『失望』の道行

第一幕

 バーンライト王国との戦争に突入してから、幾ばくかの時が流れた。
拠点となるリモドアの制圧を成功させ、サモドア山道からの奇襲部隊を退けた
悠人たちラキオススピリット隊に、ひと時の休息が訪れる。
しかし、スピリット隊隊長である『求め』のユートには、体も心も休まる時は存在しない。
まだエスペリアが補佐をしているとは言え隊長としての事務仕事、
体がなまらぬように日々繰り返される訓練、そして何よりも悠人の心身を脅かす、
【契約者よ……マナを……マナを寄越せ……!】
キィ――――ン
【最も弱き妖精……奴ならば、今の我でも容易くその身を……!】
永遠神剣第四位『求め』からの干渉が、今宵も悠人に襲い掛かっていた。
「ぐ……ぁ」
悠人本人の意識を殺ぎ落としていく強烈な頭痛と共に、
『求め』が言う所の「最も弱きスピリット」 
『失望』のへリオンの裸身と、痴態が脳裏に刻まれていく。
【妖精を犯し、殺し、我に、マナを……!】
「あ、ぐ……、だ……ま、れよ」
【マナを!】
「黙れ、この、バカ剣がぁっ!」
苦しみながらも寝台から自ら転がり落ち、それでは足りないとばかりに床に頭を打ち付ける。
幾度か繰り返すうちに内側から湧き出る痛みと欲望はひとまずの治まりを見せた。
「はあ、くそ、またかよ。龍を……殺しちまったあとの時からしばらく大人しかったと思えば……」
事実、悠人がスピリット隊隊長として本格的に働く以前から、
『求め』は執拗に悠人から意思を奪おうと苛烈に強制力を働かせてきた。
前回起きた大きな干渉がサードガラハム討伐後、エスペリアを前にしての物であった。
そこでもかろうじて『求め』を跳ね除ける事ができ、
その後は散発的に頭痛を送られる程度の干渉しか行われなかったのだが。
「今日のはまた随分と激しかったな、……言い訳が大変だ」


強かに頭を打ち付けた木張りの床に跡が残ってしまっている。
必要最低限の家具のみが置かれた悠人の部屋を特徴付ける、寝台周りの壁や床の傷。
激しい干渉から目を覚ますために暴れた跡だ。
どうやら、エスペリアたちにも『求め』の干渉の事は気付かれてしまっているようだが、
自身の下手な嘘に対して黙っていてくれるうちはそのまま誤魔化し続けていたかった。
「いいかげん、寝相やうっかり転んだせいには出来なくなってきたぞ。どうしてくれるんだバカ剣」
【…………】
強制力を働かせた名残か、青く光を放ち続けたまま『求め』は応えることなく壁に立て掛けられている。
悠人に対する干渉が失敗した時にだんまりになるのはいつもの事だ。
悠人は『求め』から目を外すと、一つ大きく溜め息をついた。
(それにしても、今度は第二詰所のみんなかよ)
悠人の頭に、先ほど見せられた光景が蘇ってくる。
艶やかに濡れたツインテールの黒髪、滑らかな白い肌を転がっていく水滴、首元から流れたそれは
スローモーションで黒スピリットの少女の体を舐めてゆく。折れてしまいそうな鎖骨のくぼみを抜け出た後に
殊更にゆっくりと、発育しきってはいないものの瑞々しい乳房に向かい侵攻を開始する。じりじりと歩を進め
慎ましやかなふくらみに沿って視点が移動していく。桜に色づく頂を進路にすえた水滴が、
高い粘度を持つようにじわじわとヘリオンの乳房を侵す。ついになだらかな丘の頂上を捉えた液体は
甘く緩やかな刺激を与えるようにしばらくの間ふるふると揺れながらその場に留まると、
重力に負け、軽くしこりかけた乳首を弾いて落ちた。同時に、戸惑いと恍惚の表情を浮かべたヘリオンの顔が――――
「って、何を思い出してんだ、俺は!」
実際は更に先の状況までが送られていたが、悠人は頭を振って妄想を追い出す。
一方的にビジョンを送られ、迷惑すると言うのならまだ自分を被害者に考えられる。
だが、『求め』は悠人自身の欲望を形にして見せていると語っていた。
認めたくはなかったがこんな風に妄想として見せられた内容を思い出し、あまつさえそれで興奮をしている事を自覚する度に、
それが事実であると考えざるを得ず、自己嫌悪を感じるのだった。


悠人はもう一度溜め息をつき、ひとまず落ち着いたことを確認すると自分の状態に改めて気がついた。
悪夢を見たときのようにうなされ、痛みを耐えて抵抗を続けていたため全身が汗だくだ。
(さすがにこのまま寝るってのは気持ちが悪いな……それに)
少し頭を冷やさないと、とてもでは無いが眠れそうに無い。妙に現実的な幻のせいで心が昂ぶってしまっていた。
「とりあえず、風呂に行くか。お前のせいだぞバカ剣」
汗を流して水でもかぶれば落ち着いてくれるだろうと思いつつ、原因となった『求め』を軽く睨みつける。
その瞬間、諦めていなかったように明滅を繰り返していた『求め』から一際強烈な光が悠人に降りかかった!
「!?」
一旦退けた直後に不意打ちを掛けられるのは初めてだ。
かろうじて床に倒れこむのをこらえると悠人は必死に『求め』を睨み抵抗する。
二回目であったためか強制力そのものはそれほど強くはない、しかしいつ干渉が起こるかと
緊張を強いられていた普段とは違い、ほぼ無防備に精神への進入を許してしまった。
意識を朦朧とさせたまま、震える右手が『求め』の柄へと伸ばされ、握り締めてしまう。
力の入らない体で『求め』を杖代わりにして脚を部屋の出入り口に向けて踏み出してしまいそうになる。
(だめだっ、このままじゃ……ヘリオンが!)
悠人に対しては強制力と共に、ヘリオンのイメージが繰り返し焼き付けられていく。
どう考えても体を乗っ取られた時に行き着く先はまだか弱い黒スピリットの犠牲だ。
兎に角、『求め』だけは持っていくと取り返しのつかない事になる。そう確信して心を決めると、
悠人は頬肉をかみ締め左手を柄尻に添えた。自分の意志通りに動いたことを感謝し、
内心でエスペリアに謝ると切っ先が床につく瞬間、
「いい加減にしろっ、風呂に剣持っていく奴があるかバカッ!!」
叫ぶと同時に左手に渾身の力で体重をかけ『求め』を床に突き刺した。
もとい、刺さるように出来ていない『求め』の切っ先をごすりという重い音と共に床にめり込ませた。
刀身の四分の一ほどが床板を貫いてしまっている。


