いつものことだが、この世界での仮の住まいもおんぼろアパート築30年2部屋。
風呂は無いが、台所とトイレが一応個別に用意されているのが破格といえば破格。
だが、モルタル2階建て家賃据え置き1万円でも、暖かい家庭の団欒を培う位の事は出来る。
収入もろくに無い中精一杯に設えられたふかふかのベッドに潜り込み、ユーフォリアは微笑む。
いつも眠りにつくまで、ちゃんと側で手を握ってくれている"おとうさん"に。
「ねーねーおとうさん、今日のお話はなぁに?」
「んー。そうだなぁ、ユーフィはどんな話が聞きたい?」
「ふぇ、えっとぉ……何でもいい?」
「ああ、何でもいいぞ。俺が知ってる事ならな」
就寝前に必ずせがまれるのは、昔佳織にも読んでやっていたような御伽噺の類い。
そんなちょっとしたおねだりに、ヘタレ聖賢者は困ったように首を傾げながらも相好を崩す。
エターナルとしてはまだ駆け出しだが、子煩悩では既に軽く親バカの領域にまで達している。
うかつに愛娘に粉かける異性などを想像しようものならたちどころに神剣の限界能力を超え、
パパが守ってやるからな、とか安らかな寝顔を眺めつつ密かにオーラを練り上げる事もしばしば。
だがそんな壮絶な決意などは露とも知らず、ユーフォリアはとろんと甘えるように瞳を潤ます。
「それじゃあね……赤ちゃんってどこから来るのぉ?」
「――――は?」
「あのね、今日、街で仲良しさんな姉妹を見たんだぁ……わたしもお姉さん、欲しい……」
「あ、いや、その、欲しいと言われても、」
「ねー、おとうさぁん……」
少し眠たそうではあるが、母親譲りの蒼い眼差しがきらきらと輝いている。
ついでに好奇心が旺盛なのも、半分入っている血のせいかも知れない。
ぎしっ、と、アパートに備え付けられた築30年の木製椅子の脚が嫌な音を立てる。
そしてその音を立てた張本人の心境も、椅子と同じく今にも折れそうに挫けかける。
よくある話だから聞いてはいたが、まさか自分の身に降りかかってくるとは想定の外も大外。
昔散々に懲りていた筈なのに、またもや女の子のおませさというものを侮っていたかと臍を噛む。
しかしここであっさりと知らぬ存ぜぬで誤魔化し通すのも何だか威厳が傷つくような気がするし、
なにより育児を間違える訳にはいかないと父親っぽい使命もついでに思い出し、硬直から我に返る。
そうして懸命に頭脳をフル回転させ、咄嗟に思いついたのが
『おい、おいっ『聖賢』! 知恵を貸せ』
『……なんだ、ユウトよ。戦いでもないのに呼び出すな。我は眠い』
『呑気に寝てる場合じゃない! 一家の危機なんだ、頼むよっ』
心の中でぺこぺこと頭を下げつつ神剣に縋る事だった辺り、どこまでも沁み付いているヘタレ根性。
一方ぶすっと気配だけで不機嫌さを示す『聖賢』は、必死な主にどこか投げやりな口調で応えてくる。
『……汝の世界には、"コウノトリ"という実に都合の良い絶滅危惧種がいるではないか』
『お、おう、なるほど。そういえば、よくばあちゃんに聞かされたっけ。その手があったか』
『せいぜい無垢な幼子を上手く誑かすことだ、ユウトよ。手馴れているであろう?』
『……お前、いつになく俺に手厳しくないか?』
『ふん。この程度で心を乱すようでは我を使いこなすなど100周期は早いというもの』
「という訳でユーフィ、いいか、赤ちゃんは、"コウノトリ"にお願いしないとダメなんだ」
"おい、我を無視するなユウト"という声が聞こえ、続いてキンッ、と鋭い頭痛が響いたが、
このまま付き合うと永遠に小言を繰り返されかねないので無視し、愛娘に提案してみる。
するとまずベッドでうつらうつらとしていた小さなハイロゥがぴくりと呼応し、遅れて唇がそっと開く。
「……"コウノトリ"、さん? ってなぁに、おとうさん」
「大きな鳥だよ。その鳥が首にぶら下げて、世界中に赤ちゃんを運んできてくれるんだ」
「へー……凄いんだね。じゃあそのコウノトリさんにお願いしたら、お姉さんを連れて来てくれるの?」
「いや、お姉さんは無理なんじゃないかな。なにしろ、ユーフィより後に来るんだから」
「あ、そっかぁ。それじゃあわたしがお姉さんになっちゃうよ」
「そうだな、偉いぞユーフィ」
「あ……えへへ……」
理解の早いご褒美に優しく頭を撫でてやると、ユーフォリアは嬉しそうに目を細める。
きゅっと握り返してくるもみじのような可愛らしい指は生命力に溢れ、体温が高い。
枕から顔を上げ、桜色に染まった頬を摺り寄せてくる仕草には、全幅の信頼が寄せられている。
「だから、ごめんな。こればっかりは」
「……ねぇおとうさん、コウノトリさんってどこにいるの?」
「え? あ、ああ。それは誰も知らない。コウノトリは、良い子の所にしか来てくれないんだ」
「そうなの? じゃあわたし、良い子じゃないのかなぁ……」
「違うよ、ユーフィは良い子だ。でもお願いはしてなかっただろ?」
「そっかぁ……じゃあ……」
「ああ、ちゃんと良い子にしていれば、そのうちきっと来てくれるさ」
「うん……おとうさん、わたし、一生懸命お願いするね。妹が欲しいです、って」
「――――え゙?」
「コウノトリさぁん……妹が、欲しいですよぉ……」
「……」
胸の中ですやすやと寝息を立て始めた愛娘の小さな身体を抱き締めながら、聖賢者は思う。
時折不意打ち気味にアイスバニッシャーを仕掛けてくる発言は、やはり母親譲りなのだろうかと。
その夜、神田川のような風呂からの帰り道。
からんころんと桶の中の石鹸を鳴らしながら隣を歩いている永遠のパートナーに話しかける。
「っていう話をさっきユーフィとしたんだけどさ。参ったよ」
「ふふ、"コウノトリ"? ハイペリアって、面白い」
「ちぇ、呑気だな。俺がどれだけ焦ったか」
「ユート、焦ったのか?」
「そりゃ焦るさ。アセリアだってあんな事言われたら」
「私は……うん。お願いされても、大丈夫だと思う」
「そうなのか? 何で?」
「……何で?」
「何でって……えっと」
疑問を同じ疑問で返され、ぐうの音も出ない。
なにしろ覗き込んでくる蒼く澄んだ瞳はどこか悪戯っぽい眼差しで何かを訴えかけてきているのだから。
悠人は無言でそっと肩を抱き寄せ、もたげてくるさらさらな髪を優しく撫でながら、耳元で囁く。
「……なぁ、今日はその……頑張らないか?」
「……ん」
からん、と石鹸が鳴る。
そんないつもの、寂れた街灯に照らされた影がゆっくりと重なっていく戦い前夜。