右手へ控え目に絡められている細い腕。
左手にぶら下がってる小っちゃな手。
見ようによっては微笑ましい家族連れ。
城下の街をぶらぶらと見物しつつ、ふと思う。
それにしても俺は今、一体何をやっているのだろうかと。
「ほらユート、見て見て美味しそうなネネの実」
「ああ、美味しそうだな。食べたいのか?」
「間食はだめよ、ニム。晩御飯が食べられなくなるわ」
「はーい」
「あ、ごめんなさい、出過ぎた事を」
「いや、いいよ。でもやっぱり、基本的な所は変わってないんだな」
「はい? なにがですか?」
「あー、なんでもない」
「ねーねー、早く行こうよぅ」
「こらこら、引っ張るなってニム」
「もう、慌てると転ぶわよ」
せがまれるまま小走りになり、街角を抜けると開けた景色。
久し振りの休日にふさわしい陽光が満遍なく降り注ぐ高台。
吹き抜ける風はあくまでも爽やかで、四季の無い国独特の涼やかさ。
我慢できずに俺の手を離れたニムが、小走りで芝生を駆け下りていく。
その先に広がるのは草原と、油絵の似合う湖と、森林に包まれた大自然。
戦乱の最中、きっと、それは憩いとしては最適なバケーションなのだろう。
そう、この、時折現実を思い出させてくれる深刻な悩みをさえ抱えていなければ。
丁度用意されていた真っ白な木製のベンチに腰掛けると、当然のように一緒に腰掛けてくる。
さっきまで組んでいた腕は解かれ、その代わり、そっと重ねられる細い指。
隣を窺うと、にっこりと幸せそうに微笑み返してくれる優しい瞳。
遠慮がちに肩に乗せられる、小さな頭。髪の間から匂う慎ましげな香り。
「あ、あのさ」
「はい?」
「こんなのが……いつまで続くのかな」
「あら、いいじゃない。平和がなによりよ。戦いなんて、もうあの子にさせたくないわ」
「いや、そうじゃなくて。あ、いや、ニムを戦わせたくないってのは俺もそうだけど」
「じゃあ、なあに?」
「ゔ……」
悪戯っぽく小首を傾げられ、言葉に詰まる。非常に居心地が悪い。
状況が状況なだけに、それだけの仕草でもお互いの顔同士が急接近してしまう。
つまりは気のせいか潤んだ瞳や薄く染まった頬とかが数センチ手前にまで迫っている訳で。
「スピリットに生まれて……」
「……は、はい?」
「スピリットに生まれて、こんなに幸せな気持ちになれるなんて、思わなかった……」
「あ、ああ、そうか、それはなにより」
「はい……これも、全部……」
「えぁ? ちょ、ちょっと」
「……」
彼女は静かに瞼を閉じる。
そっと伏せられた長い睫毛が微かに震えている。
軽く持ち上げられた細い顎のやや上で、小さな唇が艶めいた桜色に映えている。
そのまま彼女は、何かを待つようにじっと動かない。そして勿論、俺もそのまま動けない。
草原の風に乗り、遠くから元気な呼び声が聴こえて来る。
『おーい、ユートおとーさーん、セリアおかーさーん』
「……」
脱力。
ずり落ちそうになったベンチから目に飛び込んでくる、これでもかという位澄んだ青空。
その大きなキャンバスに、思いのまま描き込まれた雲達の白さが今の俺には眩しすぎる。
草原のど真ん中で、小さな身体をこれでもかという位使い、こちらに手を振ってくるニム。
それでも密着し、あからさまな期待を込めつつじっと待つ姿勢を、決して崩さないセリア。
さて、この勝手に盛り上がってしまったシチュエーションは一体どう収めたらいいのだろう。
俺は今、何故か人生最大の選択を迫られている。たぶん。いや、きっと間違いなく。
しかも、助けが全く期待出来ない状況で。って、そもそもなんで、こんなことになったんだ。
話は先日にまで遡る。
俺は、いや、俺達は、いつもの通りの訓練場で、いつもの通りの訓練を行なっていた。
第一詰所と第二詰所の丁度真ん中に、ある程度の威力なら緩和出来る、広大な敷地がある。
周囲にはびっしりと森林が植え込まれているから、外部への被害は防げるって寸法だ。