【ぬ……!?】
強制力が弱く力の入らない右手では引き抜く事は出来なかった。
その隙に悠人は右手の指を左手で『求め』の柄から外していく。最後の一本を外す時に右手が
抵抗を続けていた反動で柄に横方向の振動が加わった。まるで枝がしなるように刀身全体に振動が伝わり
重苦しくもどこか間抜けな響きをあげて『求め』が震えている。それを見て、悠人は思わず苦笑を浮かべた。
【お、おのれ……】
「ははっ、いい気味だ。たまには体と頭を揺さぶられる気持ちを味わって反省してろバカ剣」
だんだんと強制力も弱まってきている。まだ少しは朦朧としているが、じきに自分の意志が戻ってくるだろう。
「とにかく風呂だな、うん」
【契約者よ、マナを……、いや、まずは我を解放せよ……】
「ふん、一晩はそのままだ。おかしな真似を続けたらこうして遊んでやる」
【ぬおおっ!?】
悠人は『求め』の柄を軽く弾き、ふらつきながら部屋を出る。その後ろ姿を薄く照らすように細く長く青い光が明滅を繰り返していた。
ビィィ――ン、と間抜けな音を鳴らしながら。

(風呂って……こんなに遠かったっけ……)
悠人はうろんな頭のままで館の中を歩いていく。普段は全く意識せずとも行えることがどうも上手くいかない。
体は自分の思ったとおりに動いてくれているが、その「自分の思った」という部分に違和感がある。
確かに風呂に向かって歩いている実感はあるが、何かが間違っているような感覚と、
これで良いのだという出所の不明な自信がせめぎあっている。
その上で更に悠人を苛むものが二度目に与えられたヘリオンの裸身を貪るイメージだった。
視覚で与えられていただけの感覚に、確かな性感が付け加えられてしまっていた。
それだけ深く侵食を許していたためだろうが、より深い自己嫌悪と、
イメージを追い出す事に集中するあまりに実際の体の動きと、周りに気を向けることが完全に疎かになっていた。
何時の間にか、悠人の体は第一詰所をふらりと抜け出し、誰に見つかる事も無く第二詰所の方向に向けて動き始めていった。


悠人の部屋では、『求め』が怒りに身を震わせながら、絶え絶えとではあるものの悠人に思念を送り続けている。
【……この身では、今宵マナを得る事は不可能か……。
だが契約者よ、この屈辱はその身をもって償って貰うとするぞ……!】
本日二度目の干渉を退けられ、マナを吸収するために必要な力を残すことが出来なかった『求め』は、
マナの不足による飢餓感を忘れ、悠人への恨みによって微弱ながらも力を振るい続ける。
【ククク……我を楽器扱いするとはな。許さぬぞ、契約者……】
本能によらずに送られる思念は、どこか楽しみを含んでさえいた。

そして、悠人は大浴場に辿り着いた。既にヘリオンに対しての異常とも言える劣情は収まりを見せていたが、
思考と行動に対する違和感は常に付きまとっている。しかしながら、第一詰所の造りと殆ど同じである事と
誰にも出会わなかった事が災いしここが第二詰所の浴場である事には未だに気付いていない。
だがそれも時間の問題だろう、悠人が脱衣所に足を踏み入れた時には浴室に明かりが灯っており、
中からはパシャパシャと水音も響いている。
(こんな時間に、他にも誰か入ってるのか……アセリアか?)
さすがに声をかけるのははばかられる。気付かれる前にそっと出て行くのが得策と考えて、
出入り口に向かおうと思った時、意に反し体は衣服入れが並ぶ棚を確かめるように眺め回していた。
(な、何を考えているんだ俺は!)
興味がないと言う事は無い。しかしこのような覗き、
あるいは下着ドロのような事をしでかす考えは悠人には全くもって湧き起こるはずが無い。
自分の行動に驚いているうちに悠人は中身が入った衣服入れを発見する。
そっと衣服入れを取り出し、床に置くとゆっくりと籠に入った衣類を確かめ始めた。


(待て、待て、待て、いくらなんでもこれはおかしい!なんで俺がこんな事をしなくちゃならないんだ!)
思考とは裏腹に、一番上に置かれ、几帳面に折りたたまれたスピリット用の服を広げてまじまじと見つめる。
白を基調とした簡素なデザインに、黒のライン。
これだけで入浴中の者が誰なのか特定できてしまうスピリットたちの服装の不自由さに
悠人は軽く憤りを覚えながらも行動と思考の乖離に納得がいった。まだヘリオンを諦めていないと見える。
(あの、バカ剣がぁ……)
朦朧とした頭では感知できなかったが確かに体には神剣の力がおかしな風に働いている。
この場所にも何時の間にか連れて来られたのだろう。
原因が分かれば後は全力で抵抗すれば良いだけでいつもの強制に比べれば痛みも少ない。
支配を脱した後に何食わぬ顔で服を戻してここを退散、部屋に帰って一晩中たわませ続ければ少しは大人しくなるだろう。
などと考えている間にも悠人の手は動き続け、一つ下に折りたたまれた黒のアンダーウェアをひとしきり愛でた後、
次の獲物を物色し始めた。
(いい加減にしやがれっ!)
本格的に抵抗を試み始めたために、悠人の動きは鈍くなり、物色する手も震え始める。
しかし、必死に抗うほどにこわばる表情と震えながら黒のタイツをつかむ手つきを傍から見れば、
単にスリルを満喫する変態にしか見えないのではないかと自分で情けなさを感じてしまうのだった。
とにかくヘリオンが風呂から上がる前に事を済まさなければならない。


悠人自身の目的と全く逆の行動にも使える表現で自らを奮い立たせると、
体を動かしている『求め』の力を振り払っていく。しかし、自分の手がつかんでいる物を意識してしまい
抵抗に集中することが難しい。タイツを放り出した後残っていた物は、
他の衣服に隠すように小さくたたまれた下着だけだった。色は白。
それに対し自分が起こそうとしている行動にも混乱が増すばかりである。
『求め』が何を考えて自分にここまでの変態行為を強要するのかは分からない。
だがしかし、この手が行おうとしている事には全力を以って抗わなければいけない。
悠人は伸縮性に乏しいファンタズマゴリア製の下着の端に手をかけて、
ぶるぶると抵抗を続けながらも徐々に、徐々に頭へと近づけていく。
(だ、駄目だ!このままじゃあ!)
その時、浴室から一際大きな水音が上がる。風呂から上がるのだろうか、
戸にはまったすりガラスに黒髪と肌の色が影を落とす。もう駄目だ。気付かれずに切り抜けるなんて絶望的だ。
そう思うと、もう形振り構ってはいられなかった。悠人は再び衝撃を与えるべく頭を振り下ろす。
「やぁ、めぇ、ろぉぉぉっ!バカ剣っ!!」
がすっ!と鈍い音を上げ、床とも壁とも違う感触にしばらく感じる事の無かったほどの痛みが悠人を襲う。
打ちつけた場所は衣服入れの棚の角。どれほどの勢いでぶつけたのか棚自体が破損してしまっていた。
ズキズキと痛む額の状態を考えることなく、全ての感覚が自分のものとなった事、
そして頭に下着をかぶっていない事に安堵し、悠人は棚に背を預けてほっと溜め息をつき目を閉じた。
意識を失う瞬間、右手に残る布の感触に気付き、最後の力でそれを出来る限り自分の体から離しておく事には成功した。
後は静かに闇へと落ちていく。


