ざっ……かちゃり――――ヒュン――
夕刻。普段なら日々の訓練も終わり、それぞれが自由な時間を過ごしたり、
食事当番が買い物に出かけていたりする頃になったというのに、
今もなお、訓練所から神剣の気配が消える事は無かった。
――ちん……
「……っ。はぁ、はぁ……はぁー」
黒塗りの鞘に細身の剣を納め、暴れる息を押さえ込む。
……ざぁっ――
吹き込んだ風に、二つにまとめた長い髪が巻き上げられて揺れるが、
それが身体に絡むような不快感よりも、
頬や首筋に流れる汗が冷やされていく心地よさのほうが大きい。
目を閉じ、数度呼吸を整えた後に目の前を見据えて再び、
――いや、実際のところは何回目なのか彼女自身でも分からなくなっていたが――
姿勢を低くし、押さえつけられたばねのように身体を引き絞る。
「いやぁぁっ!」
掛け声と同時に跳び出す身体と、淡く、ぼんやりとした光を放つウイングハイロゥ。
小柄な体格に相応しい速度で一撃を繰り出して、
訓練所の気配の主、ヘリオンは元の場所で『失望』を納めた。
今日も居残りで自主練習を始めてから、結構な数の会心の振り。
いつにも増して妙に調子がいいので、規定の訓練が終わってからも感覚を忘れないように夢中になって振っている。
無意識の内に頬が緩みかけるのは、上達故か、はたまたそれを褒められる事を夢想してか。
抑えるように静かに息を吸い込み、細く細く吐き出そうとはしているものの、
どくどくと頭に響くまでになった鼓動は意思に反して肩を上下させる。
堪えきれずに、口を大きく開けて思い切り空気を取り入れては、
心臓の動きにあわせたような短い吐息を出し続けた。
「また、ちょっと、休けい……」
深呼吸を繰り返しながら、てくてくと訓練所の中を歩いて身体を落ち着けていく。
微かに流れていく風が火照りを覚える肌に触れ、快さから思わず吐息が漏れた。
「涼しくて気持ちいい……」
あごから首元へ滑り込む汗を手で拭い、襟元を摘んでパタパタと扇ぐ。
暑さはそれで収まりもしてきたが、息をするたびに何となくひゅうひゅうと掠れた感じがする。
拍動が収まるまで足を動かしてから、ヘリオンは入り口の傍の壁際に置いた濡れタオルと水筒の元へと歩み寄った。
休憩が終われば、夕飯の時間まで最後の追い込みが待っている。
調子のいい間に思い切り振り込んでおきたいと、腰に下げた『失望』を握って進んでいく。
しかし、目的の物はその場所には存在しなかった。
きょろきょろと周りを見ても、白いタオルや、水筒は影も形も無い。
「あれ? 確かこの辺りに置いてあったのに……」
普通なら目を向けただけでもわかるはずなのに、
近くに来るまで紛失に気付かないなんて、思ったよりも疲れてるのかもしれない。
もしかして、さっきから吹いている風で飛ばされてしまったのか。
でも、タオルならともかく、水筒まで飛ばされるような強風は無かったはずだけど。
まさか、置いた場所を勘違いしてるということは無いだろうか。
自分でもそれはないと思いたいけれど、いつものちょっとした失敗を考えるとありえないことはない、かもしれない。
などと思考を重ね、首をかしげながらもう一度辺りを見回す。
ちょうど入り口に背を向けるようになった時、不意に声を掛けられた。
「探し物はこちらですか」
「ひゃあっ。ど、どど、どちら様でしょうっ」
短く悲鳴を上げて振り向くと、さらさらと風に流される赤の長髪、
そしてラキオススピリット隊における赤スピリットの戦闘服の胸元が視界に入る。
確かに、声の方向は真後ろよりは上からだった。
「あ、ナナルゥ、さん?」
そこからさらに少しだけヘリオンが見上げると、やはりそこには軽く口元を結んだナナルゥの顔があった。
たった今入り口をくぐり抜けてきたという雰囲気で、先ほどの言葉が示すように、
両の手に持ったタオルと水筒をヘリオンに向かって差し出している。
タオルの色や水筒の形をじっと見て、ヘリオンはそれが自分が持ち込んだものであると確認する。
目線でナナルゥの顔をうかがうと、彼女は表情を変えないままで軽く首をかしげた。
きっと、もう一回同じことを尋ねたのだろう。
口を開くことは少なくても、それくらいの事ならここラキオススピリット隊の者には分かる。
また、ナナルゥにしてもどこと無く言葉にせずとも伝わるような雰囲気をいうものを纏うようになった。
そのことにヘリオンは心の中で微かに笑みを浮かべる。
そんな風に自分たちに大きく影響を与えてくれた、また今も与え続けている、
悠人の姿を思い浮かべかけ、心の笑みを表に現しかけたところで、色々と放ったらかしなのに気が付いた。
