目安箱

「うーん今日も気持ち良い小春日和だなぁ」
なんとなく手持ち無沙汰な休日の昼下がり。
話し相手を探して第一詰所を徘徊してみたが、こういった時に限って誰も居ない。
そんな訳で、退屈凌ぎに、たまには第二詰所に遊びにでも行ってみるかと思い立った。
城の脇の小道を抜け、小さな森の中を歩く。深呼吸をしてみると、ほんのり青臭い空気が清々しい。
そうして大自然のアロマを満喫していると、いつも通りに近づいてくる見慣れた建物。
やや古臭くはなってきているが、こざっぱりと手入れの行き届いた入り口にはヨト語のプレートまである。
一応外来用にと準備されているらしいが、それが役に立つ機会は果たしてくるものなのだろうか。
ノックをしても返事が無いので勝手にノブを捻る。これまでにも何度かこういう事があったのであまり気にならない。
そもそも応接間と玄関の間が離れすぎているにも拘らず、チャイムのようなものが一切無いのは軍施設としてどうなのかと思うその程度。
中に入って大声で呼べばきっと誰かが顔を出すだろうと、そんな軽い気持ちで扉を開く。

どささささささっっ

「うおっ!」
完全に油断をしていた、というかプレートなんかについて変な考察を行っていたせいというか前をよく見ていなかったというか。
とにかく俺は次の瞬間、玄関口一杯に溢れ出して来た白い何かの濁流に、あっという間に押し流されてしまっていた。
『気をつけろ、契約者よ』
(遅えよ、バカ剣!)
などと『求め』と心の中で口喧嘩をしている間にも、その白い何かは俺を飲み込もうとする勢いを殺さない。
放って置くと頭まで埋もれ、呼吸に障害を引き起こしそうになってきたので慌てて両手をばたつかせる。
しかしまるで水流に逆らうクロールのように、悲しいほど効果が無い。くしゃっという手触り。
「がぼがぼが……え? 紙?」
「わっ、ユ、ユート様! どうしてこちらに?! 大丈夫ですか?!」

「ぶはっ! その声はヒミカか? こっちは無事だけど何だこれ、一体どうして?!」
上流から、声だけが届く。俺はとりあえず息継ぎのようなものを敢行しながら、大声で返していた。
どうでもいいが、まるで戦場みたいなやり取りではある。ええと、俺は今どこにいるんだっけ。
「……楽しそうですね」
すると更に上流からもう一人、やたらと冷静な声。
こちらは姿など確認しなくても誰だかすぐ判る。その主は言うまでも無く第二詰所筆頭クーリッシュ。
「これが楽しんでいるように見ぼもがば!」
「ちょっとセリア! すみません、すぐに片付けようとしていたのですけど」
うっかり大口開けての反論は、もさもさとした食感。
慌てたヒミカが大急ぎで換気口を開拓してくれたから良かったものの、なんだかヤギになったような気分だ。
そしてそうこうしているうちにようやく流れも大人しくなり、やっと周囲を見渡す余裕が出てくる。
体中にへばりついているハガキ位の紙を順に払い落としながら立ち上がると、髪の毛にも若干挟まっていた。
クリップボードのようになってしまった俺を見てヒミカがぷっと小さく噴き出す。
背中を向けて微妙に隠したつもりかもしれないが、これには正直少し凹んだ。いや、確かにクセだらけだけどさ。
「やれやれ……ん? なんだ、これ」
ふと見ると、すぐ側に何だか黒くてすらっとした曲線を描く物体が2本林立して、ゆらゆらと揺れている。
後で思い返してみればその時点でもちょっと考えるだけで単純な予想位は出来ていた筈なのだが、
その時はバタバタした状況の中で精神的にニュートラルだったせいもあり、俺は反射でその内の1本を掴んでしまっていた。
柔らかい。引っ張り上げてみる。

