「くっ……ヤバいな、ここはもう駄目だ。俺が防ぐから先に行け」
「っ何を! 嫌です! 隊長を置いて、私だけが退く訳にはまいりません!」
「おいおい、拒否権か? よせよ、俺が居なくてもマロリガンはそう簡単に崩れはしない。そうだろ?」
「コウイン様……コウイン様には、好きな方がいらっしゃるのでしょう?」
「? ああ、いるさ。そいつがいなきゃ、俺も生きてる意味は無いな」
「でしたらこんな所で! その方を守るのでしょう? 教えて下さったのは、コウイン様じゃありませんか!」
「いつも側に居てくれたよな。勝手のわからねぇ世界で、いつも俺を支えてくれた」
「倒すのではなく、守る事の大切さを……え? コウイン、様?」
「感謝してるぜ、クォーリン。お前がいなけりゃ、正直、俺達は生き残れなかった」
「あ……それって……ぁ」
「泣くなよ、折角の美人が台無しだろ。へっ、ま、そんな意外なとこも、知ってるのは俺だけか」
「ぐす……はい、コウイン様だけ、です」
「役得だな」
「ぁ……コウイン、様ぁ……」
「……」
ちゅんちゅんという窓の外から聞こえてくる小鳥の囀りが、やけにじんわりと気だるく感じてしまう。
覚えているのは、瞼を閉じたところまで。なのに唇に残る感触が酷く生々しく、哀しい。いや、虚しい。
じんじんと火照ったままの身体を簡易ベッドからゆっくりと引き起こし、目尻に残った涙をそっと拭う。
一連の動作に名残惜しさが残ってしまうのは、夢と割り切るにはもう抑え切れない程溢れそうな想いのせい。
朝の日差しに目を細め、すっと伸ばした白い脚を野暮ったい軍靴に通しながらふと我が身を顧みる。
「夢……だけ、ですから」
幸せの陽炎。せめてもの慰み。元来スピリットとして、求めることすら考えも及ばなかった贅沢すぎる程の夢。
まだじんじんと痛む胸を、両手でそっと抑えながら目を閉じる。早鐘のような鼓動はまだ収まる気配を見せない。
苦しくとも、辛くとも、味わえる。それだけで充分だと納得するのは、まだ自虐的な思考なのだろうか。
人としての生を経ていない身には、持て余し気味な感情の振幅に追いつくほどの器がまだ圧倒的に不足している。
「……ふう。駄目、朝からこれでは」
軽く首を振り、思いをやりすごす。結局、こんな逃げとも取れる解決法しか思いつかない。
傍らに立てかけられた神剣が、刃先から微妙な光彩を放って語りかけてくる。スピリットとしての、心構えを。
口元をきゅっと引き締め、顔を上げると今更のように飛び込んでくる、仲間達の喧騒。
手早く髪を撫で付け、必要最低限の身嗜みを施してから神剣を握り、天幕の外に出る。
溜息と共に吸い込んだ空気がひんやりとした砂漠の匂いを心の中にまで沁み込ませてくれたような気がしていた。
「くっ……はぁ、はぁ――――」
隊長と二人で考案した、ニーハスからデオドガンまで引き伸ばした拠点陣地方式での防衛線は、遂に崩壊した。
スレギトから次々と繰り出した波状攻撃は全て退けられ、各拠点は連絡を寸断され、順に孤立させられ、
小部隊は受けた損害の為に迫るラキオス軍の猛攻を支えきれず、後退した街を守りきれるだけの兵数も無い。
たった今まで指揮をしてきたガルガリンを振り返る。赤々と燃え盛る街並みが、作戦の失敗を物語っていた。
デオドガンからの撤退戦で相手の長大な補給線にある程度のダメージを与えたものの、こちらの被害も甚大。
市街戦闘での混乱の中、単独で逃げられたのは奇跡に等しい。犠牲になった仲間を思い、ぎゅっと唇を噛み締める。
森の濃密なマナの息苦しさと、風に流れてきた煙の匂いが混じり合ってライトアーマーの隙間から潜り込む。
脱出直前に首都経由からの報告を受け、ニーハスの陥落を知った。これで、もう残っているのは。
「――――そんな……馬鹿なっ!」
鬱蒼とした緑の景色がようやく途切れ、開けた視界に広がる小高い丘。そこに聳え立つマロリガン最大の城塞。
稲妻部隊の本陣が置かれていたミエーユは不落な筈の城壁を半分以上失い、無数の爆発を繰り返していた。
戦争で叩き込まれた体内時計が、ガルガリン脱出後精確に半刻が経過したと告げている。……その、たった半刻で。
状況は、どんな素人が見ても一目で明白だった。ラキオススピリット隊の進撃速度に舌を巻く。
もはやこの、最後の拠点に集結しての篭城戦などは机上の空論にすぎない。忙しなく乾いた唇を指でなぞる。
その間にも、草深い斜面を夢中で駆け上がっている脚。無意識の焦燥が心臓を槍のような痛みで突き上げてくる。
言葉に、口の端に漏らすだけで信じがたい現実が覆るのならば、悲鳴でも何でも迸らせていただろう。なのに。
「――――隊長っっ!」
マロリガンとミエーユを結ぶただ一本の街道沿い。一時的にマナが失われたその平原に、倒れている見慣れた身体。
