっ」

深呼吸して気持ちを落ち着けてからノックして呼びかけたつもりが、イオという単語でつまずいてしまう。
これでは、あのヘリオンとかいうドジっ娘を絵に描いたようなブラックスピリットと一緒だ。
加えて、なまじ元気良く呼ぼうとしたせいで声が必要以上に大きくなってしまったのが恥ずかしさを煽る。

 -というかエスペリアに対してだって呼び捨てなのに…あたし、イオさんだなんてらしくなく呼んでる。

ややあって、扉が開くとそこにはイオさんがいた。
昼間会った時と同じ様なやわらかい微笑みで、イオさんは私を見とめて。

「はい、イオでしたら確かにここにおります。 おや、キョウコ様…? どうかされましたか?」

じっと真っ直ぐ見つめてくる真紅の瞳に、また鼓動が激しくあたしを打ちはじめて。
何か言おう、いや用件をスパッと言わなくてはと思うのに顔がどんどん熱く紅潮してしまう。

「えっと、えっと、ええっと、いや決して大した用事ではないんですけど…ちょっと用事というか」

あたし、耳まで熱くなってる。きっとイオさんから見ても不審なくらい顔を真っ赤にさせてるんだろう。

 -いや、これじゃあたし、いくらなんでも不審すぎる。…困った、こんな時どうしたらいいんだろう…。

一向に用件を切り出せないまま頬を指でポリポリかいてるだけのあたし、すっごく怪しい。

すると、イオさんは突然プッと口を手でおさえて吹きだした。
それだけで、あたしはどんどん恥ずかしさが膨らんで顔がますます熱くなってしまう。

「どうぞお入りください、キョウコ様。今は私しかおりませんしどうぞお気になさらずに」

すっと差し出された白い手にひっぱられるまま、あたしはイオさん(と、ヨーティアさん)の部屋の中へ。
乱雑に積み重ねられた本の山と紙書類の海とよくわからない器具の密林をイオさんの案内で進む。
不意に、きれいに整理整頓された空間に出た。

「こちらが私個人の部屋になります。何もございませんがどうぞくつろいでください」

すすめられるままに質素な椅子に座らせてもらう。
飲み物を取りにだろうか、いったんイオさんがその空間を出て何処かに行こうとしたのを。

「ま、待ってください」

よせばいいのに、あたしは震える声で呼び止めて。

「あなたに、話があるんです」

勢いで椅子から立ち上がって両の拳を握り締めて変に力んでるあたしに、キョトンとしているイオさん。

 -いいんだ、これで。振られて逃げるために、あたしはここに来たんだ。

「好きです、好きになりました。お…おねえさま、おねえさまと、おねえさまと呼ばせてくださいッ!」

言った、言ってしまった。これであたしは少なくともこの気持ちから逃げる事は出来るはず。

「ええ、いいですよ」

ところが、あたし自身の考えた方向と全く違う向きへと事態は転がり始めてしまった。
イオさんが…ううん、イオおねえさまが震えるあたしの両手を優しく握ってイオおねえさまの胸にあてる。
あたしの手に、イオおねえさまの鼓動がまた心地よく伝わって来る。
そうして、あたしの目をイオお姉さまの真紅の視線がまっすぐ射抜いたまま顔が近づいてきて…。

イオおねえさまは、あたしの唇にそのご自分の唇を重ねてきた。

生まれて初めてのキスは、おんなのひとと。それも、異世界の妖精と。
おねえさまの唇は柔らかく優しくて暖かくて、それにいいにおいで…あたしは目を閉じてしまう。
目を閉じて、本当は凄く欲しくてたまらなかった心地よさに心の全てをゆだねてしまう。

やがて、ゆっくりと唇を離して…おねえさまが微笑みながら声は悪戯っぽくあたしにささやいてくる。

「キョウコ様…もう一度、私を先ほどのように呼んでみてください」

言葉こそ様付けされてるし丁寧だけれど、今…心を優しく抱きしめられてるのはあたしのほうだ。

「おねえさま…おねえさま。…あたしの、おねえさま」

これでもう、逃げられないんだ…だけど。
それは、あたしが長い間…自分の胸に秘めて願った、逃げ道でありまた逃げられない道だった。


終わり