紫陽花のように

今日も優しい風が吹いている高台。
そこから少し降りた所にある草原。腰を下ろすと、瑞々しい匂い。
青い湖や白い山並みや緑の森。水彩色に囲まれた、とっておきの場所。
ゆるやかに過ぎ去る時を感じ、髪を抑えながら、つまらなそうに呟く。
「……解いちゃおっかなぁ」
本当は、ずっと見て貰いたかった。褒めて貰いたかった、自慢の黒髪。
だが、3度目の偶然は無かった。それでも、習慣のように訪れてしまうこの場所。
何度無駄にしたかもう判らなくなってしまった傍らの大きめな包みをそっと撫で、
そのまま両腕で抱え込んだ膝の間へと顔を埋め、長く細い溜息を漏らす。
「うん、まぁ、判ってはいたんだけど、ね」
相手がどう考えているかは知らないが、好ましく思える、親友とも呼べるあの子。
彼女の想いが成就するのなら嬉しいし、その為になら出来るだけの協力もする。
そう決めたのは、自分。だから、これも自分が引き寄せた運命。
「はは……引き寄せちゃったよ、ユートくん」
俯いた先で皺の走る、一生懸命考えて選んだお気に入りのワンピース。
裾を握る指に力を篭め、自嘲的に微笑む事で泣きそうになるのを何とか抑える。
湖面のように穏かなさざ波が、心の中を静かに揺らしては過ぎ去っていく。
顔を上げれば、変わらず迎え入れてくれる雄大な景色。
≪綺麗だなぁ……≫
≪そうだねぇ……≫
あの日と同じように、空が高い。鳥が1羽、気持ち良さそうに翼を広げ、視界を横切る。
森へと帰る白い姿はどこまでも自由で、それがとても羨ましい。
ぼんやりと眺めていても、想い出ばかりに囚われている自分の今の思考にとっては。
「綺麗だなぁ」
「そうだね……え?」
唐突に声をかけられ、思わず相槌を打ちながら驚き、胸がどくん、と大きく弾む。
まさかと思いながらも、もしかしたらと相反する期待感に、綯交ぜになっていく心。
そうして恐る恐る振り向き、やや影のかかった笑顔を見つけ、息を飲む。

「……コウイン!?」
「ん? どっかで会ったっけか?」
「あ、いえ、じゃなくて、ううん」
期待感はすぐに失望へと変わり、そしてその失望をじっくり味わう暇も与えられず、
みるみる噴き出して来た焦燥を懸命に内へと仕舞いこんだまま貼り付いた笑顔で取り繕う。
どうしてここに、とか何故よりにもよって彼が、とかは取りあえずどうでも良い。
それよりも今はこの場を何とか切り抜けねばならないと、背中に冷たい汗が流れる。
「あーわたし用事を思い出し」
「ふん、何だ結構有名人なんだな、この国でも。まぁいいか。どっこいせっ……と」
「……」
全く棒読みの社交辞令じみた言い訳が語尾を奪われ、逃げるタイミングを外す。
思わぬ皮肉めいた台詞が立ち上がりかけた足を釘付ける。誤解だと反発しかけ、口を噤む。
エトランジェやスピリットに対しての偏見や歪んだ興味本位の視線は、
事ラキオスに限って言えば今は殆ど払拭されているという手ごたえを感じている。
他ならぬ自分が微力ながらも率先して指導してきたこの施策の成果確認は、
幸か不幸か不定期に繰り返し城下街を視察する事で大まかな推移位なら確認してきた。
ただし、つい最近国籍に加わった新たなエトランジェへの純粋な好奇心までは防げない。
もっともそれはこれまでとは少し異なり、どちらかというと英雄への憧れとか
羨望に近い眼差しが殆どなのだが、こうも平板かつ寂しげに返されては一言も無い。
無遠慮に隣に座ったがっしりとした身体と横顔をそっと伺いながら呟いてみる。