しかし、それもつかの間。
「な、なな、何かあったんですか、ユートさまっ!」
悠人の叫び声と棚の破砕音を聞きつけて浴室からヘリオンが飛び出してきた。
ぐったりとした悠人の姿を認めると、入浴中に解く事は無かったのか、
特徴であるツインテールの先から水滴を散らして駆け寄ってくる。
よほど動転しているのか体を隠すものも纏わずに、棚に寄りかかり倒れている悠人と、
砕かれた衣服棚を見比べて悠人の背中側の隙間に左腕を差し込み支え起こした。
その時に、冷や汗が全身を濡らし体温を奪っている事に気付くと、そのまま悠人の体を抱え込んで
頭に振動を与えないように緩やかに悠人を揺り動かした。
「ユートさまっ、ユートさまぁっ目を開けてくださいっ」
いや、動転するのも当然か。悠人の額からは今もなおたらたらと血が溢れ出し、顔を染めていた。
しかもその血は乾く前に金色の霧となって消えていくのだ。
傷自体はそれほど酷く無かったが頭からの出血である事、
そして実戦経験の少ないヘリオンとってマナに還る血は十分にショックを受ける物だった。
「あああ、ち、ち、血が、とりあえず、血を止めなきゃ」
布やタオルを探す事にも気が回らずにヘリオンは自らの濡れた手で悠人の額を汚す血を拭い取っていく。
残念ながらそれで拭いきれるはずも無く悠人の顔とヘリオンの手に赤い色が広がるだけだったが、
薄く延ばされた部分が霧と化すとその下には血は残らずに肌が見えた。
傷口の周りの血をひとまず拭い終えると、もう一度悠人をそっと揺さぶる。今度は目を覚まさせるためにではなく、
本当に気を失ったままなのかどうかを確かめるためだった。反応は期待の通り起こらない。
目覚めない事を喜んだ事に罪悪感を覚えつつもヘリオンの鼓動がさらに高まる。
先ほどから早鐘のごとく打ち鳴らされ全身に血液を送っているが、単なる動揺だけではないものが、
この先の行為にはあるのだ。深呼吸を大きくすると、ヘリオンは意を決し悠人の背中を支えたまま、
少し邪魔な硬い前髪を頬でずらして額の傷に口付けた。


「ん……、ぴちゃ、ちゅ、ん、んん……ぷは、ぁ」
木片や棘が刺さっていないことを舌先で確認すると、念のために傷口を吸い出してみる。
正しいのかどうかは自信が無かったが、やっておくに越した事は無いと思っての事だ。
もう一度傷を舐めてから、唇を離した。傷口はやはりそれほど大きくは無く、
唾液に混じって滲みでる血もその勢いは殆ど無い。ヘリオンは安心して息をつこうとし、
口に血混じりの唾液を含んだままである事に目を白黒させ、悠人にかからないようにそっと吐き出した。
赤が混じる透明な液体をみて、ぽつりと洩らす。
「ちょっともったいなかっ、じゃない。もし木の欠片とかが入ってたら大変ですから、そんな飲み込むなんて」
ぱたぱたと空いている右手で自分の顔を扇ぐ。
未だ動悸が納まらぬまま自らの行為を思い返すと顔の火照りが一段と増すように感じる。
(し、仕方なかったとはいっても、ユートさまのおでこに……)
改めて悠人の額に目をやると傷口が隠れるくらいには血が滲んでいたが、流れ出るほどでは無さそうだ。
少しだけ落ち着いたヘリオンだが至近距離から悠人の顔を見つめている事に気付くとまた
ばくばくと心臓を急発進させる。そして、今もなお悠人の顔を汚す血液を目にとめると
こくり、と喉を鳴らした。放っておけばマナの霧となって消えるのは分かっていたが、
それよりも自分のうちに湧いた興味に誘惑されて自分の行動を止めることが出来ない。
血が付いていなければ頬に口付ける理由はなくなってしまうのだから。
顔をきれいにするだけだと自分に言い聞かせながらも、そっと唇を血液の残る頬に寄せていく。
(ユートさま、ごめんなさい……わたし、いけないコトしちゃいますっ)
一大決心をしつつも、本人の躊躇いを表すようにじわじわと悠人とヘリオンの距離がつまってゆく。
ところが、目を閉じる事も忘れてゆっくりと顔を近づけていたのが幸か不幸かヘリオンの目の端に、
悠人のまぶたがピクリと震えるのが映った。それのみならず、耳元にある彼の口からも小さく呻き声が洩れる。
慌てて顔を離すと、残念とは思いつつ、素直に目を覚ました事の嬉しさが瞳を潤ませた。
悠人の肩をもう一度揺すり、何度も呼びかける。
「ユートさま、お目覚めですかっ?」