「……あ」
「……あ」
逆さまになったファーレーンと目が合う。
いや、正確には目は合わなかった。視線の先が微妙にすれ違っていたからだ。
何故か兜レスな彼女はいつもの赤面症に加え、このあまりな状況が
耐えられる羞恥の臨界をとっくに突破している為に俺をまともに見なかったし、
俺は俺で目線は掴んでしまった彼女の踝からごく自然に黒いニーソックスを伝い、
しっとりと艶のある眩しい国境線を越え、その先で辿り着いた純白の秘境に釘付け状態だった。
だから普段から、戦闘用にしてはラキオスのユニフォームはスカートの丈が短かすぎるんじゃないかと小一時間。
「い……いやああああああっ!!!」
「この変態!」
「いや、誤解だっぶべらばっ!」
そして定番というか、我に返ったファーレーンの『月光』と問答無用なセリアの『熱病』は、
相変わらず冴え渡る切れ味を思う存分発揮して見せてくれた。

「すみません、私がもっと早くセリアを止めていれば」
「あたた……いや、いいよ。悪いのは確かに俺なんだからさ」
「ですが、その」
「それに、ああなったら……止められないだろ?」
「あ、は、はい。すみません」
小声で答えると、ヒミカは最後に気まずそうに頷いた。
当のセリアはぷんすかとまだ膨れっ面でハーブを飲んでいる。
すらっと綺麗な脚線美を描く青いニーソックスに覆われた肢を優雅に組み、何だか難しそうな顔で拾い上げた紙を一瞥し、
そして次の瞬間には軽度のアイスバニッシャーでそれを氷漬けにし、足元に落とすという動作を繰り返していた。
その度にごろん、ごろんと鈍い音が床に響き、たまに俺の側まで転がってくる。一連の挙動が意味不明すぎて怖い。

「ええっと……痛くないですか?」
「え? あ、ああ、悪いな、手当てまでしてもらって」
「いいえ、そんな」
応急処置で包帯を巻いて貰っているが、実は無数の引っかき傷の方があちこち痛痒い。
一生懸命細い布と格闘しているヒミカの顔を至近距離でじっと見つめているのも何だか失礼な気がして、応接間を改めて見渡す。
そこは、うず高く積み上げられた紙束で埋め尽くされていた。天井まで届きそうなのが部屋の中央に3つ。その他に小山が5つ位。
ちなみにファーレーンは器用にもその内の最高峰にかまくらのような穴を掘り、そこに背中を向けて蹲っている。
反省しているのか落ち込んでいるのか、怒涛の5連平謝り撃を放った後は、黙って巣に引き篭もってしまった。暗いので落ち着くのかも知れない。
そして彼女とは背中合わせの格好で、『曙光』を抱えたニムントールが紙を拾い上げ、つまらなそうにそれを眺めている。
ふと目が合うとがるるる、と唸ってきてまるで番犬のようだったので、これ以上刺激しないようにと目を逸らした。
「本当はハリオンがいればより効果的なのですが」
「いきなり背後から首筋に吐息を吹きかけるなって何度も言ってるだろ」
「……ルゥ」
「だから、近い。近いよナナルゥ」
赤い長髪から漂ってくる良い匂いが妙な刺激になる前に、強引に両手で押しのける。
手を伸ばす瞬間に身を逸らし、胸へと誘導しようとするのは新手のトラップか、それとも単に構って欲しいのだろうか。
いずれにせよ、肩を押して遠ざける時、一瞬悔しそうな表情を見せるのはいつか何とか改善させなければならない。
無表情のままようやく感心が失せたかのように手元の紙へと視線を落とすナナルゥに警戒を保ちつつ、ヒミカに本題を問いかける。
「で、これはなんなんだ?」
そこら辺に散らばっている、この騒ぎの元凶である紙切れの一枚を摘みあげながら。