スピリットが全力で動いても余裕がある程だから、神剣魔法や剣技を試すのには絶好といえる。
城の敷地内でその手の訓練が行なえるというのは、戦力強化の面で非常にメリットが大きい。
そんな訳で、その日も俺や彼女達は、自身の能力をフルに発揮しつつ活発に汗を流していた。
「また重心がぶれてるわっ」
「判ってるっ。はあっ!」
「そこっ」
「くっ……このっ」
しかし今思えば、隊長として、多少の油断があったのかもしれない。
いくら殆ど車の通らないような田舎の見通しの良い高速道路にだって、道交法は必要だったんだ。
ましてや相手はスピリット。現代世界では、車など比較にもならないスペックを秘めた妖精。
いわばスピード違反のオンパレードなのだから、思いもよらないトラブルだって当然起こり得る。
そしてそれは丁度俺が、指南を受けていたセリアの『熱病』を辛うじて避わした所で発生してしまった。
『マナよ、疾く進め』
『わわわっ! どいてどいて~っ』
「……え? なに?」
「なんだ?」
『ニム、後ろっ!』
『え、なにお姉ちゃ……きゃあっ!』
「危ないっ!」
「彼の者を包……だめ、間に合わないっ」
その瞬間、訓練所の丁度真ん中辺りで、偶然形成されてしまった密集隊形が混乱の発端だった。
というかお互いがここまで接近していた事に今更気付いた俺達には、それに驚く暇も与えられなかった。
まず、俺に避わされた大振りな『熱病』を制御しようと腰を沈め、一度動きを止めたセリアの背後に、
ナナルゥが放とうとしたイグニッションからたまたま逃れようとした相方のネリーが駆け込んでくる。
そしてそこにファーレーンの打ち込みでシールドハイロゥと防御魔法の訓練を行なっていたニムが、
たまたま後退した所でたまたま間に割り込む形となり、そして当然のように追突されてしまっていた。
横合いからの不意打ちを受け、ニムはあっけなく気絶し、衝撃を跳ね返した地面が盛大に土煙を上げる。
更に、夢中だった為か、大きく広げられていたネリーのウイングハイロゥが事態の悪化に拍車をかけた。
死角からの現場は非常に見通しが悪く、例えればトンネル内での火災事故並みに混乱が加速相乗していく。
縺れるように転がる二人がこちらからは視認出来ない上、一度発動されたイグニッションも止まらない。
何が起きたか判らないまま迫る脅威を反射で防ごうとしたセリアだったが、時間が圧倒的に不足していた。
高速の世界では悲しい程手遅れな詠唱は中途半端な所で途切れ、耳をつんざく爆音によりかき消されてしまう。
「あうっ!」
「うわあっ!」
「きゃああああ―――――」
小柄とはいえ、充分に加速のついた二人分の暴走質量プラス暴虐な熱量を誇る神剣魔法攻撃。
決して見捨てたかった訳じゃない。だが、緊急避難ではないけれど、自分の身を守るだけで精一杯。
横っ飛びで辛うじて逃れ、爆風に圧され、暫く転がり続ける。土まみれになった体を起こすと酷く焦げ臭い。
もうもうと立ち込めるきのこ雲のすぐ側で、ファーレーンがぺたんとあひる座りのまま呆然としている。
「げほっげほ……おい、大丈夫かみんな!」
大丈夫な訳は無いだろうと自分に突っ込みながらも、そう叫ばずにはいられない。
ようやく晴れてきた現場に折り重なるように倒れている複数の人影を見つけ、慌てて抱き起こす。
爆音に驚いた残りのメンバーも、その頃には全員集まって来ていた。
流石に冷静なエスペリアとハリオンが治癒魔法の詠唱を始めている。
「大丈夫、気絶しているだけですっ!」
「目立つ外傷も無い様子。これもマナの導きでしょうか」
「こっちも気絶しているだけだ。……良かった」
迅速なヘリオンとウルカの報告に、ほっと胸を撫で下ろす。
腕の中で目を閉じるセリアの頭の上にはたんこぶが出来ていたが、命に別状は無かった。
確認すると、ニムとネリーの頭にも大きなたんこぶが出来ている。頭から突っ込んできたのだろう。