ナナルゥがいつの間に現れたのかとか何で訓練所に来たのかとかも
気になることは気になるけれど、何はともあれ彼女の用を済ませるほうが先だ。
「あ、それですっ。ありがとうございますっ」
ぺこりと頭を下げながら両の手を差しだして、ナナルゥの手から荷物を移す。
こくりとナナルゥが頷きながら水筒とタオルを手放した途端、
予想よりも大きな負荷がヘリオンの細腕にかかった。
「ととっ。あれ? これって、もうあんまり入ってなかったんですけど……」
慌てて、落とさないように持ち直し、水筒をちゃぽちゃぽと音が鳴るほど振りながらそう口にする。
そこでようやく、はっと気付いたように目の前で佇んでいるナナルゥを再び見上げた。
「もしかして、ナナルゥさんが?」
「先ほどからの運動量を考慮すると、十分な量では無いようでしたから」
さらに頷きを重ねながら、さらりと返答を繋げる。
何でも無いことのようにそう言葉を発したナナルゥではあったが、
聞いたヘリオンとしては何よりもまず驚きが先に来た。
先ほど思い浮かべたナナルゥへの影響、それが更に顕著に現れてくれたような、
気遣いが込められた行動。そう理解してだんだんと見開いているだけだった目に力と光が込められる。
目元をふわりと弓なりに曲げて、
「ありがとうございますっ。大切に、ええ、とっても大切にしますからっ」
ヘリオンは感極まった様子で両手に持った荷物を胸元へと抱えなおした。
その一連の表情の変化をじっと見つめるように立っていたナナルゥは、
しかし抱きしめるように持たれた水筒とタオルに視線を置き、微かに眉を寄せるように疑問の空気を纏う。
「保管するとなると水分の摂取に問題が起こるのではないでしょうか。
また、それらはもともとヘリオンの所有物のはずですが」
「え?」
極めて冷静に言葉を返され、これまでの話と自分の行動をよくよく考えてみて、
ついでにもう一度手の中の物にまじまじと目をやった。
嬉しさのあまり舞い上がってしまっていたようだけれども、
確かに今の振る舞いは奇妙といえるだろう。ナナルゥでさえも何事かと思うほどに。
もっとも、言葉に融通が利かないのはご愛嬌なのだけれど。
それでも、とヘリオンは心の中で思い直した。
ナナルゥさんが当たり前みたいにしてくれたことなら、
大げさに驚いたりするなんて失礼じゃないですか……と。
そこまで思い至ったところで、結局ナナルゥの発言に反応できていない事にようやく気がつく。
「あ、ああぁっ、そうですね、それじゃあ、遠慮なくいただきますっ」
「……? どうぞ」
軽く傾げていた首を慌ててコクコクと縦に振り、水筒の蓋に手を掛けて、
座れる場所に移動しかけたのだけれども、ナナルゥはまだその場に立ちっぱなしのままだ。
よもや、ヘリオンの休憩が終わるまでお届け物の用が終わらないと思っているのだろうか。
「あ。わたしだけ座っちゃうのも悪いですし、ナナルゥさんも休んでいきませんか?」
返ってくる反応は、少しの間詰所の方へ視線をやった後の僅かな頷き。
そして移動するヘリオンの後ろに付こうとする歩み。
一瞬の目の動きにちょっとだけ疑問が浮かんだけれど、
付いてきてくれるのなら構わないのだろうと、ヘリオンは先に進んでいった。
訓練所の入り口脇、元々タオルと水筒を置いていた場所に二人して腰を下ろす。
「ふぅ、冷たくておいしいです、生き返りますよ~」
「それは何よりです」
くぴくぴと喉を潤して、汲みたての水の冷たさにほっと息をついた後、
これまた冷えたタオルで首筋や顔を拭って落ち着いてから、
ようやくヘリオンに初めに持っていた疑問が蘇った。
「そういえば、『先ほどからの運動量』って言いましたけど、ナナルゥさんが見てたなんて全然気付きませんでしたよ?」
その上水筒とタオルを持っていって訓練所から出て行くのさえ知らなかったのだ。
剣を振ることに集中していたとはいえ、いや、むしろ集中しすぎていたせいなのか。
何にせよ注意力が足りないことには変わりない。そう反省しながらヘリオンは眉を下げ、ナナルゥを見返す。
「一体、いつからいらしてたんでしょうか?」
「凡そ前回の休憩が終了した直後からかと思われます」
「そ、そんなに前から……」
ずーん。音が出ればきっとこのような感じで、抱えた膝に顔を埋める。
いくらナナルゥの気配が薄いからと言って、流石にこれは鈍すぎるのではないかと、
小さく呻きを洩らしたところで、あれ、と顔を上げなおした。
「あの、それじゃどうして、そんなに長い間見てたんですか?
