たまに第二詰所に泊まったりすると、枕の違いか、中々寝付けない時がある。
そんな時には、食堂にもぐりこんでエスペリア直伝のハーブを飲んで過ごす。
昼間の喧騒もいいが、こうして皆寝静まった後のしんとした空気も悪くない。
そもそも本来俺は、大勢に囲まれてるよりも独りで居る方が落ち着く性分なんだ。
こうしてハーブから立ち昇る湯気をぼんやり眺め、木製の椅子の軋みを感じるだけで不思議に安心する。
だけど、その日はちょっと違った。
所在無く夜空を眺めていたその窓に、いつの間にか人影が映っていたのだ。
少しびっくりしながら振り返ってみると、戸口に寝巻き姿の少女がぼーっと突っ立っている。
目が合うと、少女は一瞬だけこちらを一瞥し、それから何事も無かったかのように厨房へと向かう。
沈黙。短く刈り揃えた緑色の髪がさらさらと流れ、不覚にもただ呆然と見送りそうになる。
「……って、ニムじゃないか。どうしたんだ、こんな夜更けに」
「……うるさい」
微かだが、厨房に消える前にそんないつもの憎まれ口が返ってきたので安心する。
どうやら幻や幽霊ではないようだ。となると、ただ単に夜中に喉が渇いたとか、そんなところだろう。
新たな来客によって先程までの心地良い孤独さは壊れてしまったが、まあこれは仕方が無い。
第一、ここは俺の家でも何でもないのだから。異世界で、"仮の宿"で、そんな贅沢は言えない。
再びカップを手に取りながらそんなことをつらつら考えていると、ニムが戻ってくる。
彼女はとてとてとやや機械的に歩き、やがて俺の正面に座り、手に持ったコップを一度机に置く。
中身は、クーヨネルキ。よく冷えているのか、透明なコップの表面には細かい水滴が付いている。
山羊のような動物の乳だそうだが、味も色も牛乳に良く似ていて、俺も朝食の際に良く飲む。
座る時に出来た皺が気になるのか、ニムは軽く寝巻きの裾を引っ張り、それからコップを手に取る。
両手で口元に当て、こくこくと飲み干す。喉が動くのを、俺は黙って見ている。ここまで双方無言。
「……ふぅ」
「喉が渇いてたのか?」
「……」
コップを置くのを見計らい、話しかけてみる。
するとニムはそこに初めて俺が居るのに気づいた、というような面持ちで顔を上げる。
つまらなそうな目が細くなっている。答えは返ってこない。眠いから、不機嫌なんだろうか。
考えてみれば、いつもファーレーンと一緒な彼女と二人きりでまともに会話をするのは初めてだ。
と言ってもまだ会話にすらなっていないけれど。俺が一方的に話しかけているだけで。
何だか気まずい。独りの時にはあれだけ心地良かった沈黙が、両肩にずしりと重く圧し掛かってくる。
オレンジ色に揺らめくマナ灯の炎のせいで、壁に映った小柄な彼女の影がとても大きく見えてしまう。
しかもニムの、緑柚色の瞳がずっとこちらを観察しているので、俺も金縛りのように目が離せない。
いたたまれなくなり、カップを口に当てると空っぽ。誤魔化すように立ち上がる。
「ニムも、お代わりいるか? ついでに入れてきてやるよ」
「……」
無言を了承と勝手に受け止め、彼女のコップを取り、そそくさと厨房に駆け込む。
その仕草を、ニムはずっと目で追いかけ続けている。背中にまで痛い程の視線を感じるくらいに。
「よ、お待たせ」
「zzz……」
「って、をい」
そして戻ってくると、ニムは机にうつ伏せ、静かな寝息を立てている。
暫く様子を窺ってみるが、起きる気配が無い。軽く肩を揺すってみたが、全く効果無し。
いくらラキオスが温暖な気候でも、このままでは風邪を引いてしまう。
「しょうがないな……よっと」
「ん……んむぅ……」