「……さ……、ユー……さまぁ」
悠人は背中と右半身にあたたかな柔らかさを感じながら薄く目を開いた。
痛む頭にぼんやりとした視界、耳をくすぐる喜びの込められた呼び声。
だんだんと視力が戻った目の前には、嬉し泣きの表情を浮かべたヘリオンの顔がごく近くにあった。
まだ意識がはっきりとしないまま、口をついて言葉が出る。
「ヘリ……オン?」
「あぁ、ユートさま、気が付かれたんですね。よかったぁ」
そう言うヘリオンの口元を視界に納めた瞬間、悠人の薄ぼんやりとした意識が急速に覚醒に向かう。
そこには赤く血が付着していた。がばっと身を起こそうとして、頭の痛みに邪魔をされ、
更にはヘリオンにも体を押さえられてその動きは上手くいかなかった。
頭痛で上手く回らない口を動かそうとするうちに、ヘリオンのほうから、
「ユートさまはしばらくじっとしていて下さい、もっときちんと手当てをしなくちゃいけないんですから」
と、微笑んで言われてしまった。それでもこれだけは確かめておかないと、と悠人は尋ねる。
「あのさ、ヘリオン」
「はいっ、なんでしょうかユートさま」
「口に、血が付いてるけど、大丈夫か?俺、ヘリオンに何か酷い事してないか?」
体の主導権は取り返した自信があったが、気を失っている間に何か起きたのではと悠人に不安が襲い掛かる。
そんな悠人の心配をよそにヘリオンは頬を上気させ、慌てて口元を拭った。
「な、な、何でもないですっ、これは、わたしが、勝手にした事ですからっ。
ほら、傷なんて無いでしょう。その、えと私の血じゃなくて
ユートさまの怪我に、その、申し訳ないと思ったんですけど……しょ、消毒が……」
最後の方はよく聞き取れなかったが、ヘリオンの言う通り、彼女の顔に傷は無かった。
それを確認すると、悠人は安堵して微笑んだ。


その直後。
「良かった、無事で……っ!?」
ヘリオンに向けて呟き、悠人が己の体を包むぬくもりの正体を確かめようと身じろぎするのと、
「そ、そんな、ユートさまこそ大きな怪……が、ぁ、くしゅんっ」
悠人の笑顔に見とれ、緊張が漸く取れたヘリオンがくしゃみをするのが同時に起こった。
互いが自分の状態を把握するのにまず数瞬。
裸のヘリオンにしっかりと密着されて介抱を受けている悠人。二人は言葉も無く硬直する。
ヘリオンのスレンダーな身体を水を含んだ髪の毛からたれた雫が伝っていく。
脱衣所の空気に晒され、またヘリオンと悠人の体温で乾きかけていた肌に水滴の跡がついていく。
うなじを通り、背筋をくすぐってヘリオンの身体がびくりと震える。
それだけの時間、二人は互いの顔をまじまじと見つめあい、赤く上気していく様を観察しあった。
のろのろとヘリオンの両手が自身を隠し、悠人に背を向けるように身体の向きを変える。
そして、ヘリオンが悲鳴をあげるための息を吸い込んだ次の瞬間、悠人が声を裏返して叫んだ。
「ごっ、ゴメン、ヘリオン!とりあえず、これを!」
ヘリオンが声を出す機会を逃して呆然としているうちに、
悠人は頭の痛みを忘れたように学生服の上着を脱ぎヘリオンの肩にかけると、
あたふたと床に散らばったヘリオンの衣服をかき集め、ヘリオンに背を向けてそれを後ろ手に差し出した。
「あ……ありがとう、ございます……」
悠人の慌て具合を見て、申し訳なさを感じる。
そもそも裸で抱きついていたのは自分なのだから悲鳴を上げるのは筋違いだと思い直した。
かといって恥ずかしさが消えるわけではなく、ヘリオンは服を受け取り、
悠人から離れ背を向けて手早く――あわてて下着を穿き損ねる事数度、
そのたびに上がる小さな悲鳴を聞かなかった事にするのに悠人は苦労した――身につけた。
借りた悠人の服もせっかくだから、と上に羽織ったままだ。


「あの、ユートさま、もう……」
「ああ、ゴメンな、ヘリオン」
紅潮する頬は互いにそのまま、二人は再び向かい合った。しかし、ヘリオンの顔からはすぐに血の気が引いていく。
「ユートさまっ、血が、血がまた出てますっ!」
「血?」
「はいっ、おでこからこう、たらーって!」
「そっか、ズキズキすると思ったら……。いいよ、唾つけとけば治るだろ。っとと」
ヘリオンを安心させようと微笑みながら立ち上がろうとした悠人だが、頭痛からふらついてしまう。
その様子を見てヘリオンが駆け寄り、悠人の身体を支えた。
「だ、だめです、唾くらいじゃ治りません。それならもう治ってますっ」
「え?」
「いや、じゃなくて、ちゃんと手当てをしますから来て下さいっ」
悠人を運べる様に肩に担ぎなおす。さすがはスピリットと言うべきか、火事場のなんとやらなのか、
悠人の重みは気にならない。身長差から悠人にはつらい姿勢かもしれないが、歩くのに支障はないだろう。
再びの密着状態に悠人が困惑の声を洩らす。
「え、俺、風呂に入りに」
「頭にケガをしてるのに入っていいわけないじゃないですか。
それならそれも面倒見ますから、とにかく来て下さい、いいですねっ」
「あ、ああ」
悠人はいつに無く押しの強いヘリオンに戸惑ったまま、勢いに負けて体重を預けてしまう。
一方のヘリオンは、その場の勢いで発した自身の発言の意味に考えが及び、
悠人に紅潮した顔を見られないように俯くと
心を固め自分の部屋に向かって悠人の負担にならないようにそっと歩き出した。


所変わって、ヘリオンの自室寝台の上。悠人はそこで背もたれに身を預け、
目を閉じて頭の中を巡るヘリオンの姿をどうにかかき消そうと悶々としていた。
『求め』に見せられた幻像と、先ほどに見てしまった本人の白い肌。
似てはいても実際に見た質感に勝る物は無く、幻像が浮かべていた淫靡な表情が、
本人の紅潮した顔とダブり、融合していく。
濡れタオルを当てた頭を軽く振ると痛みが走り一時的には消え去るのだが、
次々に湧く妄想に抗うのに多大な精神力を要する。
その妄想に拍車をかける音が悠人の耳にやけに大きく響く。ヘリオンが部屋の隅で衣擦れの音を立てながら、
身体を拭き、新しい服を身につける音である。
乾ききっていない身体に適当に服を着ただけのヘリオンに対して、
寝台に寝かされ額を拭かれていた悠人が強く、自身の手当てよりも着替えを優先させた結果だ。
悠人が失念していた事は、自分の部屋もスピリットの部屋も基本は部屋数が一つである事。
ヘリオンからは寝台から出ることを許されなかった悠人は、
「でも、あの、目は閉じててくださいね?」
と、上目使いで頼まれ、仕方なく寝台の上で大人しくするしかなくなった。
そして、その上目使いでおねだりをするヘリオンの妄想を打ち払った時に、
「ユートさま、お待たせしました」
と救急箱を持ったヘリオンが枕元に近づいてきた。悠人が目を開けてその姿を確認すると、
枕もとの椅子に座ったヘリオンの衣装は黒を基調とした作業ドレスに白いエプロン。
エスペリアで見慣れてきてはいたものの、主に訓練の時に顔をあわせることが多かったヘリオンが
メイド服を着ている事に驚きを隠せない。
「この服ですか?部屋の中で何かする時はみんなこの服を着てるんですけど、あ、どこかおかしいですか?」
「いや、どこもおかしくないよ、悪いな、じろじろ見ちまって」
ヘリオンは赤い顔を伏せると、いえ、じゃあちょっと失礼しますね、と悠人の額に当てられたタオルをはがし、
そこについた血と傷口とを確かめた。それほどしみ込んではいないし、新しい血も滲んでいない。
後は消毒して包帯をまけばとりあえずの処置は終わるだろう。