ヒミカの説明を総括すると、つまりはこういう訳で。
元々小国にすぎなかったラキオスは唐突な人口膨張の為官僚機構の方が追いつかず、現状市民レベルでの声が王室まで届き難い。
そこで女王レスティーナが案じた一計が、目安箱。旧マロリガンまで全国2万箇所に、郵便ポストのようなものを設置したらしい。
国政に関しての如何なる苦情や質問にも応じるという触れ出しは国民にいたく好評で、大量の書類があっという間に投函された。
そしてその書式がこのハガキサイズの紙であり、第1回目の回収がつい先日行われ、内容によって分類されたのが昨日の事。
しかし、そこでトラブルが発生した。というのも、それらは項目毎に処理可能な部署へと分配される予定だったのだが。
「……なんだこりゃ。"スピリット隊の皆さんへ。今、付き合っている人はいますか?"」
試しに一枚を取ってみると、この文面。
他も"好きな食べ物はなんですか?"とか"普段は何をしていますか?"等と、どれを取っても
まるでどこぞのラジオ放送局に送られてきたリクエストハガキみたいな内容ばかりが綴られている。
酷いのになるとどこで調べてきたのか名指しのものもあり、どれもこれもスピリットのプライベートに関する質問。
また足元でごろん、と音がしたので試しに手にとってみると、氷の曲面で曇っていて読み辛かったが、
辛抱強く解読すると、"セリアタンのスリーサイズが知りたいお"と妙に丸っこい文字で書かれてあった。
「……なんですか」
「いや」
なるほど。玄関で会ってからずっと不貞腐れていた理由がようやく理解出来た。
と同時に不安にもなってくる。どれだけ頭の悪い、もとい能天気な国民が多いんだ。
レスティーナの尽力で人とスピリットの垣根は大分取り払われていたような気がしていたが、これでは取り払われすぎだろう。
っていうか、民意が低すぎて泣けてくる。国政、関係ないし。ファンレターの山を指差しながら、ヒミカに訊ねてみる。

「なぁ、ちなみにこれって、全投書の何割位なんだ?」
「……レスティーナ様は大変ご満足の御様子でした。"誰一人、国政については文句がないんだねっ"とまるで子供のように」
「……」
つまり、これが全部ってことか。そりゃレスティーナも思わず地が出かけるってもんだ。
良い方へ取れば彼女の施策に不満のある者はこの広い国土に皆無という理屈だが、そこまで有り得ない確率を信じられる訳も無い。
折角のマニフェストを台無しにされ、半分やけっぱちになりつつここへ全部押し付けるようにと指示を出す姿が目に浮かぶ。
そして実際、八つ当たりのように第2詰所の面々はそれぞれ宛てのハガキについて全部目を通すようにと命令を受けているらしい。
何故か巧妙に仕組まれた軍当局筋からの正式令状付きで。曰く、反する者は問答無用で神剣解放だとか。恐ろしい。
「それにしても、また面倒なことになったもんだなぁ。これだけあると大変だろ?」
「作戦開始は今朝からですが、進捗は現在2%程度。順当にいけば大体1ヶ月で原隊復帰が可能です」
「作戦? え、1ヶ月もかかるの?」
「ただし全員の精神力がこのままもてば、ですが」
「……頑張ってくれ。ところであのさ。その間、サーギオスはどうするんだ?」
「幸いユート様に関する投稿は一切ございませんので」
「あ、そ」
なるほどね。作戦とはよく言ったものだ。その間は俺1人で防げと。
ちなみに会話の相手はセリアなので、当然否定は一切許されない。
足元に転がっている氷塊のお仲間に加わりたいというのなら話は別だが。

俺はこれ以上彼女の逆鱗に触れないようにと、そっとその場を離れ、部屋の奥にある小山に向かった。
その一角は2面を壁に阻まれた形で斜面がスキー場のように扇型に広がっている。
積み上げられたハガキが裾野を形成し、丁度ファミリーゲレンデのように緩やかな勾配の所で、ネリーが寝そべっていた。
うつ伏せになり、足をぷらぷらと浮かせ、頬杖を付きながら目の前の地面、もといハガキに目を通している。
元々退屈しきっていたのか飽きていたのか、俺が近づくとぱっと顔を上げ、満面の笑顔になった。
「あっ、ユートさま! いつ来たの?」
「ああ、ついさっき。話は聞いたよ、大変だな」
「うん、もー、つまんないよ。何だか難しくてよくわかんないのに、"返事を書かなくちゃいけませんー"って」
「ぷっ。おいおい、殺されても知らないぞ」
微妙に似ていないセリアの物真似をしてみせるネリーに思わず噴き出しそうになったが、全理性を総動員して小声で嗜める。
向こうで聞こえてもいない筈のセリアがじろりと睨み、青いマナ炎を背負って威嚇しているのが視界の片隅に入ってしまったからだ。
巻き添えを食うのはごめんだった。流石に防衛本能が働いたのか、同じように気配を悟ったらしいネリーが顔を寄せ、小さく舌を出す。
「ごめんねユートさま。でもネリー、ホントに退屈してたんだぁ。あ、ねぇねぇ、これは何て読むの?」
「……いや、異世界民の俺に聞くなよ。ここだけの話だけどな、エスペリアの授業も退屈でさ、実は半分寝てたんだ」
「あ、やっぱりユートさまも? そうだよね、文字なんか読めなくてもくーるになれるよね?」
「いや、それはどうかわからないけど。っていうかそこまで読めない訳じゃないぞ。どれどれ?」
「ん? ん?」
「えっと"いつも見てますポニーテールのお姉さま。是非一度叱って下さい"……あー、セリア宛てかな、これ」
「えー、なんだぁ。そっか髪型似てるしね。んー、でも、何で叱られたいの?」
「そこはあまり深く考えない方がいいような気がするぞ。そういやシアーはどうした?」