「……ね、この街、好き?」
「あん? んー、どうだろうな。好き嫌いで選んだ訳じゃないからなぁ」
「そう、だよね……ふふ、ねぇ、いっつもそんな言い回しなの?」
「おかしいか? あ、えっと」
「レムリア。呼び捨てでいいよ。その代わり、わたしもコウインくんって呼ぶから」
「おいおい、随分と一方的な奴だな。まぁ嫌いじゃないが」
「別に、変じゃないと思う。だけどそれじゃ、女の子にはモテないんじゃないかな」
「ぐはっ」
「あははっ! いいの、だってわたしの方がお姉さんだから」
「……それは驚いた」
「ど~こ~を~見~て~る~の~か~な~?」
「そりゃマナの導きが特にあらん処を……痛っ!」
「ふーん。ま、信じてあげるよ」
「げ、現行不一致はいかんぞレムリア」
「嘘って難しいよね。自分で導いたんだから文句も言えないし」
「ちぇ。……ま、嫌いじゃないさ、この街も。とりあえず飯は旨い」
「あ、うん。……ありがと」
彼は今、物凄く正直に話している。切り換しや回転の良さも相変わらず。
そのせいか、不思議と霧が晴れてくるように軽くなっていく心。
ついからかいがちになってしまうのも、ひょっとしたら彼の計算なのだろうかとふと思う。
風に乱れかけた髪をつい押さえてしまうのはさっきと同じ。
それなのに、細めた目の先に映る湖の景色が酷くきらきらと眩しいのは気のせいだろうか。
立ち上がり、うーんと伸びを打つ背中の翳りが、落ち着かせてくれるのは錯覚だろうか。

「……あの、ね?」
「ん?」
影になったはにかむような笑顔が、どくん、と波のように押し寄せる。
奥が読み辛い。正直、マロリガンから初めて訪れ、謁見した時よりも修正が必要な位には。
「お腹、空いてない?」
「……は? あ、ああ、一応それなりに」
「じゃあ、これ。どうぞ」
ぼかん、と間抜けな程に開いた唇がそんな台詞を溢してしまう。
そして告げてしまってから、しまったと警告を発する心。気を許しすぎてはいないか、と。
お互いの立場が引く境界線を強く再確認するのは、女王としての人格。
しかし、お、そうか?と中途半端に物分りの良い仕草でひょいと取り上げられてはもう手遅れ。
宝物を覗き込む子供のように嬉しそうな顔と彼が手にしたお弁当箱を恨めしく見つめる。
それでもどこか与えられる感想を期待して高鳴るのは、レムリアとしての人格。
「……一生懸命、作ったんだから」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもない。ありがたく思いなさいよね」
「おお、勿論だ。自慢じゃないが、食への感謝は常に心がけているぞ」
「……もう」
そうじゃなくてという言葉を飲み込み、代わりに浮かべる苦笑。
まぁいいか、今はお忍びなんだし、と細かく動く彼の手元に注目する。
「……む」
「え? どうかした? 我慢しなくてもいいんだよ?」
「い、いや……待て、落ち着け。ラキオスも異世界だからな、これ位は不思議でも」
蓋を開いた所で、ぴたりと止まる彼の手。何だか難しい顔をしたまま動かない。
もしかして緊張でもしているのだろうか、柄にも無く。
しばしの沈黙。そういえば、と思い出す。たしかこの間読んだその手の大衆雑誌に。

「……ふっふ~ん。なんだ、そうならそうと早く言えばいいのに~」
「は? お、おい何を」
「やだなぁ、もう。はい、今回だけだよ?」
手元のフォークを手に取り、まだ熱を持っている赤紫色の自信作をそれに刺して差し出す。
恥ずかしがっている彼というのを初めて見たという新鮮さが、悪戯心を刺激する。
「しょうがないからお姉さんが人肌脱いであげる……あ~ん」
「げ」
「げ?」
「ああ、いや」
「なによ、早くしないと特製のタレが落ちちゃうよ?」
「い、いや、あのな」
彼は面白いほど狼狽し、じりじりと後じさる。脂汗まで判りやすくかいて。
だが、気持ちは判るが、そこまで恥ずかしがられるとこちらまで照れてしまう。
耳が熱くなってくるのを誤魔化す為にも、ここは早急な対策が必要。
「もう、だだを捏ねない」
「御仏よ、これは一体何の試練……グボッ★&%!!」
青緑の液体が零れ落ちる前に前のめりになり、何かを言いかけた口の中へと強引に放り込む。
唐突過ぎたのか、目を白黒させているが、どうやら咀嚼はしているらしい。
髭を生やした顎の動きをじっと見据え、後に続く褒め言葉に期待する。
それが大衆雑誌に書かれていた、普通のデートに相応しい行為だから。
しかし直後彼が起こした行動は、想像を遥かに超えていて。ぱたり。