救急箱から消毒液と包帯を取り出し、悠人に向き直る。消毒液を脱脂綿に浸し、
顔と手を悠人に近づけながら気恥ずかしさをごまかすように話しかけた。
「ところでユートさまは、どうしてこちらにいらしたんですか?」
だがそれは、悠人にとって最も答えづらい質問だった。
悠人はびくりと身体を震わせると答えを避け、目をそらして不自然ながらも、
「ヘリオンこそ、なんでこんな時間に風呂にいたんだ」
と質問で返してしまう。
強い口調に驚いたヘリオンが手を止めると、悠人の額の傷口の周りにいくつかの傷痕が残っているのに気がついた。
手を膝元に戻し、目を伏せる。風呂場で聞こえた叫び声と、自分達スピリットの中でも、
強い神剣を用いるものに襲い掛かる作用。答えは無くとも、悠人の行動の原因に想像がついてしまった。
自らの思考の「強い神剣」と言う部分にちくりと胸が痛む。
悠人は悠人で、顔色を無くしたヘリオンの様子から自分の失敗に気がついた。
余計な心配と、不安を植え付ける結果になっただけではないかと後悔に顔が歪む。
不意に訪れた沈黙を打ち払いたくて、ヘリオンは努めて明るく声を出した。
「えと、わたしは……笑わないで下さいね。実は、他のみんなが寝静まったあとに一人で訓練してたんです。
素振りくらいしか出来ないけれど、わたしはまだ戦いじゃ役に立てませんから何かしてないと落ち着かなくて……
その後で、汗かいちゃったから、お風呂に」
重い雰囲気を振り払おうとするヘリオンに感謝し、顔をほころばせた悠人だが、その発言の中身にも笑みを禁じえなかった。


「ああっ、笑いましたね、人が正直に言ったのに、笑っちゃうんですねユートさまっ」
「ごめん、でもまさか秘密特訓だなんて思って無くてさ。
でもそうだな、正直に言ってくれたんだから俺も言わなくちゃいけなくなったなぁ」
「ユートさま、それは……」
「だって、バレちまったんだろ。それならちゃんと俺の口から言わないと卑怯だもんな。
うん、ちょっとバカ剣がまたちょっかい出してきやがってさ。
ヘリオンに迷惑かけるような大事になるとは思ってなくて、油断してたら結局この様だ。ほんと、ごめん。
でも、もう大丈夫だからそんなに心配しないでくれよ」
「迷惑なんてそんなことないです。それに、ユートさまがこうしてケガまでして神剣に逆らってくれたから
わたしはこうしてユートさまとお話できてるのかもしれませんよ」
ふっと顔を見合わせてたがいに微笑みをうかべる。暗い空気は何時の間にか消えていた。
ヘリオンは悠人の前髪をそっとかきあげ、できるだけしみない様に消毒液をつけていく。
少し顔をしかめるが悠人にとって干渉を受けている時以上の頭痛は無く比べればたいした事ではない。
しかし、ヘリオンにはその表情の変化も申し訳なさを感じさせる物になるのだった。
「ごっ、ごめんなさい、痛かったですよねユートさま」
「いいってこのくらい。だけど、もう血も止まってるんだしそんなに丁寧にしてくれなくても良いんじゃないか」
「ダメです、まだ一人で立つとふらふらしちゃうんでしょう?これでも応急処置にしかならないんですから
明日になったらハリオンさんかエスペリアさまに診てもらいますからね」
「……エスペリアはちょっと困るな」
部屋の惨状を思い出し、悠人は苦笑を浮かべる。その間に手早く、くるくると頭に包帯が巻かれていく。


「はい、終わりです。きつかったり、ゆるかったりしてませんか?」
「ああ、ちょうどいい。でもヘリオンって意外と器用なんだな、知らなくて悪かった」
「そんな、だってこんなに長くユートさまとお話するのは初めてなんですよ。
ユートさまがわたしのことよく知らなくても当然じゃないですか」
救急箱に道具を直しながら、残念ですけどね、と呟きをつけたす。
言われて、はたと気付く。
確かに悠人が自分の部隊のスピリット達と顔をあわせるのは大抵が訓練の時と戦闘の時。
いつもは離れた二つの詰所で生活するために普段の様子を知っているのは第一詰所の面々のみ。
しかも最近はエスペリアの態度もなんだかぎこちなく、アセリアは相変わらずよく分からない。
オルファとも戦闘に対しての姿勢をめぐって気持ちを乱されたばかりだ。
「そっか、そうだよな。俺、みんなの事何も知らない」
「ユートさま?」
悠人は今の自分の気持ちとヘリオンの行為、また、この世界に来てから自分に降りかかった事を思い返す。
まだはっきりとはしなかったが先の見えない暗い靄の中に一筋の光が灯ったような気がした。
「さんきゅな、ヘリオン。なんか、自分が何をしたいか、ちょっと分かった気がする」
「え、え?わ、わたし何かしましたか?」
「ああ。怪我の手当てはしてくれたし、頑張って秘密特訓してる事も教えてくれたし。
戦闘だけが役に立つ、立たないの基準になるわけじゃないんだからさ、
ヘリオンはそんなの気にしないでそのままでいるのがらしいのかもしれないな」
スピリットの存在意義を根底から揺るがす発言に、ヘリオンは目を丸くする。
「ユートさま、いくらなんでもあんまりですよぅ。わたしだってちゃんと戦えるんですからっ」
「そうか?まあ今は戦わなくちゃいけない時だけど、俺はこんな風に過ごすのも大事だと思うんだ」
悠人が心からそんな事を言っているのが分かって、どう反応して良いのか理解できない。
だが、戦いだけが全てではない、という自分の中に無かった考えにヘリオンの心が揺れる。