シアーとファーレーンが心配そうに付き添っている。しかし、それにしても。
「ですが、危なかったですね」
「びっくりしたぁ~」
「ああ、驚かせてごめん。俺の不注意だ。もう少し気をつけるべきだったよ」
「あ、いえ、ユート様のせいではありません。事故ですし、私達も迂闊でした」
「そうだよ、パパのせいじゃないよぅ。それにほら、みんな無事なんだし、良かったよねっ」
「ああ、本当にそうだなオルファ。ありがとう、ヒミカ」
「ユート、セリア、目、覚ます」
「っ! おいセリア、しっかりしろっ」
アセリアの指摘に慌てて様子を窺うと、セリアの睫毛がぴくぴくと揺れ、瞼がゆっくりと開かれていく。
声をかけながら、俺は生きててくれたというそれだけに純粋な喜びと安堵を感じていた。
こんなつまらない不注意で仲間を失う。そんな事態を回避出来た幸運に、心底感謝しながら。
だけど、それはやや早合点だったのかも知れない。何故なら、気が付いたニムと同時に発せられた台詞が。
「う、うう~ん……あ、あらここは……どうしたの、あなた」
「あいたたぁ……あっ、おとーさん、おかーさんっ!」
凍りつく一同、と俺。
不思議そうに、いつもではありえないようなしっとりとした仕草で心配そうに俺の頬を撫でて来るセリア。
ファーレーンの手をあっけなく放し、俺とセリアの間に元気良く滑り込み、猫のように甘えてくるニム。
セリアの余りの気持ち悪さに、ずざざっとその場から後ずさりするラキオス屈強の戦士達。
いきなりニムに放置され、目を点にさせながら再び魂の抜け殻になったようなファーレーン。
ただ一人逃げられない俺を中心にして、異様な雰囲気が少なくとも半径数キロにまで及んだと思う。
結局、ようやく我に返った所で治療の終わった彼女達を詰所に運び込んだ頃には夜も更けようとしていた。
その足で城に向かい、今日の事態を報告する。するとすぐにヨーティアとイオが確認しに来てくれた。
部屋の前の廊下で待っていると二人が出てきたので、冷静かつ学術的な診察結果を尋ねてみる。
「うん、どうやら頭部に受けた衝撃で、ネリーの素直な性格がニムントールに伝播したようだね」
「スピリットには、本来家族というものがありません。その願望も表に出てしまったのでしょう」
「ああ、イオの指摘の通りだ。セリアの不気味な……もといあの性格も、案外地なのかも知れないよ」
「つまり、唯一の男性であるユート様が、あの場では都合よく父親として認識されたのです」
「ま、暫く様子を見るこったね。今のままでも、別に困るような事がある訳じゃないだろう」
「記憶も適度に作り変えられているとはいえ、戦闘力という面で問題はありません。そのうち治りますよ」
「この果報者め。両手に花なんて、めったに味わえるものでもないぞ。折角の機会だ、もっと喜べ」
「……」
そういう問題じゃない。
妙に他人事な自称天才科学者とイオの分析は、俺の精神の安定の為には全く役に立ってくれなかった。
「ん。セリア、楽しそう。わたしは嬉しい」
アセリアは、完全に何かを勘違いしていた。
「少し驚きましたけど、これ以上は治癒魔法では治りませんし。申し訳ありません」
エスペリアは、何故か済まなさそうだった。
「ぶ~、パパはオルファのパパなのにぃ」
オルファは、一方的に拗ねていた。
「親睦が深まるのは結構な事です」
ウルカは、傍観した意見を述べた。
「ネ、ネリーはなんともないのに、変だよね~」
ネリーは、良く判らない自己弁護に徹していた。
「ネリーが無事で良かったの」
シアーは、ネリーが無事ならそれで良かった。
「今後はこのような事が起こらないように、訓練方法を改めて検討しませんと」
ヒミカは、事後処理に忙しそうだった。
「先制攻撃は有効な手段と認識しました」
ナナルゥは、検証成果にご満悦だった。
「ふふふ~、お二人とも、可愛いですぅ~」
ハリオンは、喜び所がやはり斜め上だった。