「……軽いなぁ」
背中におぶり、廊下に出る。寝室が並ぶ通りに近づくと、暗がりにファーレーンが立っている。
どうでもいいけど、手に小さなマナ灯を吊るしてなければ驚いて悲鳴の一つでも上げているところだ。
俺が近づくと、ファーレーンは明らかにほっとしたような表情を見せる。ずっと探していたのだろう。
背中の荷物が目を覚まさないよう、そっと小声で話しかける。
「食堂で寝ちまったんだ」
「ユート様……すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
「いや、いいよ。それよりもニムの部屋はどこか教えてくれないか?」
「ここです。あ、でも」
「いいって。ここまで来たら最後まで運んでやるさ。起こしたら可哀想だし」
「……はい。すみません」
謝りながら扉を開くファーレーンの後に続き、部屋に入る。
ベッドにそっと下ろし、シーツをかけてやると、ニムは側に居たファーレーンの服の裾を掴んでいる。
相変わらず寝息のままなので、恐らくは無意識だろう。ファーレーンもされるがままになっている。
そのままベッドの側に座り込み、ニムを見つめる瞳が母親のように微笑んで優しい。
「仲、いいんだな」
「はい……ずっと一緒でしたから」
「そっか」
そこで気づいたが、ニムの髪をそっと撫でてやるファーレーンの寝巻きはうっすらと透ける薄い生地。
夜目に慣れてくると、月明かりのせいでぼんやりと浮かび上がっている体のラインが目に毒すぎる。
内心の動揺を悟られないよう背を向け、殊更平静に努めながら、何気無さを装い周囲を見渡す。
女の子としては、寂しすぎる部屋。机、ベッド。窓に映る、夜空。ここには必要最低限のものしかない。
部屋の隅で、ぼんやりと緑に輝くのは永遠神剣『曙光』。本来なら、必要最低限でもないもの。
戦うことのみにその意義を見出されるスピリットだから。こんな所で独りなのは、きっと辛いだろう。
「……あの、実は」
「ん?」
「その……ニムはたまに」
「たまに?」
「たまに、なんですよ。本当なんです」
「いやだから、何が?」
「あ、その……たまに寝惚けて、そのままふらふらとどこかに居なくなってしまう癖が……」
「あれで最初から寝てたのかよ!」
起こさないようにと気を遣いながら、小声で突っ込む。
全然気がつかなかった。食堂で、普通に応対しようとしていた俺の立場は一体。
良く判らないままぺこぺこと謝るファーレーンを中心に、何だか間抜けな空気が広がっていく。
直前までのしんみりしたような雰囲気などは完全に消し飛んでしまっていた。そんな夜だった。
戦いが進むにつれ、敵もだんだんと強くなっていくような気がする。
流石のバカ王も気づいたのか、ラキオスもそれに対応して戦力を強化した。
つまり、今までは控置していたスピリット。ファーレーンとニムを投入したのだ。
元より卓抜した剣技と特殊なマセスの加護を受けるファーレーンは、戦線に絶大な影響を与えた。
補佐する意味で組になっているニムも、ファーレーンの防御を担当しながら頑張っている。
しかし、それでもイースペリアの首都が近づくにつれ、戦いは少しづつ膠着の様相を呈してきた。
敵の防御が厚い部分ではどうしても部隊が進路上で団子状態になり、所構わずの乱戦になる。
沈みかける夕日を背にしたその日も、やはりそんな味方の所在が把握し辛い局地戦の真っ最中だった。
「よし、ここはほぼ片付いたな」
「ん」
「じゃあ後は任せてもいいか? 俺は森の方を見てくるから」
「ん」
何を言ってもん、しか言わないアセリアに街道を後退していく敵への警戒を預け、右手に広がる森を目指す。