とは言え、それについて思いを馳せる前に悠人の言葉そのものに食いついた。
「そうか?って、結局わたしが足手纏いってことじゃないんですかぁっ」
「そ、そんな事無いぞ、俺だって皆に助けてもらってやっと戦えてるくらいなんだ。
夜中に特訓してるなんて見習わなきゃいけないのは俺のほうじゃないか。
あ、そうだ、なら次にやる時には言ってくれないか、一人でやってもつまらないだろ?
それに、特訓なら俺もしなきゃいけないしさ」
「え、ええええぇぇ!?」
悠人の言葉はヘリオンの予想を越えて、驚かせる物ばかりだ。ヘリオンの脳裏には、自分の構えを
手取り足取り指導する悠人の姿がくっきりと浮かび上がった。瞬時に頬を染めて想像を追い払うために
首を左右に振る。
「やっぱ駄目か、そりゃあ秘密特訓だもんなぁ」
「え、いえ、いえいえいえ、いいですっ、大丈夫ですっ、ユートさまが良ければ
毎晩でもかまいませんっ。わたしはいつもやってますからっ」
「い、いつも!?」
今度は悠人が驚く番だ。ヘリオンにとって、戦いで活躍できない事はそんなに苦しいのだろうか。
いや、ヘリオンだけに限らないのだろう、スピリットたちは戦う事でしかその価値を認められることが無い。
そして、彼女達自身も戦いしか知らないし、知らされる事も無いのだ。
自分が直接目的を与える事はできない。だが、その手伝いは喜んでしていきたい。
例えば夜の特訓もヘリオン自身が自らの意志で行う事。なら、そこから何かを
見出す事になるのかもしれない。そう思って言葉を続ける。
「じゃあ、夜に時間があればなるべく行ってみるよ。いつもの訓練棟で良いんだよな」
「は、はいっ、お待ちしてますっ。あ、それじゃあ、これをしまってきますから
お風呂の代わりはもう少し待っててくださいねっ」
何度もこくこくと頷くヘリオン。首の動きに同期してぴょこぴょこと動く
ツインテールが微笑ましい。ぱたぱたと救急箱を持って、部屋を出て行った。


(これは、早速明日にでも行かないと大変だな)
あの様子では自分が行くまで夜明けになっても待っていそうだ。そう考えた時、
ヘリオンの最後の言葉が胸に引っかかった。
「……風呂の、代わり?」
そういえば、と悠人は部屋に連れてこられる前のヘリオンの言葉を思い出す。
風呂には入れないから、その面倒も見る。確かにそう言っていた。
「まずい、いくらなんでもそんな事までさせるわけにはいかないぞ」
ヘリオンはまだ帰ってこない。今のうちに抜け出して部屋に戻ろうと
寝台から脚を下ろし、あわてて立ち上がろうとした悠人だが腰を浮かした途端に
くらりと目眩を感じて、ぼすんと寝台に尻を落とす結果となってしまった。
外傷よりも、中身に衝撃がいってしまったのかも知れない。とにかく、
一人では立ち上がる事もままならない事を認めると、悠人は溜め息をつき
面と向かって断ればいい、と覚悟を決めてヘリオンを待った。

再びヘリオンが扉を開けて入ってくると、今度はその手に湯の入った桶と、
数枚のタオルを持っていた。目には強く自分の行動を全うするのだという意志がみなぎっている。
寝台に腰掛けた体勢になっている悠人を見咎めるときゅっと眉を寄せ、口を尖らせた。
「ユートさま、ちゃんと寝てなくちゃダメじゃないですか
まあ、これからその姿勢になってもらう所だったんですけれど」
と寝台脇の椅子に桶を置き、タオルを湯に浸し、ぎゅっと絞る。
妙に気合の入ったヘリオンの様子に先ほどの思いは何処へやら
悠人はたじたじと見れば想像のつく事を尋ねだした。
「あの、ヘリオン、何をする気なんだ?」
「身体をお拭きします。ですから、その、服をお脱ぎください!」
自分の言葉に耳まで赤くしながら、しかし有無を言わさぬ勢いで悠人に指示を出す。


ストレートな要求に悠人も赤面し、抗議を試みた。
「な、そ、そんな事、してくれなくて良い、そうだ、自分でできるから
ヘリオンはちょっと外に出ててくれよ、終わったら、呼ぶから!」
「ダメですっ、ユートさまはケガしてるんですから動いちゃいけませんっ
それに、ここはわたしの部屋です、出て行く理由もないですっ」
ヘリオンの理屈は無茶苦茶だ。エスペリアあたりが聞いたら顔色を変えて飛んでくるだろう。
だがその分、てこでも動かないと悠人に確信させる雰囲気を感じさせた。
悠人は決して使いたくは無い最終手段、隊長命令という事にして出て行ってもらうしか無いと口を開き――
「こ、これ――――わぷっ!?」
湯気を立てるタオルを鼻と口を覆うようにあてられ、完全に気勢を殺がれた。
驚いて瞑った目を開けると、ごく近距離に迫る真っ赤な顔のヘリオンの瞳が
悠人の目に映った。さらに悠人の思考能力を奪うように低く声をおさえて囁く。
「ユートさま、見ました、よね?」
「むぐ!?」
「わたしのはだか、見ちゃいましたよね?」
悠人の脳内に、ヘリオンの裸身の映像が再生される。『求め』からの幻でなく、
現実に起こった自身に密着する感触にまで想像が及び、完全に言葉を失う。
悠人はヘリオンの瞳から目を離すことが出来ない。羞恥に潤ませながらも
強い意志を宿し、悠人の思考を止めてえもいわれぬ迫力で心を縛る。
「ですから、わたしにも見せてください。ユートさまが見ちゃった場所だけでかまいませんし
ユートさまが見せないところは、ユートさまは見てないって信じます。だから、お願いします。
でないと……不公平です」
湯気混じりの空気を吸って、悠人は思考を再開させる。
ヘリオンは、オルファのように裸体に対して無頓着なわけでも
何時かのエスペリアのように、己に理由のつかめない奉仕をしようと
言うのでもない。ただ、自らに起こった事をそのまま返し、
互いをフェアにしようと言っているだけだ。しかも、悠人の裸を見るのに
ヘリオン自身が恥ずかしがっている。なら、自分も一緒に困るだけでヘリオンの
気が済むのならと、まとまらない頭で判断を下した。