だんだん小声になっていくのは何故なんだろう、そんな事をふと思いながら訊ねてみる。
いつも一緒なのに見当たらないのでさっきから気になっていた。それに話題を逸らす必要も何となく感じてきた所だし。
するとネリーは簡単に乗り、少しばつの悪そうに苦笑いをし、親指を口元で立てながら耳元で囁いてきた。
どうでもいいが、少し生暖かい吐息のようなものが零れてきてくすぐったい。
「お、おい」
「しー。ほら、そこ」
「ん?」
「zzzz……寒いの……」
隣の山の中腹辺りで首から下をハガキに埋もれさせ、良く判らない寝言を呟きながら涎をくっているシアーがいた。
頭の上で丁度バランスを取るように大振りな『孤独』がゆらゆらと揺れ、崩落を防いでいる。見事な免震構造だった。

もーすこし遊んでよぅ、と引き止めるネリーに今度な、とお約束の断りを入れ、その場を離れる。
難しい顔をしたヒミカが背後から近づいて来ているのがどうやらネリーには感知出来なかったようだ。健闘を祈る。
「よ、ヘリオン」
シアーの山を抜けた所に一際大きな山脈が連なり、その頂上付近で見慣れた黒いお下げが二本揺れていたので声をかける。
すると夢中になっていたのか、驚いたお下げが二本ともぴん、と逆立ち、上体が揺らいだ。
バランスを崩し、両手をばたばたと仰ぎながら振り向く顔が百面相なのが、相変わらずヘリオンだなとかなんとか。
「あ、あわわわっ、っとと、えっとぉ……あ、あああ! ユートさま!」
「落ち着け、危ないぞ……よっと」
「ふぇ? ふえぇぇぇ?!」
とりあえずそのままだと背中からこちらへ倒れてくるヘリオンに誘発されて生じる雪崩に巻き込まれそうだったので、
山の中腹あたりに咄嗟に片足を上げ、両脇に腕を入れてひょいと持ち上げてやる。小柄なので予想通りに軽い。
しかし何故だかくすぐったそうに身じろぎしたり時折ぴくんぴくんと背中を仰け反らせるので、結構支え辛い。

「おっと、だから暴れるなって。危ないだろ」
「えっ、えっ、だってその私って一体その今、な、あ、そ、ふあんっ」
指先に力を篭め、これ以上バランスを崩さないようにとしっかり後ろから抱きしめる。
するとしどろもどろに答えるヘリオンは挙動不審を通り越して増々パニック状態というか顔中が茹蛸になっていく。
振り回しているお下げの間から見える瞳はすっかり涙目で、ふるふると悶え、何かを訴え続けているようだった。
「いや、非常事態なんだからそこまで恥ずかしがることないだろ? そんな顔されたら俺まで照れちまうじゃないか」
「あんっ、あうんっ、あっ、ユ、ユートふぁまぁ、その、あっ、らめぇ、らめれすぅぅ」
「……あ」
そこで俺は、ようやく気がついた。
咄嗟に差し入れた両手の指先が、女の子特有の柔らかいものをぐにぐにと鷲掴みにしてしまっていた事に。
本来、もっと早く気づかなければならなかったのだ。あまりに小さすぎて判らなかった。
いや、あまりに小さかったからこそ両掌にすっぽり収まってしまったというか。
しかも暴れていると勘違いして、それを抑えこもうと先端のしこりを、こう、ぐにぐにと押し潰してたり。
とか考えているうちにも黒いニーソックスに覆われた肢が伸びきり、爪先もぴくんぴくんと痙攣し始めている。
っていうか、冷静に堪能もとい解説している場合じゃない。これじゃまるでセクハラみたいじゃないか。
「うわわわわっ! ごめんっ!」
「はぁっ、はぁっ、はふぅ……は?」
「え?……うわっ」
冷静に堪能もとい解説している方が良かったのかも知れない。
手を離した瞬間、俺たち二人はバランスを崩し、表層雪崩に巻き込まれ、あっという間に遭難していた。
懸命の救助活動により発掘された時、引き摺り出してくれたネリーの一言、
「ねーねーユートさま、これってぱわはらっていうんだよねっ」
は嫌に酷く心に響くパワーストライクだった。