「さっきニムに、おはようって挨拶されたんですよぅ。こう、元気よく肩を叩かれて……」
ヘリオンは、ただ涙目で苦情を訴えるだけだった。
「ニム……お姉ちゃんはね……ニムぅ……」
ファーレーンは、違う意味で壊れていた。
つまり、仲間達も何の助けにもならなかった。
そんな今朝早く。
病床から抜け出した二人に爽やかな笑顔でお出かけのお誘いを受けてしまった俺には。
もう、抗う術など残されてはいる筈も無く。引っ張られるように街へと繰り出した訳、なんだが。
「……」
「……」
「おーい、おーい!」
さっきから尾行されていたのには気づいていたが、仲間達は街路樹の影に隠れたまま。
余計な事に、時折飛び出そうとするファーレーンを制止するような動きすら見られる。
ごくりという生唾を飲み込む音は、俺が出してるんじゃない。見物人が固唾を飲んでいるのだ。
風がセリアの長いポニーテールを乱し、いい匂いが鼻をくすぐっている。
その背景で、溌剌としたニムのはしゃいた姿が駆け寄ってくるのが目に映る。
考えれば考える程、理不尽に思えてきてしまう。しかし、それとは別に強烈な誘惑もある訳で。
いやむしろ、こうしてアクションを待つ美少女を目の前にして正常でいられる男がいる筈もなく。
今のセリアはおかしいと、これでは寝込みを襲うのと変わらないと、判ってはいるのだが。
無意識に伸びた腕が、華奢な身体を抱き寄せる。触れた途端、ぴくっと反応する柔らかさ。
しっとりとした暖かさが、駄目だとどこかで警報を鳴らしている思考を、遥か彼方へ押し流す。
視界がだんだんと狭まっていき、ついには軽く開かれた艶やかな唇しか見えなくなっていく。
据え膳喰わぬはなんとやら。俺は麻痺した頭を抱えたまま、まるで吸い込まれるように首を傾け――――
「駄目ぇっ」
「ぐおっ」
「あうっ」
「~~~~~っ、な、なんだ?」
ごすっ、という酷く鈍い衝撃が、後方と前方からほぼ同時に来た。
襲った衝撃が激しすぎたので、接触したのはセリアが早かったのかニムが早かったのか判らない。
取りあえず痛みの残る後頭部と額のどちらを擦るべきか悩みつつ見渡すと、まずセリアが寝ていた。
いや、寝ていたんじゃない。額からぷすぷすと煙を立ち昇らせているので、気絶しているんだろう。
どうやら俺と頭突き合いをかましてしまい、そのままの勢いでベンチへと沈没してしまった様子。
そしてその原因となった、俺を後ろから追突したらしいニムが、仁王立ちでこちらを睨んでいる。
「ゔ~~~~、ヤぁ」
「え、あ、な?」
「……ニムも、おとーさんとする」
「は?」
「ニムもユートと……うきゅぅ」
「お、おいニム? おいっ?」
ニムは、そのまま気絶していた。額が腫れている。意味不明だが、もの凄い自爆もあったもんだ。
それからファーレーンを筆頭に覗き魔達が次々と現れ、一時高台は騒然となった。
離れて取り巻く市民達の視線が痛いので、それぞれに気絶者を抱え、その場を撤収する。
詰所に戻り、二人を寝かしつけた後、ハリオンが神剣魔法を唱えると二人はあっけなく回復した。
喜ばしい事に、性格ごと。訓練から今日に至るまでの記憶はすっかり抜け落ちていたが、その方がいい。
ニムは半狂乱のファーレーンに抱きつかれ、何が起きたのかと不審がりつつ何故か俺を睨みつけてきた。
一方のセリアは、疲れたからと早々に部屋に篭った。二人とも、普段通りのつっけんどんさだった。
だが、今日ほどその突き放されっぷりが心地良いと感じた事は無い。俺は神に感謝した。色々な意味で。
==== その頃 ====
「すこしだけ、掠った……かも」
セリアは自室のベッドの中で、何度も自分の唇を擦りながら、独り悶々とした夜を過ごしていた。
「バカ……鈍感……」
ニムントールはファーレーンの腕の中、寝惚けながら小さな手を何度もわきわきとさせていた。
―――― 二人が本来の自分を取り戻していたタイミングは、彼女達と神のみぞ知る。