獅子粉塵

とあるのどかな休日。
『献身』のエスペリアことエスペリア・グリーンスピリットは厨房の一角で包丁を片手に仁王立ちになっていた。

「一撃で決めます……せめて、苦しまないように」
周囲には濃密な緑のマナが充溢し、息苦しい戦闘時のような緊張が走っている。
それもそのはず、厨房は既に彼女の気性を現しているかのようないつもの整然とした面影の欠片も無く、
散乱した食器類や散乱した食器類の破片や散乱した食器類からこぼれて散乱した作りかけの料理の残骸や
散乱した作りかけの料理の残骸に加わる予定だった仕込済みの食材の残骸や
散乱したその全てに巻き込まれて散乱した仕込み前の食材の残骸で埋め尽くされてしまっている。
そしてその出来たばかりの新鮮な樹海に佇む彼女のトレードマークでもある濃緑のメイド服はもはや見る影もなく、
まるで世界名作劇場に出てくる不幸な少女が長年愛用していた普段着をちょっぴり真似してみましたとでも言わんばかりに
所々埃と煤で灰色に強制仕様変更させられており、おまけに蜘蛛の巣のようなものまでがキャップを透明な糸で彩っていた。
使い慣れている筈の食器棚に打ち付けた額はほんのり桜色に腫れており、使い慣れている筈の椅子にぶつけた足の小指は涙が出るほど痛い。
それでもエスペリアは顎に伝わる汗を拭い、不敵な笑みを浮かべ、包丁を構える。
ちなみにその包丁でうっかり切り刻んでしまった床や壁の傷は既に数千に及び、補修工事でどうにか出来るレベルをとっくに放棄してしまっているが、
普段から砥ぎに砥いで念入りに大事にされている大振りの出刃には刃毀れ一つ見当たらず、未だ危険な銀色の輝きを保ち続けている。

「……いきます!」
自らを鼓舞するような気合と共に、包丁を振り下ろす。その先で目障りかつ小馬鹿にしたような動きを示す、この惨状の原因となった張本人に向けて。
しかし肝心の目標は、敏感すぎる2本の触覚から察知した危険情報を本能的に分析すると、一瞬前に壁を高速移動し始めた。
もううんざりするほど見せ付けられてきた不規則かつ予測不明な動きがエスペリア渾身の一撃をまたしても首の皮一枚で回避する。
こうして又虚しく、壁には新たな傷の1ページ。しかしもうどこまでが1ページなのかはとっくに判別がつかないので、エスペリアは気にしない。
「こ、の……っ! ちょろちょろとっ」
ずぼっと乱暴に切っ先を引っこ抜き、ただひたすら獲物の行方だけを捜し求める。読書感想文(始末書)なら後で何枚でも書けるのだから。
乾坤一擲が引き起こした嵐のような風圧で巻き上がった小麦粉か何かが視界を狭めて追跡を阻んだが、直感だけを頼りに見上げた天井の隅に発見する。
しかし惜しいかな、包丁では届かない。歯噛みをし、一瞬の躊躇の後、エスペリアは狙いを定め、投擲する。
うなりを上げて飛来した包丁はぶわっとその周囲だけ小麦粉を押しのけ見通しのよい空間を形成しながら一直線に突き刺さった。目標物の数ミリ側に。
びぃん、というソニックストライクがそれまで奇跡的に生き残っていた窓のガラスにも無数の亀裂を走らせる。と同時に恐れていた事態が発生した。
「――――ヒッ?!」
短く息を飲む眼前に、ぶぅん、と大きく羽を広げた影の反撃が迫る。
咄嗟に頭を庇いそうになる両腕や屈み込みたくなる全身の反射神経という反射神経に、エスペリアは懸命にストップをかけなければならなかった。
神聖な職場をこうもめちゃくちゃにされて、尚且つ正面から挑戦を受け、背を向けるのはプライドが許さない。堂々と受けて立ってこそ盾にもなれる。
ユート様、見守っていて下さいと心の中で祈りを捧げ、捧げることによって統一した精神が織り上げたシールドハイロゥは、しかし一瞬だけ遅かった。