「……で、これがヘリオンの山か」
「そうなんですよぅ、こんなの読みきれません~」
「そうだよなぁ」
一段落して改めて見渡してみると、ヘリオン宛ての投書は実に全体の1/4程を占めている。
もしファン投票でもあったらダントツの1位になるだろう。しかし当のヘリオンはただぐったりとしている。
生真面目にきちんと一枚々々目を通しているので他のメンバーよりもより一層進捗の遅れに拍車がかかっていた。
「ふぅー……よい、しょっと」
「手伝ってあげたいけど、俺が目を通しても意味が無いしな」
「そ、そんなことありません! よろしくお願いします!」
「え? 俺が読んでもいいのか? 適当に返事するしかないぞ?」
「あ、い、いえ、そっちじゃなくて、その……あのですね」
「ん?」
「色々と専門用語が難しくて……そっち方面に私、疎いんですよね」
「そっち方面?」
「で、ですのでっ。ユートさまにご指導頂けたらとっ」
「へ? いや、構わないけど。そっち方面って何?」
「はいっ! うーんと例えばですね……あ、これこれ。ユートさま、"モエ"ってなんですか?」
「モエ? って、燃え? 火とかが燃える」
「うーんやっぱりそうなりますよねぇ……」
「他に何かあるかな……ええと、一体何て書いてあるんだ? もし差し支えなければ、だけど」
そこは一応プライベートな部分でもあるので遠慮気味に聞いてみる。
するとヘリオンは首を傾げながら口の中で一度もにょもにょと小さく呟き、
「え? 何? 良く聞こえなかった」
「ですからその……"ちっちゃい所もドジな所も平坦な胸も全部モエ。これからもこのままでいて下さい"」
そして改めて言い直した。
「……」
「……」
何だかどんよりとした空気が両肩に圧し掛かってきたような気がする。
ヘリオンはヘリオンで、自分で読み上げておいて、上目遣いの瞳が潤んでいた。
言ってて凹んできたらしい。そんなに凹むなら無理して言わなきゃ良いのに。

「……あのさ、気を落と」
「ユートさまぁ、私ってそんなにちっちゃいですかぁ? ドジですかぁ? む、胸、平坦ですかぁ?」
「少なくともドジのせいで雪崩に巻き込まれたし抱えた時はちっちゃかったし胸は掴んだ掌にすっぽり収まった」
「うわっナナルゥ、だから突然現れて俺の本心を代弁するな!……あ」
「うわあぁぁぁん!」
「ちなみに萌えとはハイペリア語で特殊な趣向を好意的に判断する際に使われる表現です」
「……なんでそんなに詳しいんだお前は」
あっけに取られ、泣き去るヘリオンを追いかける事もつい忘れ、隣で淡々と語る姿に呆れる。
ナナルゥの表情はなんとなく楽しそうだ。が、一体何がそんなに楽しいのかは、どうしても聞けなかった。
それにしても恐るべしファンタズマゴリア。そんな輸入言語がもう市民レベルで浸透しているのか。
「それで、返事はどう致しますか」
「返事? いや、ヘリオンが帰ってくるまではどうしようもないだろう。帰ってきてもどうにもならない気もするけど」
「突然覆いかぶさって来た大きな影にヘリオンは抵抗出来ない、いや、しない、そのままユートは花園への切符を萌えトライ」
「勝手に返事を書き込むなよ。使い方間違ってるし。っていうかなにその微妙な官能小説。俺が主人公かよ」
同時に複数へと突っ込み返す。すると酷く残念そうな顔をされてしまった。どうしろと。
「いけませんか?」
「いいわけがあるか」
「……燃やしますか?」
「やめてくれ」
疲れる。なぜか、酷く疲れる。
特に、油断するとすぐに胸元を逸らし、押し付けてくるような話し方が疲れる。だがそれが萌え。……いかん、毒されてる。