森、といっても樹はあまり密生していないから、見通しは比較的良い。奥で小さな湖が水面を輝かせている。
さっき、ファイヤーボールらしき赤い光が走ったのが気になっていた。誰かがまだ戦ってる。
「……ニムッ!」
案の定少し奥へ進んだところで、樹々の隙間に短く刈り揃えた緑色の髪が流れた。思わず叫ぶ。
ニムは三方を敵に囲まれてしまっている。『曙光』を包む光が弱い。そこを狙ってファイヤーボールが飛ぶ。
ずしっ、という爆音。小柄なニムは両手で握った『曙光』と一緒に数歩分後ろに下がる。
シールドハイロゥの輝きが一層鈍くなった。ファーレーンが見当たらない。はぐれたのか、それとも。
「うおおおおおっ!」
とにかく『求め』に力を篭め、オーラを纏いつかせ、そのままレッドスピリットに突っ込む。
彼女が吹き飛ぶのを確認しつつ、枝を足場に滑空してくるブラックスピリットの攻撃を自ら倒れて避わす。
そしてすぐに、捻れた身体を無理矢理振り回し、着地した黒い翼へ横殴りに『求め』を叩きつける。
背中からあり得ない方向にくの字になったブラックスピリットはたちまち金色の霧へと変化してゆく。
残ったブルースピリットはちっ、と舌打ちを残し、飛び去った。森の奥に消えていく翼を見送る。
気配が完全に無くなったのを確認し、ようやく身を起こす。半身が土だらけだった。
森で地面を転がったのだから当然だ。軽く払い、それからニムの方へと振り返る。
彼女は呆然としてその場にあひる座りをしていた。まだ両手で握っている『曙光』が杖になったような形で。
緑柚色の瞳が大きく開かれたまま動かない。というか、身動ぎもしない。有体に言えば茫然自失。
こんなに吃驚しているニムは初めてみたな、とふと思う。
「よ、危なかったな」
「……ぁ、……ユート?」
「ああ。怪我はないか?」
「ぅ、うん。平気」
「そっか、よかった。それで、ファーレーンはどうしたんだ?」
「お、お姉ちゃんなら足を捻挫したからちょっと後ろに」
「なんだ。それなら駄目じゃないか、独りで突っ込んだら」
「ぁぅ、ごめん」
「……なんだか今日はやけに素直だな」
「でもお姉ちゃんに怪我させた奴らが許せな……ぇ?……ユート?」
「ん? 呼んだか?」
ゲシッ!
「おうっ!?」
「な、ななななによユートのくせに! 偉そうにしないで!」
「ぐっ、い、いきなりなにす」
「……フンッ」
あひる座りのまま脛を蹴り上げてくるなんて、なんて器用な奴だ。
それにしても、俺なんか気に障るようなことでも言ったか? 痛みと供に、そんな理不尽な疑問も湧いてくる。
しかし涙目になりながらふと見ると、ニムの肩は微かに震えていた。小さな体で、強がっているのだ。
するとさっきのやりとりの時も、ショックが抜けないまま俺と認識せずに答えていたのか。なんだ。
判ってしまうと、怒る気も失せてくる。ふっと肩の力が抜け、自然と手を差し伸べていた。
「……ほら」
「……なによ」
「腰、抜けてるんだろ? おぶって行ってやるよ」
「なっ! いいっ! 一人で立てる!」
「いいから。ニムだって早くファーレーンに会いたいだろ? 俺も部隊の様子が気になるしさ。頼むよ」
「~~~~ッッ」
「な? このとおり」
「~~~~~~~ッッ」
「……ふぅ。よし判った。無言は了承と勝手に受け止める。変なとこ掴んだら言えよ」
「なっ、ちょ、ちょっと待っ……ふあっ!」
「うわ、暴れるなって。落ちるぞ」
「くっ……このぉ……」
「はは、相変わらず軽いなぁ」
「ふんっ! 大きなお世話……相変わらず?」
「おっと、こっちの話だ。急ぐぞ、しっかり掴まってろよ」