「い」
楕円状に広がった絶対防衛ラインをすんでの所で潜り抜けた特攻機はふかふかの緑色の丘陵へと無事不時着し、
不時着すると同時に物凄い勢いで頂点を目指して駆け上がり始め、次の瞬間には登頂を果たして満足気に2本の触覚を揺らし、
そしてその丘陵の持ち主であるエスペリアはあまりといえばあまりな事態に今度は反転しそうな眼球の動きを必死に抑えなければならなくなってしまう。
「――――嫌あぁぁぁぁっっ!!」
脳内にあるありったけの防衛本能と生存本能と拒絶反応と嫌悪感が一斉にエマージェンシーコールをがなり立て、唯一応じた右手が勝手に何かを掴む。
未だもうもうと小麦粉の立ち込める真っ白な視界の中、ひゅん、と軽い音を立てて最後の皿を木っ端微塵にしたのは、スピリットにとって最後の砦。
その名も『献身』、生半可な武器など足元にも及ばない破壊力と屋内で使用するにはちょっと長すぎる尺を持つ細身の槍。
エスペリアは大きく身体を揺らし、もう一方の広陵を目指して丁度谷間の辺りを這いずり回っていた黒光りする物体を強引に引き剥がすと、
たった今手元に戻ってきた『献身』を無我夢中で振り回す。もう型も何もあったものではない。
「ユート様、ユート様にも触られたこと無いのにぃっっ!!」
しかし、当らない。どんなに振り回しても当らない。息が切れる位振り回しても当らない。終いにはぜはぜはと本当に息が切れてしまう。
膝に手を当て、深呼吸。まぐれでも当てられないとようやく悟った所で今は床にじっと鎮座するそれにぴたりと矛先の標準を合わせ、静止する。
ちなみにその動き全てがほぼ半狂乱状態の中で行なわれていたというからスピリットの精神力は侮れない。

「フ、フフフ、精霊よ、全てを貫く衝撃となれ――――」
しかし、やはり半狂乱は半狂乱だった。
普段からはありえない程滑らかな高速でうっかり口にしてしまったのはユート様に褒めて貰おうとつい先日覚えたばかりの禁断の神剣魔法。
精確にいうと、今この場では禁断の神剣魔法。
もっと精確にいうと、空気中の酸素とほどよくミックスされた大量の小麦粉が狭い厨房という空間に高密度で存在している場合、
詠唱と共に活発化するマナ同士のぶつかり合いが最初に生み出すささいな緑雷ですら着火源となり、

 ―――― ズウウウウウウン……

一瞬で気化した少量の小麦粉が周囲の酸素を糧にして次々と連鎖反応を起こし、ついには巨大な爆発を引き起こすので、禁断の神剣魔法。
更にいえばその際爆発の中心地にでも居ようものならたちまち延焼に巻き込まれ、マグネシウムリボンのようにあっという間に燃え尽きてしまうのは間違い無い。
「……ごほっ……あ、あぁぁ……みんな、ごめんなさい……」
そんな訳で全身黒焦げになってしまったエスペリアはより一層癖のついてしまった髪の間からぷすぷすと細い煙を立ち込めさせながら、
今はもうすっかり片付いてしまったというか跡形もなくなって実にすっきりした厨房の片隅で呆然と立ち尽くしながら呟いていた。
しかしその謝罪が食事を待ち侘びている詰所の面々へのものなのか、それとも愛着のある食器達へのものだったのか、
はたまたただ単に戦闘台詞として飽きるほど繰り返して来た為に、ただ予定調和で発せられただけなのかはハイペリアの神のみぞ知る。
何故ならその直後にぱたりと倒れたエスペリアは駆けつけたニムントールに何とか蘇生されたもののその間の記憶は綺麗さっぱり失っていたし、
唯一の目撃者兼張本人である黒き刺客もこの辺にはもう食料は無いと悟るや否や破壊された壁の向こうにそそくさと逃走を決め込んでしまっていたのだから。

ところでたまたま通りかかり、突然出来ていた瓦礫の山に不審を感じ、足を踏み入れた途端躓いた黒炭がエスペリアだと気がついてしまったばかりに
面倒臭いリヴァイブを唱えなければならなくなってしまったニムントール・グリーンスピリットは治療後にこう語っている。
「なんか"じー、じー"って魘されてたんだけど、よくわかんない」

とあるのどかな休日。
第1詰所を半壊したこの事件は、敵ブラックスピリットのゲリラ襲撃を防いだエスペリアの英雄譚として広く知られている。


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