「ただいま戻りましたぁ~」
「おっ、やっと帰ってきたか」
そんなこんなで夕方。
なんとなく帰りづらかったので皆の山の整理を手伝っていると、玄関の方から間延びした声が聞こえてくる。
丁度彼女の山だけが放置状態で片付かなかったので、助かったとばかりに迎えに行った。
「おかえり、ハリオン」
「あらあらただいまですう~。いらっしゃいませぇ、ユート様ぁ」
「ああ、持つよ。重かっただろ?」
「ん~、そうですかぁ?」
ハリオンが買出しに出かけていたのは知っていたので、両手に抱えていた袋包みに手を伸ばす。
嬉しそうに差し出してきたそれを受け取ると、やはりずしりと重い。中を覗くと、果物や野菜類で一杯だった。
「んふふ~。よしよし~」
「いや、頭は撫でなくていいから」
少し背伸びをし、上目遣いで覗き込むように頭を撫でられるとまんざらでも無いが、気が散ってしょうがない。
その、伸ばした腕の奥で視線を直撃してくる豊満な揺れとかが至近距離に迫っていて。
そのくせ、ええ~と残念そうな顔で手を離されると惜しい事をしたなとか思ってしまうのは悲しい男の性というか。
「ちゅ、厨房でいいか?」
「はいぃ、お願いしますぅ」
「いや、すぐ隣にくっつかなくていいから」
「ん~。でもぉ、いざという時にはすぐに支えられますしぃ」
「いや、だから当たってる、当たってるんだってば!」
ぴったりと寄り添われると、まんざらでも無いが、気が散ってしょうがない。
その、誇張された体温の温もりとか匂いとか豊満な揺れとかがダイレクトに接触してきて。
そのくせ、そうですかぁ~と残念そうな顔で離れられると少し寂しく感じてしまうのは悲しい男の性というか。
「……俺、絶対からかわれているよな」
「えぇ~、何か、言いましたかぁ~?」
「いや、なにも!」
耳元でわざと息を吹きかけてくる仕草にびくっとなりながら、心のどこかで確信を持っていた。

そろそろ夕食時、という所で俺は決心し、立ち上がった。
周囲を見渡してみても、あまり片付いたようには見えない。
相変わらず山は聳え立っているし、暗くなってきた為にマナ灯がつけられているおかげで
オレンジ色に照らされたハガキや壁に投影された巨大な影がゆらゆら揺れている様が不気味だし、
時間と共に無口になっていくスピリット達の延々と続く作業に対しての倦怠感が部屋全体に滲み出てくるようで、
言いようの無いプレッシャーみたいなものが自然と声を抑えたものにさせていた。
「それじゃ、俺、そろそろ戻るよ」
「……」
「……」
誰からも、返事が返って来ない。
代わりに力無く持ち上げられ、ひらひらと振られた手は一体誰のものだったのか、それすらも逆光で上手く判らなかった。
きっとみんな、集中しているか、もしくは力尽きてしまったのだろうと勝手に解釈し、部屋を出る。勿論、足音を忍ばせて。
別に悪いことをしているつもりは無いし、夕食時にちゃんと席についていないとエスペリアに怒られるという
まるで子供みたいな理由も一応はあるのだが、この状況を見捨てるという事実は事実なので、なんとなく後ろめたい。
玄関を出て、外の冷たい空気を吸い込んだ時には生き返る思いがした。許されるなら、星に向かって叫んでいただろう。
開放感を味わいながら、第一詰所へと帰る。今日の晩飯は何かな、などと考えつつ、ドアのノブを捻った。