「ぅ、うんわかった……ユート?」
「ん? どうした?」
「えっとその……ユートが頼むから、仕方なくだからね。今日は特別おぶさってあげるんだからねっ」
「……ぷっ」
「な、なによ! あと、お姉ちゃんには内緒なんだから! 言ったら殺すっ!」
「わかった、わかったから首を絞めるな。それと、女の子なんだからあまり胸を押し付けるなって」
「~~~~ばっかじゃないのっ!!」
「いてて、冗談だってば。ははは」
「……ムカつく」
憎まれ口を叩きながらも両腕はしっかりと俺の首に回されている。
子供らしい、熱の高い体温が背中から伝わってきて、それが不思議と安心させてくれた。
でも仲間と合流する直前で無理矢理降りた時の耳元が真っ赤に染まっていたのは、やっぱり内緒なんだろうな。
そんな訳で、俺は今日も夜更けにこうして一人、食堂でハーブを飲んで過ごす。
昼間の喧騒もいいが、こうして皆寝静まった後のしんとした空気も悪くない。
そもそも本来俺は、大勢に囲まれてるよりも独りで居る方が落ち着く性分なんだ。
こうしてハーブから立ち昇る湯気をぼんやり眺め、木製の椅子の軋みを感じるだけで不思議に安心する。
「……来たか」
気配に振り返ってみると、戸口に寝巻き姿の少女がぼーっと突っ立っている。
目が合うと、少女は一瞬だけこちらを一瞥し、それから何事も無かったかのように厨房へと向かう。
沈黙。短く刈り揃えた緑色の髪がさらさらと流れ、不覚にも噴出しそうになってしまう。
隠しているが、頬っぺたが軽く赤みを帯びている。これで本当に寝惚けているのか、疑いたくなるほどだ。
彼女はとてとてとやや機械的に戻り、やがて俺の正面に座り、手に持ったコップを一度机に置く。
中身は、いつものクーヨネルキ。よく冷えているのか、透明なコップの表面には細かい水滴が付いている。
ニムは軽く寝巻きの裾を引っ張り、それから両手で口元に当て、こくこくとそれを飲み干す。
穏かな時間が流れ、やがて頭を揺らせたニムは机に突っ伏す。それを見計らい、俺は抱き上げる。
廊下を歩いていくといつものようにファーレーンが待っているので、寝巻きの方は見ないように話しかける。
「食堂で寝ちまったんだ」
「ユート様……いつもすみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
「いや、いいさ。よっと」
もう既に勝手知ったるニムの部屋に入り、ベッドに寝かしつけ、シーツをかける。
側に座り、寝息が鎮まっているのを確かめ、それからニムの髪をそっと撫でてやる。
それらをずっと、後ろからマナ灯で照らしたファーレーンが見守ってくれる。
つまりいつの間にか、最初の頃と役目が逆転してしまった。それというのも。
「……やっぱり離してはくれないな」
「くす……はい。夜明け近くまで寝顔を見ている時もありますから。ですけど」
「うん。……飽きない、よな」
「……はい」
シーツからはみ出している小さな手。その先は、俺の服の裾をぎゅっと握って離さない。
最近はほぼ毎日になってしまった、この寝不足気味になる行事。独りではない夜。
大勢に囲まれるよりも。その筈だったのに。なんだろう、椅子の軋みよりも深く感じるこの安心さは。
ふと、窓の外を見る。相変わらずの星空。部屋を満たす静寂。それから……側にある温もり。
「……ん……ユー……お姉ちゃん……」
「惜しい」
「ふふ、もう少し、ですね」
きっと、寝言がフルネームで聞けた時。その理由もわかる気がする。それまでは、ゆっくりと。
この無防備な、あどけない寝顔を充分に堪能したいと思う。そんないつもの、独りではない夜明け前――――