安息

Ⅱ-1

ふと目覚めると、ヒミカが覗き込んでいた。
「おはよう。さ、起きて。朝ごはん出来てるよ。」
そう言って思い切り窓を開く。眩しい陽光が部屋いっぱいに広がり、ナナルゥは思わず目を細めた。
「……おはようございます、ヒミカ。」
「はい、おはよう。今日もいい天気ね。」
「そうですね、快晴だと思います。」
手早く着替えを済ませ、最後に側にある『消沈』を手に取る。ナナルゥにとって、いつも通りの朝。
「ヒミカは、今日ですか?」
「うん、王宮へ行くまでにはまだちょっとあるけどね。ナナルゥは待機だっけ?」
ヒミカは部屋中に並んでいる整髪剤をこつこつと順番に軽く叩いている。なんの効果があるのだろう?
「はい。訓練でもしてようと思います。」
「アンタねぇ、たまには……はぁ、ま、いいけど。さ、行きましょ。」
なぜ溜息をつかれるのかよく判らなかったがとりあえずそろって部屋を出た。

戦時中でもあり、スピリット隊には交代での王宮警護の任務が課せられている。
今日はヒミカが初めてその任務に付く様だ。なるほど、それで納得がいく。
「……今日は起こす手間が省けました、ヒミカ。」
ナナルゥは先を行くヒミカに聞こえないようそっと呟いた。
いつも起こすのに苦労している相手に起こしてもらうというのもたまには新鮮だ。
こうしていつもと“ちょっと違った”朝が始まった。


宮門前を警護していたヒミカが王宮内の騒ぎに気付いたのは配置に付いてすぐの事だった。
「……一体なに?」
直後、奥でドゥンと鈍い炸裂音が響き、続いてところどころから煙が立ち昇る。
「事故?……っ敵!!」
『赤光』を軽く握り締める。僅かにその力が解放され、敵の存在が感じられた。
同時に大まかな位置も捕捉する。振り返り、駆け出そうとしたその時。

――――――何か黒い影が横切った気がした。

脇腹が焼ける様に痛い。斬られた、と気付いた時には反転した敵が既に迫っていた。
スフィアハイロゥを展開する暇も無い。夢中で自分から転がり辛うじて第2撃を避わす。
今度は肩から鮮血が飛び散った。あまりの速さに防御も反撃も追いつかない。容赦ない敵の攻撃は続く。
その目に映らない程速い斬撃を、ヒミカは立ち上がりざま背中に受けていた。

「うぁぁぁぁぁ!」
切り裂かれた激痛に悲鳴が零れる。よろけながら何かに体が当たった。
熱い背中に感じる岩肌の感触。いつの間にか城壁まで追い詰められていたのだ。
壁を背にしてかろうじて姿勢を保つ。そこで初めて「敵」の姿を見た。

ゆっくりと振り向く漆黒の翼。細身の剣を握る褐色の肌。
敵のダメージを冷静に分析している赤い双眸。あれは…………

「『漆黒』のウルカ…………」

絶望の呟きが漏れる。あの大陸一とも言われる帝国の剣士。
もはや伝説にすらなっている使い手が自分の相手だと知った時、ヒミカは自分の死を覚悟した。


戦闘服は竜巻に出遭ったみたいにズダボロだった。
体のあちこちに出来た何かに捻じ切られた様な傷口からは恐ろしい勢いでマナが抜けていく。
最初に受けた三撃。たったそれだけでヒミカはもうこれ以上の戦闘に耐えられる体では無くなっていた。
長い銀色の髪を風に弄らせながら軽い足取りで近づいてくるウルカ。
霞んだ視界でその姿を見上げたヒミカはそこにありえないものを見て更に驚愕した。
「…………ひ、と?」
呟きが搾り出される。驚くべきことだった。ウルカはその腕に人を抱えているのである。
(あのままでこの戦闘を……!)
今まで微かに持っていたレッドスピリット唯一の剣士としてのプライド。
『ラキオスの青い牙』ともいざとなったら互角に戦ってみせるというそんな自負がこなごなに消し飛ぶ。
最早確認するまでもなかった。その事実だけで、彼我の戦闘力は隔絶している。
ヒミカは絶望感とともに自分を倒すはずの相手を睨みつけた。最後の抵抗のつもりだった。
(………………?)
ふとウルカが抱えている人物に見覚えがあることに気付く。小柄な少女だった。
特徴のある、栗色の髪。大きな白い帽子。あれは…………
「カオリさま!」
ヒミカは気を失っている少女に向かって叫んでいた。