「……へ? ちょ、ちょっと?」
いや、ぱたりじゃなくて。こう、白い気体が湧いてくる口元は新手の手品か何かだろうか。
揺すっても反応を示さない。うつ伏せになった背中から、どんどん失われていく体温。
「ね、ねぇ、コウインくん?」
「……ぅ゙」
「あ」
今度は、反応があった。一体何が起きたのだろうか。貧血体質とは聞いていないし。
取りあえずお弁当を避け、背中を擦りながら、一生懸命考える。何か、効果的な呼びかけは。
空を見上げると、いつの間にか雲行きの怪しくなってきた天気に何かを思い出しかける。
自分でも驚くほど冷静になっていく心。女王として帝王学で得た知識を総動員。
湖の向こうでごろごろと響く遠雷に、ああ、にわか雨かぁなどと考察しながら、ぱっと閃いた言葉。
「コウインくん! 起きないと、ハリセンだよっ!」
「う、うわわわっ! ちょ、やめっ!」
「……よかった」
ほっと安堵の溜息を付きながら左手で前髪を抑えてしまったのは、きっとレムリアの心。

「じゃあな」
「ん、ばいばい」
思いの外回復が早かったのは、やはりエトランジェだからなのだろうか。
大きな背中を見送りながら、ぼんやりとそんな事を考える。手にしたお弁当箱が少し重い。
「……ね」
「うん?」
思わず呼び止めてしまった微かな呟きにも、律儀に反応を返し、首だけをこちらに向ける。
そんな不思議そうな顔をされては、何も言えない。続く筈だった言葉をぐっと飲み込む。
「あ……ううん、なんでも。じゃあね!」
「ああ、またな」
「~~っっ」

駆け出す背中に投げかけられる、ただの挨拶。そんなささいな事にも躓きそうになる。
約束は、出来ない。彼は、代わりじゃないから。恥ずかしさで耳まで熱くなっていく。
石畳を走りながら、つい覗き込んでしまう利き腕の小指。ぽつり、と頬に冷たい感触。
「……ああ、降ってきちゃった。まいったなぁ」
ずぶ濡れになる前に帰らなくては、また小言を言われてしまう。
同じように駆け出している子供達を見かけると、いつまでも凹んでもいられない。
この大好きな街を守る、それも願いであり、約束だから。でも。
「……必然だったら、アリだよね」
偶然の運命。3度目なら、必然。そんなものを、また本気で信じたくなる。
雨宿り先に選んだ家の軒先が間深いのは必然。
だから。そこで途方に暮れているような表情を浮かべながら、手を翳し、空を見上げている姿。
特徴的なハリガネ頭にセンスの悪い羽織を背負っている姿などを、見つけてしまうのも必然。
「ね? そうだよね?」
聞こえないように小さく呟き、自分自身を納得させ、脳裏に浮かんだあの子に、今だけだからと謝る。
少しでも目立たないようにと裾を伸ばし、皺を軽くチェックしながら顔を上げるとくすんだ景色。
雨の中だから、目元が濡れていてもきっと誤解してくれる。
そんな計算をどこかでしながら、1歩、また1歩を慎重に進める。
どんな言葉で呼びかけようか、怪訝な顔をされはしないかと迷いそうな決心を叱咤しながら。

 ―――― や、偶然だね、ユートくん

必然は、運命じゃないから。