幸か不幸か、いや、今は幸いか。密着状態のおかげで自分の身体の影になった部分は見えておらず、
頭に浮かんだ映像に反応している自分自身を含める辺りは見せなくても良い。
タオルから顔を外して、ヘリオンに言った。
「わかった。ほんとに誓って、拭いてもらう所以外は見てないから。
そこ以外は自分でするし、部屋からも出ていてもらうからな」
黙って、ヘリオンがこくりと頷くのを確認すると、悠人は上に着ていた制服のシャツを脱いだ。
「あの、じゃあ、まずはどこから……?」
「あ、うん、とりあえずは顔、かな」
「そ、そうですね、顔は、絶対見ましたねっ」
包帯をずらさないようにそっと、丁寧に頬や鼻筋、耳にあごと順に
ほこほことあたたかいタオルで清められていく。
だが、悠人は内心、考えなしの自分を罵倒し、これから先を考えると顔から火が出る思いだった。
「お、終わりましたっ」
「え、あ、なら、首から、右腕にかけて」
「はい、力、抜いてくださいね」
拭いてもらう場所を指定する事それ即ち、悠人が凝視したヘリオンの裸身の場所を告白する事に他ならない。
ヘリオンは覚悟を決めていたのか照れながらも汗で冷えた身体をほぐすよう丹念に手を動かしていく。
「き、気持ち良いですか、ユートさま?」
「ああ、も、もちろん」
拭われた場所から強張りが取れていくようだ。だが、もう二人にとって無難な場所は残されていなかった。
それでもヘリオンに視線で促され、次の場所を言わなければならない。
悠人はヘリオンの顔を盗み見た。目をきょときょとと忙しなく動かし、
タオルを持った手を後ろで組んでもじもじとさせっぱなしだ。
その様子を見ては悠人もさらに落ち着きを無くし、鼓動を高鳴らせる。
駄目だとは思いつつ、自分に抱きついていたヘリオンの姿を再生させてしまう。
右半身に柔らかく押し付けられていた肌の感触を思い出し、息を呑んで声を発する。
「……お」


「お!?」
かすれた声をあげて、ヘリオンは自らの薄い胸に手を当てる。
ヘリオンはヘリオンで、悠人から言葉が発せられるたびに、あの時の自分の行為を
逐一思い出してしまい、気が気ではないのだ。悠人の肌を拭くたびに
それがそのまま自分の肌をもう一度見られて、更には触れられているような感覚に変わって
羞恥を煽られ、そしてまた、身体の火照りを感じる結果となってしまっていた。
その仕草に息を詰まらせた悠人は、咳払いを一つすると、慌てて付け足した。
「おなか、腹だよ、腹!」
だが、ヘリオンは悠人の顔を覗き込み、目を潤ませて言う。
「ユートさま、ちゃんと正直に言ってください。わたし、どこを見られちゃったのか分からないのは不安ですから」
「う……む、胸のあたりも、お願いします」
「上半身、ほとんど全部じゃないですかぁ」
ぽつりと呟き、ゆっくりと手を滑らせて鎖骨辺りからごしごしと拭いていく。
立ったままではやり辛くなってきたのか、悠人の肩に手をかけて立てひざをつく。
ヘリオンの手が胸板にかかり、上目使いで囁く。
「ここも、なんですよね?」
悠人はもう観念して黙って頷くしかなかった。胸を丁寧に拭うヘリオンを上から見下ろすと、耳まで赤くなっている。
だが、胸のうち、ある場所付近で手をぴたりと止め、今度は言葉をださずに目だけで確認を求めた。
潤んだ視線に射すくめられ、素直に認めるしか悠人にできることは無い。
互いに顔を見合わせ、悠人の頷きを確認したヘリオンは首元までを羞恥に染め上げると、
わざとかそうでないのか、殊更ゆっくりと悠人の胸の先端を擦った。
「こんな所を見られちゃったんですね……ユートさまに」
「うあ……」
「すごく、どきどきしてますよ?」
「ヘ、ヘリオンだって、真っ赤じゃないか」
「見られちゃったんだって思うと、わたしもどきどきするんです
おかしいですね、いまユートさまの身体を見てるのはわたしなのに」
今度は、照れ隠しか力強くがしがしと反対側の胸を擦る。
ひょっとして、と悠人は思う。上半身くらいは普通に拭いてもらっても良かったんじゃないかと今さらながら後悔した。


「さ、後はおなかですね?」
「ああ、って、ちょ、ちょっと待ってくれ!どこに座ってるんだよ!?」
「え、だって横からじゃ反対側が拭きにくいじゃないですか」
ヘリオンは悠人の脚の間の正面に陣取り、腹筋の辺りを拭き始めていた。
自然、ヘリオンの頭がちょうど悠人の股のところに来て、上から見下ろす角度では
ひどくいやらしい光景にみえる。一生懸命に下腹やへその周りを見ながらタオルを
擦りつける仕草は全く別の動作を悠人に連想させた。必死にヘリオンの顔の下にある
モノを反応させないように努めていた。が、先ほどからの胸への刺激やヘリオンの仕草に
耐えかね、最後にはヘリオンが細く息をついたときに呼気があたり、
ぴくりと彼女の目の前でズボンを持ち上げてしまった。
ばっと顔をあげるヘリオン。申し訳なさと情けなさで真っ赤になって小さくなる悠人。
そのまま、ヘリオンはゆっくりと顔に笑みを浮かべ、
「ユートさま?」
「なっ何?」
「お腹の周りで、拭いてもいいところ、まだありますか?」
と、全部言ってしまってくださいというオーラを上目使いに込めて、
問い掛ける。つまりは、後はどこを見ちゃったんですかと
聞いているわけで、もうここまできたら答えないわけにも行かなかった。
「……そ」
「はい?」
「おへそ、つい」
「そ、そんなところまで……」
ひょっとしたら、胸の時よりも恥ずかしがっているのでは無いかと思わせるくらいの
動揺を見せる。しかし、目を閉じて深く呼吸をすると、ヘリオンは悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「ヘ、ヘリオン?」
「わたしも、ユートさまの事、あんまり良く知りませんでした」
「何をするつもり……」
「思ってたよりも、ずっとえっちだったユートさまにはお仕置きが必要みたいです」
細い指先にタオルを巻きつけ、ヘリオンは悠人のへそをぐりぐりとほじくった。


「う、くっ」
「え、痛かったですかぁ?」
「いやちょっと待ってそれわざと」
「知りませんっ。それよりも、ほかに見ちゃったところは無いんですか
『えっち』のユートさまっ」
「ない、ない、お腹から下は『再生』に誓って無い!」
スピリットたちに伝わる諺まで使って否定する。
「ほんとですかぁ?」
こりこりと勢いを弱めてへその中を攻められる。微妙なくすぐったさと痛みが混じり
うっすらとした快感が悠人の背筋をかけ上った。
「うぁっ、あ、あ、背中、上着をかけるときに、背中をっ」
「背中、ですね。わかりましたっ♪」