ヒミカは以前佳織と話す機会があった。それは佳織と悠人が再会して第二詰め所に挨拶に来た時。
「初めましてヒミカさん!お兄ちゃんがいつもお世話になってます。」
「これからよろしくおねがいしますね。私に出来ることがあったらなんでも言って下さい!」
屈託の無い笑顔で話す佳織。スピリットを人と区別しないその話し方は悠人と全く同じだった。
そしてそれに気付いたとき、ヒミカは佳織に対して悠人とはまた違うある種の親密感を持った。
保護欲とでもいうのだろうか。ファーレーンやネリーの気持ちが初めて判った気がした。
妹というものが自分にもあれば、と悠人とじゃれ合う佳織を見て憧れたものだ。

――――――そのカオリさまが、今敵に連れ去られようとしている!

その事実を認識したとき。ヒミカの中で不思議な力が弾けた。
残った力を全て込めて『赤光』を握り締め、スフィアハイロゥを展開する。
とどめを刺そうとしていたウルカの動きがピタリと止まった。
敵の尋常でない雰囲気を感じ取ったのだろう、構えを少し低く落とす。
青眼の構え。全ての剣技の基本に帰るその構えは、基本なるが故に最強でもある。
相手の打ち気を誘い隙を窺う為のその構えからは、油断というものが微塵も見られない。
両者の間に緊張感が膨れ上がる。圧縮されたその時間が、ヒミカにはとても長く感じられた。


先に動いたのはヒミカだった。ヒートフロアの詠唱を始める。
間に合うともそれで対抗出来るとも思ってはいなかったが。

しかし意に反してウルカは全く動こうとはしなかった。
詠唱の完了と共に周囲が赤のマナで包まれる。
一時的とはいえ傷の痛みを忘れる事が出来たヒミカは次の攻撃を組み立てながらウルカの様子を窺った。
(…………?)
まるで相手がベストの状態になるのを待っているかの様なその態度に不審を感じる。
やろうと思えば自分の神剣魔法など軽く打ち消すことが出来ただろうに。
そんなヒミカの動揺を読み取ったかの様に、今まで沈黙を守っていたウルカが初めて口を開いた。

「手前はサーギオスの剣士、『拘束』のウルカと申す。……宜しければ、御名も伺いたい。」
「……ヒミカ。『赤光』のヒミカよ。カオリさまは返してもらう。」

辛うじて答えたヒミカに対し、意外にもウルカはさっと剣を引いた。
「そうか、ヒミカ殿……出来ればもう少し剣を交えたいと思ったが……。また、いずれ。」
ウルカはそう言い放つとその黒いウイングハイロゥを羽ばたかせ、そのまま城壁の上へと飛び移っていく。
「待て…………つぅっ!」
追いかけようと動いた瞬間、今まで忘れていた痛みが襲い掛かった。
霞んだ視界が気持ち悪く、重くなった瞼が自然に下がる。
そのまま崩れ落ちる身体。しかし倒れこんだ先は、冷たい地面では無かった。
ふわっと温かい感触に包まれ、ヒミカはそっと目を開ける。

「おいっ!大丈夫か、しっかりしろ、ヒミカ!」

遠くなりかけた意識が少し戻ってくる。目の前に、隊長の顔があった。


悠人の顔を見た途端、安心感で緊張が一気に解けた。
力の抜けた身体を悠人に預けながら、ヒミカは申し訳無さで胸が一杯になる。

「申し訳ありません、ユートさま……カオリさまを…………」
「もう喋るな!エスペリア、ヒミカを頼む!」
「あ…………」

そのまま地面に横たわらせられる。
身体が離れる感覚に、ヒミカは少し寂しさを感じた。
エスペリアが治癒魔法を唱えている。心地よいマナが体中に流れ込んでくる。
駆け出す悠人の後姿を見送りながら、ヒミカの意識はゆっくりと落ちていった。

 ――――――――

悠人と対峙しながら、ウルカは先程会見えた剣士の事を考えていた。
あのレッドスピリット。三度もの我が斬撃を逃れた。
完全にふいを突いた筈の『雲散霧消の太刀』と呼ばれるそれを。
三度とも致命傷を与えるつもりで斬り込んだ筈なのに。
(それでも倒れず、拙者を防ごうとした……)
そして、神剣魔法を詠唱していたあの時の眸。あの威圧感はなんだろう。
追いかけてくるエトランジェの気配を感じて咄嗟に引いたが、
あのまま戦っては脱出は容易では無くなっていただろう。

「ヒミカ殿、か……“三度(みたび)”剣を交える事があるだろうか……」

ウルカは誰にとも無くそう呟いていた。