どささささささっっ

「うおっ」
デジャビュー。その瞬間、俺はその言葉の意味を生まれて初めて正確に味わう事となった。

「……で、これがアセリアの山、あれがわたくし、続いてウルカ、オルファ、となっています」
「まぁ、薄々おかしいな、とは思ってたんだ。向こうに一枚も見当たらなかったし」
「はい?」
「いや。それよりさ、いつ届いたんだこれ」
「え、ええ、そうですね。わたくしが買い物から帰ってきた頃ですから……アセリア?」
「ん。2時位」
「ええ、手前が訓練から戻ったのも同じ位ですので、丁度その頃かと」
「なるほど、すれ違ったのか。悪いことしたな、手伝えなくて」
「あ、いいえそんな。……おかげでユート様宛ては全て処分」
「え、何か言ったか?」
「いいええ」
「?」
ハガキの嵐から颯爽と俺を救ってくれたのは、アセリアだった。
まるで予想していたかのように素早い動きだったので、助かった後に訊ねてみたら"ん、匂いがした"と
当然のように答えられ、駆け寄ってきたエスペリアとウルカにジト目で睨まれてしまったが。
その後紙を掻き分け、途中で知恵熱を出し目を回していたオルファリルをサルベージし、応接間まで辿り着いていた。
「ところで念のためだけどさ、俺の分は」
「ご安心を、あ り ま せ ん」
「あ、ああそうか」
「ユート、顔色悪い」
そりゃ、悪くもなる。覚えがないのに、にこやかに眉間に「♯」などつけられては。
隣でオルファリルが服の裾をつんつんやってきたので膝を屈み、耳を近づける。
「あのね、パパ。オルファのせいじゃないよう。エスペリアお姉ちゃんが焼いてもいいっていうから」

「は? なんの話だ?」
「う、ううん! あはは、わっかんないならいいんだぁ」
「いや、全然見えないんだけど。ああ、それにしても腹減ったなぁ。エスペリア、とりあえず腹ごしらえしないか?」
「申し訳ありませんユート様。実は厨房も投書で一杯でして」
「ごめんね~パパ。あれじゃ流石に作れなかったよ~」
「え、そうなの?」
エスペリアがすまなそうにぺこり、と頭を下げ、頭の後ろで腕を組んだオルファリルが苦笑いをする。
念の為覗き込んでみた厨房は、何故か大鍋の中やまな板の上にまで投書が放り込まれたり千切りにされていたり。
……千切り? いや、なんだか良く判らないけど深く考えないようにしよう。氷漬けにされてしまったものもある位だし。
しかしそうか、無いのか。ぐぅ。改めて告げられるとよけいに腹が空いて来てしまう。
だが、本当に申し訳なさそうなエスペリアを見ていると、とても無理は言えない。大変なのは彼女達の方なのだから。
「そうだぞ悠人、エトランジェだのなんだのいっても俺達は所詮居候の身。3杯目はそっと出すもんだ」
「いきなり後ろに立つな光陰、勝手に心の中を読むな、後、喩えが微妙に違う」
「ふむ、こうするとお前が喜ぶとナナルゥが言ったんだ、口に出ていたぞ、とりあえず遠慮しておけ」
「え、嘘だろ?」
「どれがだ?」
「いや、口に出ての辺り。ナナルゥは別に今更だし」
「そうだな、さっきから真っ赤になりながら俯いてそんな事はございませんとか呟いてるエスペリアで察するのはどうだ」
「……状況説明ありがとう。で、何の用だ第一詰所に」
「よく聞いてくれた。実はこれなんだが」

「……え? まさか」
俺は愕然とした。突然現れた光陰は、両手に一杯例の投書を抱え込んでいる。何故か勝ち誇った態度で。
いや、別に投書なんてどうでも良かったのだが、見せびらかされてしまうとどういう訳か悔しくなってくる。
無駄に爽やかな笑顔が癇に障り、思わず『求め』に精神を委ねてしまいそうになった。
俺の表情に満足したのか殊更迷惑そうに首を振る姿がまたちくちくと感情を逆なでしていく。
「いやーまいったぜ。"これがコウイン様の分です"とか渡されたんだが重たいのなんの」
「……これ、本当に全部お前宛なのか?」
「なんだ、疑ってるのか? お前だって貰ったんだろ?」
「くっ……」
「ユート、欲しかったのか?」
「いや、全 然」
じっと見ていたアセリアが不思議そうに口を挟む。俺は全力で否定した。
何故かエスペリアとオルファリルが後ろめたそうに視線を逸らし、ウルカが微妙に睨んでいた。