地面に墓標のように突き刺さり、陽光を強烈に反射している『因果』を確認して零れたのは、掠れた呼びかけだけ。
首都マロリガン上空には禍々しい紫色の雲が渦を巻き、周囲のマナを削り取り、奪い続けている。
そのせいか、『大地の祈り』の利き目が薄い。本当は全身を癒したいが、生命活動の維持だけに留め、集中させる。
「木漏れ日の光 大地の力よ……」
すっかり血の気が失せてしまっている顔には、大量の汗が流れている。
呼吸も脈も途切れ途切れで、胸に大きく開いた裂傷からの失血を防ぐ事が、今の最優先事項だった。
ともすれば途切れそうになる精神の集中を懸命に保つ。それでも震える詠唱だけは自制出来ない。
「どうか……どうか、この者を……癒してぇ……」
分厚い胸に両手を添え、殆ど接触するほど顔を近づける。少しでも、自らのマナが分け与えられるように。
垂れた前髪の緑が奇妙に乱れた模様を描いて傷口を彩るのを、どこか別世界のようにぼんやりと視界に収めながら。
「ぅ……ぁ……ク、クォーリン、か?」
「っっ隊長!」
そうして、どれ位の時間が経過していたのか。
目の前の顔が薄っすらと瞼を開いた時には、あれほど鍛え上げた筈の体内時計はもうとっくに役に立たなかった。
ただ、頬を胸に埋め、縋りつく。直接肌で、心臓の鼓動を確かめたい。それだけの衝動が身体を動かしてしまう。
「……悪ぃな。ミエーユは、もう駄目だ」
「……コウイン、様?」
意外な呟きに、顔を上げる。すると虚ろな瞳は依然として空に向けられたまま。
まだ意識が混濁しているのか。そう思い当たると、ミエーユはもうとっくに陥落している、とは告げられない。
代わりに、出来るだけ静かに首を振る。動揺だけは気取られないように、ゆっくりと。
するとようやく焦点の合ってきた黒い瞳が微かに動き、その中心に自分の顔が据えられる。
映し出されたのは、予想外に崩れた顔。嬉しさと悲しさの入り混じった表情。
力の無い大きな掌がそっと頬に押し当てられ、そこで初めて涙を流している事にも気づく。
「……泣くなよ、折角の美人が台無しだろ」
「ぐす……はい」
「……先に行け、クォーリン」
「っ何を! 嫌です! 隊長を置いて行く訳にはっ!」
「くっ……はは、おいおい拒否権か? よせよ」
「――――っ」
思わず、息を飲む。いつの間にか、まるで今朝方に観た夢のようなやり取り。心臓が、再びの早鐘を打つ。
心の奥が、まるで嵐が吹き荒れているように苦しい。片手を握り込み、胸に押し当てる。革の、硬い弾力。
無意識で後押しされたのかどうかは判らない。ただ、気づいた時には囁いていた。息のかかる距離で、夢の通りに。
「コウイン様……コウイン様には、好きな方がいらっしゃるのでしょう?」
「? ああ、いるさ。そいつがいなきゃ―――ンッ?」
「……」
そして最後まで言わせずに、唇同士の距離を塞ぐ。息に篭めたマナと感情を、いとおしく送り込みながら。
胸に添えた両手から伝わる鼓動、熱さ、その全てを受け止める。与える事が出来る自分が誇らしく思えてくる。
この続きが、夢のように叶わないとは判っている。だからこそ、せめてこの瞬間だけは。守りたい人を。
「これで、後は『因果』の自然治癒でも間に合う筈です」
「お、おう……ところで、だ。さっきの」
「それでは自分は命令に従い、マロリガンへと向かいます。……キョウコ様はお任せ下さい」
「え? ……あ、ああそうだな、頼む」
まだ心なし呆けているような隊長に『因果』を握らせ、立ち上がって背を向ける。
動揺は悟らせたくない。押し付けた想いも、口にした名前も、全て勝手な自分自身の真実だから。
視線を定めたマロリガンの方向からは、異常に膨れ上がったマナの気流に『空虚』の雷が入り混じり始めている。
そしてそこに急速に接近しているラキオスのエトランジェ、『求め』の気配。急がないと、間に合わない。
拳を握り締め、まだ残っている力を確認する。不思議な事に、籠手越しからは新たなマナが漲っていた。
心。自らに問いかける。かつて『漆黒の翼』に投げかけられた言葉が唐突に蘇り、口元が自然に緩んでいく。
「……なあ」
「ハイ?」
「感謝してるぜ、クォーリン。お前がいなけりゃ、正直、俺達は生き残れなかった」
「っ――――」
「いつも側に居てくれたよな。勝手のわからねぇ世界で、いつも俺を支えてくれた。今もだ」
「……」
「だから……ありがとう、な」
「……ぁ」
もう、行かなければならない。そうしなければ、失われてしまう絆がある。そして自分には、それを守る力がある。
だから。立ち去る前に尋常ではない労力を費やして、一瞬だけ振り返る。今出来る、最高の微笑みを見て貰う為に。
当たり前じゃないですか、コウイン様は私の隊長なのですから ――――
それが充分すぎる、今の私の戦う理由なのだから。