ナナルゥさんとわたしじゃ、剣の使い方も全然違うじゃないですか」
神剣での斬り結びを主とするのなら、色は違えど勉強になることは多い。
ヘリオンにしても、稽古の相手にはハリオンやヒミカがあたることもある。
しかしながら、魔法主体で戦う彼女がどうして居合いの型を見続けていたのだろう。
傾げた首に、ナナルゥはしばし視線を置いた。
見つめ返されるような圧力に、ヘリオンは一瞬身構えかけてしまうが、
微かに瞳に込められた力があるのは、これから話す言葉を考えている証拠だ。
さらに思考がまとまったというように僅かに頷くまで待つと、そこから徐に口を開く。
「戦闘の型を見ていたのではなく、ヘリオンを見ていました」
「え。わたしを、ですか?」
その一言だけでは要領を得られずに、まばたきと一緒にヘリオンは自身を指差した。
普段なら、ここから何を言おうとしたのかを読み取らないといけないのだけれど、
長く言葉を捜していた分なのか、ナナルゥの言葉には続きがあった。
「はい。剣の一振りごとに、悩みを見せ、笑みを見せ、時折幸いを得たように息をつくあなたを」
「ふぇ……えぇー!?」
音だけを聞いて一度呆けかけ、次いで一気に頬に血を巡らせる。
自分では抑えていたつもりだった、妄想に近いものを思い浮かべた時の表情までも見られていたとは。
思わず腰を浮かせかけているヘリオンに対して、まだ喋る内容は終わっていないとばかりにナナルゥは続ける。
「一時に多彩に変化する感情の表れを見ていました」
言葉と共に、今もなお赤くなったり青くなったりするヘリオンの顔を余すことなく見つめながら、
「あなたの表情が、私の中にも不確かな動揺を引き起こすのです。
この揺れが何なのだろうと思考する間に、時間を取ってしまったようです」
珍しいほどに長い発言をそう締め括った。
内容が頭に入ってくるに連れて、あわわと恥ずかしさや驚きに占められていた
ヘリオンの思考が落ち着きを取り戻していく。
ころころと変わる表情や振る舞いを、ハリオンやヒミカが微笑ましげに眺めていたり、
時にネリーやシアーと一緒になってからかい混じりに弄ってくるのとは全く違う見方で捉えられたことは、
ナナルゥにとっての意味がどのようなものになるのかと、改めて思いが廻っていく。
よく言われる『ヘリオンは、わかりやすい』という彼女たちの言葉には、
どうしてもからかう意味合いが強く出ていたのだけれど、それだけではないような気もしてくるのだ。
じわりと胸に沁みるような温かみを感じているその様子をも、
しっかと目に焼き付けているナナルゥに目を向けると、不意に口元に手をあてかけていた。
「けふ」
「だ、大丈夫ですか、ナナルゥさんっ」
ナナルゥから掠れた喉の音が洩れたのを聞きつけて、慌ててヘリオンは水を差し出す。
「ありがとうございます」
やや震えた声色で受け取り、ゆっくりと飲み下していく。
普段無口だとすぐに声がかれるって本当だったんだ……
と、微かに汗を浮かべつつも、返された水筒を受け取るために手を伸ばす。
「この水筒と、タオルも」
「はい?」
手渡される時に、もう一続きあるような間を持たせてナナルゥが口を開いた。
「いつもはヘリオンがしていることですから。
時に、幸いの表情と共にある行為でしたので、私にも何か得られることがあるかと思いました」
改めて指摘されると、自覚していながらも、ぽうっと頬に朱がさしていくのが止まらない。
多分、いやきっと、ヘリオンがそうなる理由は悠人が絡む時のはずだ。
もしかしたら、ヘリオンのしたことをただ真似ただけになってしまうのではないだろうか。
「それは……わたしの時が特別なだけかもしれませんよぅ」
けれど、ナナルゥの差し出した物を受け取った時に感じた喜びは隠していない。
思わず驚いてしまったのはやはり悪いことをしたな、と思いながらも、
「でもそれなら、ナナルゥさんにも、何か、ありましたか」
もしも、見ているだけで心が揺さぶられたというならば、
さらに一歩進んだようなものがあればと、促すようにそう尋ねた。
「物を渡す行為自体には幸いを受ける作用はありませんでした」
呟いた一言とは裏腹に、ヘリオンを見つめ返す目には、
意義を見出したと伝えるように小さな光が宿っているようだった。
その証拠に、さらに息を継いだ後、ナナルゥの纏う空気が柔らかく変化するのをヘリオンは感じ取る。