「ああ、それでだ悠人」
場が一瞬気まずくなったのを誤魔化すかのように光陰が明るく言い放つ。
「単刀直入に言うとだな、俺はこっちの文字が読めん。だから翻訳を頼む」
「知るか!……って翻訳? お前読めなかったのか?」
「うむ、マロリガンじゃそれどころじゃなかったからな。書類は全部クォーリンにまかせっきりだった」
「なるほど、そう言えばそうか。でもさ、ならそれこそクォーリンに頼めば良かったじゃないか」
「いやまあそうなんだが、珍しく"知りません"とか拗ねてそっぽを向かれちまってな。ありゃ反抗期か?」
「……いや、聞いた俺が悪かった。相変わらず不憫な」
「不憫? 俺がか? そうでもないぜ?」
「ああ、いいんだ聞かなかったことにしてくれ。じゃあ、今日子とか」
「悠人よ、そんな恐ろしい仮定を俺に語らせる気か?」
「……悪かった、で、どれから読めばいい?」
「どれでもいいぜ。出来れば色っぽいのがいいな」
「はいはいあればな……ゔ」
「どうした?」
「いや……エスペリア?」
助けを求めようとして姿を追うと、萌黄色のメイド服は既にそそくさと自分の山の陰に隠れていた。
オルファリルやウルカも同様で、三人とも神剣の柄の先だけをはみ出させているのが頭隠して、というか。
仕方が無いのでもう一度紙面に目を落としてみる。しかし何度読み直しても、文面が変わる訳ではなく。

 髭 ウ ザ イ

「……」
「ウザイ、って何だ? ユート」
「うおっ! 人の手紙を勝手に読むな!」
突然目の前にぴょんとアホ毛が飛び出してきたかと思ったら、アセリアが覗き込んでいた。心臓に悪い。
「……そうなのか。でも、ユートも見てる」
「俺は頼まれたからいいんだ。それよりいいかアセリア、まずは声を潜めろ。話はそれからだ」
「ん? ……わかった。(ヒソヒソ)で、炉理ってなんだ?」
「(ヒソヒソ)だから読むなよ。意味も知らなくていい」
「(ヒソヒソ)あ、こっちにも。ユート、こっちのょぅι゙ょ趣味ってなに?」
「(ヒソヒソ)聞けよ、人の話。大体女の子がそんな事を聞いたらだめだろ」
「(ヒソヒソ)ん、女? そうなのか。どうしてだ?」
「(ヒソヒソ)どうしても! っていうかそこで頬を染めないでくれ頼むから」
「(ヒソヒソ)? つまりユートは何が言いたい?」
「(ヒソヒソ)あああもうっ。第一訳せるかこんなの」
「(ヒソヒソ)ユート、どうして頭を抱えてる?」
「おいおい悠人、アセリアと話してどうするんだ。俺に聞かせてくれ」
「あ、お、おう」
人の気も知らないで、光陰は無邪気な子供のようにあくまで嬉しそうに催促してくる。
大量の投書というか苦情を両腕一杯に抱えたままで。しかし残念ながらどれを取っても期待には応えられそうもない。
どうにも困っていると、再びアセリアが耳元で囁いてきた。服の裾をくいくいと引っ張ってくる。

「(ヒソヒソ)ユート、ユート」
「(ヒソヒソ)はぁ……どうした?」
「(ヒソヒソ)困ってるのか?」
「(ヒソヒソ)見りゃ判るだろ! ……いや、判らないか」
「(ヒソヒソ)そうか。ユートを困らせるの、よくない」
「(ヒソヒソ)へ? いや」
「(ヒソヒソ)ん。わたしに任せろ」
「(ヒソヒソ)……」
いいのだろうか、と一瞬思わなかったわけじゃない。なにしろアセリアだし。何か誤解していそうだし。
しかしもう色々と、ニムばりに面倒くさくなってきたというか藁にも縋る気分だったというか。
「よし、任せた。骨は拾ってやるぞ」
「ん」
「お、なんだ、アセリアが訳してくれるのか?」
「わたしの前に出ると……死ぬ」
「へ?」
そうして得意げに光陰と対峙したアセリアを尻目に、俺は退避を決め込み、その場を後にした。
数秒後、狼のような遠吠えが木霊したのは言うまでもない。
正しい聖ヨト語の乱打にノックダウンを喫したのかヘブンズスウォードを喰らって悶絶したのかは知らないが。
ちなみに晩飯は、結局第二詰所でご馳走になった。ハリオンが当番だった。ちょっと紙臭かったが、旨かった。