無防備な背中をあの状態のヘリオンに見せて、無事で済むはずが無いと
戦慄した悠人は、思い切り謝り倒して、ヘリオンの機嫌を取り戻す事に成功した。
寝台に腰掛けた悠人の後ろから、寝台の上に膝をついたヘリオンが再び丁寧に
また湯気を立てるように新しく絞られたタオルで、悠人の背中を擦っていく。
「ところで、ヘリオン。ヘリオンは俺の事、一体なんだと思ってたんだよ」
「え、それは、その」
「言いたくなかったら言わなくていいけど、どんな風に思われてたのか
ちょっと気になってさ」
ちゃぷ、ともう一度湯にタオルを浸して、絞る。
「そう、ですね。初めてお会いした時の事、覚えてますか?」
「ああ、確か、ナナルゥとセリア以外のみんながエスペリアから紹介された時だよな。
あの二人はもうちょっと後で入ってきたから」
そっと、悠人の背中の真ん中にタオルを乗せ、さらに両手を重ねて置き、
目を閉じて、そのときの情景の中にいるように声を紡いだ。


「ええ、それで、ですね。わたしたち、自己紹介したじゃないですか。
本当は位の低い人からするはずだったから、わたしが最初に
永遠神剣第九位『失望』のヘリオン・ブラックスピリットです、って言ったら」
思い出して、くすりと笑みを浮かべる。
「そしたら、ユートさまったら、
『長くて覚えにくいから、ヘリオンでいいよ。
他のみんなも適当に名前を教えてくれればそれでいい』
なんて言って。ネリーやオルファがはしゃいでしまって」
「よしてくれ、あの後エスペリアにこっぴどく絞られたんだから。
でも、それがどうかしたのか。やっぱり、常識知らずだと思ったとか?」
背中のタオルを通して、手のひらに悠人の鼓動が伝わってくる。
ヘリオン自らの鼓動はだんだんと高まり、頬に血が上っていく。
「いいえ。いままで、わたしに会った人間の方はみんな、ほんとにわたしの剣の名前
そのものの顔をしてきたんです。きっと、役に立たないから」
ぴくり、と動かしていなかったヘリオンの手に、振動が伝わる。
それこそが、ヘリオンが悠人を想う、理由。
「それが、いきなり神剣なんて関係なしに接してくださって、
本当に、お優しい方なんだと、その時に思いました」
ゆっくりと、背中を拭き始める。
「なんか、買いかぶりすぎだと思うけど」
「そんなこと、ないです。ケガしてたのに、わたしの心配をしてくださったり、
わたしと一緒に訓練しようって言ってくださったり、今日だけでたくさん、
ユートさまの優しさに触れました」
「そっか」
タオルを広げ、肩にかける。ヘリオンの心臓は、動作のゆっくりさと反比例して
暴れている。
「それに、すごく優しいけれど、それだけじゃないって知りました」
「う」
「ユートさま、あの、わたし、もっとユートさまのこと、知りたいです」


悠人から少し離れ、寝台に腰をおろす。
俯いた顔は既に真っ赤で、普段の自分からはとても想像できない
積極さに驚きながらも、目には決意の光がしっかりと宿していた。
悠人の、広かった背中を見つめ、反応を待つ。
「そうだな、俺も、知りたい」
ぎゅっと目を瞑りつつも、身体を硬くしないように気をつける。
しかし、続けられた悠人の言葉は。
「俺も、みんなの事をちゃんと知って、みんなにも
俺の事知ってもらえばもっと隊長らしくなれるかもな」
「え?み、みんな、ですか?」
ヘリオンが目を開けると、肩にかかったタオルで後ろ頭をふいている、悠人の姿が見えた。
「ヘリオンだって第一印象で俺の事そんな風に思ってても
今はちょっと違うんだろ?俺はみんなのことをまだ良く知らないし、
逆だってそうだ。そんなのでいきなり隊長なんてできるはずなかった。
こんな事で、みんなの上に立って守る事なんてできない」
言葉を失って、呆然と悠人の後姿を眺め続ける。振り返って、にっこりと笑うと、
「今日は、ヘリオンが頑張り屋で、傷の手当てをするのが上手くて、
それで、その、怒らせるとちょっと怖いかもっていうのが分かって、良かった」
それでも、その笑顔を向けられるのはとても嬉しくて。ヘリオンは困った顔で笑うと、
「わたしも、ユートさまの事、もう少しだけ分かりました」
とだけ、返した。
呆れるほど鈍いくせに、人の心をつかんで離さない。
さらには、デリカシーに欠けるのだ。


「それで、ユートさま、一人で立てるんですか?」
一旦ヘリオンが部屋を出て、脚を清め終わった悠人に呼ばれ、
寝台に腰掛けたままの悠人に尋ねた。目をしょぼしょぼとさせた悠人が言うには、
「いや、それが、頭は痛くないんだけど身体が上手く動かない」
「どういう、意味ですか」
「たぶん、二回も頭の中身をいじくられたから、すごく疲れてるんだと思う。
身体がさっぱりしたと思ったらここが、ヘリオンの部屋だって分かってるのに、
眠くて眠くて仕方ない」
「へ、部屋までお送りしましょうか、ユートさま」
しぱしぱと目をまたたかせて側頭部を押さえる悠人を見て、ヘリオンは慌てて駆け寄った。
「……」
がくりと前のめりに倒れ、ヘリオンに寄りかかった悠人にはもう意識が無かった。
規則正しい寝息を立てている事にヘリオンは安堵すると、そのまま自分の寝台に悠人をそっと寝かせた。
自分には、決して訪れることの無い、強大な永遠神剣からの干渉。
痛みを分かち合う事もできず、理解する事もし難い。
それに晒されながらも、逆らい、自分達を守ると宣言するこの人に、
自分は何ができるだろう。戦い以外の事も大切だと、彼は言う。
なら、わたしの、戦い以外の望みと、彼の理想は交わるのだろうか。
ヘリオンは上手くまとまらない考えを中断し、安らかに寝息をたてる悠人の顔を見る。
顔を赤らめ、包帯の上からもう一度、静かに傷の辺りに口付ける。
枕もとの椅子を引き寄せて腰をおろすと、寝台に上体を乗せ、ゆっくりと目を閉じた。


翌朝、帰って来なかった契約者が、第二詰所の妖精たちにズタボロにされているであろう事を
ほくそ笑みながら、床にめり込んで沈黙している『求め』を、起きてこない悠人の様子を
見に来たエスペリアが発見し、絶句した。
ヘリオンの部屋では、皆を起こしに回っていたハリオンが
悠人とヘリオンの二人の姿を確認し、第二詰所のみならず、スピリット部隊全員に
脚色をはさんで触れまわった。
悠人たちが誤解を解き、真相を伝えるまで多大な期間を要すことになる。

よって、悠人とヘリオンが夜の秘密特訓で顔をあわせるのは、もう少し先のお話である。