心配は杞憂だったらしいと、ほっと緊張が解けた。
「ですが。その相手がヘリオンであることに温かさを覚え、
また、ヘリオンが受け取り、笑みと共に礼を述べたときには、
私も……そう、お返しをされたような心境を得たと思われます」
続けられた言葉と、ナナルゥの醸し出した緩やかな雰囲気に包まれたように、
ぱあっとヘリオンの顔にも満面の笑顔が表れる。
「それなら。ええ、きっと大丈夫ですっ」
「……はい」
温もりの空気をお互いに交換し合うかのように、
ナナルゥもまたその笑顔から、胸の奥に生まれたものを確かめるように頷いた。
「ふぅ、そろそろ休憩も終わりにしないと」
ひとしきり和みあったところで、名残惜しさは感じながらもヘリオンが立ち上がる。
「ナナルゥさん、ありがとうございました。わたしはもうちょっとだけ練習してから帰ります」
夕飯前に汗を流すことも考えると、後1セットくらいは打ち込めるだろうか。
と、残りの回数を思い浮かべたところでふと思う。
休憩の前は、何故かまだまだ続けるつもりだったんじゃなかったか。
頭の周りに疑問符を浮かべつつ『失望』を手に取り、訓練所の奥に足を向けたところで、
最初のように背後からナナルゥの声がかけられた。
「お待ちください。休憩をとられたということは、自主訓練に一段落ついたのでしょう」
「え、ええ、まぁそうですけど」
さっと振り返って小首を傾げる。他に何か用事があったんだろうか。
見ている前で、つい、とナナルゥは再び視線を詰所の方角へと動かした。
「ヒミカとハリオンが、訓練に区切りがついたらヘリオンを呼んで来て欲しいと。
夕飯の手伝いをする約束があるとのことでした」
へ? と洩れた声に続いて、だんだんとヘリオンの目と口が大きく開かれていく。
「ああぁぁあーーーっ! わ、忘れてましたぁーーーっ!」
素振りの調子が良くて根を詰めるあまりにすっかり頭から抜け落ちてしまっていたらしい。
「あ、あの、お二人は今どこにいらっしゃるんでしょうかっ?」
「言伝の後に買い物へ。今日は料理を手伝って貰えれば構わないそうです」
つまりは、元々買い物も一緒に行くはずだったのだろう。
見る見るうちにヘリオンの顔に冷や汗が流れて、顔色も青白く変わっていく。
「あわわわわ……もうそろそろ帰ってこられる時間じゃないんですかぁ……」
汗を流して、服を着替えて、今から全速力で用意してもぎりぎり間に合うかどうかだ。
ナナルゥを休憩に誘ったのは確かに自分なのだけれど、
「もうちょっと、早く言って下さってもいいじゃないですかぁ~」
ついつい涙目になりながらも八つ当たりっぽく言ってしまう。
「休息は大切です」
「そりゃぁ確かにそうですけど……」
水筒とタオルを拾って、帰り支度を手早く済ませてしまう。
「それじゃあ、晩ご飯のお手伝い、頑張ってきますねっ」
「はい」
わたわたと外へ向かうヘリオンと、入り口に立っているナナルゥが、もう一度向かい合った。
幾度目かのナナルゥのじっと見つめる目線に気付き、ふと足を止める。
「どうしました?」
「いえ。皆の言い方をするなら、これでこそヘリオンだ、と」
「な、何ですかそれっ。確かにうっかりしてましたし、
いつもそうなのかもしれませんけど。ナナルゥさん、いじわるですよぅ~」
ぷぅ、と軽く頬を膨らませながら、詰所へ向かって駆け足を準備。
今にもウイングハイロゥまでを羽ばたかせて飛び出していきそうな背中に、ゆっくりとした声が届く。
「素振りの最中に漏れ出た表情よりも、
先ほどの笑顔も、今の様子も、より強く私の中に訴えるものがありますから」
ヘリオンの周りに、後押しをするようにふわりと舞い上がる風が起きる。
煌めきを放ちながら顕れたウイングハイロゥは、
訓練時とは比べ物にならないほどに輝きの白さを増している。
照れたように熱くなった身体を感じながら、最後にヘリオンは振り返った。
「もう……晩ご飯、期待しててくださいねっ」
えへへと笑って、号砲が鳴ったかのように勢いよく脚を跳ねさせる。
その軽やかな動きからは、ナナルゥが最初に声をかけ、
会話を始めるまでに存在した、『剣を振ること』以外への僅かな反応のズレや、散漫さが、
ヘリオンが気付かないままにすっかり鳴りを潜めていた。
それを見届け終わったというように、ナナルゥはゆっくりと後を追うように詰所へと戻るのだった。